楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

宿場に掲げられた高札(旧中山道を歩いて気づいた事9)

2013年01月30日 09時22分58秒 | つれづれなるままに考えること

(和田宿の高札NO1.きりしたん宗門に始まる高札)


(信濃の和田宿の高札)

群馬県に入って倉賀野宿の高札に次のようにあった。

「    定
   きりしたん宗門ハ累年のご禁制たり
 自然不審の者あらば申出べし
 御ほうびとして
 ばてれんの訴人 銀五百枚
 いるまんの訴人 銀三百枚
 立かヘリ者訴人 同断
 同宿並、宗門の訴人銀百枚
 右之通り下さるべしたとひ同宿宗門
 之内たりと云う共申出る品により
 銀五百枚下さるべしかくし置き他所より
 あらわるるに於いてハ其所の名主五人組迄
 一類共ニ罪科おこなハるべき者也

正徳元年五月 日   奉行

右の通り被仰出候畢領内之輩
可相守もの也     越前」
とある。

また、もう一つの高札には

「    定
 一、人たる者五倫の道を
   正しくすべき事

 二、衆寡孤独廃疾之
   者を憫むべき事

 三、人を殺し家を焼
   財を盗等悪行ある
   まじき事

         太政官」とある。

人倫に悖(もと)るような行いはこれを許さず、
弱いものを助け悪行は断罪に処する内容である。 

信濃の和田宿にあった一つ目の高札の内容は同じであるが、
二つ目は中身は同じでも、ずいぶんわかり易く、
噛み砕いてあり、次のようであった。

「     定
 一、親子兄弟夫婦を始め諸親類にしたしく下人等に至るまで、
   之をあわれむべし、主人ある輩はをのをの其奉公に精出すこと
 一、家業を専らにし慢(おご)る事無く、万事其の分限に過ぐべからざる事
 一、博打の類一切に禁制之事
 一、喧嘩口論をつつしみ若し其事ある時みだりに出合べからず
   手負たるものかくし置べからざる事
 一、鉄砲猥(みだり)に打つべからず、若し違犯のものあらば申出べし
   隠し置、他所よりあらわるるにおいてはその罪重かるべき事
 一、 盗賊悪党の類あらば申し出べし急度(きっと)御褒美下さるべき事
 一、死罪に行わるる者ある時馳せ集まるべからざる事
 一、人売買かたく停止す、但し男女の下人或は永年季或は譜代に召置事は
   相対に約すべき事附き譜代の下人又は其所に住み来る輩
   他所へ罷越妻子を持ち有附もの呼び返すべからず

右条々可相守之若於合背者可被行罪科者や 

 正徳元年五月 日         奉行   」とある。


(高札2「親子兄弟をはじめ・・・」から始まる)

倉賀野宿の高札よりかなり具体的に、
一般庶民にわかり易く書いてある。

最後の一行は

「右の各条相守るべし、若し之に相違背するものにおいては
 罪科行わるべき者也。」と読むのであろうか。


(高札3「人足、荷物駄賃の取り決めの高札)

和田宿の駄賃と人足の料金らしい(読めないところは省略)

「       定

 ・長窪まで    荷物駄賃     八十四文
          ××馬壱疋     五十六文
          人足壱人      四十三文 
 ・下諏訪まで   荷物駄賃      三百五拾文
          ××馬壱疋     二百二拾八文
          人足壱人      百七拾五文
          
 (途中に文章が入っていますが読めませんので省略しました。
  次回訪問の折にはシッカリ読んでこようと思います。)」

下諏訪までと長窪までとでは駄賃、
人足一人、馬一匹、ですべて四倍になっており、
距離にして下諏訪まで22km、長久保まで8km と換算すると、
下諏訪までが3倍でしかるべきであるが割高になっているのは、
和田峠の難所の部分が賃料に入っていると思われる。

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関所の女改め(旧中山道を歩いて気づいた事 24)

2013年01月28日 11時49分21秒 | つれづれなるままに考えること

(東門から見た木曽福島の関所跡)



(木曽福島の関所跡2)



(西の関所入口門)

(「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)
中山道の木曽福島宿に関所があったのは良く知られている。
木曽福島を描いた広重の浮世絵には、
広重美術館の説明に次のように記してある。

(江戸と京のほぼ中間にあるこの木曽福島には、
東海道の箱根、荒井、
中山道の碓氷と共に四大関所の一つに数えられている関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めた所にこの関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚が
これから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。――下略)


(木曽海道69次之内 広重画「福し満」)

関所の通行は、男性は比較的簡単で手形があり、
発行者の確認が取れればOKであるが、
女性の場合は厄介である。
「入り鉄砲に出女」が取締りの最重要課題であるからだ。

そもそも昔は女性が旅をするのは珍しく、
せいぜい嫁に行くか
嫁ぎ先で親の危篤で実家に帰るときくらいなものであった。
それでも女の一人旅は無く、必ず男性が付き添っており、
先に付き添いの男性が
関所にお伺いを立てて通行の許可を取ってから、
女性を伴って通行したものらしい。

それでもチェックはそれほど厳しくなく、
独身と言う触れ込みなのに「鉄漿(おはぐろ)」があるとか、
眉毛が無いとか、結婚しているのに振袖を着ているとか、
不審な点があるとチェックは厳しくなる。
また、女性が男装している疑いがあるときも厳しい。


(嫁入りの女手形)

関所には上番所と下番所があり、
審査は下番所で行われるが、
下番所の奥に窓なしの部屋があり、
疑わしき女性の場合は、
窓なしの部屋で下番所役人の妻か母親が、
役人に代わって身体検査を手探りで行う。

その窓の無い部屋にカミサンと入ってみたが、
異様な感じがした。

どのように手探りで検査したのか知らないが、
女性が男装してくるのをチェックするには、
胸元に手を差し入れるのか、
あるいは股間に手を差し入れて、
あるべきものがあるかないか探るのであろうか・・・

女性だと思って手を差し入れ男性のものが有ったとしたら・・・
チェック役が母親の場合はまだしも、
妻の場合はつい悲鳴が起こってしまうに違いない。
役柄とは言え、ご苦労なことである。(笑)

話は変わるが、
木曽福島の関所に女一人旅の手形が展示してあった。

「文久元年皇女和宮様の御通行に際し
人足に出ていた父親が藪原宿で病気になったので
娘が看病のため関所を通して欲しいという手形」である。

なんとも気の毒な話であるが、
最近読んだ「皇女和宮御下向御用日記留」
蕨宿本陣 岡田加兵衛が書き残した膨大な冊子には、

和宮通行に際し、
物を運ぶ人足に駆り出された百姓たちの中には、
食い物をろくに与えられず、
具合の悪くなった者たちがいることを書き残している。
手伝いをさせるのだから飯ぐらい食べさせたであろうに・・・


(和宮お供の父親見舞の「女一人旅の手形」)

そんな一面があるのに、
食べ物については、
人足に与えるために炊き出した大量の赤飯が、
10日も経って酸っぱくなってきて、
糸を引くようになってきており
(心配している)などと他人事のように書いている。

こんなものを食べさせられているのだから堪ったものではない。
この頃の農民は荷物を運ぶ牛馬と同じように
扱われていたのであろうか?
話がとんだ方向に行ってしまったが、

(皇女和宮の御通行は人数も多く警備もさることながら、
荷物運搬にも随分人手がかかったようである。
また建物の修復にも、
細かな所まで指示して修復させておきながら、
大工の手間賃や材料費をなかなか支払わず、
皇女和宮通行の一年後に、
業を煮やした名主たちが幕府に請求しているが、
一年も支払いを延ばしておいて、
事もあろうに、
支払い遅延で利息を付けると言うのなら理解できるが、
千両に付き五十両値切り倒している。)

こんなことが蕨宿本陣家 岡田加兵衛が書き残した
「皇女和宮御下向御用日記留」に記載されている。

幕府には、余ほどお金が無かったのであろうか・・・

江戸城明け渡しの折、
金蔵(かねぐら)には一両も無かったという。
確かめたわけではないが、
もっぱらの噂である。
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長久保宿を訪れた人々(旧中山道を歩いて気づいた事8)

2013年01月26日 09時15分35秒 | つれづれなるままに考えること
(信濃の長久保宿)
歌川広重・渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内」によれば、
(長久保の宿を出て和田宿にほど近い辺りを依田川が流れている。
広重の浮世絵は依田河畔の情景を描いたものであろう。
近景はこの辺りの人々の様子が着彩で描かれている。
子供たちが犬に乗って戯れる傍らを、仕事を終えた馬子が通り過ぎる。
馬子が見ているのは、昇ってきた満月。


(木曽海道69次之内「長久保宿」)

川岸の松から後方の景色は、シルエットで表現されている。
川に架かる橋(落合橋とされる)の欄干も濃淡の差異を持たせ手前と奥を描き分けている。
橋を通る馬子、天秤で荷物を運ぶ農夫をシルエットで見事に描いている。)と説明している。
歌川広重が天保8年頃の作品と言われる。

長久保を訪れた人には、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九もいる。
十返舎一九は、文化八年(1811)取材を兼ねて、中山道を通って京阪へ旅をします。
そして、文化十一年(1814)に、
「鼻毛の延高(はなげののぶたか)」と「千久羅坊(ちくらぼう)」という二人の狂歌師が、
京から江戸へ向かう道中を描いた
「方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)」第五編「木曽街道之記」を刊行します。
074_b1
(十返舎一九の「方言修行金草鞋」)

この中で、長久保宿は「たのしみはたびにこすものあら坂や 
日もながくぼの春ののどけさ」と狂歌に唄われ、
「ばんにはながくぼのささやにしやうか」といって、
脇本陣の笹屋に宿をとる様子が描かれています。

また、嘉永六年(1853)黒船来航以来、
尊王攘夷論や公武合体論が台頭して、世情が不安定になります。
こうした中で、文久三年(1863)には、幕府の浪士組み234名が、
将軍上洛警護を目的として、江戸から中山道を通って京に向かいました。
このとき長久保宿に宿泊し、その宿割りの手配をしたのが、新撰組局長の近藤勇で、
他にも土方歳三、沖田総司が浪士組みの一員に加わっています。
その新撰組の近藤勇も、板橋宿の平尾宿(下宿)の外れで処刑され、
お墓があります。

さらに、元治元年(1864)には、水戸天狗党(水戸浪士が)、
内山峠越えに信濃に入り、中山道を通って京を目指しました。
このことは(茂田井の高札)のところで述べました。
十一月十九日に一行は、長久保宿を通過しますが、にわか雨に合ったため、宿内で休憩します。
流言飛語が飛んだためか、宿では婦女子を土蔵やむろの中に隠し、
火災を警戒して、火を消すなどしましたが、浪士一行の態度は礼儀正しいものであったと言います。
また、行軍中は小太鼓を打ちながら、「水戸の浪士と長州がなけりゃ、
今に日本は唐(から)になる。」と唄って行ったと伝えられています。(長和町教育委員会)

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本陣家の厠(旧中山道を歩いて気づいた事7)

2013年01月23日 09時02分43秒 | つれづれなるままに考えること

(本陣、安川家住宅の門構え)

(小田井宿の本陣家)
トイレほど沢山の言い回しのあるものも少ない。
トイレット、レストルーム、お手洗い、手洗所、個室、化粧室、
便所、雪隠(せっちん)、後架(こうか)、厠(かわや)などなど。
そうだ、何かで読んだが、皇室では「およそよそ」と言うそうだ。
隠語のようだ。
まだ言い方があるかもしれない。
沢山あるのは、表現するのに厄介なシロモノであるからだ。

小学生の頃、将棋を覚えて、王将を隅に追い込んで詰めたところ、
「雪隠詰めかぁ」といわれて初めて「雪隠」と言う言葉を覚えた。

また、高校生になって、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで、
飼われた猫が、ご主人がお手洗いで大きな声で謡曲か長唄か忘れたが、
高歌放吟する有様を見て、後架先生と表現している。
(まさか高歌放吟の高歌と後架を洒落た訳でもないと思うが)
そこで「後架」がお手洗いであることを知った。

その猫の名前はなんと言うか知っているか?
と友人に尋ねられたことがある。
答えに詰まって「たま」とか「みけ」とか
「とら」とか「しろ」とか言っていたら、
友人いわく「お前、馬鹿だな!名前はまだ無いが正解だよ」
と馬鹿にされた。

よほど悔しかったとみえ、後日その友人に、
「吾輩は猫である」の最後の文章はどうなっているか知っているか?
と尋ねたことがある。
「吾輩は猫である」は長い小説で、
途中、中だるみがあって、興味が薄れ、
なかなか最後まで読みきる人は少ないし、
仮に読みきったとしても、
終わりがおわりであるだけに、馬鹿馬鹿しくて、
最後を知らない人が多いのである。

今となっては、うろ覚えであるが、
猫はビールを飲んで水がめに落ちて溺れて死んでしまうが、
その時、「なんまいだ、なんまいだ、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といったのか?
自分の人生を笑って「あっはっは、あっはっは」と笑ったのか?
あるいは、「めでたし、めでたし」
と自虐の意味をこめて言ったのか?

どうも思い出せない。

どれかであろう。

話がそれてしまったが、中国を旅行して助かったのが
「厠」で現されているトイレ。
公衆便所やレストランのトイレなどには、
「男厠」「女厠」と書いてあって極めて判りやすい。
漢字を知っている日本人が唯一ホッとする時である。

さてなんでこんな話を持ち出したかと言うと、
旧中山道にある小田井宿にある本陣についての説明書きに、
次のようなものがあったからである。

(安川家住宅 本陣跡について)
(安川家は江戸時代を通じて、中山道小田井宿の本陣を勤めた。
現在その本陣の客室部を良好に残している。
客室部は切妻造りで、
その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などは
原形を留めており、
安川家の文書では、
宝暦6年(1756)に大規模改築が行われたと記録がある。
湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)
皇女和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
厠は、大用所・小用所共に二畳の畳敷きとなっている。
御代田町教育委員会)とある。
P10705321
(本陣の全景)
トイレ表現に大用所・小用所というのを忘れていたが、
それよりなによりも、厠がたたみ二畳敷きのつくりというのに驚いた。
まさか大用所の畳の上で用を足すなど、
二三歳の子供でもあるまいし、
本当に用を足したものだろうか?
と思った。

小用所にしても、小便を二畳の畳の上で用を足したものだろうか?
皇女和宮は子供のように可愛かったそうであるが、
まさかしゃがんで(ジョー)とやったわけではなかろう。

余計な事だがこの場合女性の尿道は太く小便は偉大な音を立てるから、
「ジョー」と表現した。
男性の場合、尿道が細く「チンチロリン、チンチロリン」と、
表現するのが良いと思われる。

くだらない想像は膨らんでいくが、
まさか大も小も畳の上でじかに用を足したとは考えにくい。
第一後を片付けるのに人が迷惑する。
大は紙を敷いてその上に用を足した?
いやいやお付の人が、
用を足すまで桶を抱えて待っていた?
小用には、今と違って尿瓶など無いからやっぱり桶を使ったのだろう、
と考えるのが妥当のようである。
つまり、オマルの中に用を足したに違いない。

最近、上海へ旅をした。
バスで移動する間に、車窓から見える五階建ての建物。
田舎にしては、ずいぶん近代的なと思われる建物も、
ガイドさんが説明では、
「エレベーターもなく、足ベーターで五階まで歩き、
トイレも水洗どころかまだオマルで用を足している。」と言う。
オマルに入ったものの処理はどうしたのか、
気になるところではあるが、
それはさて置き、
どう考えても、二畳の和室内のトイレは、
やっぱりオマルというのが妥当のようである。
御代田町教育委員会も罪な説明をしたものだ。
トイレのことだけでもこれだけ悩ませてくれる。

話を旧中山道に戻すと、
本陣家と同じ並びのその先に、高札場跡があり、
その前の道路わきに、御代田村道路原標が見える。
さらにその先に、上問屋跡(安川家住宅、町指定有形文化財)が残っており、
往時のたたずまいをうかがうことが出来る。
P10705341
(御代田村道路原標)
P10705331
(上問屋跡、火の見櫓の下に道路原標が見える)

貴重な建築物が良く保存されていて感心する。

ここでちょっと気になることがある。
それは上問屋が東京側にあることだ。
この時代、普通、江戸から京に上ると言った。
今まで旧中山道を歩いてきて、
例えば、上の木戸、下の木戸と言うとき、
上の木戸は京都側にあり、下の木戸が東京側にある。
宿場にしてもそうだ。上宿、仲宿、下宿といえば、
京都側から上、中、下と並んでいる。

それなのにどうしてこの宿場だけが、
上問屋(東京側)下問屋(京都側)と、
逆なのなのであろうか?


(*)後日、「吾輩は猫である」を調べたところ、
  ラストは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、
ありがたい、ありがたい」であった。

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小林一茶「七番日記」(旧中山道を歩いて気づいた事6)

2013年01月20日 09時30分51秒 | つれづれなるままに考えること
dsc000151
(猫じゃらし)

(旧中山道群馬県には行って最初の 新町宿)
岩波文庫の小林一茶の「七番日記」に、
興味深いことが巻末に記されているので紹介したい。

「七番日記」の頃の生活と題して、巻末に解説がある。
その中に菊という女性と結婚した一茶は、
(夫婦仲むつまじく、「婦夫月見」文化十三年八月十五日、
「菊と中山萱刈 萱取 栗拾い」同年九月五日、
といった微笑ましい記事も散見する。
一茶の結婚生活はひとまず順調にスタートを切ったらしい。
しかし、時にはいざこざもあったらしく、日記の八月二日の項に、
夕方菊女の姿が突然見えなくなったので、
「古間川まで探すところ不見、
然所家尻に洗濯していたりしとかや」という事件があった。
川まで捜しにいったというところに、一茶の狼狽振りが窺がわれる。

翌日の記事には
「春さしたるボケ、青々と葉を出したる所
菊女一旦の怒にひきぬく」とあり、
余憤いまだ収まらずの感がある。
菊女は赤川の実家に帰り、相談などもしたらしいが、

八日には
「夕方一雨(中略)菊女かえる、夜五交合」
とめでたく和合している。

それよりしばらく「寒 夜雷雨(中略)三交」とか、
「墓詣 夜三交」
「通夜大雷 四交」とか記事が続き、
この前後には、強精用の薬草を採取する記事も見える)
とある。

日記だから人に言えぬようなことを書いているが、
一茶の生活ぶりが如実に窺がえ、微笑ましい。
(岩波文庫:巻末の解説からの抜粋)

しかし、如何に精力絶倫とはいえ、
夫婦生活は、実際には一夜に五交、
四交など余ほどの若さでないと実行不可能である。

ボクは結婚したのが28歳で当時は晩婚であった。
当時定年は五十五歳であったので、子供を定年までに
大学を卒業させて置きたいという願いから、
33歳までに産み終えておきたいと思った。
だから、すぐにも子供が欲しかった。
しかし、結婚して三ヶ月たち四ヶ月たっても、兆候が無い。
そこで産婦人科に夫婦で通うことになった。
夫婦共に異常は見つからなかったが、カミさんが毎朝体温を
測ることになった。
一ヶ月二ヶ月経ち、体温表をグラフにして産婦人科に通うこと三ヶ月。
その第二週に入った時、医師から

「今日から三日以内に、頑張れば子供が出来る」と言われた。

この時、ずいぶん「頑張って、それでも夜三交」であった。
そして長男が生まれた。  

 参考までに・・・
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