楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

信夫文知摺石(しのぶもじずりいし)(芭蕉の道を歩く 42)

2014年06月27日 09時10分07秒 | ひとり歩き旅


(奥の細道【十二】文知摺石)
黒塚のある観世寺を出て、国道四号線を北上する。
途中、国道115号線を右折し文知摺橋を渡り、
文知摺観音の案内に沿って進むと、
正面に大きな「史跡 文知摺観音」の看板が見える。
道路は左へ曲がっているが、その曲がり角に駐車場はある。
(文知摺観音の看板と鐘楼)


入口の小さな橋を渡り、
左手に鐘楼、右手に芭蕉の立像を見て進むと料金所があり、
拝観料大人400円(中学生以下200円)を払うと、
「正面が芭蕉句碑、左手に文知摺石があります」と案内してくださる。
宝物館は入場料をいただきましたから無料ですが撮影禁止とのこと。
この中から見える多宝塔がいちばん美しく、
東北唯一の多宝塔遺構は、福島県指定重要文化財になっているとのこと。
およそを聞いて、中へ進む。
(松尾芭蕉の像)

(その台石)


右手の芭蕉立像の台石に、「おくのほそ道」の冒頭部分と、
(信夫の里)の項が記されている。
「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し福島に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍(しのぶ)のさとに行。
遙か山陰の小里に石半ば土に埋もれてあり。
里の童部(わらべ)の来たりて教ける、
「昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人麦草をあらして、
この石を試み侍るを憎みて、この谷につき落とせば、
石の面下ざまにふしたり」と言う。さもあるべき事にや。

・早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」
と刻まれている。

拝観料を払って入るとすぐ目の前の上段に、芭蕉句碑がある。
碑面には、

早苗とる 

手もとや
 
 昔志のぶ摺


とある。
(一段上にある芭蕉句碑)

(芭蕉句碑)

(芭蕉句碑2読めますでしょうか)

(芭蕉句碑の拓本)


その先に石の柵に囲まれて、
伝説の石 信夫文知摺り石とその手前にある石は、
忍ぶ草などを摺り付け布に写したもぢ摺石が置いてある。
(柵の中の信夫文知摺り石)

(染物用のもぢ摺り石)


伝説は、信夫文知摺保勝会によれば、
(遠い昔の貞観年中(九世紀半ば過ぎ)のこと、
陸奥の国按察使(あぜち 監察官) 源融公が、おしのびでこの辺りまで参りました。
夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますと、
この里(山口村)の長者が通りかかりました。
源融公は、出迎えた長者の娘 虎女の美しさに思わず息をのみました。
虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり、
公の滞留は一月あまりになりました。
やがて、公を迎える使いが都からやってきました。
公は始めて身分をあかし、また逢う日を約して去りました。
再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、
「もちづり観音」に百日詣りの願をかけ、
満願となりましたが、都から何の便りもありません。
嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もちづり石」の面に、
慕わしい公の面影が彷彿と浮かんで見えました。
懐かしさのあまり虎女がかけよりますと、
それは一瞬にしてかきうせてしまいました。
虎女は遂に病の床にについてしまいました。

・みちのくの 忍ぶもちづり 誰ゆえに
       みだれそめにし 我ならなくに
                  河原左大臣源融
  

公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。

もちづり石を、一名「鏡石」といわれるのも、
このためと伝えられます。)とある。
「文字摺り石」の右へ進むと河原左大臣の歌碑がある。
(河原左大臣の顔が写ったと言う信夫文知摺石)

(河原左大臣源融の歌碑)


その先左に池があり、藤が美しく咲いていた。
池を左に見て進むと、虎女と河原左大臣のお墓がある。
ずいぶん立派なもので、想い慕われ睦んだ比翼塚と言うところであろうか。
(藤が美しく咲いている池)

(藤が美しく咲いている池2)

(虎女と河原左大臣源融のお墓)


戻って、河原左大臣の歌碑の正面に、もちずり観音堂があり正岡子規の句碑がある。

・涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり

(もちずり観音堂31)

(子規の句碑14)


もちずり観音堂を左に下りていくと、重要文化財の安洞院多宝塔がある。
普通多宝塔といえば三重塔や五重塔が多いが、ここでは二重の塔である。
(安洞院多宝塔21)


宝物館の中には、芭蕉の真蹟「しのぶもちずり」、西郷隆盛の真蹟、
小川芋銭画「耕作図」等があるが、
何といっても、ここの休憩場から見る多宝塔が、
杉木立に囲まれとても美しく筆舌に尽くしがたい。
(宝物館:傳光閣)

(宝物館から見た多宝塔)



・人情の 積もりて池の 藤の花   hide-san

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鬼婆と黒塚(芭蕉の道を歩く 41)

2014年06月23日 09時19分11秒 | ひとり歩き旅
(天台宗 真弓山 観世寺)


(奥の細道【十一】黒塚)
安積山公園を後にして、福島県二本松市庁舎に向かう。
鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。
黒塚は真弓山観世寺にあるという。
市庁舎で地図をいただき、
「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。
(安達が原黒塚のあるお寺)

(真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)


謡曲史跡保存会によれば、
(謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、
平安時代の平兼盛の歌、
陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に
       鬼こもれりと聞くはまことか

の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。
(平兼盛の歌碑)

(白真弓如意輪観音堂)


鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。
(ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、
京都のある公卿屋敷の乳母であった。
永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、
遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、
この安達ケ原での岩屋であった。

木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、
伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、
その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、
伊駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、
出刃包丁をふるって、
くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、
苦しい息の下から
「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」
と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。
これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、
気が狂い鬼と化してしまった。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、
いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、
全国にその名が知れ渡った。
(宝物館にある鬼婆の什器)


数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が
一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、
女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、
糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、
渡世の苦しさを嘆くが、
夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。
その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。
その言葉に疑いを持った能力は、
祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、
おびただしい死骸に驚く。
能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、
女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。
祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、
数珠をもんで一心に祈ると、
尊像は虚空はるかに舞い上がって、
一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。

その後、東光坊の威光は後世に伝わり、
このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、
奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、
1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。
(黒塚と言われる岩屋)

(黒塚と言われる岩屋2)

(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである)


恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、
芭蕉は「おくのほそ道」に
「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」
と簡単に書いている。
曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、
黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、
書き込んでいる。
伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。

お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手の宝物館に、
鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。
1260年前の鬼婆が使用した遺品も保存されている。
左手に白真弓如意輪観音堂があり、
手前に鬼婆の岩屋がある。
ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、
屋根となる笠岩の半端でない大きさ、
阿武隈川岸にどのような自然現象で、
このような岩屋が出来たのであろうか。
伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。
誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。
伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。
(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)


・大岩が 語る老婆の 花の色  hide-san


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安積山(あさかやま)公園(芭蕉の道を歩く 40)

2014年06月19日 10時30分09秒 | ひとり歩き旅
(花かつみ)


(奥の細道【十】安積山)
郡山市によれば、
(浅積山を松尾芭蕉と曽良は、
元禄二年五月一日(新暦1689年六月十七日)、
「奥の細道」紀行でここを訪れ、
「安積山」では「万葉集」に詠われている
「花かつみ」を尋ね歩いている。
「奥の細道」には次のように記されている。
「等躬が宅を出て五里斗(ばかり)、桧皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有(あり)、
路より近し。此のあたり沼多し。
かつみ刈る比(ころ)もやや近こうなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、
人々に尋(たづね)侍(はべ)れども更(さらに)知人(しるひと)なし。
沼を尋ね、人に問い、「かつみかつみ」と尋ねありきて・・・」)とある。

東北本線日和田(ひわだ)駅を出て、旧道に出る。北に向かって十分ほどで、
左側に農協の広い駐車場に出る。
右側に小山があるが、それが安積山で、
「安積山公園」の大きな石碑が建っているので分かり易い。
(安積山公園入口)


駐車場は公園を通り過ぎて、
最初の信号を右に少し行った所に大きなものが二か所ある。
そこに駐車して、公園に入ろうとしたところ、
どこも縄張りがしてあって、公園に入れない。
よくよく見ると、にわか作りの看板があって、
「地上50センチのところで放射線が確認されたので、
除染が終わるまで立ち入り禁止です。」とある。

考えてみれば駐車場に車が一台もないのに、
「オヤッと思った」どんなに辺鄙なところでも、
公園となれば、普段であれ、休祭日ならなおのこと、
車が十数台は停まっているはずが一台もない。
よくよく見渡すと、この山裾の全体に縄張りがしてある。

しかし、福島原発が地震で倒壊して、もう三年経つ。
しかも原発の場所から少なめに見ても50キロメートルはある場所だ。
そこにまだ除染が必要な場所があるとは予想もしなかった。
福島の復興は原発からの復興であり、
まだまだ先の事であることがよーく分かった。

中に入れないなら仕方がない。
外から安積山公園の大きな石の案内をみて帰ろうとすると、
石碑の手前に、芭蕉が探したという「花かつみ」草が花開いている。

「芭蕉が花かつみ、花かつみと云って探し求めた草は何だとお思いですか?」
後の芭蕉の研究者によると、花かつみは学名「ヒメシャガ」のことのようです。
(花かつみのヒメシャガ)


・安積山 若草は知る シーベルト  hide-san

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乙字が滝(芭蕉の道を歩く 39)

2014年06月15日 09時36分52秒 | ひとり歩き旅
(乙字が滝の案内)


(奥の細道【九】須賀川 2)
十念寺を出て、国道118号線にでる。
国道118号線を「乙字が滝」に向かって進むが、かなり遠い。
途中、牡丹の時期には混雑が予想される牡丹園を通り抜け、
まだ先かもうすぐか、距離としては10kmほどあろうか。
信号で(乙字が滝は左)の案内看板に沿って進むとすぐ赤い橋が見える。
橋を渡らず、手前左に駐車スペースを見つけ止まる。
すぐ横にバス停(乙字が滝)がある。
橋に向かって歩くと、橋より下流に滝があるようで、
川に入って釣りを楽しんでいる人がみえる。
赤い欄干の橋を渡ると、
「新奥の細道」として環境庁・福島県の案内看板がある。

左手に立派な駐車場とお手洗いが見える。
通路は奥に延びていて、進むと階段下にお堂が見え、
流れる河音が響いて聞こえる。
「乙字が滝」に違いない。

(乙字が滝の入り口)


芭蕉に同行した曽良の旅日記(俳諧書留)によると、
(須賀川より東二里ばかりのところに、石河の滝あると言う。
この乙字が滝を見物に出かけようとしたが、
雨で水かさが増し、川を越すことが出来ないからと、止めている。
・さみだれは滝降りうづむみかさ哉  翁
と一句書いて、滝へ案内すると言っていた等雲という人のもとへ、
お送りになった。)(現代語に筆者訳)と書いている。

ボクが10kmほどあると思ったが、曽良も二里はあると書いているから、
およそそんな距離であろう。
通路の奥の階段を下ると不動堂が見え、
これを滝見不動堂という。

玉川村教育委員会の説明板によると、
(不動明王を本尊とする、和讃には大同三年(808)弘法大使の開基と伝える。
江戸時代初期には、代々の白河藩主が参詣探勝し、
堂宇修繕費として竹木資材を寄進した。)とある。
(滝見不動堂)


この滝見不動の右手に「乙字が滝」が見える。
阿武隈川の底の岩盤に段差があって、
その段差の上を水が流れ、滝に見える。
その段差が10メートルから12メートルほどあり、
「乙」の字のように川底にできている。

玉川村教育委員会によれば、日本の滝百選入選と題して、
次のように書かれている。
(古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅100メートル・
巨厳横に連なり乙字の形を成す。
川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。
江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭、鱒、鮎が、
滝を飛び跳ねるうちに簗に落下する魚が多かった。
多い日には一日千尾を越えるほどで、
これの売買代金は漁猟者の収入になった。
また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上することとされ、
藩役人がこの辺に番所を置き看視した。
この役人の食事、宿泊など賄は地元竜崎村が負担した。
その代りに藩に納入する雑税人夫役など免除された。)とある。
乙字が滝、滝見不動堂の案内がある。
(乙字が滝)

(乙の字に繋がる岩盤)


滝見不動堂の左手、杉木立の中に芭蕉句碑がある。

・五月雨の 瀧降うづむ みかさ哉   はせお

(芭蕉句碑)

(俳句が読めるでしょうか)

(奥の細道 石河の滝の石碑)


乙字が滝を出て、郡山に向かう。
今日予約したホテルへ17時に到着すると伝えたあったので、
予定が狂い1時間遅れて到着できるだろうと伝える。

本日の歩行距離18000歩=約11km。

・河の瀬で 鮎と遊ばん 水しぶき  hide-san


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長松院と十念寺(芭蕉の道を歩く 38)

2014年06月11日 10時33分28秒 | ひとり歩き旅
(長松院の門)


(奥の細道【九】須賀川 1)
可伸庵跡を出て本来なら、案内のある十念寺へ向かうのが良さそうであるが、
地図では長松院が近くにあるので、そちらへ先を急ぐ。

車を置いた市庁舎跡に戻り、
そこから長松院まで北へ歩いて数分で到着する。
入口には、大きな石柱があり、右手に万年山、
左側の石柱には長松院と刻まれており、
内側はかなり広くとられていて、車の駐車場になっている。
寺院らしく、鐘楼が見えるその脇に自分の車を駐車させてもらう。
資料では、ここに相良等躬のお墓があることで知られる。
(長松院門前で鐘楼が見える)

(長松院の門柱)

(長松院の山門)

(本堂)


芭蕉は、奥の細道で、
すか川(がわ)の駅(えき)に等躬(とうきゅう)といふものを尋(たづね)て、
四・五日とどめらる。先(まづ)「白河の関いかにこえつるや」と問う。
「長途(ちょうど)のくるしみ、
身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うば々れ、
懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

・風流の 初やおくの 田植うた

無下(むげ)にこえんもさすがに」と語れば、
脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて三巻(みまき)となしぬ。)

と書いている。

須賀川の相良等躬を訪ねて、芭蕉は一週間も泊まっている。
よほど居心地が良かったに違いない。
等躬に「白河の関越えには、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられている。
長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、また風景に見とれ、
白河での詩人たちの感慨が身に沁み、腸もちぎれる思いがして、
俳句を詠むまで思いがめぐりませんでした。とは言えと、
・風流の初めや奥の田植うた
の句を挨拶代わりに詠んだ。
長松院の門をくぐり、本堂に近づくと左手に等躬の句碑と墓所の案内がある。
句碑には
・あの辺ハ つくばね山哉 炭けふり  等躬
(等躬の墓所の案内と句碑)

(等躬の墓所の案内)


案内に沿って右へ行き、本堂裏手に向かう。
裏手には真新しい無縁仏の墓を積み上げたような巨大なピラミッドがあり、
最上部にはお釈迦様であろうか、銅像が建っている。
その裏手に相良等躬のお墓がある。
立派なお墓で、相楽家の代々のお墓が並ぶ一画に、等躬のお墓はあった。
上部に「心」の文字があり、その下に、「公雄萬帰居士」
隣に妻の「安室喜心大姉」の」法名が並んでいる。
(無縁仏か真新しいピラミッド)

(相楽家の墓)

(等躬の墓)

(十念寺の案内)


可伸庵跡に戻って、十念寺へ向かう。
古い宿場町であったはずの町には、新しい建物が多く、
案内地図にある家は、建物が新しく建て替えられているものや、
無くなって更地になっているものもある。
これも三年前の地震による影響であろう。

十念寺の手前には割烹旅館でもあったのであろうか、
古い案内地図には、××楼があるはずが、更地になっていて、
その道向こうに十念寺はあるはずが、
お寺らしきものは見えるが、石柱には文字もなく、
石柱に上にも笠がない。

しかし、十念寺はここしか考えられないので、無名の石柱の門を入る。
参道右手の植え込みの中に「十念寺」の控え目の小さな石柱がある。
その横に芭蕉の句碑はあった。
・風流の はじめや奥の 田うゑ唄   はせを
とある。

左手に市原多代女の辞世の句碑
・終に行く 道はいづくぞ 花の宴   多代女
とある。
(市原多代女は須賀川出身の江戸末期女流俳人知られているという。
芭蕉の句碑はこの多代女によって建立された。)(須賀川市)とある。
(十念寺の石柱)

(十念寺の文字も傘もない門柱と本堂)

(芭蕉句碑)

(市原多代女の辞世の句碑)


十念寺を出て、芭蕉が尋ねた「石河の滝」別名「乙字が滝」へ向かう。

・地震あと 知らぬそぶりの 山つつじ  hide-san

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