「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        "アバン・ゲール”政治家たちの責任

2011-06-30 06:42:43 | Weblog
戦後の一時期、昭和25年頃までであっただろうか”アバン・ゲール”(avant guere)"アプレ・ゲール”(apre guere)、略して”アバン”"アプレ”という言葉が大流行した。”guere"はフランス語で戦争という意味で、"avant"は前、”apre"は後という副詞。戦前の価値観、権威、道義感の持主は”アバン”、これに対して、それにとらわれない、奔放な考え方の若者を"アプレ”といった。要するに、いつの時代にでもある世代間の対立であった。

先日来の菅総理の退陣をめぐる茶番劇を見ていると。その棒振りの道化役は、与党国民新党の亀井静香代表であり、民主党の石井一元副代表らの"アバン・ゲール”(戦前生まれ)の古い体質の政治家たちが介在しているように僕には見れる。菅総理はすでに辞意を表明した"死に体”であり、今さら彼を担いでも仕方がない。言葉は悪いが、まるで死体にむらがるハイエナみたいだ。

亀井代表は新しく菅総理の特別補佐官に任命されたが、ちょうど昨年の今頃だったが「郵政改革法案」が衆院で審議されないのに抗議して金融郵政担当大臣を辞職している。僅か1年で心変わりしたのだろうか。それとも特別補佐官に就任して中から執念の「郵政改革法案」を実現しようというのだろうか。

戦後66年も経ち、国民の三分の二は"アプレ・ゲール”(戦後生まれ)である。その意味で亀井代表など"アバン・ゲール”(戦前生まれ)は数少ない貴重な存在だが、やっている政治手法は、僕のような80歳すぎの超老人から見ても古すぎる。若い世代に譲るべきである。延長された国会審議が止まっているのは亀井代表ら”アバン・ゲール”の政治家たちの責任だ。
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    「アクトス」(糖尿治療薬)飲んで膀胱がんになった!

2011-06-29 06:55:51 | Weblog
厚労省が6月23日の薬事食品審議会で糖尿病治療薬「ビオグリタン」(製品名「アクトス」=武田薬品)が欧米の疫学データーから膀胱がん発生のリスクが高いという理由から、日本でも国内の医療機関に対して膀胱がん治療中の患者には「アクトス」を投与しないよう通達したという情報を僕はネットで知った。

僕は数年前から血糖値が高く「クラウナート」錠と「ポグりボース」錠を服用していたが、血糖値が思うように下がらず、2009年2月、主治医の指示で「アクトス」を追加して飲むようになった。その時の血糖値は221、ヘモグラビン値は9・6と高かったが、「アクトス」を飲みはじめた5月には107,5・6と正常値になった。さすが薬効があったと感謝した。

ところがである。その年の12月、血尿が出始め10年前に膀胱がんで入院手術したことがある国立医療センターで診断を受けたところ再発と診断されて入院手術した。入院に際しては、日常服用している薬を表にして提出したが、その時点では「アクトス」と膀胱がんとの因果関係は判っていなかったのだろう。患部を摘出して一安心し抗がん剤の注入治療を続けていたが、僅か半年で内視鏡検査の結果再再発が判明、7月また入院手術した。

厚労省の今回の「アクトス」使用に関する通達は、まさに僕にとっては青天の霹靂だった。10年前膀胱がんに罹った時、医者に聞くと、膀胱がんの原因については当時よく判明されておらず高齢の喫煙男子に多いということぐらいであった。しかし、今回の厚労省の通達をみると、明らかに「アクトス」が膀胱がん発生の引きがねになっていることを示唆している。フランスではすでに「ビオグリタン」系の新規処方を禁じている。武田薬品のHPによると、7月に使用の可否について結論を出すようだが、薬害であることは、僕のケースからもはっきりしている。(写真は武田薬品の「アクトス」)
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         麦秋に日本の農業の将来を思う

2011-06-28 06:16:46 | Weblog
あと数日で6月も終わる。2011年も半分経過したわけだが、異常な半年だった。3・11の大惨事以来、まるで時計の針が止まってしまったかのようだ。朝刊を見たら、やっと100日余りして大震災復興担当相が決まり、原発事故収束の責任大臣が新任された。大震災以前のことは忘れ去られ、遠い遠い過去の事柄のような錯覚に陥る。

今年年頭の国の最重要課題は、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加問題であった。そして、この参加への基本的方針が6月末までに決まることになっていた。しかし、大震災でそれどころではなく、すでに先送りが閣議決定されている。が、参加交渉は中止になったわけではなく、やがて論議は再開され、参加の是非が問われることにうなる。

今、季節は麦秋である。麦秋とは麦の収穫時をいう言葉だ。昭和30年代頃まで、わが国の農業は稲と麦の二毛作が中心で、麦の収穫期の今頃は日本中どこへいっても黄金色の穂が実っていた。戦前(1930年代)の麦の自給率は63%もあり、戦後の60年代でも年間100万㌧の生産高があった。それが高度成長期以後、急激に国内生産は減り今は自給率は14%、生産高は20万㌧にまで落ち込んでしまった。

今回の大震災の教訓で、僕らは想定外のことが起こるということを学んだ。僕は農業問題に詳しくはないが、TPP参加に当たってJA(農協)を中心に農業団体が参加に強く反対していた。参加すれば、日本の農業が壊滅的な打撃を受けることになるからだ。僕らの世代は戦中戦後の食糧難を体験している。それだけに食料自給率の低下には若い人たちより敏感だ。想定外の事も起きるのだ。TPP参加にあたっては大震災の教訓を生かし、慎重に交渉に当たってもらいたい。
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      次は白寿、茶寿、皇寿、珍寿のお祝いも!

2011-06-27 06:00:30 | Weblog
昨日、旧友に招かれて新宿超高層ビルの一角にある展望台のある高級レストランで彼の91歳の誕生日を祝った。彼は大学の同窓生だが、南方戦線からの復員の遅れと戦後の学制改革などの影響を受けて昭和28年の大学卒業時には、すでに32歳になっていた。地方出身の苦学生で生活費と学費を稼ぐために進駐軍の将校クラブでバーテンダーをしていた。卒業後も就職口がなく、進駐軍で働きながら難関の観光ガイドにパスした。そして35歳をすぎてからNHKに入社し、さらにNHK定年後は大学院で勉強をし直し、卒業後は東京の女子大学で70歳まで英語を教えていた。頭の下がる苦労人である。

誕生会に同席した友人の一人が「養命酒」で発行している長寿の栞を参加者に披露してくれたが、それによると、昨年卒寿(90歳)を祝った旧友の次のお祝いは99歳の白寿である。そして、その後は108歳の「茶寿」、111歳の「皇寿」、112歳の「珍寿」と続く。白寿は漢字の「百」の字から、上の「一」をとり九十九の意味だ。僕も白寿までは知っていたが、その後の茶寿、皇寿、珍寿は初めて聞くお祝いだ。いつ誰が決めたお祝いだか知らないが、いずれも語源は白寿と同じような漢字遊びからきている。

戦前、子供だった頃、母方の祖母が77歳の喜寿のお祝いをしたことを覚えている。祖母は元治元年生まれであったが、すでに若干痴呆症にかかっていた。当時は長寿のお祝いは喜寿が最後であった。祖母が白扇に「寿」の字を書いて、お祝い返しにしていたのを子供心に覚えている。

超高齢者社会で今は喜寿など長寿のお祝いの始まりの始まりである。友人は生涯独身でかくしゃくとして元気である。白寿のお祝いだけでなく珍寿のお祝いもまんざら夢ではない。
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      ”減災" 構想会議の”悲惨の中の希望"提案

2011-06-26 07:43:13 | Weblog
東日本大震災復興会議が昨日「復興への提言ー悲惨の中の希望」を菅総理へ提出した。本来は、この提案は第一次で、12月に最終提案がまとまる予定だったが、おそらく菅総理の進退問題も考慮したのであろうか、早めの最終提言となった。大震災の直後の4月、菅総理が早々と立ち上げた会議であった。僕は当初からこの種の会議に反対で、その成果に期待はしていなかったが、案の定である。

わが国のその道の大家が12回も集まって検討したのが、この"悲惨の中の希望”(副題)だが、被災地の悲惨さが改めて浮彫りにされただけで、将来の具体的な"希望”の光は見えてこない。構想会議のメンバーの中には被災地の県知事や首長も入っていたようだが、本当に、この提案が”悲惨の中の希望”と思っているのであろうか。どうせ実行力のない総理への提言だから、いい加減にしておこうという気持ちもあったにちがいない。

構想会議の提言の一つに、あまり耳慣れない「減災」という言葉があった。将来起きる大震災に対して、真っ向からこれに対処する対策より、出来るだけ、その人的、物的被害を減らすようにする対策のようだ。誰の構想だかわからないが、僕には菅総理のいう「最小不幸の社会の実現」の考え方に通ずるものを感じた。まさか菅総理に媚びたわけでもあるまい。

菅総理は自分の責任逃れのためか、大震災後の100日余、この構想会議を自分の保身の"隠れ蓑”としてきたといわれても仕方がない。構想会議の提言が出るまでは、とすべてを後回しにしてきた。70日も延長された国会である。自民党の谷垣総裁は、二次予算の成立には全面的に協力するといっている。構想会議の進言を受けた以上、これ以上言い逃れはできない。一日も早くメドをつけてお引取り願いたい。
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      放射能安全でも"海開き”できない海水浴場

2011-06-25 06:17:54 | Weblog
昨日埼玉県熊谷で39・8℃を記録、6月としての最高気温を20年ぶりに更新した。東京でも32・7℃と2日連続の真夏日となった。東京で過去に6月に30℃を越した日は僕の記憶ではそうめったにない気がする。そこで気象庁の記録を調べてみたら50年前の1961年(昭和36年)の6月は30・5℃(10日)が一日しかなかった。たまたま亡父の1940年の日記帳に気温の記載があったが、その7月3日には"気温30・2℃、いよいよ夏らしくなった”と書いてあった。

神奈川県の逗子海岸が昨日”海開き”をした。枝野官房長官によれば、東日本の135か所の海水浴場は勿来(福島県いわき市)を除き、どこからも放射能物質は検出されず安全だとのことだ。枝野長官は珍しく胸を張って安全を強調していたが、被災地の中には、まだ砂浜の瓦礫の処理が終わっておらず、海は安全でも泳げない海水浴場がある。

久ノ浜海水浴場(いわき市)もその一つだ。1970年8月、僕は郡山に勤務していた時、まだ小さかった子供二人を連れてここで泳いだ想い出がある。泳ぎなれている湘南の海に比べて波は高く遠浅ではなかったが、風光明媚な砂浜で、泳ぐ人も少なく海水浴を十分に堪能することが出来た。

今回の震災で久ノ浜にも津波が押し寄せ被害者も出ている、さらにここは福島第一原発から30キロ圏内で、一時屋内避難地域にも指定されている。これでは海の放射能値が安全でも"海開き”どころではない。久ノ浜だけではない。例年なら海水浴客で賑わう太平洋岸の被災地の海水浴場は大痛手である。一日も早い復興、復旧と原発事故の収束を願っている。
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       "燃え尽きる覚悟”でも余震は収まらない

2011-06-24 06:44:03 | Weblog
昨日も何回か被災地を中心に大震災の余震が起きている。早朝の岩手県沖の余震はM6.7,震度5弱で一時津波警報まで出た。震域も北海道の石狩、空知まで拡がっていた。気象庁は今後もM7クラスの余震が起きる可能性は大きいと警告している。被災地ならずとも余震が完全に収まるまで、心のどかに不安がある。

2004年12月、スマトラ沖で起きた巨大地震(M9.1)の時は、この地震の4か月後の05年3月に再び8.7の大きな地震が南東250㌔のスマトラ沖で発生、震央のニアス島では1,000人以上が亡くなっている。この後も09年9月、同じM8.9の大地震が西スマトラ州の州都パダン周辺で起き、数百人が犠牲となっている。

地震発生のメカニズムと火山との関係は素人の僕には解からないが、東日本大震災の前には九州の新燃岳が噴火したり、鹿児島の桜島の噴火も活発化していたと聞いた。スマトラ沖地震の前後にもスマトラ西部のタラン山が噴火、その翌年の3月にはジャワ西部のタンクバンプラフ火山も爆発している。古い歴史をひも解くと、明治29年(1896年)6月の三陸大津波の8年前には"小原庄助”で有名な会津磐梯山が噴火している。

余震の不安は、菅総理の居座りによって一段とその不安を大きくしている。菅総理は昨日沖縄で"震災の復旧、復興と原発事故の収束へ全力をあげ、私自身燃え尽きる覚悟で取り組む”と語っていた。しかし、現実はどうであろうか。遅々として物事は進んでいない。下卑た表現だが、ヤクザの 世界には”ケチつき”という言葉がある。申し訳ないが”ケチ”がついた指導者の下ではダメだ。余震はいつまでも収まらない。
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         "甘薯(さつまいも)先生” 有難う

2011-06-23 06:38:23 | Weblog
一年で昼の時間が一番長い夏至の昨日、東京でも寒暖計は軽く30℃を超えて31・9℃の真夏日となった。その暑さの中、63年前、同じ中学(旧制)の学窓を出た旧友5人と母校近くの目黒不動尊を参詣、お寺の裏にある"甘薯先生”こと青木昆陽の墓にも詣でた。

僕らの古い記憶の中には、中学に入学してまもなく、この"甘薯先生”の墓に詣でた想い出がある。しかし、なぜ詣でたのか判らなかった。が、昨日参詣してみてそれが解かった。"甘薯先生"の墓横の標識に「昭和18年5月1日文化財指定」と記されていた。僕らはその文化財指定の直後に団体で詣でていたのだ。

昭和18年5月といえば、巷(ちまた)には大東亜戦争緒戦の勝利の余韻がまだ残っていたが、一方ではそろそろ、食料物資が欠乏し始め配給制が強化されてきた。おそらく時の政府は、そんな時代背景の中で、江戸時代の飢饉のさい救荒食料として甘薯(さつまいも)の普及に功のあった青木昆陽に着目し、その墓地を文化財に指定することによって、食糧難の到来を国民に知らせようとしたものだったのだろう。

それからまもなくして戦局は悪化し、銃後は想像を絶する食料難に陥った。米の配給はスットプし、代用食としてさつまいもが登場、してきた。配給所まで大きな袋を持って行き行列して有難く頂戴したが、そのさつまいもは"沖縄”という銘柄の大きいだけが取り柄のものだった。

80歳の傘寿を越えた僕らは、その時代弁当箱に芋ご飯(といっても芋の方が多い)を入れて勤労動員先の工場へ通った。しかし、さつまいものおかげで、ここまで長生きできた。改めて"甘薯先生"有難うだ。(写真は青木昆陽の墓)
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        ”洗ってこない”菅の顔などもう見たくない

2011-06-22 06:22:34 | Weblog
いったい国会はどうなっているのか?今日22日で期限が切れるというのに、当日朝になっても延長されるのかどうか判らない。与党政府内の意見調整が遅れ、やっと8月まで70日間の延長が決まり、これで野党の合意をとりつけようというものだが、自民党の小池百合子総務会長の言葉を借りれば"顔を洗って出直してこい”だ。でも顔を洗ってこない総理の顔など、あと70日間、僕はこれ以上を見たくない。

先日のテレビの画面で菅総理が自然エネルギー普及につぃての超党派、民間人との会合でおどけたようなゼスチュアで"国会には私の顔を見たくない人がいるそうだが、それなら法案を早く通してくれ”と言っていたのを見た。冗談にせよ、これは一国の総理のとるべき態度でも発言でもない。あまりにも軽率だ。

菅総理は退陣をほのめかしながら、結局8月まで居座りを続け、この間に自分の手で第二次補正法案、特別公債法案を成立させ、さらには再生エネルギー措置法まであわよけば成立させようと目論んでいる。当然のことながら野党がすんなりと、これに応ずるわけはない。この間、国民は”ああだ、こうだ”の政治家の発言に引っ張りまわされ、被災地の復興は遅れるばかりだ。

国政ばかりではない。伴野豊外務副大臣が、総理の進退がはっきりしないため、先の外交日程がたたないと、こぼしていたが、その通りである。9月に予定されるオバマ大統領との日米首脳会談はどうなるのであろうか。おそらく菅総理は居座りを続け、これを花道に退陣するつもりなのかもしれない。菅総理は、自分自身は正しいと思っているかもしれないが、このままでは、史上、最低最悪の宰相としてその名前を歴史に刻むことになろう。
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      混乱の日イの歴史70年を生きてきた日本女性(3)

2011-06-21 06:10:56 | Weblog
矢野兼二知事はウスマン氏を通じて地元の有力者と接するうちにインドネシアの独立への願望がいかに強いかを実感した。しかし、東京の政府や地元の軍当局はそれが理解できないでいた。そんな状況の中で昭和18年5月「大東亜政略指導大綱」が決定され、インドネシアは独立させずに日本の"領土”にする方針が決まった。

これを契機に現地の空気は変わり日本もオランダと変わらない帝国主義ではないかという意見も出てきた。ウスマン氏もそれに近い意見で、長田さんの言葉を借りれば、矢野知事との話合いの下で、日本へ直接、現地の空気を伝えることになった。ウスマン氏は"内閣情報室員"の資格で一家とともに日本へ渡った。昭和18年の冬、東京に降雪があった頃で一家は帝国ホテルに一室を与えられた。これを長田さんは"幽閉”という言葉で表現していた。帝国ホテルには当時大東亜共栄圏からの要人が宿泊していた。

ウスマン一家は帝国ホテルで数か月生活したあと東京池袋に一軒家を与えられたが、戦局が悪化して、東京にも空襲が頻繁となってきた。一家はそのため、長田さんの生まれ故郷である山梨県に疎開することになった。ここで一家は甲府の"七夕空襲”を体験しているが、幸い被害はなかった。それから1か月後、日本は戦争に負けた。

敗戦直後の8月17日、インドネシアは待望の独立を達成した。しかし、戦後の大混乱の中で一家はすぐに帰国できるわけにはいかなかった。一家は、その当時の日本人と同様、戦後の苦しい食糧難を体験した。一方、祖国のインドネシアは、日本の敗戦後戻ってきたオランダとの間に独立戦争が発生した。ウスマン一家ようやく帰国できたのは昭和26年、ウスマン氏はその心労からか帰国した翌年病死された。長田さんは4人の遺児を抱え日本に帰国、働きながら大学を卒業させた。

長田さんは今年の8月、この波乱に満ちた半生をインドネシア語で出版される。なお矢野知事は戦後の連合軍裁判メダン法廷で"住民にじゅうぶんな食料を与えなかった”という理由にならないような理由で懲役8年を言い渡されている。(終り)

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