楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

安行桜

2014年03月30日 15時45分04秒 | ひとり歩き旅
埼玉県川口市安行原2008地のある真言宗蜜蔵院の桜は、

毎年、ソメイヨシノに先駆けて咲く。

桜見物に行ってきました。

(真言宗蜜蔵院参道の桜のトンネル)


(進むと両脇に灯籠が並んで寺院らしい雰囲気)


(山門手前の蜜蔵院の石碑)


(山門)


(本堂前の地蔵尊の桜)


(桜の下に地蔵尊が鎮座している)


(満開の桜)

(満開の桜2)


(墓地入り口)


(阿弥陀三尊像)


(花の小路)

(少し山に登る階段)


(山の上から見る桜)

(山の上から見る桜2)


(山の上から見る桜3)

(山の上から見る桜4)

(本堂脇)

(庫裏の桜)




コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たにし不動の神明神社(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 28)

2014年03月28日 09時00分09秒 | ひとり歩き旅
(幸手市の看板)

(幸手宿)
幸手市の看板があるところから、
少しすると杉戸高野台駅は左の案内看板がある。
四号線は、両側にマクドナルドや日高屋のラーメン、
吉野家などの外食産業の看板が目に付く。
(杉戸高野台駅の案内)

しばらくすると、自動車買取業者の看板があって、
その手前を左に入る道がある。
これが旧日光街道で、ここで左折すると、
すぐホンダ幸手店があり、少し行くとジョイフル・ホンダのお店がある。
さらに進むと道路は左にカーブして、踏み切りにぶつかる。
東武日光線のこの踏切を渡ると一面に広がる畑がある。
関東平野広いと感心しながらひたすら進むと、T字路で信号にぶつかる。
信号の先は何屋であろう(Belc)の看板が見に入る。
この道を右折するのであるが、後で調べたら、この道は日光御成り道であった。
(自動車買取業者の看板のある国道から左へ入る所)

(ジョイフル・ホンダの大きな店)

(東武線の踏み切り)

(踏み切り先の一面の畑)

(突き当たりに見えるBelcの看板)

江戸時代、日光へ通う道は、三通りあった。
一つは、誰もが通った五街道の一つ、日光道中。
二つ目に、家康の命日に、
京都から日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った、日光例弊使街道。
三つ目に、将軍が江戸城から東照宮へ通った、日光御成り道、である。

このT字路で日光御成り道に旧日光街道は合流していたのだ。
将軍になったつもりで、先に進むと左手に神宮寺があるはずであるが、
見回したところ見当たらない。
歩いてきた老人に尋ねたが、ご存じない。
あまり人通りが無いので止む無く前に進む。
(合流した日光御成り道)


かなり先の左手のやや奥まった所に、その神宮寺はあった。
(鷹尾山誓願院神宮寺は、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。
源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩をし、
戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、
この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれています。
薬師如来像と十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作と言われています。
中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、
一村が寺領であったこともありました。)(幸手市教育委員会)とある。

立派な本堂が見えたが、入り口に鍵のかかった鉄柵があったので、
中に入って、薬師様と十二神将を拝む事は叶わなかったが、
門前の新しく造られた六地蔵で我慢した。
(神宮寺と六地蔵尊)


少し進むと東武線の踏切を越え、信号があって左から来た道路と合流する。
ここから先に倉松川に架かる志手橋を渡ると、
すぐ右手に石の鳥居があり、その鳥居の右側に
「螺不動」と自然石で出来た石碑がある。
神明神社である。
(左から来た道路と合流)

(神明神社の鳥居と螺不動の石碑、左手に二つの社が見える)


鳥居の奥には、四つ神社があり、
左側に手前から、菅谷山、次が成田山、の扁額を持つ神社、
正面が、今宮大杉神社の扁額を持つ神社、
手前右手に、稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社がある。
入り口鳥居横の「螺不動」は「たにし不動」と読むらしい。
(正面の今宮大杉神社と
右手前の稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社)


説明板には、神明神社とたにし不動尊として次のように説明がある。
(神明神社は、宝暦五年(1755)伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社です。
境内には、成田・菅谷不動尊があり、
菅谷不動尊は「たにし不動」とも言われています。
眼病の人が、「たにし」を描いた絵馬を奉納して祈願すれば、
ご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。
江戸時代には、ここに高札場がありました。幸手市教育委員会)とある。

ここに高札場があったと言う事は、
ここから先が日光街道の幸手宿ということになる。
また、他では聞いた事のない、
たにしの絵馬を奉納すると眼病に効くと言うのも珍しい神社で、
絵馬を見てみたいと思ったが、見渡した所絵馬は見当たらない。
そこで菅谷山の扁額がある神社を覗いて見たら、
ご神体に「たにし」が置かれている様であった。
(菅谷山の社)

(菅谷山の扁額)

(ご神体は「たにし」でしょうか)


神明神社を出て進むと、(幸手駅左)の案内看板、そして信号があり、
左手に「明治天皇幸手行在所」の石碑がある。
ここを幸手市は公園と言っておりますが、
公園にはしてはあまりにも小さな一画です。
(幸手駅左)の案内看板)

(「明治天皇幸手行在所」の石碑)


説明では、
(明治天皇は、明治九年(1877)奥羽巡幸の際、
明治十四年七月、と十月山形・秋田・北海道巡幸の際、
また明治29年十月近衛師団の演習天覧の際、
幸手を通られ、明治九年には元本郷の知久家に、
あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しております。
この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、
指定説明をした説明板(台、屋根部分は復元)、現在は効力を失っていますが、
当時の史蹟名勝天然記念保存法による指定標識の三点が移設保存されことになりました。幸手市教育委員会)とある。
(「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑)

(手前の屋根つき説明板)


この信号を左折して幸手駅から帰宅した。

時刻:16:16発北千住行き、帰宅したのは18時であった。
歩行数3・5万歩、約22kmであった。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝手なことしてェ!

2014年03月24日 15時08分06秒 | つれづれなるままに考えること
「勝手なことしてェ!六億円も無駄にしてェ!」

日曜日の大阪市長選のことだ。

新聞やTVのニュースを見ていると、

大阪府民の声は、以上の様に聞こえてきて仕方がない。

投票率 23・59%。

新聞は上手いこと言う。

「大阪府民の4人に一人は、大阪都構想に賛成している」と。


橋本知事もそろそろやきが入ったのだろうか・・・

切れ味が少し悪くなって、以前のような新鮮さがなくなってきた。

大人気だった頃に、小泉元首相の官房長官だった人いわく、

「もって二年」

とはよく言ったもの。

政治家の政治家を見る目は、正しいのだろうか。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと来た 春!!

2014年03月20日 09時00分14秒 | 日記
長が~い冬のトンネルを抜けて、

待ちに待った 春!

とうとうやって来ました。

白梅が満開です。



その白い梅の花


紅梅の方があとに咲くのでしょうか?


木蓮も咲き出しました。


こぶしより少し花が大きいです。


コブシは木蓮より花が少し小さいです。


釣鐘型の花を付ける寒緋桜、



蕾が膨らんで、あと二・三日で花開くでしょう。


一部開いたばかりの寒緋桜


地上を見ると白いアセビもスズランのような花を見せています。


赤いアセビも競っています。


雪柳も花開きました。清楚な姿が優しいですね。


早咲きの桜です。公園の園丁さんも、この桜の名を知りません。

河津桜はもう咲き終わりました。

これから次々といろんな桜が花開きます。

オオシマ桜、エドヒガン、ソメイヨシノ、山桜 etc.



その桜を大きくしてみました。

どなたか桜の名が分かる人、教えてください。



さて最後に、匂いはすれど、どこからこの甘い匂いは来るの?

振りかえって見回すと、沈丁花がありました。


・振り返る 匂いはいずこ 沈丁花



春の花を集めました。



コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉戸山 宝性院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 27)

2014年03月14日 09時00分38秒 | ひとり歩き旅
(東武動物公園駅)


(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)


「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。

(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)

(大きな木のある古い家の門)

(旧街道にふさわしい家1)

(旧街道にふさわしい家2)

(旧街道にふさわしい家3)

(旧街道にふさわしい家4)

(久喜方面と幸手方面の道標)

(宝性院の看板)


しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)

(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)

(石柱の背面)


山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。

以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。

亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。

話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)


山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)

(宝性院の本堂)


その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)

(交通安全のお地蔵様)

(厳島神社の分社)


ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!