楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

一里塚と古河宿(日光・奥州街道ひとり歩る記 37)

2015年01月30日 09時03分38秒 | ひとり歩き旅
(古河宿入口)
茶屋松原を過ぎて、354線の信号の先、
右手の道路脇に長く白い柵で囲まれた林が見えてくる。

案内書にある一里塚のある学校らしい。
近づくと土手の上の柵の中に一里塚跡の白い杭がある。

(長い柵に囲まれた林)

(一里塚跡の白い標柱)


標柱には、一里塚と書いてあるように見えるが、薄れていてよく見えない。
それに柵の外からでは、一里塚には見え難い。
その柵の内側は、案内書にある通り、グラウンドになっているから、
学校であるに違いない。
入口はどこかと道路沿いに歩くと、校門が見えてきた。

「茨城県立古河第二高等学校」と門柱にいかめしく記されている。
第一とか第二とかが付くとすぐ東大が続いて想像されてしまう。
すこしは身が縮む想いだが、思い切って校門の中に入る。
右手は先程のグラウンドで左手に校舎が見える。
第一だろうと第二だろうと、保護者のつもりで入れば、
ビビることはない。

腹を据えて校舎入口を入ると、すぐに事務室が見えた。
昼食の時間で、女性職員がお弁当を遣っている。
口に入ったものが、のどを通り過ぎた頃合を見計らって、
声を掛ける。

(茨城県立古河第二高等学校の門柱)


「お食事中恐縮ですが、お願いがあって」と頭を下げた。
事務員の方が、箸をおいて、
「ハイ」と硝子戸をあける。
「大変恐縮ですが。グラウンドの隅にある、
一里塚の写真を撮らせていただきたくて、お願いに上がりました。」と言うと。
事務員の方が少しお待ち下いといって、
奥に居たもう一人の少し偉い位の方か、女性に向かって報告すると、
報告を受けた女性がこれまた箸をおいて、窓口に出てきた。
事務員の方に言ったと同じことを言ってお願いすると、
わが方の風体を確かめて、胡散臭くも無さそうと判断されたのか、

「どうぞ、気兼ねなく存分になさって下さい」と回答があった。
それで、
「申しあげかねますが、写真を撮り終わったら、ご挨拶もしないで、
そのまま帰らせて頂きますので、よろしくお願いします。」と言ったら、

「ご丁寧に、どうぞよろしくなさって下さい」と、
丁寧な物言いに、相手の顔を見直してしまった。
端正な顔立ちの方であった。

一里塚の写真を数枚撮ってそっと退出した。その時の写真。

(校舎側から見た一里塚)

(一里塚2ー全体像)

(一里塚3ー白い一里塚の標柱で文字は一しか見えない)

(一里塚4ーバックに校庭が見える)


学校を出て、しばらく歩くと道路は突き当り、右折する。
右側に、「古河宿」と書いた常夜灯があり小公園になっている。
古河宿である。電柱に原町1の表示がある。

(角に常夜灯がある信号)

(古河宿の常夜灯)


ここに古河宿の説明板があるので紹介して置きたい。

「松並木のある風景 日光街道
江戸時代 ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、
もっとも美しい景観の一つとして評価されてきました。
ー中略ー
当寺の松並木は、現在地点よりも四百メートル南を起点に、
およそ五キロメートルに渡って続いていましたが、
今ではその風情を伝えるものは何も残っていません。
そこで失われた景観をを惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、
ここに松の植樹を行いました。」(日光街道街並み景観づくり推進協議会)

(古河宿常夜灯と植樹された松)


写真に見える右側の道路が、今まで歩いてきた旧日光街道です。
この先は野木古河線の261号線を進む。
すぐ先の左手に稲荷神社がある。
さすが稲荷神社、狛犬の代わりにお狐様が神社の前に鎮座する。
稲荷神社の先を左折すると古河総合公園に向かう道に出る。
古河総合公園は四季折々に美しい花々が訪ねる人を和ませる。
6~7月には、大賀ハスと花ショウブ、
3~4月には、花桃まつり、
8~9月には、はぎの花が散歩道を美しく彩ってくれるそうです。(古河市観光協会)

(野木古河線の261号線の標柱)

(稲荷神社)

(狛犬ならぬお狐様)


道路はよく整備され、広い歩道が続くが、
その歩道上に名所遺跡など案内の常夜灯が次々と現れる。
初めて訪ねる旅人にとって解り易い案内である。

(常夜灯にかたどった案内、古河城址)

(常夜灯にかたどった案内2、古河桃祭り)

(常夜灯にかたどった案内3、永仙院跡 800m)


しばらく歩くと長谷観世音参道入口の石碑がある。
これは古河城鬼門除けとして、
明応2年(1493)鎌倉の長谷寺より勧請したもので、
歴代古河城主が祈祷したところで、
観音像は背丈2mを越す十一面観世音菩薩立像が安置されている。

(長谷観世音参道)


この後古河市内の歴史史跡など沢山あるらしい。
そろそろ帰る時間が迫ってきた、残りは次回訪問の楽しみとしたい。

冬の寒い間のしばらくは、古文書などの勉強にいそしんで、
句碑や歌碑が読めるように勉強したいと思っています。


コメント (8)
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世界文化遺産の毛越寺(もうつうじ)と観自在王院跡(芭蕉の道を歩く 62)

2015年01月29日 09時23分08秒 | ひとり歩き旅
(平泉7)
中尊寺の金色堂・旧覆堂・経蔵をみて、芭蕉像も見て、
月見坂を下り、中尊寺の信号をわたり、
金鶏山の麓を廻って、一関学院の生徒の案内で、
平泉文化遺産センターに到着する。
平泉の文化遺産にまつわる資料の展示がしてある。

女性は十二単衣を試着し、展示してある牛車に乗ることが出来る。
男性も往時の衣装を着用できるが、見学者で試着する人はいなかった。
ずいぶん重そうな衣装に見えた。

見学を終えて外に出ると雨がぱらついており、
文化センターに置いてある傘を生徒が借りてきて、
必要な人に配っていた。
ボクは、天気予報によると「平泉地方は、晴であるが午後3時ごろ、
弱い雨がある」とのことだったので、傘を用意していたが、
時間までぴったり合っている天気予報の正確さに驚いた。

傘を差してしばらく歩くと、アスファルトの道路に水たまりができ、
天気予報の弱い雨の程度を推し量ることが出来た。
そう思った頃に、雨は小降りになり、止んでしまった。

すると、「間もなく毛越寺です。元気を出してください。」
一関学院の生徒さんが勇気づける。
雨は降るし、通算8kmになることは解っていたが、
文化センターでの休憩が疲れを増幅したようだ。

重い足を引きづって松林が見えてきた。
目的地である。

毛越寺を(もうつうじ)とはなかなか読めない。
初めて毛越寺を知ったとき、ボクは(もうえつじ)と読んで居た。
ある時、カナをつけたガイドブックを見て初めて(もうつうじ)と読むのを知った。

中尊寺方面からくると「観自在王院跡」に先に到着する。
しかも入口はないから裏側から入って行く感じだ。
「観自在王院」は二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院でその跡地。
ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、
平安時代に書かれた日本最古の庭園書、
「作庭記」の作法どうりで、
極楽浄土を表現した庭園と考えられている。」(岩手県教育委員会)

(観自在王院史跡公園の案内)
(雨上がりで雲の厚い観自在王院庭園)
(観自在王院跡と毛越寺の間にある車宿であった所、牛車が並んだ)

「観自在王院」は、藤原二代基衡の妻が作ったものであるが、
「毛越寺」は、
「二代基衡が造営に着手、三代秀衡の代になって完成した。
往時には堂塔40、禅房500の規模を誇り、
金堂円隆寺は「吾朝無双」と評された。
池は大泉ヶ池と呼ばれ、平安時代の優美な作庭造園の形を
今にとどめています。」(岩手県教育委員会)

すべての建物は焼失したが、浄土庭園と南大門などの伽藍遺構はほぼ残されている。

(毛越寺入口)
(毛越寺の本堂)
(毛越寺の大泉ヶ池、奥に見える白い棒杭が塔堂のあった場所)
(毛越寺の大泉ヶ池2)
(南大門から見た池)
(塔堂の跡)
(塔堂の跡2)

大泉ヶ池に流れ込む「鑓水(やりみず)」の遺構は、往時のまま発掘された。
「鑓水」については説明板をご覧ください。

(鑓水の説明板)
(鑓水)

説明板によると、「鑓水」は「曲水の宴」(*)の舞台になるとあるが、
清らかな水の流れを利用し、流れてくる盃で酒を飲み、
流れてくるまでの間に一首歌を詠み、盃を流す遊びの場となった。

(「曲水の宴の図」ネットより)

(*)「曲水の宴」(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))とは、
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、
流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、
別堂でその詩歌を披講するという行事である。(Wikipediaより)

毛越寺を出る前に、毛越寺の紹介でよく見る写真「大泉ヶ池の立石」をご覧ください。


おわりに、熱心に観光して、沢山質問をしたせいか、岩手TVのインタービュー受けたが、
実際に放映されたかどうかは解らない。

最後に、
一関学院高校郷土史文化研究会の顧問の先生から挨拶があり、
修了式があった。
お礼代わりに、
「学生生活はこれだけじゃあないから、しっかり勉強もしなさいよ」
と言って別れてきました。


とても楽しい一日が終わった。


(挨拶をする、クラブ顧問)
(生徒達1)
(生徒達2)

・気高さに 心洗われ モズが鳴き    hide-san

コメント (9)
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世界遺産:中尊寺と金色堂(奥の細道を歩く 61)

2015年01月24日 09時01分18秒 | ひとり歩き旅
(杉木立の月見坂)

(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)
(中尊寺本堂)
(本堂入口の参拝客)
(本堂の金色の仏像)

本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

 ・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)
(金色堂への道)
(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)
芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)
(撮影できない金色堂内陣ネットから)

芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)

(芭蕉が見た旧覆堂)
(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)

・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san


コメント (7)
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光了寺と茶屋松原(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 36)

2015年01月23日 09時18分46秒 | ひとり歩き旅
(中田宿)
栗橋宿から利根川を渡って中田宿に入る。
栗橋関所はもと利根川の中田宿側にあったものを、
利根川を挟んで栗橋側に移した。
利根川には橋が無く、房川渡しを舟で渡り中田宿から栗橋宿に行った。
関所は中田宿にあった時と栗橋宿にあった時があったので、
今では「房川渡し中田・栗橋関所」と呼んでいる。

旧日光街道を進むと浄土真宗大谷派 光了寺がある。
古河市観光協会によれば、

「光了寺は元は久喜市(旧栗橋町)にあり、静を葬ったので、
その遺品が寺宝として保存されています。
その一つが「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」。
後鳥羽院の寿永2年に大変な日照りに見舞われ、
高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので、
百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、
天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、
たちまち大雨が降ったという。この衣が「蛙蟆龍の舞衣」で、
今も光了寺に保存されています。」とある。

(光了寺山門)

(山門前の石碑)


栗橋駅近くに、静御前の墓があることは以前書いた。
静御前が、東北に進んだ義経をしたって移動したことは文献にあるらしいが、
どこで、どうなったかは判明して居ないらしい。
しかし栗橋にあった光了寺に残した舞衣(まいごろも)によって、
ここで亡くなったと思われる。
光了寺山門前には、「祖師聖人並び靜女舊(旧)跡」の古い石碑が建っている。
また山門を入ると、右手に親鸞聖人像があり、
その横に「智恩報徳」の額が掛かった宝物殿がある。
ここに「木造聖徳太子立像」と
上記「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(ぶえ)、義経かたみの懐剣」があると言う。(古河市観光協会)

(山門を入った右側の宝物殿)

(光了寺本堂)


山門から本堂までの参道左手に、芭蕉句碑が建っており、
次ぎの一句が刻まれている。

・いかめしき 音やあられの ひのき笠

(芭蕉句碑)


光了寺を出て、進むと右手に古河市立第四小学校の正門があり、
やがて東北本線の踏切にでる。踏切の向こうの道路左右に、
まだ若い木であるが松並木が見える。

(古河第四小学校)

(東北本線の踏切)


この辺り茶屋新田と言い、松並木があったところ。
夏は旅路に緑の蔭を、冬は風をさえぎり旅に風情を添えた。
幕末の志士 清河八郎は、
「ここから古河までは一里半の道のりで、
仙台道中最もきれいな松並木である。(中略)
その並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、
時には富士山も雲の上に姿を顕し景色が大そうよい。」と、
旅行記に書いている。
昭和十三年には道路拡張のため根元は掘り上げられ、
松根油の製造に使われた。」と言う。

(往時の美しさが偲ばれる松並木の街道)


美しい松並木は古河宿まで続いたという。
徳川二代将軍秀忠が日光社参で御茶屋を設けたので、
この辺りは茶屋新田と言われるが、
松並木の中間地点に茶屋を設けた場所、
茶屋松原が残っている。

(茶屋松原)

(茶屋松原2)

日本橋から十七里、日光まで二十里の場所である。
この後方に茶屋新田の鎮守、香取神宮があり、
「宝永元年」(1704)に建立された旧神社は老朽化して、
平成二年香取神社氏子一同の手により再建された。

(再建された香取神社)


しばらく進むと左館林に抜ける354線との交差点があり、
これを越して直進すると、
道路脇に長く白い柵で囲まれた林が見えてくる。

(館林へ抜ける354線と交差する信号)

(柵に囲まれた林)


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武蔵坊弁慶(奥の細道を歩く 60)

2015年01月21日 08時57分49秒 | ひとり歩き旅
(関山中尊寺入口)

(平泉 5)
(中尊寺)信号を渡った右手は「関山中尊寺」の石柱がみえ、
月見坂が奥に続いている。

(中尊寺)の信号左手に、古い松の生えた一画があり、ここが弁慶の墓である。
弁慶の墓には立派な墓碑があり、墓は竹垣に囲まれ一段高くなっている。
そこに松が植えられ、五輪の塔と句碑が建っている。

義経の居城高館が焼打ちされるや、弁慶は寄せ来る敵の前に立ち、
(この先に進むことならず)と長刀を立てて立ちふさがった。
最後まで主君を守り、ついに衣川の古戦場で立往生したと言う。
遺骸をこの地に葬り五輪の塔を建て、
後世、中尊寺の僧 素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

句碑に

・色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

とある。

(弁慶の墓の案内)
(武蔵坊弁慶の墓の碑)
(松の木と五輪の塔と句碑)
(武蔵坊の「武」がかろうじて読める句碑)

ボクより若いハイキング参加者は、月見坂をどんどん先へ行く。
一番最後を遅れながら、喘ぎ喘ぎ月見坂を登って振り返って見ると、
月見坂は大杉に囲まれた美しい坂道であった。

(古杉に囲まれた美しい月見坂)

左手に弁慶堂がある。右手を「東物見台」と言い、
眼下に衣川があり北上川に合流している。
ここが衣川の古戦場であり、弁慶立往生の地とも言われる。
しかし伝説では義経とともに大陸に渡り、暴れまわっていたとも言う。
「東物見台」左手に西行法師の歌碑がある。

・ききもせず 束稲やまのさくら花
          よし野のほかの かかるべしとは
とあるようだ。(読めなかったので)

(衣川の古戦場。右手に見える橋の下を流れる衣川、手前の陸橋は東北新幹線)
(右手に束稲山が見える古戦場)
(西行法師の歌碑)
(弁慶堂)
(立ち往生した弁慶を演じる一関学院の高校生)

その弁慶堂の先の右手に地蔵堂が見える。
地蔵堂に入る手前の右手に、臼田亜浪の句碑、

・夢の世の 春は寒かり 啼け閑古  亜浪

とあり、その先に、もう一つの西行法師の歌碑がある。
始めに説明文があり、続いて和歌がある。

「みちのくにに 平泉にむかひて 束稲と申す山の
はべるに はなの咲きたるを 見てよめる。

・ききもせず 束稲やまの さくら花
    よし野のほかに かかるべしとは」

とある。

奥州藤原氏が栄えた時代には、この束稲山には一万本の桜が植えられていたという。
平安時代の歌人西行法師が平泉を訪れた際にその桜を見て、
詠んだ歌碑が建てられている。

奥州藤原氏がよし野を偲んで桜を植えたものと思われる。

(地蔵堂)
(地蔵堂へ入るまでの右手に臼田亜浪の句碑)
(「夢の世の・・」の句)
(説明文と並んである西行の歌碑)

・秋空の ガイドに聞き入る 弁慶堂   hide-san



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