キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

魯山人の孤独

2020年01月31日 | Weblog
二日間春の日差しと高い気温で湘南らしい冬の天気だった。
冬至から日差しがぐんぐん強くなってくるが、月が開ければ節分で春になるわけだから,、気温は低くても光は既に春ってことだもんなあ、光に感応する生物にとって体内のホルモン分泌も変わり基本的には生殖活動が活発になるわけだから、それが抑圧されている人間にとっても今までとは違う感覚が芽生える。
ジジイが余り生殖活動に積極的になることは世間様が許さないのだが、ひそかにオネエチャンが発散するフェロモンに感応して回春効果をあげるくらいのことはしたいなあ。

昨日は午前中弟と待ち合わせて母を入れる施設へ出向き契約を行った。
渋沢の山際の畑のところに立つ施設で良さそうだと思い決めたが、入ってみない事にはいいか悪いかは分からない、施設の評価もさることながら、本人との相性や担当者が合うかどうかといった事が大きいと思うが、今こういった施設は混んでいて選り好みをしている場合ではない。
今日から入所できるのでほっとしている。

帰りに昼を喰おうと弟が知っているトンカツ屋に行ったら木曜定休で、近所に人気のパン屋があるというので見に行った。
外にテーブルがあり食べられるようになっていたので、コロッケサンドとソーセージサンドを買って食べた。
珈琲は美味くはないがフリーで、人懐っこい雀がやって来てパンくずを食べるので面白く、日差しが温かく、パンはすごく美味いって程ではないがまあまあ美味くていい時間を過ごした。
弟がこれが売りだという薩摩芋と大納言のロールを土産に買って夕方食べたが、ふわっとした感じで美味かった。

最近苦手な事務的なことをやっているが、ここ数か月見かけていない実印と母の診察予約が何処に在るのか分からず気になっていたので探してみた。
母の予約券は平塚市民病院に関する書類の中にきちんと保管されていて、我ながらきっちりした性格で流石だなあと感動した。
まあ、このくらい当たり前なんだけどね。
実印は銀行印を兼ねており、通帳と離して保管しなきゃと思いどこか別のところに入れたのだが、何のことはない書類入れの抽斗の3段目に入っていた。
この印鑑は輸出入サービスセンターにいたころ、総務部長を自称していたK氏が僕の書類を作成するときに印鑑が必要となり、文房具屋で買った高くても数百円の三文判である。
このK氏は九州帝大を出ているが、雄大で可笑しな性格、風貌怪異、じつに個性的な人だったが、書類作成した後不要になった印鑑を僕にくれ、楽天的で雄大稀有な人柄に肖ろうと実印にして顕彰したわけだ。
カネに困ったことが無いのもK氏のご利益に拠るところ大なんだろうなあ。
長く生きたが、その後K氏のような人に出会ったことが無く、神様がいるとしたらK氏のような人だろうなと思っている。

失せものが直ぐに見つかったので流石僕と自画自賛していたが、ものが失せるのは家の中が散らかっていて一向に整理整頓がなされていないからで、退職して4年目を迎えようとしているので、幾らなんでも猶予期間は終わった。
5度目くらいになるが、今度こそと事に当たる覚悟をしている。

夕方、大磯方面へ散歩に出かけ入念なストレッチとゆっくりした筋力トレを行った。
5時過ぎまで明るいのでのんびりと散歩して帰ってきたら、直ぐに晩飯だと言われた。
飲み過ぎで調子が悪いので酒を控えて食べたが、味気ないもので20分ほどで晩飯が終わった。
牡蛎汁、ブロッコリー、鰤の塩焼き。

母の居間でTVを観た。
「ラストトキョー」この番組は以前に観たような気がする。
歌舞伎町を自転車で疾走するタイガーマスク、妙な俳句集団、花園神社の劇団、パチンコ屋を3軒持っているオバサンが出てくる。
俳句は「赤い羽根 その胸推定 Fカップ」といった作風の人たちの集まりで素晴らしい。
演劇集団は舞台を自分たちで組み立て、こっちが本職だから実に鮮やかな仕事ぶりだ、1年に一度稽古も含めて花園神社を借りて演劇を行って、それぞれの工事現場に戻り一年後にまた集まる。
ビルが立ち並ぶ大都市新宿に人間が蠢いている姿をドキュメントした番組で面白いんだなあ。

9時からは観たいと思っていた「プロファイラー」北大路魯山人、司会の岡田准一が余り頭が良くないのにかっこつけるから嫌いで普段は観ないのだが、魯山人をやるので観た。
相変わらず岡田はかっこつけて底が浅いから観るに堪えなかったが、もう少し自然体でいたらいいのにねえ。
審美眼を身に付けるには若い頃から美しいものに囲まれていることが唯一の方法だと思うが、そんなことをやっていると人に疎まれるし、美に向き合うには凡人と妥協する訳にいかないから嫌われる。
孤高の世界で孤独に一生を過ごすのが宿命だが、美しいものが慰めてくれるんだろうねえ。
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1991年の坂井泉水

2020年01月30日 | Weblog
坂井泉水が1991年にラジオに出演した時の音声を聴いた。
長く話したのを聴くことは珍しいが、多分人見知りのせいで話しにくいんだろうね、この時はデヴューした年の11月で、ラジオのパーソナリティが同じ事務所ビーイングのB'sのギタリスト松本孝弘だったのでぺらぺらと話せたのだろう。
恋愛の詩が多いけど、詩は実体験ですかと松本が訊いたら、半分くらいと答えていたから、純情路線でのスタートではなかったんだ。
去年ラグビーで俄ファンというのが一躍注目されたが、何がきっけかけか忘れたが、坂井泉水を聴きだしたのは1年半前のことで、実際に彼女が一番活躍していた90年代には意識して観たことも聴いたこともなく、流行っていたから町のどこかで聴いたことがある程度の事で、俄ファンそのもの、昔の映像や音源が当時を偲ぶ縁なのだ。
だから世間でどのように受け止められていたかを全然知らない。

短大二年の時から2年間湘南のアパートで同棲していたとの事だから、その恋はプラトニックなものではなく、その後のレースクイーンで披露したハイレグ姿やセミヌードの写真集の色っぽさが了解される。

恋愛の歌なんだけど不倫の詩が結構あるね? 
毎日ご飯でお味噌汁を食べてるのに、男の人は中華やフランス料理を食べたくなるでしょ、女は競馬馬だから前しか観ない。
中華料理食べたいと言われたら?
もう一品おかずを増やして、自分をブラッシュアップする。

デヴューした24歳にして男の本質をこれだけ理解していたんだなあ。
僕がほかの女を好きになったらどうすると聞いたら、なすすべがないから諦めるといったガールフレンドがいたが、もう一品おかずを作って駄目なら、自分を磨いて見返してやるって方向に行くしかないんだよなあ。
東映のカラオケクイーンや日清カップヌードルのレーシングチームのレースクイーンは本来やりたい仕事ではなく、歌手になりたいという強い希望を持っていた。
「踊るぽんぽこりん」で一躍スターになったBBクイーンのバックコーラスのオーディションに出て不採用になったが、歌が上手いので、ビーイングの社長長戸大幸がソロでデビューさせることにした。
楽曲は暗いブリティッシュロックで、そこに澄んだ声が乗った。
美人なので女性から反感をかわないように、美人に映っている写真は使わない、男っぽい地味な色の服を着る、化粧をしない、髪は洗いざらしなどと緻密な戦略を実行した。

恥ずかしがり屋で人見知りだから初めての人とはあまり話ができないが、気心の知れた人とは、あれだけの詩を書いたんだから言葉や表現に不自由はなく、かなりお喋りだったんじゃないかなと思っていたが、馴染みの松本孝弘との会話は滑らかで面白かった。

ひどく熱い一日になった。
昼に妻が買って来た東華軒の鯛めし弁当に、鮪の刺身とスナップエンドウを食べて、七沢の母のところへ行ったが、車の中が温室で暑くてたまらず窓を開けて走ったが、ほかの車も殆ど窓を開けていた。
エンジンも直ぐに温まり、燃費もℓ当たり30㎞近くまで直ぐになった。
母は一所懸命リハビリを行ったが、足の具合が思うようにならず、もう自力で移乗することはかなわず、家に帰れないことを悲観して死にたいと口走っていた。
もうずいぶん前から死にたいと言っているので驚かないが、今回はかなり真剣で、喉を詰まらせて窒息死を考えていると話していた。
膝から下の血管が一部消失して痺れと痛みが常にあるのが悩みの種であったが、麻痺が酷くなり安定して立つことができなくなったので車椅子から便器への移乗が難しくなった。
家にいるのが理想だが、24時間トイレの補助が必要になり、自宅介護ができない、今までは週2回デイサービスに行っていたが、施設にいて週1回昼に家に帰って来ることを愉しみにしてもらえないだろうか。

5時過ぎから栄螺の刺身、スナップエンドウ、金目煮つけ、チーズなどを肴に「菊正純米生酛辛口」をぬる燗にして妻を相手に呑んだ。
2合徳利で3,4本呑んで止めたが、ここの所飲み過ぎで母の部屋でうたた寝をした。
9時から鑑真の海南島から揚州までの旅を空から撮影して辿った番組があり面白く観た。
中国共産党が支配する今の支那はまったく酷いが、多くの部族がそれぞれの風土の中で伝統と文化を継承していた時代には魅力的なものが沢山あった。
漢民族の勢力が及ばない辺鄙な地域にそれが多くみられたと思うが、今はどうなんだろうなあ、辺鄙なところまで共産党員が配置され管理しているというから消え去ってしまったのだろうか。
でも、人間はしたたかだから、彼らから上手く隠れ、密かに村の伝統や慣習を維持して暮らしている人たちがいるのかもしれない。
空から眺めているとそういった空想が大きく広がる。

我がイナリヤト食文研のワインとビールはこちらからご覧になれます

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ダリア

2020年01月29日 | Weblog
今朝もまた二日酔いで爽やかな朝を迎えていない。
昨夜、妻と呑んでいたのだが、娘がダンナの手首の手術が終わり帰って来たのが7時半、ロケットの二段目が噴射し、そこからさらに呑んでしまったからだ。
娘のダンナは去年の大みそかに脚立から落ちて救急車で運ばれ、今年の頭にボルトで骨折箇所を固定する手術をしたが、先週そのボルトが出て来て再手術となった。
完全な医療ミスだ、骨にあけた穴より太いボルトを使ったのが原因らしいが、フィットしない異物があれば生体反応で押し出すのが当たり前だよなあ、ひでえ話だ。
本来であればこの日は、娘とお友達と伊勢佐木町でTJLを聴き、遅い昼飯を一緒に食べながら飲む予定だったんだけどねえ、娘の友達は大酒飲みが多いから昼酒を飲み過ぎて二日酔いだったかもしれない。
急に手術となったので、長崎から来ていた娘の友達は日曜日に家まで来てくれたらしい、新しい恋人がワイナリーの人だと聞いていたから、大いに興味があり話を聴きたかったが、生憎僕は友人の通夜で会えなかった。

食卓にはクラムチャウダ、ブロッコリー、中華おこわ、鮪の刺身と蛸、焼きチーズ、アボカドなどがあり、妻が大吟醸の4合瓶を買ったので、それを燗して呑んだが、アル添の大吟醸はどうもいけない、1,000円くらいで買ったと聞いたから、売らんがための大吟醸表示の酒だ。
美味くないと言いながらも3人で呑めばすぐに無くなり、麦焼酎のトゥワイスアップを燗して呑んだ。
いってみればこれはアル添のアルコールそのものだが、麦が原料なだけにその風味が少し反映されている。しかし、散歩の途中で買ったものだから持ちやすい紙パックの代物で、表示を見たらオーストラリア原産の麦となっていた。
安売り競争で単価の安い麦を使うんだよなあ、それでも酒と比べてスッキリとしてフルーティだった。
妻は僕が娘と飲むときに同席するのを嫌がり別室に消えてしまった。
「イッピン」で名古屋辺りの女性工芸家9人が源氏をモチーフにした異なる分野の作品を作るのを観ながらあれこれ話をし、5合ほど呑んだかな、9時ころ猫に餌をやらなきゃと帰っていった。

ダリアの育種をやっているオジイサンの番組の前宣伝を観ていて、在学中はまったく熱心さの無い学生だったが、園芸学部を出ているとこういったことがどうも気にかかるので、それが始まるまで「クロ現」を観て時間をつぶした。
ボーっと画面を眺めているのも詰まらないので、セラーへ行ってカルバドスを持ってきて舐めることにした。
元来ダリアなんて好きになれない花だったが、去年、吾妻山の巨大な紫の花が「皇帝ダリア」だと追い越していったオジサンに教わり、長年の疑問が解け、ダリアだったのかと思い少し見直した。
洋花はデーハーなんであまり好まないが薔薇は好きだ。
薔薇が銀座のホステスだとすれば、ダリアは場末のキャバレーの女だと思っていたが、こういった差別的な発言いけませんねえ、この72歳のオジイサンが作ったダイアは華やかだが気品があった。
現在の園芸品種の8割がこの人が育成したものだというから、この40年でダリアも大きく変わっているんだ、長く生きたが世の中の多くの事を観過ごしてきたなあ。
もう欲しいものが無いと言っていたが、カネも女も名誉もいらない人を篭絡することは難しく、扱いに困るというのは凡人の考えで、このオジイサンの頭の中はダリアだけで、幸せな時間が刻まれている。
こういった幸せな人の姿を観ていたら自ずと酒がすすみ、本来舐めていればいいカルバドスをブランデーグラスにたっぷり2杯飲んでいた。

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ワインの御利益

2020年01月28日 | Weblog
昨日は二日酔いで体調が悪く、午前中友人の告別式に行き、午後七沢の母のところへ行って退院の打ち合わせをして、帰って来たのが4時過ぎだったが、天気が悪かったせいで辺りは薄暗く、疲れていたせいもあり散歩もしなかった。
風呂に入り湯舟に長く浸かっていたらうとうとしてしまい、身体がやけに熱くなって目が覚めた。
酒を呑んでフルに入ることはないが、風呂でおぼれ死ぬこともあるらしいからちょっと気をつけなきゃいけないなあ。
古い友人の死で、ここの所本を読む気にならずTVを観てボーっとしているが、昨日も晩飯に海老とブロッコリーの中華風炒め、きりたんぽを食べて母の居間に移動してTVを観た。
酒を飲まなかったのにいつの間にかうとうとしていて気が付いたら10時だった。

NHKで証券会社を45歳で止めてCGのキャラクターデザイナーになった人の事をやっていた。
先日秋葉原の部品店の72時間を観たが、そこに集った人達と同じ匂いを感じた。
会社を辞めた時、証券会社のニューヨークの支店長で、奥さんと子供が二人いた。
最初は反対をしたものの結局ダンナの決断を認めた奥さんが偉い、男は誰も夢を持っているが金銭的な事や家族、特に女房に何か言われるのに弱いから、その夢を封印して詰まらないサラリーマン生活を続け、家にカネを持ってくるのは当たり前と大して感謝もされず、粗大ごみとなって死んでゆくものだ。
仮に夢を追っても成功する確率なんて低いから諦めてしまうのだが、この人の場合会社を辞めてから7年後に望むところに到達したから本人の努力も凄いが運が良かった。
もともとハンサムな顔立ちの人だったが、すごくいい顔をしていたなあ。
毎日会社へ行くのが楽しいと言っていたから良き人生を歩んでいる。

我が身を振り返ると自分から面白いと思ってやったのは釣りで、40歳から5年間くらいは熱中したが、職業にしようと思ったことはなかった。
1981年にハワイ駐在になり、マウイ島のパイナップルワイン「マウイブラン」を取り扱ったが、多くの取扱商品の一つで取り立ててワインが好きという訳でもなかった。
その後も何種類かのワインを輸入していたが、1989年にパリのヒルトンホテルで行われたワイン展示会に参加して、シャトー・ダレムのブリジットと知り合い、その足でフロンサックのシャトーまで行ったのがワインにのめり込む契機になった。
大学は園芸学部で柑橘の発根についての研究をしたが、ブドウの栽培と醸造の一般的なことを知っていたのと、オヤジの酒飲みが遺伝して酒が好きだったことがワインに傾斜していった理由なのかもしれない。
当時ANAとJALが乗務員にソムリエの資格を取ることを奨励していたので、今はCAと言っているが当時はスッチーと言って、若くて知的で美人の子が揃っていて華やかで艶やかだった。
この子たちが資格を取るために熱心に接近してきたから、ワインの肉感的なところと女の肉感が重なり、夢のような世界が現出し愉しかったねえ、これもワインの御利益だった。
今では航空会社のプログラムの中にソムリエの資格取得が含まれているのか、彼女たちが外へ出てくるのを見かけない。

亡くなった友人と退職後一休みしたら湘南の業務店と伊豆箱根のホテルと旅館に、今までのようにあくせくしないでゆったりと隠居仕事としてワインを売りに行こうと話していたのだが実現しなかった。
車にワインを積んで所謂引き売りで旅館を訪ね、時分になればそこに泊まり、温泉に浸かって、翌朝先を目指すって算段で、交通費と宿泊代が出れば御の字の商いをしたかったんだよなあ。
その時酒好きの相方がいると居ないのとでは愉しさや充実度が違う。
40年近く付き合った友人に替わりはいない、あまりにも早く友人を失うのは不幸なことだよなあ。



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通夜と告別式

2020年01月27日 | Weblog
昨日は鴨宮で友人の通夜があり出かけて来た。
4か月前まで働いていたので急な死の感じが否めず本当の不在による悲しみが未だ感じられない。
肉体は部分によって死の訪れが異なるというが、不在による死の受容のほうがタイムラグが大きいと思う。
前職だったホテルの関係者も20名ほどみえて、特に親しかったSさんは埼玉から見え、しかも足が不自由だったが、新宿ライナーの最終の19:47まで残ってもらい話をした。
僕も30年前に都内で何度か飲み、10数年前のボージョレ・ヌーボーのパーティに来てくれた時に会って以来だった。
友人が死をもって会わしてくれるんだなあと話したが、年を取るとそういった機会しかないのが悲しいが、それもやがて無くなる。
かつての部下と鴨宮駅前の居酒屋で故人を偲んで飲んだ。
家に帰ってからも2時間ばかり飲み、1時に寝たので今朝はすっかり二日酔いだった。
翌日辛いのは分かっているが、親しい人の死に際しては飲まずにいられない。

故人の家族のから、家では一切外の話をしなかったのでどんな様子だったか知りたいと言われ、6時に起きて1983年の出会いからの37年間の出来事を書いて持参した。
昨秋、イナリヤトのワイン試飲会に体調不良で来られなかったので、霊前に供えてもらうようディエゴの白「木」も持った。
出棺を見送り、参列してくれたかつての部下二人と帰った。

昼過ぎに家に着き妻が作った餡かけ炒飯と卵スープを食べた。
炒飯はあんかけにしないほうがいいし、餡掛けは白い飯に掛け中華丼にしたほうがいい。

二日酔いと寝不足だったが、七沢の相談員のSさんと母の退院についての打ち合わせがあったので出かけた。
事務所で保険の証明書を依頼したら11,000円もしたので吃驚した。
二階の母の病室へ行くとリハビリ中で、呉のオネエサンがやってくれていた。
足の指を伸ばすのと足首の関節を柔らかくするやり方を見ながら教えてもらった。
Sさんとの退院の打ち合わせでは、当日は昼を食べて12:30に出発し渋沢の施設へ向かうことにした。
大体この辺りは親切で丁寧な運転をするひと多いんだけど、今日は来るときには後ろにぴったりへばりついていた車がいて、帰りは中央線をはみ出してカーブを猛スピードで曲がってくるやつがいた。
少しでかい丈夫な車に乗っていたらぶつけてやりたいくらいだったね。

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骨董市で磁器を買う

2020年01月26日 | Weblog
二週間前から二宮では菜の花ウォークと称して、吾妻山の菜の花を中心として町の名所を巡るスタンプラリーをやっていて、各所でイベントをやっているが、曽我五郎十郎の姉所縁の知足寺で吊るし雛を展示していて、観光客が集まる。
その門前で金継ぎのKさんが個人的に骨董市を開いて、江戸明治大正期の磁器を中心に見世を出しているので妻と10時に現地待ち合わせで出かけた。
僕は9時半にJAへ向かいその足で行ったが、段ボールから新聞紙にくるんだ磁器を出すのに時間が掛かっていて、10時にはまだ三分の一程度しか展示できておらず、出直すことにした。

一先ず家に帰り、野菜を下ろして、次の待ち合わせ時間11:50を決めて下の息子と散歩に出かけた。
穏やかな天気だったので海に出て相模湾を眺めることにしたが、波も穏やかで気分が良かった。
例年この時期にはコノシロが接岸し、それを追って鰤が来るのを狙いルアーマンが多いが、10人ほどいた。
1人に釣果を聴いてみるとこの日は駄目で、前日大磯で平目が揚がった由、54㎝だったらしい。
梅沢の手前の階段から上がり、駅を渡って知足寺へ向かったが、到着が少し早かったので萩本欽一の家のほうを回り曽我兄弟の墓の前を通り、知足寺の階段から降りると、妻が歩いてくるのに出くわした。
漆塗りの小皿5枚、江戸末期から明治期の小皿5枚、ひし形とその変形の皿2枚、蕎麦猪口3個、皿と鉢の中間的なものを3枚買った。

昼は朝から妻が牡蛎ご飯を作ると張り切っていて、タップリ牡蛎が入った原価率の高い飯だったが、酒を入れるのを忘れたらしく味はいまいちだった。
炊き込みご飯をやる時の酒の役割はかなり重要で、独特の風味と味に奥行きをもたらす、特に塩味の繊細な栗ご飯とか豆ご飯では決定的な役割を果たす。
豆腐と若芽の味噌汁、白菜漬け、葉山葵漬け、ジャコ山椒で食べた。
白菜は僕の作で、山葵とジャコは妻の作なので、それぞれ自分が作ったもののほうが合うと言いあっていたが、当然余り説得力はなく、多分牡蠣飯には海苔が一番合うんじゃないかなあ。

七沢の母のところへ行ったら、川崎の系列の病院から整形の医者が来て、母の足の指を診てくれていた。
足首から下がかなり麻痺しているので、指の下に補助具を入れてテーピングをして、その部分を上に吊り上げるようにテーピングをすることを少しやってみるが、現状維持ができるかどうかで、このまま悪化すると指の切断もあり得るので、指の裏側の腱を切断して指を延ばすことを提案された。
膝から下の血管が幾つか消失していて痛みと痺れがあり、人には分からないよと言っていたが、血が通わなければ機能が消失するってことだ。
父が亡くなる前にも足の機能が衰えて、指が丸まり、足の甲で歩くような傾向にあったが、入院中に担当の子が熱心にリハビリのマッサージをしてくれて踵が直角に曲がり指が伸びたので驚いた。
すらっと背の高い美人で父に良くしてくれた、父は何故か動物と美人に好かれたなあ。
次の施設ではリハビリが1単位1日20分だから、七沢のリハビリのオネエチャンコンビに教えてもらったストレッチとマッサージをやってやろうと思っている。
七沢までは小一時間かかっていたが、渋沢までは30分以内で行けるので、運転時間をマッサージに使える。

弟のところへ寄り、今の状況では家で介護をするまで回復する可能性が薄いことなど、母の状況と今後の事について話をして帰って来た。
正代の取り組みに間に合わずビデオを観たが、徳勝龍の勢いが凄い、前頭17枚目でしかも高齢、誰も優勝を予想したものはおらず優勝すれば快挙だ。

晩飯は僕が通夜で家にいないと思った妻が、楽をしようと飯を作らずSMで出来合いの鮨、鉄火巻、太巻、バッテラと鮪の盛り合わせの刺身を買って来て、自作の料理はクリームシチューと豚肉の赤ワイン漬けのグリルがあったのみだった。
麦焼酎のトゥワイスアップをチロリに入れストーブの上で燗をして呑んだが、昨日も思ったが、これが存外美味くて5杯飲んでしまった。
お蔭で母の居間に移動してTVを観ようと思ったがうたた寝をした。
本来焼酎は割り水をして1週間くらい経たないと馴染まないのだが、そんなの待っていられない。
酒の燗が美味いと感じていたが、最近べたべたして重く感じ気分転換に呑んでいる。
ホワイトリカーを飲むようになったらアル中も最終段階だと、ハワイにいたころ向こうのやつらに言われた。
そして朝から飲むようになったら終わりだと聞いた。





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親の結婚記念日

2020年01月25日 | Weblog
色々な事が一遍に起こって、隠居してから一番忙しいかもしれないなあ。
友人から頼まれていたブドウ園の設計については、ワインを飲むほうが専門なので、大学時代の同級生で実際にブドウ栽培とワイン醸造に携わっていたやつに頼んだが、資料を集めるのに時間がかかっているのだろう、まだ何も言ってこない。
ネットで調べても中々いい資料が出てこなかったが北海道農政局にいい資料があったので印刷してじっくりと読んでみた。
そうこうしているうちに母の次なる施設から受け入れがOKとなり、ベッドも空いたので来週入所してくれとの連絡があり慌てた。
七沢の入院の期限が来月10日だったが、ベッドが空くと直ぐに入らないと埋まってしまうとので、そこまで待っていられないとのことで担当者が確保してくれたのだ。
弟が今日七沢へ行くことになっているので、移動の打ち合わせを頼む電話をして10分ばかり話した。
日曜日には友人の通夜があり、何しろ35年の長き付き合いで、しかも後半はかなりの密度で顔を合わせていたから家族より長い間一緒に居たのかもしれず、縁が深い人なので、翌日の告別式にも出ることにしている。

ところで今日は1月25日で昭和29年のこの日父と母が結婚式を挙げた。
暮れに見合いをしてこのお日がお互い顔を合わせるのが二度目だと云うから乱暴な話だが、その頃の結婚はそんなものだったようだ。
僕は昭和61年夏見見合いをして62年の春に結婚式を挙げたが、婚約は秋で、それまで数回デートをし、その後は旅行に行ったりしたので大体人となりを分かっていたつもりだったが、蓋を開けてみると全く違ってたから結果として父母の結婚とあまり変わらない。
この誤解を生まないためには結婚する前に1年くらい同棲してみるのがいいが、その期間があまり長いとドーパミンの分泌が無くなり飽きてしまう、短かからず長すぎずというタイミングが難しい。
式はこの家で上げ粗宴で祝ったらしい、その日は雪が降っていたとのことで皆さん来るのに往生したらしい、その後湯河原へ新婚旅行へ行った。
父は7年前に他界したが、それまでは何となくこの日を祝っていた。
母が肴に刺身を一品多く出し、何時もよりウイスキーの水割りを1,2杯多く飲んでいた程度の事だったが、結婚なんて上手くいっているのかいってないのか良く分からない訳だから、大げさにしないで、それくらいがちょうどいい。

昨日の昼は妻がカレーを食べ、僕は朝カレーだったのでおでんを食べた。
プレシネは1940年の「ForeignForeign Coreupondent」で、期待していたが面白かった。
第二次世界大戦前夜のロンドンが舞台で、主人公はアメリカの新聞社の記者で平和運動家やスパイが絡む物語、その当時の混沌とした感じが良かったなあ。
戦前戦中の上海のような混沌と相通ずる雑駁な魅力があった。

大磯方面へ散歩に出て、葬儀屋の社長と会い長く話をした。
相撲は炎鵬が足取りで阿炎を高く持ち上げたので吃驚したが観客も大歓声だった。

晩飯は鯖の味噌煮、スティクブロッコリー、おでんなどに麦焼酎をトゥワイスアップにしたのを燗で呑んだが、これがじつに良くチロリで4杯呑んだので眠くなり二階に上がり10時のドラマまで眠ることにした。
「ハムラアキラ シシド・カフカ」はまあ面白かったが、その後の「ドキュメント72時間 秋葉原」がたまらなくよかったなあ。
10万点の部品を販売する店にやってくる人を映したものだったが、日本の技術を支えているのはここへやってくるオタクの人達であることが、これを観ているだけで納得でき、ものを作る情熱とカネに対する無欲が日本人の本質にあることが分かった。
ただし、最近はこういった店が減り、フィギアショップなどが増えていることを危惧している人がいたが、僕が若い頃の秋葉原はこういった部品ショップばかりだった。
僕自身は機械音痴で電気が通っているものは特に苦手なので、抵抗器などを買っている人を見ると羨ましいなあと思う。
その後、「女子高生の無駄使い」を観たが、これもすごく面白かった。
女子高生3人が主人公のところは「映像研に手を出すな」とキャラ構成もそっくりで、近頃の漫画アニメはこういった小さな共同体の日常を描くものが多いと「文化亡国論」に書かれていたが、なるほどと頷ける。
人気漫画が去年アニメになり、今回ドラマになったらしいが、面白いドラマの原作はやっぱり漫画かと、漫画のレベルの高さにただただ驚いている。
作者は富山県出身の女性漫画家ビーノだが、これだけギャグを連発する才能は凄いとしか言いようがない。
「透明なゆりかご」の沖田×華も富山県出身の女性漫画家だけど、あのあたりには優秀な漫画家を輩出する何かがあるのだろうか、探ってみる価値があるよな。
「女子高生の無駄使い」を熟読玩味した人は、明らかに僕とは違う感性を持った面白い人になるだろうなと思う。
学校教育で個性を伸ばすなんて馬鹿なことを指針に掲げているが、取り立ててそんなことを言わなくとも、これ読んでおけよで十分個性的で面白い人が生まれるんじゃないかなあ。

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仕事ロス

2020年01月24日 | Weblog
雨の一日だった。
一番困るのは運動が出来ないことで、健康状態がいいのかどんどん太るから3日も雨が降ればパンパンになってっしまうので、陰鬱だとか寒いといった問題だけではないのだ。
少し小止みになっているかと思って帽子をかぶりレインコートを着てJA湘南へ行こうと思ったが外へ出てみると思ったより雨が強くて諦めた。
仕方が無いので午前中は確定申告の下準備をしていたが、連日やっていると飽きる。

昼は寒いので鍋焼きうどんにした。
妻がきちんと出汁を取ったのでかなりいい鍋になり美味かった。
饂飩と麩が小麦、油揚げと湯葉が大豆、肉と卵が鶏、葱とシメジが野菜、柚子と唐辛子が薬味といった組み合わせなんだなあ。
それに残っていた餅を焼いて入れたらかなり腹がくちくなったが、シュークリームとどら焼きを喰ってしまった。

車で七沢まで行ったが、雨なのに思ったより空いていた。
母は別室で足の治療をするとかで、20分ほど話をして別れた。
帰りも空いていて早く家に着いたが、母が移る次の施設の事で調べ物をしているうちに5時になり、慌てて相撲を観た。
炎鵬の下手投げが芸術的だった。
高安に右上手を取られ、左下手をタテみつより深く差し、右で前みつを取り投げながら左下手を抜いた。
小兵は頭を使わないと生きて行けないが、それにしてもこれだけ身体が違う相手を投げ捨てるんだから、観ているほうは痛快だ。

相撲が終わったら母の居間に妻が来て晩飯のおでんが出来ているというので、台所へ行き、残り少ない「高砂純米」を仲よく妻と分けて飲んだ。
おしつけ(アブラボウズ)の刺身があり、これは下の息子の好物なので3切れほど食べて譲った。
酢蛸もあったがこれは妻の好物なので一切れ食べて譲った。
酒は大きめのぐい呑みに一杯しかなく、麦焼酎に変えて飲んだ、妻はティーチャーズの湯割だったねえ。

かくして一日が終わってしまったが、暇を持て余しているってことはなく、仕事ロスというのが良く分からないでいる。
多分、仕事をやっていた頃も仕事が好きなわけじゃなく、隙あらば遊ぼうと思っていたのが良かったんじゃないかなあ、それでも結果を求められるから短い時間で仕事をやっつけようと懸命になるからね。
仕事ロスが問題なのは、一日に11時間自由な時間があり、365日20年間で8万時間があるってことなんだけど、確かに60以降気力体力知力は衰えるが、これだけ膨大な自由時間があれば今までとは違う何者にかなれるってことでしょう。
暇を持て余している暇なんてないんじゃないのかな。

昨夜は遅くなって「文化亡国論」を読みだし、上の息子が零時前に帰ってきたので、寝るのが遅くなり、夜の風呂に入る時間が無くなってしまった。
そんな訳で今朝は起きて直ぐに風呂に入り、昨日から妻がひそかに作っていたカレール―を温め、白菜を出して朝飯にした。
昼に食べようと思って作っておいたのにと妻がガタガタ言っていた。
肉と人参ジャガイモを入れて完成するらしいが、既に挽肉がたっぷり入っていて玉葱と良く煮込んでありキーマカレーとして美味かったなあ。
量が少なくなってしまったので、あなたは昼おでんを食べてくださいと言われたが、残ったルーは10皿分は優にあり、一体どれだけ食べようとしているのだろう。

数日前から隣の6畳から母の居間にPCを持ってきて、暖房を点け、CDを聴きながら作業をしているが快適である。
元来父母が建てた家なので、父亡き後1階の6畳二間と8畳を母が使っていて、8畳には介護ベッド入っていて使いようが無いが、隣の6畳と居間を使っている。
二階の僕の書斎兼寝室は12畳あるのだが何しろ本に侵略されていて歩くのがやっとという惨状だから、久し振りに本来の部屋にいる感じがして嬉しい。

今朝も曇り空で晴れそうも無いが雨が降っていないので三日ぶりにJA湘南へ出かけようと思う。
朝の30分のサイクリングと午後の1時間の散歩は欠かせないからね。


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最終電車鴨宮グループ

2020年01月23日 | Weblog
大きなホテルチェーンのソムリエやバーテンダーをやった人で、僕が経営していたワインの会社も手伝ってくれた古い友人Yが亡くなった。
朝、突然奥様から電話があり、ひどく驚きがっかりした。
去年の9月迄現役でホテルなどへワインを販売していたのだが、退職してから慰労の会をやろうと誘ったら、あまり具合が良くないので、良くなったらと待っていたのだが、まさか亡くなるとは思わなかった。
僕も退職した後は環境が急に変わり慣れるまで体調が悪かったが、何れ慣れて良くなるだろうと軽く考えていた。
今から35年以上前、惚れていた女と結婚できず、毎晩野毛辺りを酒を呑んで徘徊していた頃、横浜発0時23分小田原往き最終電車15両目で、何時もお会いし親しくなった仕切り役のバンマスのHさんの紹介で、東京から乗ってくるYと知り合った。
その後、新宿のホテルのバーへ度々呑みに行ったし、妻を連れてメインダイニングのフレンチにも行き、妻も僕もそれぞれ大学時代のOB会をやらせてもらった。
僕の会社に来てもらってからは、客先に行った帰りに時々飲んだ。
最後に飲んだのは茅ケ崎で、馴染みの店を5軒梯子した。

家に行ったことはなく、住所を調べて車で出かけようとしたら妻も顔を見ておきたいというので二人で出かけた。
線香をあげ、額に触れたらやけに冷たかったので死んだんだなあと実感した。
10年位前に心臓が悪くなり深刻な状況を名医に助けられ、一度死んだものと思っていた節があり、身体を気遣いながらも真摯に生きたと思うのでよしと思いたい。
しかし、68歳はいかにも若く、数年は小田原から湘南にかけて二人で遊びたかった。
最終列車の鴨宮グループは、ピアニストのTさん、バンマスのHさん、そしてホテルマンのYと3人とも鬼籍に入ってしまった、哀しい。

昼は家でパンケーキとソーセージを焼いて食べた。
牛乳が切れていたので卵を増量して作ったが美味くなかった、レシピ通りに作るのが一番美味いようにメーカーが研究してあるのだろう。
ふっくらと焼く秘訣を最近TVで観たのだか、一体何をどうやるのかさっぱり思いだせない、切実でないことはすぐに忘れる。

プレシネは期待していた「パリの屋根の下」だったが、思ったほど面白くなかった。
それでも昔のパリの街角の様子が偲ばれたのが良かった。
ラザール・メールソンがスタジオに再現したパリの街並みだが、人間現実のものに縛られるから、かなり当時のパリの雰囲気が再現されていることと思う。
主人公が街角で歌いその楽譜を1フランで売っていたが、当時はそんな商売が成り立っていたんだねえ、今では思いもよらないが、すっかり文明の利器に毒されてしまった。
最後のシーンで主人公とその友達が往きつけの店でルーマニア人の女を取り合うが、その店の名前が「Maison Imaque」最低の家というバーで、監督のルネ・クレールはこれを映したかったんだろうなあと思われるカメラワークだった。

大磯方面に散歩に行き、何時もの公園で前日の女の子たちより少し上の女の子たち3人に会った。
やはり、帰りがけに見送りを受けた。
相撲は炎鵬のとったりを観ていい気分だったな、前日はあまり変わらない身長の貴景勝に苦戦したが、相手が大きいほうが左右に変わり下に潜れるので相撲になる。

晩飯は太刀魚の煮つけ、鶏の手羽先のトマトソース、スティクブロッコリー、ひじき煮、もつと大根人参蒟蒻煮だったので、イナリヤトのワイン、太刀魚と鶏に合わせポルトガルの赤を開けて飲んだ。
何故か妻も飲んだがグラス2杯で止めた。
でも、今朝台所に降りたらウイスキーの湯割を飲んだ形跡があったので、最初から二度飲みをして温まって寝る予定だったのだろう。
ワインを3杯呑んで麦焼酎に柑橘を絞り入れて飲み、同じのを持って母の居間に移動して音楽を聴いて少し眠った。
酔った時に少し眠るのは実に心地よい。
10時ころ起きて確定申告の準備のために医療費の整理をした。
ざっと45万だから、35万が控除される。




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梅の花

2020年01月22日 | Weblog
一昨日、郵便局の裏へ回って梅林を観たら、南西の木が一本だけ開花していて、今年初めての梅花を眺めることができた。
思わず何枚か写真に収めた。
北へ向かう散歩のルートにはたくさん梅があるのだが、こんなところですでにかなり咲いているとは灯台下暗しだった。
なーんだって感じだったけど、毎年この辺りで一番早く咲く高来神社の近くの梅園の一番開花の早い木が枯れてしまい、指標を失くしてしまったのがいけなかったね。
その花は大磯に住む友人が毎日その前を通って水泳に通っていたので、大体暮れの内に開花を知らせてくれ、すぐさま観に行ったものだが、3年前に友人が引っ越し、2年前に木が枯れてしまった。
観てくれる人を失い生きる気力がなくなったのかと因縁を感じた。
来シーズンからはこの郵便局裏の梅林の梅を気にすることにしよう。

10年ほど前から大磯の友人とはいつも連れ立って2月に湯河原の幕山の梅林に出かけ、園内の屋台でおでんと熱燗、地元の焼き物の猪口を買い酒を酌み交わし、帰りに湯河原の街でさらに杯を重ねたものだが、その内曽我の梅林のほうが早く咲くので、そちらへ弁当と酒を持って出かけるようになった。
観梅で酒を呑み、桜を愛でて酒を呑み、紫陽花の季節には鎌倉で酒を呑みと、日本は花にかこつけて酒を呑める実に豊かな国で、せっかくの豊かさを享受するにはキチンと花を愛で酒を呑みに出かけなければいけない。
今年は梅が遅れているが、月が替われば流石に曽我の梅も咲くだろうから、そろそろ出かける準備をしなきゃいけない。

昨日は何時ものようにJA湘南へ自転車で出かけスティクブロッコリーと蕪を買った。
この二日間ペダルをこぐ脚が快調で何だか若返ったような気がしている。
酒を控えているわけではないが、妻がむやみな肉買いを止め食い物が魚と野菜に偏って来たからだろうか、
妻の血液検査の結果は来月通院するときに分かるらしいが、少し悪いほうがいいねえ、これで問題がないとまた肉を中心とした高カロリーで濃い味の食事になってしまうからね。

妻と下の息子が病院へ行ったので、一人で昼を食べたが、前夜の残りのクリームシチューにカレールーを入れウースターソースとカレースパイスを加えカレーにして食べた。
やけに甘いカレーだったが美味かった。
久し振りに甘酢漬けにしたらっきょうを納戸から出してきて食べてみたが、中々美味く漬かっている。
食後にお茶を淹れて羊羹を食べた。

プレシネは「MINNESOTA CLAY」1960年のマカロニウエスタン、ありふれた設定であったが、西部劇は中々このパターンから逸脱できないし、もし逸脱すると娯楽から外れてしまうので、結果が目に見えてる安心感で途中ワクワクさせる仕掛けでないと見放されてしまうってことだろうね。
寅さんのパターンも全く同じで結果が見えているのに観てしまうのは、安心感だからだろう。
してみると、山田洋次は西部劇の娯楽性を「男はつらいよ」で再現したということか、しかも48作も続けたわけで途中経過の面白さに気を配ったわけだ。
人の一生というのも最後は死だから結果は分かっているわけで、面白くするのもしないのも途中経過の妙にあるってわけか。

大磯方面へ散歩に出た。
最近さらに日が伸びて5時過ぎまで明るいが、相撲のいいところまでに帰ってこなければいけないので、早めに出かけているせいか公園で幼い女の子に良く会う。
この日も砂場で4人の女の子が遊んでいたが、その内2人を見知った顔だと思っていたら、オジサン前に会った事があるねと向こうから声をかけられた。
3、4歳の頃からこの社交性を発揮するのは女ならではで、今でこそ多少女が分かってきたが、男女共学という環境の中で男女平等という悪しき教育を受けたので、男と女の差が良く分からず長い間生きてきてしまった。
4人の女の子に盛大に見送られて公園を後にした。

相撲は正代が波に乗っていて強いね、横綱不在で豪栄道が最低な中、貴景勝が頑張っているが炎鵬人気に押され、悪役扱いだったような気がするなあ、ファンというのは移り気なもんだね。

晩飯は鰯の煮て焼いたのと、スパニッシュオムレツ、温豆腐だった。
散歩の帰りに買った麦焼酎の湯割りに近所でもらった柑橘を絞って飲んだ。

観たいTV番組が無く、音楽を聴きながら久々にまとまった読書をした。
丸谷才一の「人間的なアルファベット」をようやく読了したが、艶笑随筆だけあって度々吉行淳之介が助け舟のように登場してきた。
若い頃から吉行淳之介を好み、特にエッセイと対談が気軽に読め、しかも性の深淵について参考になる見解が開陳されていたので貪るように読んだなあ。
結局実生活では足しにならなかったが、女は怖いというメッセージだけはまともに受け止めたので、なるべく遠ざかっていた甲斐あってそんなに怖い目には会わなかった。

その後、途中まで読んでいた「文化亡国論」を読みだした。
2015年の出版なのでそのちょっと前のサブカルの様子が窺えて面白い。
話しの中心が漫画、アニメになるので、その分野に不案内で用語を調べながら読み進んでいるが、まったく知らない世界が展開されていたことを知るわけだから面白くない訳がない。
それでもマーケッティングの方面から「ソフトヤンキー」って概念は知ってたなあ、ヤンキーとオタクの交流点に日本の可能性を観ているけど、東京へ向かう地方のエリートと地方で生きるソフトヤンキーの乖離ってのは今始まった事じゃなく、明治のころからあったパターンで戦後その動きが最も大きくなったような気がする。
高卒が多いソフトヤンキーは一人では給料が少ないが、結婚して二人になるとやっていける、早い結婚と複数の子供を持つから、その部分じゃ日本を支える層で、貧乏人の子沢山を地で行っている。
ひきかえ東京に出てきたエリートは晩婚となり、激しい競争社会に晒され子供を作っている暇がない。
これはエリート層がじり貧になり、質も落ちて行くことを意味している。
二局分離格差拡大を是正するいい仕組みを考えないといけませんね。



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