「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

団塊世代、升添都知事の身勝手

2016-04-30 05:34:20 | 2012・1・1
ゲスのヤッカミかもしれないが、東京都の升添要一知事が、ほぼ1年間に渡って公用車を使い週末、湯河原の温泉別荘に滞在していた問題には本当に腹が立つ。公私混同もよいところだ。テレビの情報番組によると、都庁から直接別荘へ行く場合は”公用”であり、自宅からは”私用”という内規に従ったもので、何も問題はない。”動く知事室”だと開き直っている。

升添知事は、この件だけではない。最近少しマスコミの話題が多すぎる。昨年11月には2020年東京オリンピック.パラリンピック視察と称してロンドンとパリへ5000万円かけて大名旅行している。航空機は往復ファースト.クラス、泊まったホテルは最高級の1泊10数万もするスウィーとルームだったそうだ。この批判に対しても”トップが二流のビジネスホテルに泊まれるか”とこれまた”開き直り”の弁明をしている。

日本の首都、東京の知事であり、当然それ相応の待遇は当たり前だが社会常識がある。毎週末、公用車を使って温泉地の別荘に滞在していた理由について、升添知事は、先年痛めた股関節のため、自宅の風呂で足が伸ばせないからだと本音を吐いている。升添知事の世田谷の自宅は、失礼だが近くにある日本財団の笹川陽平会長宅に比べれば見劣りはする。激職の知事が別荘に滞在したくなる気持は理解できるが、それならそれで、私費で行けばよいのだ。

升添知事の社会常識にかけた一連の出来事は、私見によれば、知事の昭和23年生まれ、団塊の世代と関係があるのではないだろうか。団塊の世代は、とかく社会常識に欠け、身勝手、自分勝手が多いと言われている。いわれてみれば、升添知事の政治歴がそれを証明している。同じ身勝手と目されがちな石原慎太郎元知事は、当時渋谷にあった知事公館の入居は断ったが、逗子の別荘に行く時は公用車は使わなかった。公私のけじめは守っていた。
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昭和も遠くなりけり 日の丸も鯉のぼりもみられない

2016-04-29 05:40:24 | 2012・1・1
4月29日は国民の祝日「昭和の日」である。大型連休が今日から始まるが、毎日が日曜日の老人にとっては、これといった感慨もない。「昭和の日」は平成19年(2007年)「みどりの日」にかわって名前を変えたが、もともとは昭和天皇の誕生日で、戦前は「天長節」戦後、昭和天皇存命中は「天皇誕生日」の祝日であった。9年前、「昭和の日」に変更になるに当たり、その制定の趣意は”激動の日を経て復興を成し遂げた昭和の時代を顧み国の将来に思いをいたす”とあるが、僕には今一つピンットこない。

僕ら昭和1ケタ世代にとって4月29日はやはり戦前の「天長節」である。”今日の佳き日は大君の生まれたまいし好き日なり”と学校で式歌を歌い、紅白の饅頭を貰った日を想い出す。数えてみたら昭和12年から18年まで6回の「天長節」だったのだが忘れられない。

昭和の時代に”明治は遠くなりけり”という俳人、中村草田男の句をよく聞いた。草田男が昭和6年の大雪の日、東京の母校を訪れた際詠んだもだが、明治の御代からまだ、19年目しかたっていなかった。今は昭和からすでに28年たっており、”昭和も遠くなりにけり”になるのも当たり前だ。

「天長節」の日は何故か天気の良い日が多かった。町の家々の門ごとにはには「日の丸」が掲げられ、青空には鯉のぼりが泳いでいた。僕の子供の時の原風景だが、”昭和も遠くなりにけり”である。僕が住んでいる東京の町には「日の丸」も鯉のぼりも見られなくなった。
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"薬も過ぎれば毒になる” 老人の薬多用

2016-04-28 05:47:54 | 2012・1・1
昨日、月一回のメディカル.チェックに近くの病院に出かけた。血糖基準値HbAic(ヘモグロビン)が最近若干上昇気味で、国際基準値6.5を超えてしまった。しかし、担当医は”お年寄りです。今すぐ合併症を起こすことはありません”と薬を出さなかった。数年前だが、別の出来たばかりのクリニックでは、同じ数値なのに大量の薬(アクトス錠)を貰い、膀胱ガンを併発したことがあった。以来、僕は医者と相談して出来れば薬をのまないことにしている。

先日、テレビの情報番組を見ていたら、高齢者の薬の飲み過ぎが”薬害”になっていると警告していた。詳しい数字は忘れてしまったが、たしか5種類以上の薬を飲むと、時には相互作用で死に至るともいう。ネット情報によると、米国では推定10万人が、薬の多用により死亡しているという。わが国でも昔から”薬も過ぎれば毒になる”という諺がある。

10数年前、僕は糖尿病になったが、知り合いの医師の指導で薬を飲まずに治したことがある。当時の記録を読み直してみると、HbAic値は10.2と高かったが、食事療法で治せとの指示で、一日15単位、1200カリーの食事を6か月続けたら、84キロあった体重が72キロに減り、HbAIcも6.0と正常値になった。

「慣用句.ことわざ辞典」(三省堂)には”薬人を殺さず薬師(医者)人を殺す””薬より養生” ”薬九層倍”といった薬についてのマイナス.イメージのことわざが多い。薬は人間にとって必需品だが、一方では昔から庶民はなんとはなく薬の悪用、多用の怖さを知っていたのだ。


   
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隣人からの”おすそ分け”の山菜 「こしあぶら」

2016-04-27 06:28:39 | 2012・1・1

近所に住む老妻のフラ仲間から”おすそわけ”ですと、信州から届いたばかりの山菜を頂戴した。(写真)”たらの芽””こごみ””あぶらこし”である。同じ信州でも善光寺のお膝元の町中で育った老妻は、それほど山菜は詳しくない。とくに頂いた”あぶらこし”については食べたことがない。いわんや東京生まれ、東京育ちの僕には初めて見る山菜である。

早速ネットで調べてみたら”あぶらこし”は”たらの芽”と同じウド科の大樹の芽で、その名前の由来は昔、この芽の樹脂を濾して漆と同じように塗料として使われていたとある。夕方、老妻がネットのレシピに従って,おしたし用に茹で、残りを天ぷらにして食べたが美味であった。

戦前、戦火が激しくなる前の昭和10年代の前半には、東京の区部でも”原っぱ”があり摘み草が出来た。僕も姉たちと一緒にヨモギを摘み、家で草餅を作って食べた。東京でもまだ多少、食からの季節感もあったが、今は全くそれがなくなった。先日、NHKラジオの「深夜便」を聞いていたら山形県戸沢村からの”日本列島くらしの便り”の中で山菜採りの喜びを語っていた。季節感喪失の都会人にとっては羨ましい。


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「組市松紋」 ”市松”つて何だっけ  老人の好奇心

2016-04-26 06:24:09 | 2012・1・1
2020年の東京オリンピック.パラリック組織委員会は、昨日、新しいの公式エンブレムに野老朝雄氏の「組市松紋」を選んだ。昨年、一度決定した作品が、模倣ではないかとクレームがつき、改めて一般公募1万4596件の中から最終的に4作品に絞り込み、その中から選ばれたものだ。

この方面のことにつては、まったくの門外漢でうとい僕だが、「組市松紋」と聞いて”市松”つて何だったかなと首をかしげた。80歳半ばまで生きてきており、もちろん”市松模様”の言葉は知っているし、”市松模様”も目に浮かぶ。が、何故”市松”と呼ぶのか恥ずかしながら知らないのだ。早速、「ウイキぺディア」のお世話になったところ、”市松”は江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松の名前からきていて、市松が「高野山心中」の中の小姓役で出た際、はいた袴の模様だとある。もともと、このチェック柄は、正倉院所蔵の織物柄にもあり、”石畳模様”と呼ばれていたそうだ。

”市松人形”も僕の耳の中に残っていた。昭和の初期、日米の親善友好のため、わが国から贈った人形が”市松人形”であった。戦前はどこの家でもあった気がするが、おかっぱ頭の和服を着た女の子の人形である。なぜ、これも”市松人形”というのか「ウイキぺディア」で調べると、これも由来は佐野川市松であり、市松の美貌が由来で、着物の”市松”柄には関係ないようだった。

改めて、ネット時代の便利さ有り難さを知った。昔は”市松”を調べるには、図書館に行き、百科辞典に頼らなければならなかった。”市松”の由来を知って、改めて「組市松紋」のエンブレムを眺めると、その良さが理解できてきた。
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"熊本大地震10日今何が必要なのか” テント村の開村

2016-04-25 06:01:46 | 2012・1・1
熊本大地震の被災地の一つ、益城町の総合運動場に”テント村”が建設されたのをテレビで見た。登山家の野口健さんが総社市や登山仲間の支援をえて、129張りのテントを寄贈して開村したものだという。テントのほかに寝袋、それにアイマスク、耳栓まで用意した気配りに感心した。

大地震から10日経ったが、いまだに10万人近くの方が不便な生活をされているが、地震発生直後から僕が不思議に思っていた一つは、今回の地震では、被災者の方が指定の避難場所ではなく、自分の車の中で避難する方が多いことだ。原因の一つは14日の強震の後、16日未明にそれに劣らぬ強震があり、屋内にいては危険だという心理が働いたということが後で判った。この結果、心配されていた「エコノミ―.クラス症候群」とか「生活不活発病」に罹り死者まで出た。

安倍総理が現地を視察した後”被災者の気持ちに寄り添って”28年度の補正予算を早急に組み、復旧に全力を尽くすと語っていた。東北大震災の時とは違って、政府も一生懸命にやっているとは思うのだが、被災者の気持ちに寄り添う気持ちがあるのかどうかだ。被災地の一部では、特定の救援物資が集中して保管場所がなく受け入れを断っているとのこと。テレビ画面には放棄されたおにぎりが映されていた。

NHKの朝の番組「日曜討論」で”熊本大地震10日今何が必要なのか”を見た。専門家がそれぞれの立場から有益な話をしていたが、今本当に必要なのは、野口健さんのような被災地の気持ちをくみ取った行動力とアイマスクから耳栓まで用意する”寄り添った”気配りだと思った。テントに入る子供の笑顔が印象的だった。
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一人だけだった、63年前同期入社の仲間を”偲ぶ会”

2016-04-24 05:45:48 | 2012・1・1
昨日、63年前新聞社にに同期入社し、副社長まで昇進した出世頭のK君を”偲ぶ会”に参席した。僕らが大学を卒業した昭和28年は、戦後の学制改革で旧制と新制とが同時に卒業生を出した年で、就職難、とくに若者に人気があった新聞社への門は、志望者が多く難関であった。それだけに各企業とも、この年の入社組は”花のニッパチ”と当時もてはやされていたものだ。

K君は旧制東大卒で僕よりは2歳年上、入社試験もトップクラスだった。地方支局で経験を積んだ後、僕らは1950年代後半、外信部で席を共にした。彼は文学部の卒業だが、科学にも造詣が深く、米ソ冷戦下での宇宙開発を担当、ソ連の人工衛星第一号発射成功にちなんで、長男に「宇平」と命名された。そのK君が、突然、販売局へ”左遷”された。当時、新聞社では編集局の記者が花形で、他の部門は軽視される傾向があった。

”左遷”の理由は彼が組合運動に熱心だったことが、たまたま変わった新しい経営陣の方針に触れたのだろう。人工衛星を担当していたK君は次の日から販売のトラックに乗って、新聞の拡張の仕事に従事した。しかし、K君は腐ることなく働いた。元々仕事熱心で優秀な男である。トントン拍子に出世して、系列のテレビ局の常務を経て、自社に戻り最後は副社長まで勤めた。

K君の”偲ぶ会”は200人もの参席者があり盛大であった。僕は昭和30年代、まだK君も僕も若かった頃、一緒に草野球をしたユニフォーム姿のチームの写真があったので”偲ぶ会”に持参したが、僕を除いて全員、鬼籍の人になっていた。無理もない。”偲ぶ会”に参列していた「宇平」君が60歳還暦に近い年齢などだからだ。
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天皇陛下の靖国神社ご親拝復活を!

2016-04-23 06:34:07 | 2012・1・1
靖国神社の春の例大祭が今日(23日)まで開催されているが、東京に住んでいてもほとんど話題にならない。新聞の片隅に安倍総理が「真榊」を奉納したとか”みんなで靖国神社を参拝する会”の超党派議員が行列して参拝したとか、これに対して例によって近隣諸国から歴史認識で文句をつけてきた、とか掲載されているにすぎない。

昭和32年に発売された、島倉千代子が歌った「東京だよおっかさん」(作詞野村利夫 作曲舩村徹)の二番の歌詞に「やさしかった兄さんが田舎の話をききたいと 桜の下でさぞかし待つだろ おっかさんあれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも」―というのがある。僕はこの歌詞を聞くと、戦中、靖国神社の臨時大祭に天皇がお召しになるのを待つため、戦死されたご遺族が九段坂に座って待たれる風景が目に浮かんでくる。

戦前、靖国神社の例大祭は、春は4月30日、秋は10月23日で、東京の公立学校は授業がなかった。僕ら銃後の小国民は靖国神社に詣で境内の屋台や、オートバイの曲芸といった見世物を見るのが楽しみであった。この例大祭のほかにも、戦争が激しくなると、戦死者が増え、臨時大祭が催され、そのつど天皇陛下がご親拝された。

昭和天皇が最後に靖国神社をご親拝されたのは昭和51年で、今年で40年間もご親拝されていない。一般的には連合軍の国際裁判で戦犯として獄死された方々が、靖国神社にに合祀るされたことに対して、昭和天皇がが反対されたからだとされている。しかし、合祀が決定したのは53年であり、何か当時の政治情勢に影響されたような気がしてならない。

総理大臣の真榊奉納ではなくて、政治家は本来の天皇陛下ご親拝を復活すべき、その環境づくりに努力すべきである。
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ボランティアの皆さん頑張って下さい

2016-04-22 05:21:32 | 2012・1・1
熊本大地震は14日の最初の地震が起きてから1週間経過したが、収束の気配がみられない。依然として1万人の方々が避難生活ををされているが、今日22日から県内各地の市町村で、ボランティア活動が始まった。最大の被災地の一つ、益城町では昨日受付が始まると、早くもボランティア.センター前には、志望者が100人も列を作っていた。

僕ら高齢者世代には「ボランティア」の言葉は馴染薄く、また、やりたくとも出来ない年齢だが、何故か5年前の東日本大震災発生直後の菅直人内閣が、大津波でまだ10万人もが行方不明だったり、福島原発事故の収拾がつかず、国内が騒然としているさ中の13日、いち早く辻元清美議員をボランティア担当首相補佐官に任命した、事を思い出す。被災現場ではボランティアの支援を受け付けるどころではなかった。結局、民主党内閣のパーフォマンスで、機能せず税金のムダ遣いのようであった。

インターネットで被災地市町村のボランティア支援受付のHPを見たが、市町村の社会福祉協議会が中心となって受け入れ案を作成している。災害復興に当たっては、ボランティアの支援はなくてはならない存在である。恐らく世界に冠たる制度であろう。敗戦時の昭和20年10月、東京の中学3年生だった僕らは、空襲の焼跡整理に学校から動員された。当時は、とてもボランティアといった発想はなかったし出来なかった。ボランティアとは、あくまで個人の自発的な意思によるものだ。ボランティアの皆さん、頑張ってください。
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八重桜満開、春爛漫の砧(きぬた)公園

2016-04-21 06:34:06 | 2012・1・1

昨日、近くに住む70年来の旧友に”突然”声をかけられて都立砧(きぬた)公園へ弁当持参で花見に出かけた。実は昨日は小学校時代の3人だけの同期会が予定されていたのだが、1日前になって、突然一人から体調を毀したと連絡があった。2週間も前に予定を決め、そのために誘われた別の会合をキャンセルしていた。老人の約束事は難しい。

半年ぶりの砧公園である。昨年11月訪れた時、園内は紅葉前の晩秋のたたずまいだったが今回は違う。染井吉野の桜は葉桜に変り、あでやかな八重桜が満開、まさに春爛漫であった。80歳半ばの二人は八重桜の下、コンビニで買ってきた酎ハイで乾杯、安弁当に舌つつみをうった。人生、この年まで生きられればあとは”余禄”である。おおいに楽しもうというのが二人の一致した意見であった。
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