楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

中山道 美濃路17宿を歩く旅 へのお誘い 

2013年02月25日 | ひとり歩き旅
(国指定史跡、垂井宿の一里塚)


中山道 美濃路17宿を歩く旅                  

島崎藤村の「夜明け前」に出てくる中山道―木曽路―は、
山の中のイメージが強く、一度は歩いてみたいと思っていても、
方向も場所も道も解からなくて不安だ。
歩こうにもどのようにしたら良いのだろうか?
そのように考えている方に、岐阜県が紹介する
「中山道 美濃路17宿」歩き旅
の企画に参加してみませんか?岐阜県の企画ですから安心です。
日時は3月16日・17日と迫っています。
今まで中山道を歩いてきたボクの体験から、お勧めの企画と思われます。
ご都合のつく方は是非参加されますようお勧めします。
街道に残るさまざまな観光スポットを訪ねて歩く、良い機会です。
詳しくは下記のURL「岐阜の宝もの」からご覧いただき、
案内に沿ってお申し込みください。

URL:

http://www.gifu-travel.jp/osusume/hajimewalk.html#course01
「岐阜の宝もの」(岐阜17宿歩き旅 はじめの第一歩)

から、
案内に沿ってお申し込みください。

(関が原宿の古戦場跡の碑)


(なお、この案内は岐阜県主催「岐阜の宝ものプロジェクト」事務局の
日本イベント企画株式会社よりの宣伝依頼によるものです。hide-san)
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脅迫と強請(ゆすり)藤村の「夜明け前」より(旧中山道を歩いて気づいた事15)

2013年02月21日 | つれづれなるままに考えること
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(高山陣屋)

(脅迫と強請「夜明け前」と「ならかわの民話」から)

街道には脅迫と強請(ゆすり)が横行していた。

山中に山賊は言うに及ばず、
権威ある宿泊者の威を借りた従者たちが、
ちょっとした事に因縁をつけ強請(ゆす)る。
それを表ざたにしないからといってご祝儀、
ご酒肴代をせしめるのが常であった。

ならかわ村には、
「家康の命日4月17日に、朝廷より日光へ幣帛をお供えすることが慣わしであった。
この使いをする人を日光例弊使と言い、贄川宿を常宿と決めていた。
天皇の使いを良いことに、無銭飲食、無銭宿泊や献金、
献品を強要する厄介者であった。
この例弊使は権威ばかりで、「やれ、泥をはねた」「やれ、触れた」とか
難癖をつけて、その都度迷惑料を巻き上げた。
村人はそれを知っていて、例弊使が来ると、
宿場の人は戸障子、雨戸を閉めて居留守を使ったと言う。
触らぬ神にたたりなし、と言うことか・・・」
(ならかわの民話より)
いずれも木曽路の馬篭宿と贄川宿の話として残っている。
木曽路だけが強請りやすかったわけでもあるまいに・・・
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(馬篭にある鉤の手の水車)

日光例弊使は日光までを中山道を使い、
帰りは京都まで、東海道を使ったと言うから、
東海道にも同じような話が残っているに違いない。

「夜明け前」では、
『そこで「実懇(じっこん)」という言葉が生まれた。
「実懇になろう」とは「心やすくなろう」という意味であって、
その言葉を武士から掛けられると、
旅館の亭主はご祝儀をねだられるのが常であった。
街道の人足が駕籠をかついで行く途中で、
「実懇になろうか」と武士風の客から声をかけられると、
心づけ1分(=一両の25%)とか1分2朱(=一両の37.5%)とか
ねだられることを覚悟しなければならなかった。
貧しい武家や公家衆の質(たち)の悪いのになると、
京から江戸との間で一往復して、
少なくとも千両の金を強請し、それで2~3年は寝食ができるといわれた。

一方で賄賂の公然と行われていたのも不思議は無い。
「将軍のお召し馬は焼酎を一升も飲む」といって口取りの別当が凄んだ。』
程である。(宿場の苦労:「夜明け前」より)

昔も現代もお金について、人間の心根は変わらないのであろうか?
「夜明け前」の時代では、徳川将軍の権威も地に落ち、
参勤交代の制度を廃止すると、
江戸にとってあった人質の大名の女房も、
それぞれ国許に帰り、地方の大名が力をつけ将軍の命に背くものも出てくる。
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(白川村の合掌造り)

政治は天皇を中心に進める尊皇派と
徳川幕府の将軍を中心に政治を行う佐幕派(幕府を佐(たす)ける)に
大名たちは分かれていく。
薩摩、長州の尊皇派、徳川幕府擁立の水戸、会津藩などの佐幕派。

両派とも主張を一歩も譲らず、生死をかけて自分の主張を通そうとする。
日本は二つに分かれて、戦争になる。

260年の長きにわたって君臨してきた徳川将軍派と、
将軍を任命する側の天皇を有する朝廷派が激突する。

そこで浮上したのが、苦肉の策の公武合体。
つまり、天皇家と徳川家に縁戚関係を持たせようと言う策――
天皇の妹を徳川将軍に嫁がせる策――を取った。

ご存知、皇女和宮の降嫁である。
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(白川村2)
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板鼻本陣と皇女和宮(旧中山道を歩いて気づいた事14)

2013年02月17日 | つれづれなるままに考えること

(どの写真も写真上でクリックすると拡大されます。)1436351
(板鼻公民館、木島家本陣跡)



(板鼻宿)
板鼻公民館裏手に、木嶋家本陣の一部がのこされているが、
皇女和宮降嫁のおり、この本陣を宿舎にされた。
公民館の資料によれば、
当時宿泊された部屋だけを大きな本陣家から切り取って、
現在に残したものであるという。
中を見学する。



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(皇女和宮の宿泊所になった本陣の一部)


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(皇女和宮が宿泊した部屋だけ本陣から切り取って残した)



皇女が宿泊するには、思ったより小さな部屋であった。
その資料館備え付けの資料によれば、
「皇女和宮は孝明天皇(1846~1866)の妹に生まれ、
五歳にして有栖川宮と許嫁となりましたが、徳川家に降嫁する事になり、
その時宿泊した部屋です。
後に有栖川宮は和宮の嫁ぎ先である徳川家の幕府を倒すために、
東征大総督となって江戸攻めを行いました。政略結婚といいながら、
もとの許嫁から攻略を受けなければならなかった皇女和宮を、
悲劇の皇女として語り継がれる所以であります。



この時皇女は17歳。
夫 徳川家茂は結婚五年で死去し、
幕府瓦解の折は明治新政府首脳に対して、徳川家のためにつくされ、
32歳の若さでこの世を去られた。

御降嫁に際してのお歌



・惜しまじし 国と民とのためならば 
            身は武蔵野の露と消ゆとも」


と残された。(安中教育委員会)



この歌だけをみると、なにやら吉田松陰の辞世を思い出す。
松蔭の辞世は、

・身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂

と詠んだ。



故郷の京都を離れて、当時の東京はよほど辺鄙なところであったと思われる。



この時の本陣は道路から見て、
間口16間、奥行き25間と言うから、ざっと400坪はあったようだ。
本陣の配置図をみると、部屋数30室、湯殿(お風呂)が4箇所ある。



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(本陣から切り取られた宿泊した部屋の内部)



当時、和宮の京都からのお付の人員は4千人、
京都からのお見送り1万人、
江戸からのお迎えが1,5万人であったと記録されている。
都合三万人が宿泊したことになるが、
先に述べたように旅籠54軒、家数312軒しかなく、
本陣に50人、旅籠に50人づつ泊まっても2700人、
民家に10人づつ泊まって3120人、
都合5870人は屋根の下で寝ることが出来る。



上役はともかく、
下っ端の役人の寝泊りは近隣の寺院や住民宅を借りたにせよ、
夜具など不足したであろう。
まして人足等と呼ばれる人たちは、
民家の軒下や納屋ならまだ良いほうで、
野宿は当たり前であったに違いない。



とき、文久元年(1861)11月10日。
冬間近かの季節、加えて軽井沢、妙義山が近い板鼻宿では、
気温も低く三万人の宿泊は難儀を極めたに違いない。
食事も近隣の四宿場町が総動員して用意したとあるが、
食べれば出さねばならず、
三万人のお手洗いはどのようにしたであろうか?
インドで見たように青空トイレであっただろうか?
そうすると周囲の畑という畑は、
すべてトイレになったであろうから、
後始末が大変だったろうと想像に難くない。



ずいぶん気になる。



(しかも安中藩では、
各郡各村から助っ人の人馬を提供するよう命じている。
吾妻郡19カ村に人足807人、馬74匹、
勢多郡13カ村に人足1396人、
利根郡に人足1536人、馬119匹、
甘楽郡に人足346人、馬13匹、
甘楽・多胡郡に人足1451人、馬107匹。都合人足5536人、馬313匹。)



総合計三万五千人になる。
小さな宿場町は、お祭り騒ぎと見間違うほどの人出で、
ごった返したに違いない。


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宿泊と行列(旧中山道を歩いて気づいた事13)

2013年02月13日 | つれづれなるままに考えること
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(和田宿本陣の冠木門(かぶきもん)

(夜明け前と各宿場の記録から)
木曽街道を歩くに及んで、
藤村の「夜明け前」を読んで、
今まで気にかかっていたことが、
いくつか分かるようになった。

その一つに各宿場を通行する大名、
公家が宿泊するときの大人数の食糧のことである。
どうやって調達していたのか不思議に思っていたが、
大名や公家たちは食料や食器、寝具はそれぞれが持参したと、
「夜明け前」に書かれている。通行するときの先触れとともに、
米47俵が届けられたと記されている。

もっとも大々的な通行は、皇女和宮のときであろう。
宿泊された本陣の一部(上段の間)が、
上州の板鼻宿に残されているが、そのときの人数が京都側から一万人、
江戸側からのお迎えが一万五千人、和宮御付の人が京都から通しで四千人、
合計二万九千人と膨大な人数である、と記録されている。
食事と排泄はどのようにされたか興味のあるところであった。
《板鼻本陣と皇女和宮(旧中山道を歩く 87)参照
http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/03/post_0a09.html》

板鼻宿はもちろんのこと、高崎、倉賀野、新町の四宿だけでは、
足りず近隣の村からも総出で協力して炊き出しを行ったとある。

板鼻宿で頂いた本陣の間取図を見ると、部屋数20室、湯殿4箇所。
御上段の間の近くにお湯殿があり、
その脇に御用所2畳とあり四角のマークのあるところがトイレと思われる。
そのトイレのマークがある部屋がそれぞれ4つの湯殿脇にあり、
トイレの四角のマークは二個の部屋と4個の部屋(仕切りはある)があるが、
一度に用を足すことができるのは二人、四人ということのように思われる。

「夜明け前」によれば、本陣に寝泊りできる家来は、
30人程度とかかれており、その他、人数が多い時には近所のお寺、
時には本陣の家庭内にも、問屋にも、一般民家にも泊まったように書かれている。
宿泊客が多いときは、隠居所にあてがってあった土蔵の二階までも、
宿泊場所にしたと記録されている。
(馬篭宿にはこの隠居所が残っていると言うので是非見て戴きたい。)
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(馬篭本陣の隠居所)

しかし、板鼻宿のように小さな宿場では、
2万九千人ともなると民家の玄関先は当然のこと、
雨露をしのぐ事ができれば、ひさしの下にも寝泊りし、
野宿もやむを得ず、であったに違いない。

当時の記録によると(和田宿のガイドさん談)
畑の道の四隅に柱を立て、その上に筵をテントのように張って屋根として眠り、
15人に一つ焚き火が許されたと言う。
トイレは当然のこととして、青空トイレであったと推測される。

行列については「夜明け前」に書かれていないが、
和宮の行列の絵を見ると三列で行列が書かれているのを勘案すると、
二万九千人の行列では、前の人との間隔が1mとして、
三列で歩いたとすると、行列の長さは約10kmになる。

旧暦10月20日(新暦では11月22日)に京都を出発、
江戸到着が新暦12月16日であるから、
野宿の人は寒かったに違いない。
中山道を踏破するのに24日間掛かった。

一日あたり平均で約22km進んでいることになる。
朝8時に出発、お昼と休憩で一時間半は必要とすると、
この時期では夕方5時には暗くなるから、
少なくも4時半には宿舎に着いたとして、
実際の移動時間は7時間、時速約3kmとすると、
長さ10kmの行列が通過するのに、3時間余が必要になる。
「下に~下に~」の掛け声が聞こえて土下座をすると、
5時間座ったままでいなければならない。
(もっとも「下に~下に~」と言いながら通った行列は、
徳川御三家のみであったとされる。)

その間土下座していたら、食事も出来ないし、トイレにもいけない。
行列が近づいたら、一般庶民は裏道に非難したに違いない。
あるいは、和宮のお駕籠が通過する寸前に土下座し、
駕籠が目の前を通り過ぎたら普段の生活に戻ったのであろう。

話が変わるが、
和宮についての記録によれば、先頭が取りすぎてから、
行列の最後尾が通過すのに、3日~4日掛かったとあるそうだ。

行列が長くても、せいぜい3時間くらいと思われるのに、
どうして3~4日かかったと書かれているのか長い間気になっていた。

先日和田宿を訪ね、その疑問が解けた。

和宮の行列の前に、先ず
酒井隠岐守(道中奉行の一行が通り、街道筋の不具合を点検していく。)
前前日 菊亭中納言 千種少将ほか
前日  中山大納言 小倉侍従ほか
当日  和宮・勧行院橋本中将ほか
翌日  坊城中納言・岩倉少将ほか
の順で通行したと和田宿脇本陣の記録にあると言う。
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(和田宿にあった記録)

これでは、三日間掛かるどころか、和宮の下向の際、
最初の道中奉行から勘定すると、
その行列は実に5日間掛かって宿場を通り抜けている。

これに荷物が入れば、もっと日数が必要であったが、
和宮様荷物は東海道経由で送られたとある。

中山道は、警備の各藩1万人、助郷人足1万三千人、
遠国雇い人足七千人、馬方二千人、馬二千頭など。
総人数八万人の手を煩わせた大行列になったと言う。

旧中山道では、この大行列の後、間もなく明治時代に突入し、
宿場制度も衰退したことから、
今ではどの宿場でも和宮の行列は語り草となっている。

しかし、微細については公の記録があるわけではないので、
宿場宿場に残された記録を元に想像することになる。

蛇足であるが、中山道を通った大名の数も、ある宿場では30家、
またある宿場では34家、ほかの宿場では39家と記録が異なる。
記録した人が数えた数え方と数えた年代の違いかもしれない。
自分の宿場を通過すればカウントしない、ある人はカウントした。
例えば加賀藩などは参勤交代のルートが時に異なる場合がある。
したがってある宿場では通り、ある宿場では通らない時があった。
記録者の中には、大名の石高が一定の石高以上でないと、
大名と思っていない人もいたかもしれない。

森の石松ではないが、一里過ぎれば旅の空、
いくら親分でも自分を見張っているわけではない、
言い渡された禁酒を破っても解らないだろうと酒を飲んだ。

これと同じように、幕府から経路を言い渡されていたとしても、
決まりを守らなかった大名もいたに違いない。
そんな風に勝手に想像できるのも記録のあいまいな歴史だからこそである。

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(和田宿本陣のご入門)


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本陣として要求されるもの(旧中山道を歩いて気づいた事12)

2013年02月09日 | つれづれなるままに考えること
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(和田宿本陣)

(小説「夜明け前」を読んで)

前回、下諏訪宿の本陣について記述しましたが、
「夜明け前」の主人公青山半蔵が父吉佐衛門から家業を受け継ぐ時に、
本陣の必要事項について述べている。(「夜明け前」第一部第八章参照) 

(その要件は、
1.諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関
2.長い槍を架けるところ
3.厩(うまや)
4.消防用の水桶
5.夜間警備の高張り(提灯)の用意
6.いざというとき裏口へ逃げられる厳重な後方の設備
などなどである。)「夜明け前」より

最後の6番は、要件としては滑稽に見えるが、
重大事であったに違いない。
たとえば、寺田屋事件(これは本陣での出来事で無いが)など、
裏口にスムースに逃れる設備があったら、
見事に裏口から逃げおおせたかもしれない。

(「本陣」とは、その言葉が示すとおり、戦時における「陣屋」の意匠である。
諸大名は、食器から寝具まで携帯する大名はむかしの武人の行軍を意味する。
したがって宿には、必ず陣中の幕が張りまわされる。
大名以外には、公家、公役、武士のみが宿泊できる。

畳を新しくする、障子を張り替える、
時には壁も塗り替えるなどして、権威ある人を迎え入れる。

さらに屏風何双、手燭何艇、火鉢何個、タバコ盆何個、幕何張り、
それに供衆何十人前の膳飯の用意をする。)「夜明け前」より。
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(松井田の本陣の入り口)
Photo_3
(本陣の母屋、人が見え、その大きさを感じていただける)

参勤交代などあるときは、おおわらわの忙しさであったろう。
時には、畳表も替える必要があったようだ。
現に、皇女和宮がご休憩のあった小田井宿では、小用所、大用所の
畳を取り替えたと記録されている。

なんだか忠臣蔵の浅野匠頭が吉良上野介に意地悪されて、
畳表100畳分を一晩で換える場面が思い出される。
高貴な人が来ると畳どころか壁まで塗り替えなければならないとは・・・

これが宿泊する宿場の本陣全てに当てはまることなのだから、
その費用の額は窺い知る事が出来ないほどであろう。
自分より前に宿泊した大名と同じ畳に寝させるわけには行かないと、
家臣が考え畳を取り替えさせるのであろうか?
Photo_4
(明治天皇が休憩したお茶室)
Photo_5
(そのお茶室の前の庭)

もっとも、現代でもすぐに替わる総理大臣の車も、
総理が代わるたびに、
新しい車と替えなければならないのに良く似ている。
ガラスはもちろんの事、周りの鉄板も銃弾が通り抜けないように、
加工してあるから、優に数千万円は掛かると言う。

前の総理が短命内閣だったからとか、
主義主張が違う総理だったからとか、
理由はいくらでもあるらしいが、同じ車には乗りたくないらしい。

自動車を納入するお店はホクホクモノだし、
総理の気持ちは解らないではないが、なんか無駄で、
もったいないと思うのはボクだけだろうか?
Photo_6
(小田井宿の本陣)
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