さんぽ道から

散歩中の雑感・モノローグを書いてみました

もう一つ増えた推理小説の楽しみ方…

2016-05-26 08:07:30 | 抜き書き


<連想――リュヤーはガーリップが推理小説を受け付けず、手を触れようともしないことを知っていた。推理小説では、イギリス人が出てくればいかにもイギリス人らしく、太った人間は太った人間らしく描かれる。犯人と被害者をはじめその他どんな主体も客体も手がかりのような顔をしているし、また作家が手がかりとしての役割を無理強いしているため、本来の姿とかけ離れてしまう。ガーリップはこんな人工的な世界に没頭して「暇つぶし」をすることがどうしてもできなかった。(だから暇つぶしだってば!とリュヤーは言っていた。推理小説と一緒にアラジンの店で買ったピスタチオを貪りながら。)一度、作者自身も殺人者が誰なのか知らないまま書かれた推理小説があったら一読に値するかも、とリュヤーに言ってみたことがあった。そうすれば舞台装置と登場人物は、一切を知悉している作家の無理強いにより、手がかり、あるいは偽の手がかりの衣を纏うことはないし、少なくとも推理小説は作家の妄想ではなく、現実生活で起こることを真似つつ小説として成立可能だろう。ガーリップより読書という行為に長けたリュヤーは、その小説における細部描写の豊饒さに対し、どう限界を設けるかという点を問題にした。この種の小説においてディテールは常に只一つの目的を示すものなのだそうだ。>オルハン・パムク鈴木麻矢訳「黒い本」P71~72より

今まで、ガーリップのように、推理小説の登場人物を、作家の無理強いとみたことはなかった。なるほど、こういうう見方もあるのあったんですねー


ただ普通の小説でも 推理小説でなくても、 現実生活にありそうな細部をどの程度までに脚色して登場人物とするかは、作者冥利のような気もします。

最近は(推理)小説の劇画化というのでしょうか、視覚的な表現重視と激情&スピード志向のプロットが多く、このために登場人物も 性格や心の動きの一部のみが強大化したものとなっているような気がします。 現実離れした人たちの登場は 確かに 話をおとぎ話にしてしまう。

我々が想像できる 登場人物が、プロファイリングが、あって、初めて作者の作品への思いが 理解できる とも言えますね。
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