「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

参院選 立候補者の定年

2019-06-30 04:51:40 | 2012・1・1

大阪サミットが終わったら次は参院選だが、昨日わが家の新聞折込に似は早くもスーパーの安売り広告に混じって公明党と日本維新の党の選挙”広告”が入ってきた。公明党は機関紙の号外名目の党首の写真入りの御あいさつ。日本維新の党は全国比例区と東京選挙区に立候補するらしい若者二人の写真入りの、これまた機関紙の号外だ。公選法には違反しないのだろうが、選挙目当ては明らかだ。毎回、選挙のたびに、この”号外”が入ってくるが果たして効果があるのだろうか。

僕が住む東京選挙区は公選法の改正で、今回から議員数が6人という大選挙区だ。激戦が予想されるが、一昔前のタレント議員、野末陳平氏(87〉が復活を狙って立候補するらしい、新聞に立候補の弁として”高齢者の声を反映したい。今の政治家は僕らの時代にくらえt劣化しているとあった。劣化しているかどうかはわからないが選挙の争点に、年金の”2000万円”の筋違いの解釈が与野党でなるようでは、野末氏に一票投じたくもなる。

 しかし、87歳という年齢はどうだろうか。自民党は比例区代表候補は70歳という内規があるそうだが、人生百歳時代、あまり若すぎる気もする。個人差はあるが、僕の体験では80歳を過ぎると心身共に弱ってくる。野末氏は医者の勧告を押しての立候補だそうだが、やはり、断念されたほうがよい。国会外”劣化”した政治家に叱咤激励したほうがよい。


八面六臂 大きく見えた大阪サミットの安倍総理

2019-06-29 05:52:54 | 2012・1・1

大阪G20サミットの開幕式から討議の模様を中継で見たが、議長国の安倍晋三総理の姿が”水をえた魚”、八面六臂の活躍で、実像より大きくみえた。開幕式前の集合写真では中央に座り、隣の大男のサウジの皇太子に引けを取らないし、会議場でのトランプ大統領と習近平総書記との間に挟まれた総理はまさに千両役者のように僕にはみえた。

安倍総理は2016年の伊勢志摩サミットも経験しているし、総理としての外遊回数保持者だけに国際外交はどうにいっている。夫人同伴で首脳を迎える姿は自然体だし,ハグの頃もぎこちなさがない。半世紀前の田中角栄、大平正芳総理の時代にはハグなど考えも及ばなかった。

11年前の2008年7月の福田康夫首相の時の洞爺サミットを思い出した。小ブログは”小さく見えた福田総理”と集合写真での総理の体格が他の首脳に比べて貧弱に見えたのを例えにして会議での存在感のなさを批判した。これに比べて安倍総理の存在感はどうか。

サミットは今日29日も続けられ、首脳宣言を採択し閉幕したが、まずは成功だった。安倍総理の来月の参院選にプラスになったのは確実であろう。政治運の強い方である。”乘っとけ、乗ってけ”で、しかし、おごらず日本丸の舵取りをお願いしたい。

 

 


七変化の花 ランタナ

2019-06-28 06:17:39 | 2012・1・1

今年の首都圏の梅雨は”梅雨”らしい。このところ、太陽は顔を見せず、うっとうしい日が続く。ブログの材料に困ってたら、老妻が庭の鉢植えのランタナが咲き始めたと写真を撮ってきてくれた。紫陽花(あじさい)と同じ梅雨時咲き、季節の歩みによって花の色を変化させるので、七変化の花というらしい。花言葉は合意、協力、確かなる計画性。

加齢と共に人間頑固になってくる。七変化の余地がなくなってきたのだろう。確かなる計画性といっても明日(あした)のことさえ計画が立てられない。ランタナの花の色の変化はすでに決まっているが、我が身はわからない。俗言だが、やはり”年はとりたくない”ものだ。けばけばしいランタナの花への妬みなのだろうか。やはり、老人には紫陽花のほうがよい。


宮城遥拝の言葉と意味ををしらないインドンア史料展

2019-06-27 04:55:16 | 2012・1・1

日本軍政期インドネシア史料展を総括するワークショップが昨日、立教大学図書館で,午前の部だけ参加、僅かな時間だが史料展を見せておらった。ワークショップの会場は平日、しかも英語使用なのに50人の席はいっぱい、関心の深さをうかがわせた。主催者の一人がスマトラでの労務者虐殺の虚報を流布したり、慰安婦問題を曲げて解釈しているだけに、僕は従軍世代の先人たちの"俺たちが死んだら奴らは何をしでかすか”という言葉もあり、杖をついての参加であった。

昨日の小ブログで、僕は問題は展示物の歴史解釈だと指摘、戦時中軍政下のことでも戦争中の銃後の生活が理解できないと誤解すると書いたが、やはり展示品の一つ、テデン(ジャワ〉の民間人収容所の人たちが宮城遥拝している絵にそれを感じた。敵性民間人(一般市民ではない)収容者は”俘虜”と言わないし、キャプションには、"義務づけられた天皇陛下への敬礼”とあるが、当時、宮城遥拝という儀式はあったが、陛下への敬礼という儀式はなかった。戦時下は毎月8日の大詔奉日には学校でも職場でも国旗掲揚、宮城遥拝はがセットで行われていて、”捕虜”にもあったのだろうが、一般市民ではない。

しかし、展示物は一級品であり会場では、当時日本で制作されたニュース映画が流れており、蘭印軍がカリジャテイ全面降伏した調印式などもな見られるが、会場が図書館の関係でサイレントなどは惜しい。そりょり、日本人の中で、カリジャティの名前を知っている者はどれだけいるだろうか。

 写真は天皇陛下への敬礼式、一般市民ではなく収容所の女性。インドネシアでの展示会「bedil & sakura」(銃砲と桜)パンフから。

 

 

 

 

 


問題は史料の歴史的解釈 インドネシア軍政展

2019-06-26 04:39:05 | 2012・1・1

立教大学で開催中のインドネシアにおける日本の史料展のワークショップで、僕も「大東亜戦争とインドネシア 日本の軍政」など著書もあり、半世紀以上ものインドネシア.オブザーバーの僕は共催の国際交流基金アジアセンターに対して”押しかけ“講師”を申し入れていたが、時間の都合でできないと断りのメールが入った。最初から期待はしていなかったが、せっかく準備していたので、一部を紹介してみよう。

すでに僕は共催の交流基金と在日大使館にアウトラインを提示してあるが、大切なの史料の時代的な解釈だと提案するつもりであった。一例として日本の一部の研究者の間では、インドネシアの独立宣言にある期日、17-8-05(皇紀2605年)を取り上げ、インドネシアの独立は日本の完全支配下で行われたと説明しているが、それは誤りであると、昭和19年の「ジャワ年鑑」(復刻版)をみて、表紙に「年四百六千元紀」と書いてあるように皇紀が一般化していたことを紹介するつもりであった。

一事が万事、戦後生まれの日本人には、銃後の生活が理解できないと、軍政下の生活も分からず、誤解を呼ぶのではないだろうか。戦前は宮城遥拝、日の丸掲揚、隣組などは日常的な行事であり、組織であった。戦後20年、1966年、僕がジャカルタに常駐していた時には、たった3年だった日本軍政の名残があちこちにあり、銃後の生活の体験者を苦笑させたが、今の人たちはどうだろうか。


国際協力の先駆 藤田公郎JICA元総裁ご逝去

2019-06-25 04:49:59 | 2012・1・1

オランダ大使、インドネシア大使を歴任後6年間もJICA(国際協力事業団)総裁を務められ、さらに退任後もサモアでシルバー.ボランティアをされていた藤田公郎氏(87)が亡くなられた。偶然のことから、僕は昨日夫人からの電話でご逝去をしった。ご葬儀はすでにご家族の間ですまされ ,追って関係者の間で偲ぶ会が催される。

僕は藤田さんとは一二度しかお会いしたことがない。しかし、僕の執筆活動には理解を頂き、激励の一文を賜ってきた。その一文が保存されていたので、藤田さん偲び、紹介させていただく。

「拝復 日本の穴(旧軍防空壕での虐殺誤報)については一貫したご努力に心から敬意を表します。日本の官民が,このような態度で国際的に不当な故無き日本非難に対応、これを糾す努力を行っていたならば日本の評判もずっと良くなって、と思います。国外に限らず正しくない者に対する怒りがなさすぎます」

「この度は日本の穴についての資料を送り頂き有くうございまました。貴信にご指摘のごとく、本邦「学者」の中には資料に基づかず独断、自らの歴史を極力悪しきものに描こうとするものが多く、実に なさけもない次第です。是非とも事実を知る証人が立ち上がって少しでも歴史を真実に近ずくよう祈っています」 

「貴著,大東亜戦争とマレー、シンガポール、英領虐殺の真相、頂戴し拝読しました。華僑虐殺の報に至る虚文、よく調べたものです。日本人の中には”虐殺”を云々する人がいて、その調べた結果が多くの誤禍の基礎になっている所以理解できます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


存在しないジョクジャカルタ郊外の日本軍要塞

2019-06-24 15:52:39 | 2012・1・1

先日このブログで」スマトラ虐殺虚報を流布している日本人学者が東京で資料展”(6月19日)を書いたところ、知人か倉沢愛子名誉教授が書いた「東南アジア 歴史 戦争 日本」インドネシア編(1997年 ほるぷ出版にこんなに記述があるとコピーを送ってきた、

”消えない戦争の傷痕”のキャプションのもとで、ブキテインギの25軍司令部防空壕の残虐行為を示すレリーフと共に、ジョクジャカルタ郊外に残る日本軍要塞跡と洞窟要塞跡の写真が載っている(写真)しかし、上陸作戦をはじめジョクジャ近隣では、日領中、地上戦の撃ち合いはなかった。知人はおそらく、激戦であった独立戦争時のものと、貯蔵庫だと推定している。
 
写真集の編集メンバーの中には、家永教科書裁判で敗訴した高嶋伸欣琉球大学名誉教授もおり、史実に基づいて歴史を調べているか怪しい。
 
 
 
 
 
 

14歳 「暁2492部隊築城班員」だった頃

2019-06-24 05:00:01 | 2012・1・1

元住民まで巻き込み、20万人もの犠牲者を出した沖縄戦の組織的な戦闘が終わってから74年目の昨日6月23日、糸満市の摩文仁の丘の会場で安倍晋三首相、大島理森衆院、伊達忠一参院議長.玉城デ二―沖縄県知事らが列席「慰霊の日」が行われた。毎年のことだが、この季節になると、僕は中学3年生、14歳ながら勤労動員を受け、千葉県の利根運河の江戸川口で「暁2492部隊築城班」の一員として働いててた当時を思い出す。

沖縄戦が最終段階に来ていた。沖縄が落ちれば、次は本土上陸だということは子供にもなんとはなく解かっていた。そして、その上陸地点としては九十九里浜だといわれていた。利根運河は江戸川と利根川を結ぶ運河で、明治時代に掘られたものだが、鉄道ができて以来、あまり使用されていなかったにしかし、九十九里浜とは比較的近く、敵が上陸して地上戦になれば、重要な軍事要路になる。このため拡幅工事して大型船舶も通せるようにするのが工事の目的だった。

僕らは二人一組でモッコを担ぎ、川底の泥土を地上に運びあげる作業だったが、広島に本部のある暁部隊から派遣されてIいる築城班の一等兵から”沖縄のことを思え“と叱声がとび時には鉄拳も見舞った。窓もない掘ったて小屋の宿舎、孟宗竹の食器、ドラムカンの五右衛門風呂など軍隊の内務班の生活だった。

戦争はそれから50日近くで終わったが、原爆投下もなく戦争が続き、敵が上陸して地上戦になったら、多分、僕らは手りゅう弾二個を渡され、今、この世にいなかったかもしれない。


難民とハラール.フード

2019-06-23 05:33:02 | 2012・1・1

東京スカイツリーなど全国15か所のランドマークが国連色のブルー色にライトアップされ「世界難民の日」(6月20日)を訴えている。その折も折、茨城県牛久市にある政府の入管センターに収容中のイラン人など20人が早期釈放を求めてハンスト中だという情報をネットで知った。数日間、水まで拒否しているそうだが大丈夫なのか。続報がないので心配している。

1990年代、JICA際協力機構)の研修事業の一つとして北海道の岩見沢でパレスチナ難民機構から派遣された研修員3人(ヨルダン国籍2人、レバノン国籍1人)の面倒をみたが、周囲とのトラブルが絶えなかった。同じ長期滞在型の宿舎に泊まって調べると、ハラール.フードが原因であった。当時、イスラム教徒に許されるハラール.フードは北海道ではなかった。そのためか神経衰弱気味になっていたのだ。

牛久の入管センターで、イスラム教徒にハラール.フードを出しているかどうかは知らない。教徒の中でも戒律に反しなければ一般食でも構わない。しかし、故郷を離れて長期間、難知り独特の心理状態になるらしい、岩見沢の研修員は、僕がハラール.フードのこと知り、るのだ。を探しているのが、わかると落ち着いきた。彼らは自分たちが忘れられるという不安があるのだ。

難民はそれぞれの事情から入管に収容さている。。だが、長期にわたる収容は人道的な問題である。すでに昨年は自殺者まで出している。関係者の善処が望まし。

 

 

 

 


夏至(げし)乃東枯(なっくさかれる)の侯

2019-06-22 05:26:23 | 2012・1・1

今日6月22日は二十四節気の一っ、夏至である、太陽が最も北に寄り、北半球では昼が一番長い、札幌では午前3時55分に陽が昇り、午後7時18分まで明るい。毎年、夏至の頃になると、現役のパリパリ、30歳代の頃、仲間と早朝から下手なゴルフを楽しみ、1ラウンド回った後出勤元気だった頃を想い出す。 半世紀たち、季節には変動はないのだが、今はせっかくの長い昼の時間を持てあます。早寝早起きの生活習慣もあるが、午前と午後の二回も昼寝をすることさえある。

仕事と酒に明け暮れていた時代(逆かもしれない)には思いも及ばなかった自然界に興味が出てきた..先日、東京の街中ではほとんど見られなくなった紋白蝶を見かけ懐かしを感じた。今の季節をさらに細分して七十二候でいうと、乃東枯の侯というそうだ。乃東枯は「なつくさかれる」と読み、紫色のつる草で、冬至の頃発芽し夏至の頃枯れる草だという。草花のお師匠にあたる老妻もしらないという。

乃東枯の侯のわが家の庭は、先日植木屋さんが入り、季節の梅の木はすっかり坊主になっていたが、昨年縁日で買った鉢植えのブドウが実をならしていた。そのほか、ガク紫陽花やサルビヤだろうか、紫色の花をつけていた。この季節、紫色した花が多いのはなにか理由があるのだろうか。季節は菖蒲華、半夏生へと移り変わって行く。