楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

名古屋市栄の夜景

2015年12月30日 | ひとり歩き旅
名古屋テレビ塔近くの繁華街「栄」の夜景。

(夜景)


(夜景2)


(夜景3)


(夜景4)


(夜景5)


(夜景6)


(夜景7)


(夜景8)


それぞれに色が違って、見とれてしまった。
これで名古屋の見物は終わり、いよいよ新年を迎える。

(今年と別れの曲)


みなさん、この一年他愛のないボクにお付き合いいただき本当にありがとうございました。
皆さんのご健康とご多幸を心からお祈りします。

新しい年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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松陰神社

2015年12月26日 | ひとり歩き旅
松陰神社と聞くとすぐ思い出すのが、萩にある松下村塾。
それと伝馬町にある十思公園の吉田松陰の供養塔。
松陰はここで処刑された。

(十思公園)

(十思公園にある松陰終焉の地碑)


埋葬されたのは、世田谷区にある松陰神社で、ここにお墓がある。
独身時代に住んでいた玉電(東急世田谷線)の「松陰神社」駅から、商店街を抜けて数分の所にある。

(商店街)

(松陰神社)


その昔の印象では鬱蒼とした暗い森の中にあった「松陰神社」も、
今ではとても明るい神社になり変貌している。

昨年一年間NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で、
吉田松陰の妹を主役にドラマは進んだが、
兄の吉田松陰についても処刑されるまでが描かれていたので、
松陰については述べるまでもないが、
松陰神社について案内説明板があるので掲載しておきたい。

(松陰神社の案内説明板)

(松陰神社)


この説明板によれば、世田谷区若林のこの地区は、
当時長州藩の所領であったので高杉晋作や伊藤博文らによって、
この地に松陰は改葬されたと言う。

その証拠として毛利藩主や高杉晋作、伊藤博文、
松陰を尊崇した乃木希典らの灯篭が寄進されている。

鳥居をくぐったところに手水舎があり、
水屋の奥に「松陰神社道」の石標が建っている。

(「松陰神社道」の石標)


これは旧大山道(現在の世田谷通り)から松陰神社までの案内標識であったが、
世田谷通り拡幅によりこの場に移されたものであるが、
これは明治45年乃木希典によって寄進された道標と言われる。

その真向かいに真新しい「吉田松陰先生像」が端正な姿の坐像がある。
松陰像は、この神社には二体あって、同じ坐像である。
写真のない時代の人であり、残された掛け軸の画像から造られたものと思われる。

(吉田松陰坐像)

(もう一つの松陰像)


正面に神社の社殿が有るが、手前両側に石灯篭があり、寄進者は
「従二位勲四等公爵毛利元昭」と刻まれている。

(社殿と石灯篭)

(石灯篭に刻まれた毛利元昭の文字)


神社の右横には、萩の松下村塾を模した建物が建てられている。
萩まで行く暇のない方には、ここの建物が瓜二つに出来ているので、
見学されるのをお勧めします。

(松下村塾の建物の模様、部屋が空けてあるのは土日祝日のみ)


神社を背に帰る参道の左右にずらりと石灯篭が並んでいる。
こそ石灯篭を見ながら右に行くとつき当たりが、
吉田松陰先生のお墓になる。

(参道から左右に分かれる石灯篭、左へ並ぶ石灯篭)

(反対側から見た石灯篭)


一番手前が山形有朋寄贈分で三番めが乃木希典寄贈分の石灯篭。

(手前の山形有朋喜蔵の灯篭)

(乃木希典と読めますでしょうか)

(右に並ぶ石灯篭)


右側の石灯篭の前の道を進むと石の鳥居があり、正面にお墓は見える。

(石の鳥居)

(正面のお墓)

(吉田松陰先生の墓(中央)

(徳川家奉納の灯篭)


神社を出て、東急世田谷線「松陰神社」駅に向かう商店街。
道路の真ん中にある線は排水溝。

(商店街2)


以上豪徳寺から松陰神社まで、入院中の友人に見せた写真の数々。
彼は大そう懐かしんでいたが、本当に慰めになったのか、知る由もない。
回復を祈るばかりである。
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今日は Xmas Eve

2015年12月24日 | 日記
クリスマスは「キリストの生誕祭」を指すことは皆さんご存知のことと思う。
クリスマス=Xmas=Christmasと書くように、
イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生を祝福するミサ(mass)を言う。
このChristとmassをつなぎ合わせて Chistmasという。

きよしこの夜/歌/日本語+英語字幕


キリスト教信者の方は良くご存知と思いますが、

(クリスマスイヴにカトリックの教会へ行くと、
黒いヴェールをかぶった敬虔な信者たちが、
静かにお祈りしている姿を見ることが出来る。
酒を飲んでどんちゃん騒ぎをする日ではないのだ。)

日本では12月25日をクリスマスと言うが、
キリストが生まれた日は定かでなく、
ドイツの一部やオーストリアのチロル地方では、
12月6日に子供たちはプレゼントを貰う。
日本ではサンタ/クロース、ヨーロッパでもアメリカでも、
プレゼントを持ってくるのは、セント/ニコラウス。(=聖ニコラウス=サンタクロース)

ヨーロッパでは、
プレゼントを貰う前に、クランプス・パレードが行われます。
これは一年間に犯した罪を改め純粋な心を取り戻し、
新年の豊かな実りや幸せを祈るお祝い行事パレードです。
クランプスとは、特に12月5日の晩になると、若者はクランプスの扮装をして、
錆びた鎖と鐘を持ち、子供と女性を怯えさせながら通りを練り歩く。

これは新年を迎える日本の「なまはげ」の行事の西洋版と言えるものです。
そのクランプス・パレードの日本における第一回パレードが、
当地板橋区の志村坂上で、
オーストリア大使館の観光広報担当も出席して開催された。

クランプスって何? Krampusと綴られる、
日本語で言えば妖怪、つまり「ゲゲゲのゲ」と言うところか。

(St.ニコラウス、天使達、クランプス)

(あどけない天使達)

(Krampus=クランプス)

(クランプス2)

(クランプス3)

(クランプス4)

(クランプス5)
(クランプス6)


それより驚いたのは観客が持っているバッグだ。
実にクランプスより現実的な妖怪だった。

(バッグのマスク)



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豪徳寺の井伊家墓所3

2015年12月22日 | ひとり歩き旅
井伊家墓所は、豪徳寺の一角を成しており、かなり広い。
入口左には世田谷教育委員会の案内板が立っており、
井伊家墓所の案内図もあり、誰のお墓か見分けるのは容易である。

(豪徳寺内にある井伊家墓所の入口)

(墓の案内図)


初代直正は関ヶ原の戦いで近江に十八万石を与えられ、彦根藩の礎を築いた。
二代直孝は大坂夏の陣で功績をあげ、
近江、下野、武蔵国世田谷と合わせ三十万石の譜代筆頭格となった。
この世田谷が井伊家所領となったのを機に領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられ、
直孝没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英居士」から豪徳寺と改めて現代にいたる。

入口を入ると墓所までの通路が延び、左右には紅葉をちりばめる景観が広がる。
井伊家でもっとも有名なのは、桜田門外で暗殺された井伊直弼であるが、
ここ豪徳寺では、二代直孝が特筆される。
(初代直正は彦根城近くの天寧寺に墓がある。)

墓石は、通路に沿って入るとつき当たりがそれである。
この墓石に刻まれているのは
「久昌院殿正四位上前羽林中郎将豪徳天英大居士」とある。

(墓所までの通路)

(墓所の紅葉)

(二代直孝の墓碑、法号に「豪徳」が見える)


さて、豪徳寺門前あった、「都史跡 井伊直弼墓」とあった直弼の墓と言うと、
この二代直孝の墓を左に突き当たる手前の左側にある。

そこには東京都教育委員会の案内板が立っているので分かり易いが、
案内板そのものは風化して読み取りにくい。

その案内板を要約すると、
(勅許を待たずに日米修好条約など安政五カ国条約に調印、
十三代将軍の後継者を家茂に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑え強硬策を実施、
さらに安政の大獄を断行するに及んで、
桜田門外において水戸・薩摩の浪士らに暗殺され、
世田谷の豪徳寺に埋葬された。
墓石正面には「宗観院殿正四位上前羽林忠郎将柳暁覚翁大居士」とある。)

(井伊直弼の墓)

(井伊家の墓石群)

(井伊家の墓石群2)


終わりに、療養中の友人に見せる、豪徳寺の紅葉をもう一度ご覧ください。

(三重塔と紅葉)

(鐘楼と紅葉)

(仏殿前の紅葉)

(仏殿前の紅葉2)

(仏殿前の紅葉3)


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豪徳寺の紅葉 2

2015年12月18日 | ひとり歩き旅
東急世田谷線で「宮の坂」駅に下りて、
右へ踏切を渡るとすぐ左側に豪徳寺らしい森が見える。

検討をつけて、道路を進むとすぐ左に「大渓山 豪徳寺」の看板や石碑がある。
その後に門柱があり、奥は参道で古くからあると思われる松の大木が折り重なっている。
門柱にも右に「大谿山」(文字は違うが読みは同じ)左に「豪徳寺」とあり、奥に山門が見える。

(「大渓山 豪徳寺」の石碑)

(門柱と奥に見える三門)


世田谷区によると、松の巨木が織りなす参道の松並木は、
豪徳寺と一体となって風格のある風景を生み出している、と説明看板がある。
時代を写す古びた山門まで来て振り返ると、世田谷区の説明になるほど風格があると頷ける景色である。
山門左手の石柱には、「都史跡 井伊直弼墓」と書かれている。

(彦根藩主井伊家の初代直正は関ヶ原の戦いで先鋒を務め東軍の勝利に導き、
近江に十八万石を与えられ、彦根藩の礎を築いた。二代直孝は大坂夏の陣で功績をあげ、
近江、下野、武蔵国世田谷と合わせ三十万石の譜代筆頭格となった。
この世田谷が井伊家所領となったのを機に領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられ、
直孝没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英居士」から豪徳寺と改め、
以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここで葬られた。)(世田谷区教育委員会)

(参道の松並木)

(参道の松並木2)

(都史跡 井伊直弼墓の石柱)

(山門)


山門を入る前に真っ赤に色づいた紅葉が見え、外国人がカメラ片手に右へ行ったり左へ云ったり、
落ち着かない様子であるが、よく見ると左右にカメラマンが数人カメラを構えている。

参道途中には、線香を立てる大きな香炉が置かれ、
上には狛犬が黄金の玉を押えて辺りを見張っている。
その香炉の先に佛殿があり、右手には鐘楼、左手に三重の塔がどっしり構えている。
辺り一面、真っ赤に燃える紅葉(もみじ)が光に反射して見事な景観である。

(香炉と背後の佛殿、周りの紅葉)

(鐘楼と紅葉)

(三重塔と紅葉)


香炉のところまで進み振り返ってみると、
山門を見上げる観光客が古色蒼然とした様子を堪能しているようだ。

(山門を眺める観光客)

(香炉から振り返って見る山門)

(仏殿)

(仏殿と本堂)

(背後にある本堂)


本堂脇から左へ進むと招福観音堂がある。
貧乏寺の弘徳院が飼い猫の招きにより井伊家の菩提寺となり、
立派な寺になる縁を作ってくれたその飼い猫が死ぬと、
住職は墓を建て手厚く葬りました。
その後、この猫を招福猫児(まねぎねこ)と称えて崇めるようになったのは、
少し後の時代になってからと言う。

(招福殿の門)

(横から見た門)

(招福観音の提灯)

(おびただしい招き猫群)

(おびただしい招き猫群2)

(おびただしい招き猫群3)

(おびただしい招き猫、ウインクしている猫も)

(ハッとする燃えるような紅葉)


この招福観音堂の先に井伊家墓所の入口がある。
入口には六道に導く地蔵様が整列して出迎える。

(六道の地蔵)

(井伊家の墓所入口)


(つづく)


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