元住民まで巻き込み、20万人もの犠牲者を出した沖縄戦の組織的な戦闘が終わってから74年目の昨日6月23日、糸満市の摩文仁の丘の会場で安倍晋三首相、大島理森衆院、伊達忠一参院議長.玉城デ二―沖縄県知事らが列席「慰霊の日」が行われた。毎年のことだが、この季節になると、僕は中学3年生、14歳ながら勤労動員を受け、千葉県の利根運河の江戸川口で「暁2492部隊築城班」の一員として働いててた当時を思い出す。
沖縄戦が最終段階に来ていた。沖縄が落ちれば、次は本土上陸だということは子供にもなんとはなく解かっていた。そして、その上陸地点としては九十九里浜だといわれていた。利根運河は江戸川と利根川を結ぶ運河で、明治時代に掘られたものだが、鉄道ができて以来、あまり使用されていなかったにしかし、九十九里浜とは比較的近く、敵が上陸して地上戦になれば、重要な軍事要路になる。このため拡幅工事して大型船舶も通せるようにするのが工事の目的だった。
僕らは二人一組でモッコを担ぎ、川底の泥土を地上に運びあげる作業だったが、広島に本部のある暁部隊から派遣されてIいる築城班の一等兵から”沖縄のことを思え“と叱声がとび時には鉄拳も見舞った。窓もない掘ったて小屋の宿舎、孟宗竹の食器、ドラムカンの五右衛門風呂など軍隊の内務班の生活だった。
戦争はそれから50日近くで終わったが、原爆投下もなく戦争が続き、敵が上陸して地上戦になったら、多分、僕らは手りゅう弾二個を渡され、今、この世にいなかったかもしれない。
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