楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

乙字が滝(芭蕉の道を歩く 39)

2014年06月15日 09時36分52秒 | ひとり歩き旅
(乙字が滝の案内)


(奥の細道【九】須賀川 2)
十念寺を出て、国道118号線にでる。
国道118号線を「乙字が滝」に向かって進むが、かなり遠い。
途中、牡丹の時期には混雑が予想される牡丹園を通り抜け、
まだ先かもうすぐか、距離としては10kmほどあろうか。
信号で(乙字が滝は左)の案内看板に沿って進むとすぐ赤い橋が見える。
橋を渡らず、手前左に駐車スペースを見つけ止まる。
すぐ横にバス停(乙字が滝)がある。
橋に向かって歩くと、橋より下流に滝があるようで、
川に入って釣りを楽しんでいる人がみえる。
赤い欄干の橋を渡ると、
「新奥の細道」として環境庁・福島県の案内看板がある。

左手に立派な駐車場とお手洗いが見える。
通路は奥に延びていて、進むと階段下にお堂が見え、
流れる河音が響いて聞こえる。
「乙字が滝」に違いない。

(乙字が滝の入り口)


芭蕉に同行した曽良の旅日記(俳諧書留)によると、
(須賀川より東二里ばかりのところに、石河の滝あると言う。
この乙字が滝を見物に出かけようとしたが、
雨で水かさが増し、川を越すことが出来ないからと、止めている。
・さみだれは滝降りうづむみかさ哉  翁
と一句書いて、滝へ案内すると言っていた等雲という人のもとへ、
お送りになった。)(現代語に筆者訳)と書いている。

ボクが10kmほどあると思ったが、曽良も二里はあると書いているから、
およそそんな距離であろう。
通路の奥の階段を下ると不動堂が見え、
これを滝見不動堂という。

玉川村教育委員会の説明板によると、
(不動明王を本尊とする、和讃には大同三年(808)弘法大使の開基と伝える。
江戸時代初期には、代々の白河藩主が参詣探勝し、
堂宇修繕費として竹木資材を寄進した。)とある。
(滝見不動堂)


この滝見不動の右手に「乙字が滝」が見える。
阿武隈川の底の岩盤に段差があって、
その段差の上を水が流れ、滝に見える。
その段差が10メートルから12メートルほどあり、
「乙」の字のように川底にできている。

玉川村教育委員会によれば、日本の滝百選入選と題して、
次のように書かれている。
(古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅100メートル・
巨厳横に連なり乙字の形を成す。
川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。
江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭、鱒、鮎が、
滝を飛び跳ねるうちに簗に落下する魚が多かった。
多い日には一日千尾を越えるほどで、
これの売買代金は漁猟者の収入になった。
また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上することとされ、
藩役人がこの辺に番所を置き看視した。
この役人の食事、宿泊など賄は地元竜崎村が負担した。
その代りに藩に納入する雑税人夫役など免除された。)とある。
乙字が滝、滝見不動堂の案内がある。
(乙字が滝)

(乙の字に繋がる岩盤)


滝見不動堂の左手、杉木立の中に芭蕉句碑がある。

・五月雨の 瀧降うづむ みかさ哉   はせお

(芭蕉句碑)

(俳句が読めるでしょうか)

(奥の細道 石河の滝の石碑)


乙字が滝を出て、郡山に向かう。
今日予約したホテルへ17時に到着すると伝えたあったので、
予定が狂い1時間遅れて到着できるだろうと伝える。

本日の歩行距離18000歩=約11km。

・河の瀬で 鮎と遊ばん 水しぶき  hide-san


コメント (8)
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