「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

日本のお祭りに”進化”したハローウイン

2016-10-31 05:29:12 | 2012・1・1
ハロウィンは、日本独特のお祭りに”進化”したみたいだ。本来はケルト人の収穫祭だったのが、キリスト教文化の”洗礼”を受け、さらに、ここ数年は日本の”コスプレ”文化と混じり合い、国際的なお祭りになってきた。新聞に”リボンの騎士”に扮した小池百合子都知事の姿が載っていたが、本来のハローウィンとは関係がない。

ハローウィンは10月31日と思っていたが、今年は月曜日ということで週末の金曜日の夜から始まった。今や、ハローウィンのメッカ会場化した東京渋谷のスクランブル交差点周辺は、テレビで見ると仮装した若い男女の群れで一杯だ。警戒整理のお巡りさんもご苦労さんのことだ。僕ら年寄りは、まったく”蚊帳の外”だが、目くじら立てて怒ることの事もあるまい。難民もの群れもなく世の中、平和でよいことだ。

ハローウィンが日本でこんなに騒がれるようになったのは1990年代後半ではなかっただろか。成人した孫たちが、まだ子供だったころ、ハローウィンの飾りつけをした家(写真)が現れ、”treat and trick"と幼稚園で教わってきた言葉を言いながらお菓子を貰いに歩いて回ったのを憶えている。あれから20年、飾りつの習慣は残っているが、少子化で子供たちがいなくなった。ハローウィンは子供のお祭りから大人が仮装して騒ぐ祭りに進化した。
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名前だけの読書週間と67年前の日記

2016-10-30 05:35:40 | 2012・1・1
昨日、家の屋根裏に上り書棚を整理していたら昭和24年度の僕の「学生日記」(旺文社版200円)と亡父の22年、23年の常用日記が出てきた。亡父は大正元年から亡くなる昭和43年まで日記を書いていた。一方、僕は平成元年からは毎年連続してつけているが、昭和時代は、この一冊だけだ。懐かしく半日、当時を振り返りながら読んでしまった。

67年前の僕の「学生日記」には、毎月、その月に読んだ本の名前が書いたあった。今,第70回「読書週間」が10月27日から11月7日まで開催されているが、「読書週間」が始まったのは昭和22年からである。”読書の力によって平和な文化国家を築こう”ということで出版関係者によって始められたものだが、24年の「読書週間」の11月に、僕はドストエスキーの「死の家の記録」と「悪霊」、吉田満の「戦艦大和の最期」それに幸田露伴の「五重塔」、雑誌は「リーダース.ダイジェスト」を読んでいた。

昭和24年といえば大学1年の時で、教科書は紙質の悪いセンカ紙ながら入手できたが、文学全集などは高価で、学校の図書館か近く国会図書館(今の国立迎賓館)のお世話になった。まだ、電力事情が悪く、家では時々停電があり、その合間に白熱灯の下、虫の音を聞きながら読書した。

今は”燈火親しむの侯”という手紙の挨拶文も死語に近い。文化庁の調査によると、日本人の年間平均読書量は12,13冊で、月に一冊も読まない人が47.5パーセントもいるという。この活字文化の衰退は、将来の人類文化にどのような影響を与えるのだろうか。興味深い。
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87歳老人ドライバーの暴走 ”1億総活躍社会”の悲劇

2016-10-29 05:21:33 | 2012・1・1
横浜市港南区の学童通学道で、87歳の老人が運転する小型トラックが暴走、小学校1年生を死亡させた。老人は認知症らしく、家族にゴミ出しに行くと言ったまま行方が不明だったという。高齢者の運転が、これほど社会的に問題になっているのに、本人はもとより周囲の家族は、何故運転免許を返上しなかったのか。ある意味では”1億総活躍社会”の悲劇である。

日本の人口が史上初めて減少に転じた。総務省の平成27年の国勢調査によると、わが国の総人口は1億2709万人で前回の22年に比べて96万人減、これは大正9年(1920年)調査が開始されて以来のことだという。このままで行くと、30余年先の2050年には日本の人口は1億を割ってしまう。

僕が少年時代だった昭和16年3月「出せ1億の底力」という軍歌が各レコード会社の競作で発表になり、どれも大ヒットした。翌17年には、大政翼賛会の音頭とりで「進め1億火の玉だ」という軍歌も歌われた。当時の日本の人口は1億人なかったが、統治していた朝鮮、台湾を含めて一丸となって戦いを勝利しようという戦意高揚が狙いであった。

安倍内閣が新三本の矢政策として「1億総活躍社会」の実現を掲げているが、2050年には人口は1億人を割ってしまう。それを見据えての政策だが、何か僕には抵抗がある。”1億総活躍”といっても、80歳を超えた高齢者は、人によって違うが、活躍したくとも心身が許さない。表現は悪いが社会の”オミソ”である。横浜の認知症老人の事故を知りつくづくそう思った。老人は活躍などせず隠居したほうがよい。
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戦中スマトラも視察された三笠宮殿下

2016-10-28 05:27:37 | 2012・1・1
昨日百歳の長寿を全うされ薨去され三笠宮崇仁殿下は、昭和前半、大日本帝国陸軍の一員として激動の半生を送られた。陸軍士官学校、陸軍大学で幹部としての教育を受けた後、18年1月から19年1月まで、南京の支那派遣軍司令部に、皇族を秘匿して「若杉」名で勤務、そのあと大本営参謀として勤務されたが、9月、ご自分の希望で機甲本部に転じられている。

その僅かな参謀時代に、殿下は4月、インドネシアのスマトラ島のブキティンギの第25軍司令部を視察されている。殿下の希望によるものかどうか不明だが、当時の戦局全体から見て視察目的は不明である。第25軍戦友会報には殿下の視察が記されている。当時ブキティンギの司令部では、市内の渓谷の断層の崖の中腹に大規模の防空壕が掘られていた。戦後だいぶ経ってからの戦友会で、関係者の一人は、もしかすると、殿下は連合軍が本土に上陸して皇族が海外に退去する場合を想定しての視察ではなかったと推測していた。

大本営参謀時代、殿下は”野津田事件”に遭遇している。同僚の野津田知重少佐らが、当時の東條首相を殺害して、クーデタ―を起こそうというもので、歴史本の中には、殿下がその過激な方法に反対され、クーデターは未然に終わったと書いてある。真実は不明だが当時、殿下は30歳前後である。戦争も末期を迎え、国運に関わる重大事に皇族も巻き込まれていた時代であった。

(写真は何故かわが家に保存されてる昭和天皇四兄弟。左から天皇陛下、二番目が学習院時代の三笠宮殿下、次いで高松宮、秩父宮殿下)
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ドゥテルテ比大統領と”ゴム時間”

2016-10-27 05:51:33 | 2012・1・1
ドゥテルテ比大統領の在日中の言動が色々と話題になっている。来日初日の25日、岸田外相主催の夕食会に大統領は17分も遅れて会場の日本料理店に到着したという。その間、小雨降る中、岸田外相は傘をさしたまま外で待っていた。外交儀礼から言えば、普通、要人のスケジュールは”分刻み”で、こういうことはないということだ。

昔、読んだフィリピン人の社会慣習について書いた本の中で、先の戦争中、フィリピン人は日本人が、キチンキチンと時間を守るのを批判して”ジャパン.タイム”と多少困惑を込めて言っていたそうだ。この本によれば、日本人は約束時間より10分早く来ているがムダではないかというのである。

フィリピンの隣国インドネシアには”ゴム時間”(jam karet)という慣習がある。時間はゴムのように延び縮みするものだという意である。だから、たいがいのインドネシアは日常、約束の時間を守らないし、時間に遅れても悪いとは思わない。フィリピン人にも”ゴム時間”のような時の観念があるのだろうか。

20年ほど前、JICA(国際協力機構)の研修事業をお手伝いしたことがあり、各国の研修員を連れて国内旅行をしたが、一番困った事の一つは集合時間の設定であった。各国、時間の観念が違っていて、ルーズな国が多く、それを見越して、僕は、フィリピン人が批判したという”日本時間”にならい、余裕を持たせた。

日本人が時間について”punctual"(厳守)なのは、国民性なのだろうか。それとも明治維新後の西欧の影響なのだろうか。あまりに時間に縛られて、セカセカ生活するのもイヤだが、社会の一定の秩序を守るには”punctual "(座標)は必要であると思うのですが、ドゥテル大統領如何ですか。

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超高齢化時代 80歳でも早逝

2016-10-26 05:43:57 | 2012・1・1
名優の平幹二朗さん(82)や女性登山家として七大陸の最高峰を登頂した田部井敦子さん(75)ら僕より若い方の訃報が続く。昨日もまた、新聞の死亡欄に目を通すと、声優の肝付兼太さん(80)と美術家の中西夏之さん(81)が亡くなられていた。WHO(世界保健機構)の統計によると、日本人の男性、女性合わせた平均寿命は83.17歳であり、この観点では、80歳を超えても”早逝”ということになるのかもしれない。

正式に調べたわけではないが、昭和1ケタ後期世代の有名人の”早逝”が、前期世代に比べて目立つ。想い出すままに列挙してみた。(昭和8年)三遊亭圓楽、菅原文太、南田洋子、淡路恵子、永六輔、藤本儀一、三善晃、生島治郎(昭和9年)石坂裕次郎、長門裕之、坂口二郎、愛川欣也、宝田明、大橋巨泉、井上ひさし(昭和10年)小坂一也、寺山修司、阿刀田高、田宮二朗、岸洋子、中原早苗、水原弘、豊田泰光

この世代は戦中と戦後すぐの食糧難時代に、成長期の少年少女時代であった。僕ら昭和1ケタ前期も食糧難を体験しているが、成長期ではなかった。戦争が激化するまでは、たらふく食べられていた。そういえば、昭和1ケタ後期の世代は、僕らより体格が劣っている感じがする、大正2ケタ世代が、戦争の最大の犠牲者世代だが、この昭和1ケタ後期世代まで、戦争の犠牲者なのだ。その意味では、戦後の平和に生まれた日本人は幸せである。超高齢化時代、万歳である。
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"比大統領ガムをかまないで” 礼儀知らずの申し出

2016-10-25 05:23:47 | 2012・1・1
デゥテルテ比大統領が今日来日、27日まで滞在、この間安倍総理と首脳会談を持ち、天皇陛下ともお会いになる。これに先立ち、日本側から、大統領が天皇に会う際は、ガムをかまないように申し入れたという(小野寺五典元防衛相のフジテレビ系「新報道2000」での発言)。もし、これが事実としたら、時代がかった随分と失礼な話だ。

昭和18年11月、大東亜共栄圏会議が東京で開かれたさい、スカルノ、ハッタ(のちのインドネシア初代大統領と副大領領)は会議には招待されなかったが、当時の東條首相に招かれ、天皇陛下にも謁見した。この時のことをスカルノが後日、自伝の中で回想し、二人は,日本の役人から、お辞儀の頭の角度など3日間も練習させられた。だが、実際にお会いしたときは、陛下から握手の手を差しのばしてこられた、と書いている。

先日、沖縄の北部ヘリパッド基地建設場に抗議する現地住民に対し、大阪府警から派遣されいた警備の若いお巡りさん二人が住民を土人呼ばわりして訓戒を受けた。土人というと、僕ら昭和1ケタ世代は、子供の時読んだ「少年倶楽部」の島田啓三の漫画「冒険ダン吉」を想い出す。登場人物は、下唇の厚い黒人で、区別がつかないため背番号をつけてきた。

若いお巡りさんが、沖縄県民を今や死語になっていると思っていた”土人”呼ばわりしたのには驚いたが、自民党の政調会長代理の小野寺氏が、他国の元首に対して”ガムをかむな”という忠告は、72年前の大東亜共栄圏時代を想起させるような”傲慢さ”を感じる。国際間には儀典というものがある。
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わが家の季節はずれの朝顔

2016-10-24 10:52:03 | 2012・1・1
朝顔は初夏が季節だと思っていたが、東京のわが家では10月末のこの季節に咲いている。ヘブン.リーブルという外来種だそうだが、つるべもなく俳句にもならないが、目を楽しませてくれている。
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人生の転機 歴史の転機 60年前のハンガリー動乱

2016-10-24 06:26:33 | 2012・1・1
60年前の昭和31年(1956年)10月23日、ハンガリ―の首都、ブダぺストで、ソ連(当時)の支配に抗議して市民が一斉に蜂起し大暴動になった。いわゆるハンガリ―動乱である。蜂起は全土に渡ったが、ソ連軍の出動によって鎮圧された。が、市民2千人から三千人が死亡、20万人もが難民となって国外に逃れた。

私事になるが、当時新聞社に勤務していた僕は、この日、編集局の社会部から外信部に移動した初日であった。テレックスから重大ニュースを告げる緊急電でハンガリー暴動の第一報が流れ、これを翻訳したのを鮮明に覚えている。国際ニュースについては、まったく”駆け出し”で、恥ずかしながら、ハンガリーが、どこに位置するのさえよく解らなかった。まさか、このニュースが後世、世界史において、ソ連圏の破壊に通ずる転機になる事件になるとは思ってもいなかった。

このハンガリ動乱の6日後の10月27日、今度はイスラエルが国境を越えてエジプトに侵攻、これが引き金となって、第二次中東戦争(スエズ動乱)に発展し、英仏両国が介入、ソ連の反対で世界戦争のガケ淵に立たされた。これも、今考えれば西欧の殖民地体制の消滅がダメ押しされた歴史的な転機であった。

スエズ動乱は僕にとって、将来の人生の転機となる事件であった。当時、わが社では中東地域専門の記者がいなかったこともあり、僕は以後、昭和42年の第三次中東戦争(六日戦争)まで中東を中心とした回教圏のニュースを担当するようになった。そして同じ回教圏のインドネシアの特派員を経験、これが僕の人生の横編みとなった。全く、偶然なのだが、スエズ動乱のさなかの11月2日に長女が誕生している。これも人生の転機となった。
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ドゥテルテ比大統領訪日を前に(3)友好親善の歴史

2016-10-23 06:07:43 | 2012・1・1
在日フィリピン人の数は中国、韓国に次いで多い(23万人)が、残念ながら日本人の対フィリピン感情は今一つである。とくに僕ら戦中派にとっては、さきの戦争中、フィリピンで45万人もの犠牲者が出ており、フィリピンのゲリラ兵の抵抗が激しかったという印象が強く残っているからかもしれない。それに戦後の連合軍裁判も影響している。

しかし、歴史を紐解くと日比の歴史は大河ドラマ「黄金の日々」の呂宋助左衛門やキリシタン大名高山右近の時代まで遡れるし、特に近現代史でのフィリンピン独立時のわが国の隠れた独立支援はあまり知られていないが大きい。例えば、東京のど真ん中の日比谷公園には二つも日比友好の碑が建っている。一つはフィリピン独立の父と言われるホセ.リサール(1861-96)が東京滞在中宿泊していたホテル跡に記念碑がある。もう一つは戦争中、モンテンルパの刑務所に収容中の”戦犯”千人を恩赦した当時のキリノ大統領への顕彰碑だ。このほか、米比戦争の英雄で、フィリピン陸軍の父といわれるリカルテ将軍(1866-1945)の胸像が、将軍が亡命中住んでいた家の近くの横浜の山下公園内に建ってある。さらに千葉県銚子市の”地球が丸く見える”岬の公園内にも右近、リカルテ、キリノの顕彰碑がある。

ドゥテルテ大統領は、これらの友好親善像おあることをご存知だろうか。短い公式訪問だが、出来れば日比谷公園の二つの碑を訪れ花束を贈られたらどうだろうか。日比両国の友好親善を深めるための演出効果は十分である。”暴言”のイメージを覆すのにも役立つものと思うのだが。
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