極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

エンブレムとしての国旗

2015年10月24日 | 時事書評

 

 

 

 

    最も重要なのは勝つことです。 /  エディ・ジョーンズ

  



● 話題沸騰 世界ラクビー杯 2015 クール・ジャパン

ワールドカップで勝利するのは、91年以来24年ぶりのこと。日本代表チーム最大の持ち味である
粘り強さを生かし、試合終了間際に逆転勝利するという奇跡的な勝利を収めたことが話題を呼んでい
。ワールドカップイングランド大会の1次リーグB組第1戦で優勝候補の南アフリカ代表と対戦し
34対32で逆転勝利は「ラグビー史上最大の番狂わせ」と受け止められたがその理由は?そこで指
摘さ
れているのが、(1)最高のメンタルで臨め――日本はW杯で24年間勝てなかったが、エディ
ー・ジョー
ンズHC(ヘッドコーチ)が選手にマインドを変える――選手が応えた。(2)次に明確
な目標設定――3年前、W杯でベスト8に入るという明確なゴールそ設定。そこで自分たちの強みと、
ばしていくところを提示され選手は信じてついく。(3)ディフェンスが良かった。南アフリカ戦
ように相手は大きく(FWの平均身長192. 5センチ、体重115キロ)、日本の低いタックル
が苦
手。それを80分間、徹底できたことが勝利につながる。(4)3年前の日本代表ではスペシャル
プレーは全くなかった。エディージャパンになり確実性の高いプレーばかりで戦ってきてたが、選手
が勇気を持っ
て期待に応え実行し的中――五郎丸のトライのサインプレーはラインアウトからCTB
立川とSO小野の場所を入れ替えて、先に受けた立川からおとりの選手の背中を通して小野へ、その
内側にWTB松島が走り込んで抜けトライは決定的にできたということが挙げらる。




● エンブレムとしての国旗:進化するナショナリズム


ところで、わたしがこの試合の映像をみて思うことは極めて単純な2つのこと。1つめは外人選手が
多いということ。これは競技ルールに支配されるという。前提となるのは、世界各国の代表は、五輪
のような国籍主義ではなく、所属協会主義に基づく――①本人や両親、祖父母が日本で出生している、
②本人が3年以上日本に居住しているのどちらかを満たせば、日本代表の資格を得ることができる。
因みに、現在ワイルドカップ候補39人のうち、外国出身のカタカナ名の選手は12名で、うち4人
は日本国籍を持っという多国籍チーム。ここでは、唯一無二の国旗を背負って競技を行うというイメ
ージでなく、居住時間の短く、義務を負った国民を許容した開かれた国家としてのエンブレム(ワッ
ペン、シンボルマーク)というイメージに近い。いま風にいうと「クールジャパン」化だろう。

2つめは、そのことで、欧米諸国よりフィジカル面で劣るという課題の解決と、日本人の特性を生か
すという作戦(タクティス、オペレーション)を実践したエディー・ジョーンズ監督(ヘッドコーチ)
の技量。錦織圭を育てたマイケル・チャンコーチと同じかもしれない。ところで、ラクビーとわたし
の思い出はたしかこのブログでも書いたかもしれないが?余り好い思い出はないが、観戦より"同じ観
るなら踊りゃな損"と心得ている。「南アフリカ戦」はラクビーの世界史に残る一戦に違いない。
 

 

● 折々の読書 『職業としての小説家』23  

  僕は小説を書くという行為そのものが好きです。だからこうやって小説を書いて、ほぼそれだ
 けで生活していけるというのは、僕にとっては本当にありかたいことだし、そういう生活を送れ
 るようになったことについては、実に幸運だったとも思っています。実際のところ、もし人生の
 ある時点で破格の幸運に恵まれなければ、こんなことはとても達成できなかったでしょう。率直
 にそう思っています。幸運というより、ほとんど奇跡と言っていいかもしれません。

  僕の中にもともと小説を書く才能が多少あったとしても、油田や金鉱と同じで、もしそれが掘
 り起こされなければ、いつまでも地中深く眠りっぱなしになっていたはずです。「強い豊かな才
 能があれば、それは必ずいつか花開くものだ」と主張する人もいます。しかし僕の実感からいえ
 ば――僕は自分の実感についていささかの自信を持っているのですが――必ずしもそうとは限ら
 ないようです。その才能が地中の比較的浅いところに埋まっているものであれば、放っておいて
 も自然に噴き出してくるという可能性は大きいでしょう。しかしもしそれがかなり深いところに
 あるものなら、そう簡単には見つけられません。それがどれほど豊かな優れた才能であったとし
 ても、もし「よしここを掘ってみよう」と思い立って、実際にシヤベルを持ってきて掘る人がい
 なければ、地中に埋まったまま永遠に見過ごされてしまうかもしれません。僕自身の人生を振り
 返ってみて、つくづくそのように実感します。ものごとには潮時というものがありますし、その
 潮時はいったん失われてしまえば、多くの場合、もう二度と訪れることはありません。人生とい
 うのはしばしば気まぐれで、不公平で、ある場合には残酷なものです。僕はたまたまその好機を
 うまく捉えることができた。それは今振り返ってみれば、まったくのところ、幸運以外の何もの
 でもなかったという気がします。

  しかし幸運というのは、言うなればただの入場券のようなものです。そういう点ではそれは油
 田や金鉱とは性格を異にしています。それを見つけて、いったん手に入れたらあとはもうオーケ
 ー、左うちわで安逸に人生を送れるというものではありません。その入場券を持っていれば、あ
 なたは催し物の会場に入れてもらえます――でもそれだけのことです。入り口で入場券を渡して、
 会場の中に入れてもらって、それからどのような行動をとるか、そこで何を見出し、何を取り、
 何を捨てるか、そこで生じるであろういくつかの障害をどのように乗り越えていくか、それはあ
 くまで個人の才能や資質や技量の問題になり、人としての器量の問題になり、世界観の問題にな
 り、また時にはごくシンプルに身体力の問題になります。いずれにせよ、それはただ幸運である
 というだけではまかないきれないものごとです。

  当然のことですが、人間にいろんなタイプの人間がいるように、作家にもいろんなタイプの作
 家がいます。いろんな生き方があり、いろんな書き方があります。いろんなものの見方があり、
 いろんな言葉の選び方があります。すべてを一律に論じることはもちろんできません。僕にでき
 るのは、「僕のようなタイプの作家」について語ることでしかありません。ですからもちろん限
 定された話になります。しかし同時にそこには――職業的小説家であるという一点に関して言え
 ば ――個別的な相違を貫いて、何かしら通底するものもあるはずです。一言で言えばそれは精
 神の「タフさ」ではないかと、僕は考えています。迷いをくぐり抜けたり、厳しい批判を浴びた
 り、親しい人に裏切られたり、思いもかけない失敗をしたり、あるときには自信を失ったり、あ
 るときには自信を持ちすぎてしくじったり、とにかくありとあらゆる現実的な障害に遭遇しなが
 らも、それでもなんとしても小説というものを書き続けようとする意志の堅固さです。

  そしてその強固な意志を長期間にわたって持続させていこうとすれば、どうしても生き方その
 もののクオリティーが問題になってきます。まず十全に生きること。そして「十全に生きる」と
 いうのは、すなわち魂を収める「枠組み」である肉体をある程度確立させ、それを一歩ずつ着実
 に前に進めていくことだ、というのが僕の基本的な考え方です。生きるというのは(多くの場合)
 うんざりしてしまうような、だらだらとした長期戦です。肉体をたゆまず前に進める努力をする
 ことなく、意志だけを、あるいは魂だけを前向きに強固に保つことは、僕に言わせれば、現実的
 にほとんど不可能です。人生というのはそんなに甘くはありません。傾向がどちらかひとつに偏
 れば、人は遅かれ早かれいつか必ず、逆の側からの報復(あるいは揺れ戻し)を受けることにな
 ります。一方に傾いた秤は、必然的にもとに戻ろうとします。フィジカルな力とスピリチュアル
 な力は、いわば二つの車の両輪なのです。それらが互いにバランスを取って機能しているとき、
 最も正しい方向性と、最も有効な力がモこに生じることになります。

  これはとてもシンプルな例ですが、もし虫歯がずきずき痛んでいるとしたら、机に向かってじ
 っくり小説を書くことなんてできません。どれだけ立派な構想が顛にあり、小説を書こうとする
 強い意志があり、豊かな美しい物語を作り出していく才能があなたに具わっていたとしても、も
 しあなたの肉体が、物理的な激しい痛みに間断なく襲われていたとしたら、執筆に意識を集中す
 ることなんてまず不可能ではないでしょうか。まず歯科医のところに行って虫歯を治療し――つ
 まり身体をしかるべく整備し――それから机に向かわなくてはなりません。僕が言いたいのは簡
 単に言えばそういうことです。

  とてもとても単純なセオリーですが、それは僕がこれまでの人生において身をもって学んでき
 たことです。フィジカルな力とスピリチュアルな力は、バランス良く両立させなくてはならない。
 それぞれがお互いを有効に補助しあうような体勢にもっていかなくてはならない。戦いが長期戦
 になればなるほど、このセオリーはより大きな意味あいを持ってきます。

  もちろんあなたが類い稀な天才で、モーツァルトやシューベルトやプーシキンやランボーやフ
 ァン・ゴッホのように、短い期間にぱっと華やかに開花し、人の心を打ついくつかの美しい、あ
 るいは崇高な作品をあとに残し、歴史に鮮やかに名をなし、そのまま燃え尽きてしまえばいい、
 それでもう十分だ、と考えておられるのであれば、僕のそのようなセオリーはまったくあてはま
 りません。僕がこれまで言ってきたようなことは、どうかきれいさっぱりと忘れてください。そ
 して好きなことを好きなようにやってください。言うまでもないことですが、それはひとつの立
 派な生き方です。そしてモーツァルトやシューベルトやプーシキソやランボーやファソ・ゴッホ
 のような天才芸術家は、どの時代にあっても必要不可欠な存在です。

  しかしもしそうでないのなら、つまりあなたが(残念ながら)希有な天才なんかではなく、自
 分の手持ちの(多かれ少なかれ限定された)才能を、時間をかけて少しでも高めていきたい、力
 強いものにしていきたいと希望しておられるなら、僕のセオリーはそれなりの有効性を発揮する
 のではないかと考えます。意志をできるだけ強固なものにしておくこと。そして同時にまた、そ
 の意志の本拠地である身体もできるだけ健康に、できるだけ頑丈に、できるだけ支障のない状態
 に整備し、保っておくこと――それはとりもなおさず、あなたの生き方そのもののクオリティー
 を総合的に、バランス良く上に押し上げていくことにも繋がってきます。そのような地道な努力
 を惜しまなければ、そこから創出される作品のクオリティーもまた自然に高められていくはずだ、
 というのが僕の基本的な考え方です(繰り返すようですが、このセオリーは天才的資質を持った
 芸術家には適用されません)。

  それではどのようにして生き方の質をレベルアとフしていけばいいか? その方法は人それぞ
 れです。百人の人がいれば、百通りの方法があります。自分でそれぞれに自分の道を見つけてい
 くしかありません。自分の物語と自分の文体を、それぞれが見つけていくしかないのと同じよう
 に。
  またフランツ・カフカの例を出しますが、彼は四十歳の若さで、肺結核で亡くなりましたし、
 残された作品のイメージからするといかにもナーバスで、肉体的には弱々しい印象があるのです
 が、身体の手入れには意外に真剣に気を遺っていたようです。菜食を徹底し、夏にはモルダウ川
 で一日一マイル(一六〇〇メートル)を泳ぎ、日々時間をかけて体操をやっていたそうです。カ
 フカが真剣な顔をして体操をしている姿をちょっと見てみたいという気がしますね。

  僕は生きて成長していく過程の中で、試行錯誤を重ねつつ、僕自身のやり方をなんとか見つけ
 ていきました。トロロープさんはトロロープさんのやり方を見つけ、カフカさんはカフカさんの
 やり方を見つけました。あなたはあなたのやり方を見つけてください。身体的な面においても精
 神的な面においても、人それぞれに事情は違っているはずです。人それぞれに、それぞれのセオ
 リーがあるでしょう。でも僕のやり方が少しでも何かの参考になれば――言い換えればそれがい
 くらかでも普遍性を持っていたとしたらということですが――僕としてはもちろんとても嬉しく
 思います。


                     「第七回 どこまでも個人的でフィジカルな試み」
                             村上春樹 『職業としての小説家』



  今回は学校の話をします。僕にとって学校はどのような場所(あるいは状況)であったのか、
 学校教育は小説家である僕にとって、どのように役に立ってきたのか、あるいは役に立ってこな
 かったのか? そういうことについて語ってみたいと思います。

  僕の両親は教師でしたし、僕自身もアメリカの大学で何度かクラスを受け持ったことはありま
 す(教員免許みたいなものは持っていませんが)。しかし率直に申し上げまして、学校というも
 のか僕は昔からわりに苦手でした。自分の通った学校について考えると、こんなことを言うのは
 学校に対してまことに心苦しいのですか(すみません)、あまり良い思い出は蘇ってきません。
 首筋がなんだかもさもさとむず捺くなってくるくらいです。まあこれは、学校モのものに問題が
 あったというよりは、むしろ僕の方に問題かあったということかもしれませんが。

  いずれにせよ、大学をなんとかようやく卒業したときは、「ああ、これでもう学校には行かな
 くていいんだ」と思ってほっとしたことを覚えています。やっと肩から重い荷物を下ろすことが
 できたという感じでした。学校が懐かしいと思ったことは(たぶん)一度もないかもしれない。
  じゃあどうして僕は今頃になって、わざわざ学校について語ろうとしているのか?

  それはおそらく僕が――もう学校から遥か遠く離れた人間として――そろそろ僕自身の学校体
 験について、あるいは教育というもの全般について、感じていることや思っていることを、自分
 なりに整理して語ってもいいんじゃないかと思うようになったからだと思います。というか、自
 らを語るにあたって、ある程度そのへんを明らかにしておくべきなんじゃないかと。またそれに
 加えて、最近になって、登校拒否(回避)をした経験のある何人かの若い人と会って話をしたこ
 とも、あるいはその動機のひとつになっているかもしれません。

  本当に正直なところ、僕は小学校から大学まで一貫して、学校の勉強がそんなに得意ではあり
 ませんでした。とくにひどい成績だったとか、落ちこぼれだったとか、そういうわけではなくて、
 まあそこそこはできたとは思うんですか、勉強するという行為自体かもともとそんなに好きでは
 なかったし、実際あまり勉強しなかった。僕のかよった神戸の高校は、公立のいわゆる「受験校」
 で、一学年に六百人を超える生徒かいるような大きな学校でした。僕らは「団塊の世代」ですか
 ら、なにしろ子供の数か多かったんです。それでそれぞれの科目の定期試験の、上位五十人くら
 いの名前か公表されるのですか(たしかそうだったと記憶しています)、そのリストに僕の名前
 か載ることはまずなかった。つまり上位一割くらいの「成績優秀な生徒」というのではまったく
 なかったわけです。まあよく言って、中の上というあたりではなかったかと思います。

  なぜ学校の勉強を熱心にしなかったかというと、いたって簡単な話で、まずだいいちにつまら
 なかったからです。あまり興味が持てなかった。というか、学校の勉強なんかより楽しいことか
 欧の中にはたくさんありました。たとえば本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見に行ったり、
 海に泳ぎに行ったり、野球をしたり、猫と遊んだり、それからもっと大きくなると、友だちと徹
 夜麻雀をしたり、女の子とデートをしたり・・・・というようなことです。それに比べれば、学校の
 勉強というのはかなりつまらなかった。考えてみれば、まあ当たり前のことですね。

  でも僕としては、勉強を怠けて遊びほうけているという意識はとくにありませんでした。本を
 たくさん読んだり、き楽を熱心に聴いたりすることは――あるいは女の予とつきあうことだって
 含めていいかもしれませんか――僕にとっては大事な意味を持つ個人的な勉強なんだと、心の底
 でわかっていたからだと思います。ある意味ではむしろ学校の試験なんかより大切なものなんだ
 と。自分の中で当時、どれくらいそのへんか明文化され、また理論化されていたか、正確には思
 い出せないのですか、「学校の勉強なんてつまらないよ」と開き直れる程度には認識していたよ
 うな気かします。もちろん学校の勉強でも、興味のあるトピ″クについては自ら進んで勉強もし
 ましたか。

  それから他人と順位を競い合ったりすることに、昔からあまり興味が持てなかったということ
 もあります。何も格好をつけて言うわけじゃないんですか、点数とか順位とか偏差値(僕か時代
 の頃にはありかたいことに、そんなものは存在しませんでした)とか、そういう具体的に数字に
 表れる優劣にもうひとつ心が惹かれないのです。これはもう生まれつきの性格という以外にない
 と思います。負けず嫌いな傾向も(ことによっては)なくはないんですが、他人との競争という
 レベルでは、そういうものはほとんど出てきません。

  とにかく、本を読むことは当時の僕にとって何よりも重要でした。言うまでもないことですが、
 世の中には教科書なんかよりずっとエキサイティングで、深い内容を持つ本がいっぱいあります。
 そういう本のページを繰っていると、その内容か読む端から自分の血肉になっているという、あ
 りありとした物理的な感触がありました。だから試験勉強を真剣にやろうというような気持ちに
 なかなかなれなかった。年号や英単語を機械的に頭に詰め込んで、それが先になって自分の役に
 立つとはあまり思えなかったからです。系統的にではなく機械的に暗記したテクニカルな知識は、
 時間か経てば自然にこぼれ落ちて、どこかに――そう、知識の墓場みたいな薄暗いところに――
 吸い込まれて消えていきます。そういうもののほとんどには、いつまでも記憶に留めておくだけ
 の必然性がないからです。
 
  そんなものより、時間が経っても消えずに心に残るものの方か遥かに大事です。当たり前の話
 ですね。しかしそういう種類の知識にはあまり即効性はありません。そういう知識か真価を発揮
 するまでには、けっこう長い時間がかかります。残念なから目前の試験の成績には直接結びつき
 ません。即効性と非即効性の違いは、たとえて言うなら、小さいやかんと大きなやかんの違いで
 す。小さなやかんはすぐにお湯が沸くので便利ですが、すぐに冷めてしまいます。一方大きなや
 かんはお湯が沸くまでに時間かかかるけれど、いったん沸いたお湯はなかなか冷めません。どち
 らがより優れているというのではなく、それぞれに用途と持ち味があるということです。上手に
 使い分けていくことが大事になります。

                                「第八回 学校について」
                             村上春樹 『職業としての小説家』


ここでは「偏差値」とは、専門知識の差別化と高度化には多少なりとも役立ったと考えるが、著者が
述べるように受験勉強というイニシエーションに価値を見いだすことはなかったとの下りで共感する。

                                                           この項つづく

 

 

● 特定の香りが疲労緩和する仕組み解明

大阪市立大学大の渡辺恭良特任教授らの研究グループは、花王の感性科学研究所と共同で、特定の香
りが
疲労を緩和する仕組みの一端を明らかにし、ヒトが持つ約4百種の臭覚受容体の中から、抗疲労
作用を示す
香りに反応する6種類の嗅覚受容体を探索し特定。その嗅覚受容体を活性化する香料を調
合し、疲労抑制効
果を検証したと発表(日刊工業新聞オンライン 2015.10.22)。



アロマ効果には特に関心がありこのブログでも掲載している。先日も『長浜バイオ大学金賞受賞:「香
蔵庫」(KOZOKO)って ???』(2015.10.05)を取り上げているし、シリーズ「においで癌検査」も
度々掲載してもいるほどだが、それはさておき、この研究グループは、「グレープフルーツ精油」と
草のような香りの「Hex―Hex Mix」の抗疲労作用を示す2種類の香りについて調べ、この
香りに対し六つの嗅覚受容体が共通して反応し、情報伝達物質が増加することを培養細胞の評価系を
用い確認に成功。また、それらの受容体を活性化する香料「MCMP」を、4種類の香料で新たに調
合した。成人男性17人を対象に、MCMPを嗅いだ場合と、そうでない場合での疲労による作業効
率への影響を検証した。すると、MCMPの香りを嗅ぎながら40分間パソコン作業をすると、香り
がない場合に比べ作業効率の低下が抑えられた。今後は被験者の属性の幅を広げることなどによって
MCMP香料の有効性についてさらに検証を進め、芳香剤などの商品開発につなげていく。
る。


研究結果から先に要約すると次のようになる。

1)約4百種存在するヒトの嗅覚受容体の中から、抗疲労作用を示すことが知られている2種の香り
に共通して応答する嗅覚受容体6種を特定することができた。
2)約170種類の香料の中から、それらの受容体を活性化する作用のある香料の混合物を見出し、
その香りが抗疲労作用を示すことを確認した。
3)嗅覚受容体を活性化する香りの抗疲労作用をパフォーマンス試験で確認した。

さらに、詳細にその仕組みを説明すると次のようになる。

ヒトの嗅覚受容体を発現させた培養細胞の評価系を用いて、約4百種のヒト嗅覚受容体のうち、どの
受容体が抗疲労作用を示す香りに応答するかを調べ、抗疲労作用を示す香りは、これまでに研究報告
のあるcis-3-hexenolおよびtrans-2-hexenalの混合物(Hex-Hex Mix, グリーン香)と、グレープフルーツ
精油を使用する。細胞に発現させた嗅覚受容体が活性化すると、細胞内の情報伝達物質が増加し、こ
の情報伝達物質の増加を測定した結果、6種の嗅覚受容体(1A1、2J3、2W1、5K1、5P3、10A6)が2種
の香りにより共通して活性化されることを明らかにする(下図:嗅覚受容体の特定)。これにより、
6種の嗅覚受容体が抗疲労作用に関係する可能性を示す。


 

抗疲労作用を示す香りに共通に応答する6種の嗅覚受容体に対し、それぞれの受容体を活性化する新
しい香りの探索を行ない、約170種類の香料の中から、「メチルイソオイゲノール」「l-カルボン
」「メチルβナフチルケトン」「フェニルエチルアセテート」の4種の香料の混合物である、ハチミ
ツがかった甘い花の香り(MCMP)が、6種の受容体を活性化することを見出しす(下図:抗疲労作用
を示す香りに共通して応答する受容体を活性化する新しい香りの特定)。

さらに、抗疲労作用を示す香りに共通して応答する嗅覚受容体を活性化するMCMPによる抗疲労作用を
パフォーマンス試験で調べる――17名の健常男性を対象に、MCMPの香りあり、なしの条件下でパソ
コン作業による疲労負荷を40分間行い、その前後で作業効率の指標である、課題の正答率を評価―
―と、香りなしの場合に疲労負荷後に正答率が有意に低下するのに対し、香りありの場合には正答率
の低下が認められず、疲労が抑制されることを示唆される(下図:受容体を活性化する香りの抗疲労
作用をパフォーマンス試験で確認)。



以上の研究で、特定の嗅覚受容体の活性化に基づく、新しい抗疲労技術が開発され、特定の嗅覚受容体を
活性化する香りによる抗疲労作用の科学的な実証により、「快適な生活実現」に貢献するモノづくりに応用さ
れることを期待される。これは面白い。

さいごに、下図に、関連知財の一例を掲載しておこう。 

 
【概説】

疲労を回復又は軽減するための組成物――トランス-2-ヘキセナールおよび/またはシス-3-ヘ
キセノールを含有する組成物に関するもので、この組成物を備える医用デバイスに関するもの。この
組成物のトランス-2-ヘキセナールとシス-3-ヘキセノールの化合物の総含有量は、組成物の形
態や適用部位によって異なるが、0.01~100重量%、鼻に近い部位に適用する場合、香りの強
さに基づく不快感を考慮すると好ましくは0.1~2重量%である。この組成物は、芳香剤、液体洗
浄剤、固体洗浄剤、化粧料、浴用組成物、保健衛生材料類、口腔用組成物、食品などとして使用でき
る。具体的には、室内芳香剤=消臭剤などの芳香剤、食器用洗剤、洗濯用洗剤、日用洗剤などの液体
または固体洗浄剤=石鹸、シャンプー、リンスなどの洗浄用化粧品、染毛料、整髪料、養毛料などの
頭髪化粧品、クリーム、化粧水、オーデコロン、パックなどの基礎化粧品、おしろい、ファンデーシ
ョン、ほお紅などのメークアップ化粧品、香水、コロンなどの芳香化粧品、日焼け、日焼け止め化粧
品、口紅、リップクリームなどの口唇化粧品などの化粧料、バスオイルなどの各種浴用組成物、清潔
ティッシュなどの保健衛生材料類=歯磨き、マウスウオッシュなどの口腔用組成物、および、香など
が挙げられる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする