函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

対米従属と天皇制

2022年01月20日 12時05分02秒 | えいこう語る
▼日本国憲法下で長い間生きてきて、国の基本秩序と言われる【憲法】が改正された時、どんな国に変貌し、どんな国民を目指さなければならないか、とても気になるこの頃だ。

▼気が付けば日本国憲法などほとんど読んでもいなかったし、もちろん中身も知らない。知らないままで改正されては「改正」なのか「改悪」なのか判断もできない。

▼そこで憲法の本を数冊購入した。定価は2000円ほどだが「ブック・オフ」では、まとめて購入しても、財布に負担はない。ノートのように赤ペンでチェックし、余白部分にも書き込んでいる。

▼戦争が終わり、戦争放棄の憲法になったのは大歓迎だ。だが、戦勝国の米国に、いまだに従属する国は“主権放棄”のようで異常にみえる。

▼特に【日米地位協定】など、奴隷の国の不平等協定ではないかと思う。さらに「天皇制」だ。天皇制があったため戦争に突入したのに、憲法が変わっても連続して生き続けるというのも、今更ながら“アンビリーバボー”だ。

▼戦前の天皇は【国体】そのものだった。だが戦後もその【国体】は、戦前とは色が変わったようだが【象徴】と名を変えて、生き続けている。

▼白井聡著「国体論」では【対米従属はある意味で存在しない。なぜならそれは、諸々の現実に対する“抽象”の先にしか見出され得ないものだから】だという。

▼そう言われれば政治家であろうと「対米従属」など望んでいないはずだ。ただ、米国に対し国民からは弱く見える言動が、従属しているのではないかと思われているのかもしれない。

▼“抽象”と言えば、物・事柄・概念の共通の属性を抜き出し、一般的な概念としてとらえることだという。そういえば【象徴】という概念も同じような存在ではないか。

▼「対米従属」や「天皇制=国体」なるものも、個人の解釈により、その内容は一律ではない。ということは【よくわからない】という、私の考えも許容されるのではないか。

▼ノーベル賞作家大江健三郎は【曖昧な日本の私】と基調講演をした。日本人の特徴は【曖昧】で成り立っているということだ。

▼【日本人は相手が何も知らないということを前提にして話をすることを、大変失礼なことと思っている。織田信長に厚遇を受けたポルトガル宣教師ルイス・フロイスが言うように、日本人が曖昧な言葉を好み、重んじるんというのは、相手がすでに何もかも充分に心得ている以上、はっきりとものを言う必要はないと考えるからであり、明確な言葉をことさらに使うのは、相手が何も知らないと、きめてかかるようなものと思っているからだ】。評論家・森本哲郎著「日本語の裏表」新潮社。

▼はっきりとものをいうのは【下品】なのだ。ということは【上品】とは“曖昧な表現”を言うことになる。日本語は“曖昧性”を“徳”としているということも、森本は述べている。

▼ということは、日本人として“曖昧であること”は【美徳】であり「それでいいのだ!」と考えてもいいようだ。

▼相手を「おもんばかる」のが“美徳”だとすれば、これが“忖度”につながる。大江健三郎の「曖昧な日本の私」というのは「曖昧さは日本人の美徳ではあるが、それを自分に都合がいいように解釈した時、大きな過ちを犯す」ということを言ったのではないかと、あらためて考えてみた。

▼天皇に“忖度”をするふりして勝手に行動する。かつての関東軍がそうであったように。それにコロナ戦争は、ワクチン接種で【同調圧力】が増してきているような気がする。

▼今日のテーマは「対米従属と天皇制」と一緒に設定したが、不確かなものに挑戦したため、やはり曖昧な内容になってしまった。

▼だが、この曖昧さが曖昧でなくなった時、次にやってくるのが【憲法改正】ではないかと、ふと一抹の不安を覚える、ドカ雪の朝だ。