楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

入道雲

2016年08月27日 05時05分52秒 | つれづれなるままに考えること
久しぶりの好天に見舞われた8/25。

空は快晴の青にモクモクと入道雲が出ていた。

こんな入道雲を見るのは久しぶりで、遠く昔の8/15を思い出した。

(入道雲)




この時ボクは、岐阜県の今は関市になっている南武芸村に疎開していた。

「今日は2時に帰って来いよ」と叔父さんに言われていたので、

トンボ採りを諦めて、家に帰った。

昭和20年8月15日の事だ。

その帰り道、田んぼのあぜ道で仰いだ空の色と入道雲を思い出す。

それが昨日の青い空の色と入道雲とそっくりだった。



どんなことが有るのか知らずに帰ると、

オジサンはじめ大人たちが真面目くさった顔をして、

座敷のラジオの前に座っていた。


その時叔父さんはどんな立場だったか知らないが、

出征兵士があると、前夜は必ず叔父さんの家の座敷で、

箱膳の前で、出征兵士にお酒を飲まして送っていた。

もちろん出征兵士の親御さんも同席されていた。



いつも最後は家宝(?)の「関の孫六」の日本刀をすらりと抜いて、

見せていたことを思い出す。

こんな事をふすまの隙間から盗み見していた。



叔父さんは、礼儀のうるさい人で、

朝起きて、叔父さんに会うと、畳に正座して両手をついて、

「おはようございます」を言わなければならなかった。

叔父さんだけではない、自分より目上の人には、

全員にそうしなければならなかった。


ご飯を食べるときは、「いただきます、ごちそうさまでした」は当然、

食事の途中に、必ず「おいしいですね」と言わなければならなかった。

これは食事を用意してくれた人への感謝を表すと教えられた。


ことほど左様に、箸の持ち方から、取り上げ方、お吸い物の吸い方、

ご飯の食べ方、音を立てずに食べる、口いっぱいに物を入れない、

ご飯の御代わりは二杯まで、などなど。


しかし成人してから、ずいぶん役に立ったが、

この時は、緊張していてご飯も喉を通らなかったくらいだ。


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周回コース

2016年08月25日 05時28分31秒 | つれづれなるままに考えること


今回のオリンピックの男子マラソンを見た。
その周回コースを走る選手よりも、周りの景色の方に目が行ってしまった。
なぜかと言うと、映し出される映像が、
日本人が居ないらしいマラソンのトップグループばかり写されているからだ。
仮に日本選手がトップグループにいても、
どこに日本人選手が居るのか解らない映像の連続だったからである。

周回コースの外側には、日本では見られない形の山が連続して見えており、
その山と周回コースの間にはあふれるばかりの水があった。

ちょうど日本では、三個の台風が押し寄せていて、
普段めったに水の害に遭わない北海道が水害で、
水に迫られている映像を見ている所為もあって、
この周回コースの周りの水は、大きな川とばかり思っていた。
「2016リオ・デ・ジャネイロ」オリンピックのマラソンコースで見た光景である。

しかも都市名が「リオ・デ・ジャネイロ」
(日本語訳では「ジャネイロ河」と言う地名)でのオリンピックである。

調べてみると、ボクの考えが当たっていたことが解った。

その昔(1501年1月)、ブラジルのグアナバラ湾を発見したポルトガルの探検隊は、
ボクと同じように河口と勘違いして、
「リオ・デ・ジャネイロ」と名付けた。
日本語にすると「一月の河」と言う意味だ。
(ジャネイロ/Janeiroは英語のJanuary)


ボクはポルトガル語は「ありがとう」の意味を持つ「オブリガート」しか知らない、
と友人に話したら、
友人が、もう一つ「カステーラ」も知っていると言う。
それはスペイン語だよと言うと友人は黙ってしまった。

ボクが日本語と英語とスペイン語を知っていることを、
彼は知っていたからだ。

ボクの知っている範囲では、むかしカステーラを食べた日本人が、
ポルトガル人に「これは何という菓子だ」と尋ねたところ、
ポルトガル人は、地図の上で、スペインのカスティーリア地方を指さして、
「カルティーリャ」と言ったので、菓子の名が「カステラ」と言うことを知った、と言うのだ。
よくある話だ。

ポルトガル人は本当の所は、「カスティリャ地方のパン」と言いたかったが、
地図の「カステーリャ」地方を指さして「カステーリャ」(=カステラ)と言ったのであろう。

「カステーリャ」だけならスペイン語であるが、
「カスティリャ地方のパン](pao de castela)と言うことになると、
これはポルトガル語であるから、
友人が話したポルトガル語説もまんざら当たっていないとは言えない。

しかし「リオ何々」と言う地名は他にもある。
リオ・グランデ、リオ・ブラボー(映画の見すぎかな)なんてのもある。
金メダリストのボルトの住んでいるジャマイカには
「オーチョ・リオス」(八つの河)と言うのもある。



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東京五輪

2016年08月23日 23時54分14秒 | 日記
やっとリオが終わった。

やっとと言うのは、毎日来る新聞に普段のニュースが戻ってきたからだ。

このリオのオリンピックの間は、どの新聞もスポーツ新聞に変わっていた。

今日の新聞は休刊日かと思うような新聞で、

新聞屋さんチラシだけ入れて行ったのかと思った。

その新聞。



五輪期間中でも、政治、経済、その他のスポーツ、三面記事から、
家庭欄まで普段のニュースはある筈、

せめて東京五輪では、オリンピックだけ別紙にしてほしい。
コメント (9)
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時間は続く

2016年08月20日 05時51分08秒 | つれづれなるままに考えること
人生は、生まれてより、月日が過ぎて行くことであり、
その間に男女で力を合わせて子孫を残していく。
ただそれだけであるように思える。
他にいろいろあるが、突き詰めて考えれば変化はあれど、
過ぎてしまえば、何もなかったことと同じに思える。

その月日の流れを川に例えたのが「方丈記」で、

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。・・・
」と、

鴨長明がそれを証明している。

また、月日の流れを区切る正月の門松を、
頓智で有名な一休禅師は、

・門松は 冥土の旅の 一里塚 
        めでたくもあり めでたくもなし


と詠んでいる。

つまり月日に区切りとしての正月の門松を一里塚に例え、
一年また一年「死」に近づいていることを詠んでおり、
生まれてから死ぬまで、一年一年を積み重ねて行くだけで、
後は何もない、と言っている。
めでたいのか、めでたくないのか解らない。

話はアメリカに飛ぶ。
最近キューバとアメリカが握手をした。
そのキューバをこよなく愛したヘミングウエイが残した小説、
「陽はまた昇る」がある。
有名なヘミングウエイの著作のこの題名の原文は、
聖書から引用されたもので、
The sun also risesから始まる一節は、

「日は昇り、日は沈み、
 あえぎ戻り、また昇る。
 
 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
 風はただ巡りつつ、吹き続ける。
 
 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
 どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
 

陽はまた昇り、同じ一日が始まり、
そして同じ一週間がやってくる。
やがて一年がたち、一生が過ぎて行く。
全く何もなかったように、また、陽は昇るのである。

聖書は言う、

「なんという空しさ
 なんという空しさ、すべては空しい
 
 太陽の下、人は労苦するが
 すべての労苦も何になろう。
 一代過ぎればまた一代が起こり
 永遠に耐えるのは大地。」
と。

ヘミングウエイの「老人と海」が代表して語っている。
この人生の虚無感は、次のように物語の中に表現されている。

「老漁師が大物のカジキマグロを求め漁に出る。
 苦労の末やっと釣り上げたカジキマグロ、
 悪戦苦闘して、釣り上げ舟に結わえて帰港する途中、
 沢山のサメに襲われ、獲物は食いちぎられる。
 サメと散々戦って得たものは、
 骨だけになった獲物だ。」


(さんざん努力して、もがいても結局何も残らないのだよ人生は)
そう語っている。

そして、わが身のある日本に目を向ける。

「月日は百代の過客にして、行き交う年も・・・」と松尾芭蕉は述べている。

この原文は中国にある。唐の李白の詩「春夜桃梨園に宴する」の序文をを引用している。
夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は、百代の過客なり」と。
逆旅とは旅籠のことであり、光陰は日の移り行くこと、つまり月日のことを言う。
「おくのほそ道」で芭蕉は、

「変わりゆく月日は永遠で、行き過ぎる年をさまよい歩く人を旅人と言うならば、
 来ては去りゆく歳月は、また旅人と同じと言って良い。
 古(いにしえ)の人は旅の途上で、
 流れに浮かぶ泡(うたかた)の中に、旅への思いを持ったまま死んでいった。

 風と共に漂う雲の中で、同じ思いを何年も何年も胸に抱いてきたが、
 旅に出たい思いが歳月と共にたかぶってきた。」
(「おくのほそ道」筆者要約)
こう書き出して芭蕉は陸奥(みちのく)へ旅立っていく。

曽良と連れ立って、深川の庵を払って、何も残らぬ人生の旅に出かけた。


わが身を振り返って、一体ボクの旅は何時まであるのだろう。
どのように考えても、それでも、何も残らない人生の旅を進む以外に道はない。

・いずれ逝く 道とはかねて 聞きしかど
           今あるわが身を いかにとやせん  hide-san


辞世の歌も詠んで、準備万端であるが・・・・「いかにとやせん」である。

旅をいつまで続けることができるであろうか・・・・

やっぱり、「今を大切に生きる」が大事なことなんだろう・・・・か。




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2016年08月17日 00時00分56秒 | つれづれなるままに考えること
時は暮れ行く春よりも
さらに長きは無かるらん
恨みは友の別れより
さらに辛きは無かるらん


高校生の頃、藤村の詩を勝手に替えて作った詩だ。

         本来の詩は、

               時は暮れゆく春よりぞ
               また短きはなかるらむ
               恨みはともの別れより
               さらに長きはなかるらむ

                     (晩春の別離)より


大学を卒業して、就職後何か月もしない内に、
商船大学を卒業した友人が、水先案内人になって、
案内の途中に、船に挟まれて死んだ事故。

その時、ボクが勝手に作った替え歌だ。
今でも忘れられない。

友人と将来の夢を語った夜のことや、
友人との別離がこんなに辛いものとは、
経験しないと解らない。

友人ですらこんなに辛いのに、
ご両親の辛さを思うとやりきれない。

辛いときはいつもこの詩を思い出す。
太平洋戦争で亡くなった若い人たち、
そのご家族やご友人の方々、
その辛さを二度と味あわせてはならない。

終戦記念日を想い。

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