「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

地震の緊急「警報」と「予報」の違いがわからない

2015-05-31 06:21:06 | Weblog
昨夜,NHKテレビのタモリの番組を見た後、旅の疲れから早々と寝室へ行ったら、聞き馴れなれないチャイムが消したテレビから聞こえてきた。老妻もこれを聞き、すぐ地震緊急速報だと判断、再びテレビをつけたらテロップで速報が流れていた。それから数秒して、大きな今まで経験したことがない揺れの地震がやってきた。さすが、日本の科学技術も進んだものだと思ったが、正直言って老人には、数秒間では、あまり、なす術(術)はなかったが。

朝刊を読んだら気象庁が昨夜の地震について緊急地震速報(警報)を発表しなかったとあった。一瞬、僕らが聞いた音声はなんだったのかと思ったら、「警報」と「速報」とは違うものらしい。昨夜の地震はM8.5と巨大だったが、震源が深かったため、今の技術では予報できないのだという。どうも僕ら素人には解かったようで解からない。

昨年の御嶽山の噴火から始まって、箱根山、今回の口永良部島の噴火など、素人の目には、地震と何か関係があるのでは,ないかと思ってしまう。それに5月なのに全国で真夏日を記録している。大正12年の関東大震災を体験した先人の話では、大正時代も3年の桜島や15年の十勝岳など噴火が多かった。大震災の日も真夏のように暑かったとのことだ。古くは鎌倉時代も吾妻日記などによると、大地震が多く、夏なのに冬のような天候で冷害の被害の年が多かったという。

今回の小笠原西方沖の地震は、震源が540キロと深く、異常震域で発生したもので、相次ぐ火山の爆発や異常気候とは無関係だとは思うが、馬齢を重ねたせいか、なんでも気にかかってくる。せっかく緊急地震速報を出すのなら、「警報}と「速報」とが、どう違うのか解りにくい。素人にも解かりやすく一本化できないものだろうか。

御開帳 「三丁目の夕日」の世界

2015-05-30 06:33:48 | Weblog
突然の義弟の死で困ったのは、御開帳の最中でホテルがとれないことであった。ネットの「格安ホテル}で探し、やっと外国の大手ホテルの名前を冠しながら、比較的低料金の宿が見つかり、とびこみで二泊してきた。駅からも遠く、歩いて善光寺にも行けない立地条件から、御開帳にも関わらず宿泊できた理由かもしれない。ネット上でのホテルの魅力は”手造り”の朝食とあり、写真が載っていたが、僕ら老夫婦にとっては、まさに「三丁目の夕日」時代に回帰出来たようで嬉しかった。紹介してみよう。生卵に海苔、小さな塩鮭の焼いた切り身、野沢菜の漬物、焼豆腐の煮つけ、それに味噌汁とご飯―ただそれだけの簡素なものだ。想い出せば「三丁目の夕日」の昭和30年時代には、これで充分ご馳走だったような気がする。

義弟の葬儀の合間を見て、御開帳中の善光寺参を詣でてきた。七年目に一回のお祭りで、しかも今月一杯で終わりということもあって参詣客でいっぱい。とくに回向柱に手でさわれば、御利益があるというので、その周りの道は長蛇の列であった。やっとの思いで石段を上り、本殿に参詣できたが、とても回廊巡りは足が弱くてできず、お坊さんから、ご掌判という頭に布で触って頂けば、長生きできるという儀式を授かってきた。

”おらが善光寺さんは常夜灯の灯り”(「信濃よいとこ」新民謡)の昔から、善光寺さんは善男男女に親しまれてきたが、今年は外国人の観光ブームにのって、ここでも多くの外国人観光客が目立った。思えば、回向柱やご掌判など多分に、最近失われてきた「三丁目の夕日」的な世界である。ホテルのサービスも「三丁目の夕日」時代の人間らしすを感じてよかった。


 

   
               

お斉(おとき)と北信流お肴(さかな)

2015-05-29 20:45:20 | Weblog
義弟の葬儀で長野市へニ泊三日の旅をしてきた。最初はお通夜に出て、翌日の告別式に参列、帰京の予定だったが、28日が友引のため、告別式が一日延期され、久しぶりに信州の佛事を体験してきた。

最近、東京では葬儀が簡素化され”近親者だけ”の家族葬が多くなり、極端な場合には、火葬場だけの直葬(じきそう)もあると聞くが、義弟の葬儀は昔ながらの式にのとったものだった。昔、お通夜は東京でも自宅で行われ、近親者とご近所だけが参列したが、最近は家族葬でも式場で行われることが多く、時には日中の告別式より参列者が多いこともあるようになった。しかし、義弟のお通夜は行われた。火葬は28日、近親者で済ませ、29日に葬儀式場で行われた。

驚いたのは平日の10時からの告別式なのに参列者が300人もあったことだ。義弟は病院勤めのサリーマンだったが,町の少年野球の監督を30年やっていた関係で、”教え子”が多く、葬儀のお坊さんまで、昔義弟のノックを受けたことがったという。告別式の後、信州独特の冠婚葬祭の儀式である、お斉(おとき)があった。お斉とは、祭りの主催者が、お世話になった方々に一献差し上げるご馳走である。
僕は長野市生まれの妻と結婚して60年、その間、数々のお斉に参席したが、昔は必ずお斉の席上で北信流の謡が、お肴(魚)と称して披露されたが、今回、義弟の場合にはなかった。もう北信流の謡ができる人間がいなくなってきたのだという。葬儀関係者の話では、義弟の葬儀のお斉だけではないという。葬儀もやがて東京みたいになってしまうのであろうか。

善光寺の御開帳と”虫が知らせた”義弟の死

2015-05-27 04:58:41 | Weblog
昨夕、義弟がなくなったと、老妻の実家から知らせがあった。今日、僕ら二人は実家のある長野に向かう。世間でよく”虫が知らせる”というが、昨日の朝、突然、老妻が今、長野で開催中の善光寺の御開帳にあわせて、義弟を見舞いに行きたいと言い出した。義弟は昨年暮以来、入院して胃瘘(いろう)に
よる療養を続けていたが、急にどうのという状態ではなかった。僕は出来るだけ旅費を安く上げようと、高速バスを手配し、ネットで格安ホテルを予約したばかりであった。

「慣用句.ことわざ辞典」(三省堂)によると、”虫がしらせる”とは”何か不幸な出来事が起こるような、嫌な予感がする”という意だが、老妻の話だと寝室の灯りが、先日来ついたり消えたりの状態であったという。10年ほど前、義姉がなくなった時もトイレの灯りが同じ状態であったことを想い出したとのこと。昔から日本では”夢枕にたつ”といった言葉もあり、こういった話をよく聞くが、果たしてどうなのだろうか。

御開帳に詣でて義弟の回復願いは、残念ながらできなかったが、葬儀の時間を見て、是非、善光寺へ詣でて冥福を祈ってきたい。これも”虫が知らせた”のであろうか、市中のホテルが満杯でとれず、予約したホテルは、すこし町中から離れた、義弟が入院していた病院の近くで、老妻の実家の近くであった。享年80歳。超高齢化時代では、まだ少し若すぎる気もするが、男性の平均余命は過ぎている。胃瘻装置がはずされて、天国では十分美酒を味会うことが出来よう。合掌。



災害情報と老人とケータイ

2015-05-26 05:37:48 | Weblog
昨日の午後、関東地区では広範囲に渡って、かなり強い地震に見舞われた。僕はその時、老妻と一緒に浅草の菩提寺で行われていた御忌会(ぎょきえ)と施餓鬼(せがき)の法要に参加していた。広い本堂で15人もの僧侶が「南無阿弥陀仏」を唱えていた時、グラリときて、壁に立てかけてあった卒塔婆が倒れるほどの揺れだったが、さすが修行をつんだお坊さんたちだ。無事そのまま法要は執り行われた。

本堂は耐震コンクリート建てで倒壊はしないと思っていたが、天井の電飾が大きく揺れている。老妻が一瞬、僕の手を握ってきた。凡人の悲しさ、お経よりも地震の方が気にかかっていたら、早速隣席の若い女性が、ケータイを操作して情報を教えてくれた。震源地は埼玉県で、茨城県では震度5強を記録したが、幸い被害は出ていないというので、ほっとした。 

IT機器の進歩で、こうして災害が発生しても寸時にして情報が解かる。昨日はたまたま東京の山の手空襲から70年目だったが、あの時代は新聞もなく停電でラジオも聞けなかった。当時僕の住んでいた町から山の手空襲被災地までは直線距離にすれば、5,6㌔しかなかったが、全く大惨事になっているとは知らなかった。 

法要の帰途、電車の案内で首都圏の交通網が一時ストップしていたことを知った。僕ら二人とケータイを持っていないのである。10年ほど前一度購入したが、使用料に見合うほど使わないので止めてしまった。現在もなくても、それほど日常不便には 感じないが、やはり周囲の勧めの通り、非常時に備えてお世話になったほうがよいようだ。                                                    

モンゴル力士の優勝 日本人力士の不甲斐なさ

2015-05-25 04:45:18 | Weblog
大相撲の優勝は千秋楽結びの一番で、優勝の常連力士、東の横綱モンゴルの白鵬が、モンゴルの西の横綱日馬富士に負けて、新鋭の関脇、照の富士が初めて優勝賜杯を手にした。照の富士もこれまたモンゴル出身の力士である。大相撲はここ数場所、人気が回復してきて連日大入りの満員、ご同慶の至りだが、優勝後の君が代が、なにか”うつろな”ように聞こえたのは僕だけではないだろう。

日本人力士の優勝はこの10年近く出ていない。調べてみたら最後の日本人力士の優勝は平成18年1月場所の栃東で58場所遠ざかっている。(日本に帰化した旭天鵬を除く)これは異常である。大相撲はよく国技と言われ、単なる勝った負けたのスポーツではないといわれる。例えば、千秋楽という言葉一つ取ってみても、語源は、法会(ほうえ)の終りに演奏される雅楽の名から出ている。土俵上の所作にも伝統がうかがえる。

日本の力士はどうなっているのか。昨年、豪栄道が大関に昇進したが、昇進後の成績は37勝37敗の五分でとても大関の成績ではない。しかも今場所はケガで仕方がないとはいうものの、途中休場して、本来なら優勝した照の富士と当るところだったのに、相撲を面白くないものしてしまった。若い力士の中には、大相撲をプロレスと勘違いしている者もいる。土俵上での、あの動物のような咳払いは国技をなんと心得ているのだろうか。白鵬がやめるよう忠告したようだが、相撲協会は取り合わないらしい。

大相撲が八百長問題で大揺れし、国技に閑古鳥が泣いたのは僅か数年前の事だ。照の富士の台頭で大相撲のモンゴル力士時代は、まだまだ続きそうだが、日本人力士が、こういったテイタラクでは、やがて大相撲も衰退してしまうだろう。

年金生活者が景気の足を引っ張るといわれても

2015-05-24 05:17:56 | Weblog
東証一部企業上場会社の時価総額が591兆300億とバブル期を越え、過去最高になったと新聞に出ていた。景気のよい話である。と、いっても数字があまりにも多きすぎて、すでに年金生活24年になる僕には、まったくその実感がない。大相撲をテレビ観戦していたら、結びの一番で懸賞が40本もつき、旗をもった呼出しが土俵を何周もしいていた。一本6万円だそうだから、勝ち力士は一瞬で240万円手にしたわけだ。この景気は僕にも解かる。

たしかにアベノミクスの三本の矢の効果で、数字を見れば雇用は改善され、賃金も上がってきている。しかし、僕ら老人にはその実感がない。何故なのか。年金という一定の所得しかなく、可処分所得が限られているからだろう。ネットで東京発ロイター電が、日本の景気が今一つ回復しない原因は、年金生活者の増加が足を引っ張っているからだと指摘していた。

ロイター電によると、1990年には2627万人だった年金生活数が2013年には、団塊世代の加入により一挙に3950万人に増加。さらに増え続ける傾向にある。日本の総人口の13パーセントが年金で生活している勘定だ。家の近くに5階建てのスーパーがあり、時々昼間買物に行くと、高層階のロビ―には、僕と同年配のお爺さんが、食品売り場で買ってきた、おにぎりを黙々と食べている。夏は夏、冬は冬、家にいては冷暖房費がかかるから、無料のバスを使ってきているのだ、

平成27年度から年金支給額が、物価の上昇に伴って引きあげられた。しかし、僅か0,9パーセントにすぎず、物価の上昇率3パーセントに追い付かず実質的な減額だ。景気の足を引っ張らないよう、時には豪華な料理を食べたいと思ってもこれでは無理である。

何故韓国は「明治産業革命文化遺産」登録に反対するのか 食べ物の恨み?

2015-05-23 05:59:35 | Weblog
朴菫恵大統領が訪韓中のユネスコのボコモ事務局と会い、直接、日本の「明治産業革命文化遺産」登録への動きに反対を表明した。理由は登録申請の23遺産のうち7遺産は、韓国人の強制労働の上に建造されたという言いがかりだ。しかし、これらの建造物はすべて日韓併合(1910年)以前のもので、わが国が朝鮮人(当時は日本人)を徴用したのは戦争中の昭和19年になってからだ。どうみたって”いちゃもん”である。

明治維新期、我々の先人たちは、欧米に追い付け追い越せで国の近代化に努力した。僅かな国家予算の中から高い給料の外国人を雇って建てたのが、遺産として登録申請している鉱山跡であり、造船所であり、製鉄所である。他国の事はあまり言いたくないが、当時の李氏朝鮮国家はどうだったか。中国(清)の冊封下にあり、国内は内乱状態にあったのではなかったかー。

韓国の言い分は、どう見ても常識では理解できない。ふと僕は2013年、韓国がキムチをユネスコの無形文化財として申請却下された時のことを想いだした。「和食.日本人の伝統的食文化」が無形文化遺産として登録された同じ総会であった。却下の理由は、一商品を承認することは商業活動に加担するということであった。考えればその通りである。わが国は、スキヤキ、てんぷら、ラーメンといった単品を申請した訳ではない。

大統領をトップに国をあげて隣国の文化遺産登録申請に猛反対するのは異常としか思えない。まさか和食に負けたキムチの食の恨みから来ているのではないと思うのだが。科学的根拠がないのに、いつまでも日本の震災地からの水産物の輸入を禁止している。これもキムチの食の恨みなのだろうか。



大統領ご推薦の大東亜戦争時のインドネシアの戦跡

2015-05-22 04:57:48 | Weblog
知人から”最近、大東亜戦争に関係した本の出版が多いが、著者の独断が多いという手紙に添えて、知人が収集した記事の切り抜き のコピーを封筒一杯送ってくれた。その一つに「親日国の戦跡」と題する読売新聞のコラム記事(4月7日)があった。その内容は3月来日した、インドネシアのジョコ大統領が安倍総理主催の晩餐会で”多くの日本人に、ラジャアンパット、マナド、ブキティンギに足を運んで欲しい、と挨拶されたことについてであった。

ラジャアンパット(西パプアと)マナド(スラウェシ)は、最近マリンスポーツのメッカとして人気が出てきた場所、ブキティンギは西スマトラの高原都市だ。僕はこのうちラジャアンパットを除く二つに出かけたことがあるが、最高の観光スポットであると同時に大東亜戦争の戦跡でもある。ジョコ大統領が何故、この三つを上げたのか真意は解からないが、コラムの筆者は、ここを日本人が訪れることによって過去の日イ両国の歴史をくみ取って欲しいという大統領の気持ちが秘められているのではと書いている。

戦後生まれの大統領はご存知ないかも知れないが、従軍世代が若かった1990-2000年代にかけて、一時日本人の間でインドネシアへの慰霊を兼ねた観光旅行がブームであった。とくにラジャアンパットがある西パプア州は激戦地で、同州のソロンには戦友たちと遺族がお金を出し合って立派な観音像が建てられたが、10年ほど前壊されて、今は愛媛県の宇和に建て直されている。マナドは戦時中はメナドと呼ばれ、日本軍の海軍落下傘部隊が初めて降下した地である。つい最近までこのマナドの市民墓地には、落下傘部隊長、堀内豊秋中佐の遺徳を偲んで現地人が建ててくれた「霊魂」の慰霊碑があったが、何故か撤去されてしまった。ブキティンギには戦争中の第25軍司令部の防空壕が残っている。20年ほど前までは、日本軍による虐殺の現場と喧伝されていたが、インドネシア政府によって公式に否定された。しかし、現地ガイドの中にはまだ虐殺の話をしている者がいるらしい。

日本人のインドネシア観光といえばバリ島であるが、欧州より大きな広がりを持つインドネシアには、バリ島以外にもすばらしい観光スポットが沢山あり、同時に大東亜戦争の戦跡も残っている。ジョコ大統領の提案は、なかなか示唆に富んでいる。もっと日本人は過去の戦争の歴史を知って欲しいというのかもしれない。

後期高齢者医療費の窓口負担増は年寄りいじめ

2015-05-21 05:30:29 | Weblog
安倍総理が議長を務める政府の財政諮問会議で、民間議員の中から、資産や収入が多い後期高齢者の医療費窓口負担を上げるべきだと提案があった。75歳以上が加盟する後期高齢者医療保険制度によると、住民税課税額が一定以上ある層に対しては、現役並みの3割負担だが、この負担額を上げるべきというのか、それとも3割層の枠を拡大すべきというのか判らないが、僕にはこれは高齢者いじめの発想としか思えない。

先日、僕は小ブログで一昨年まで医療費3割負担だったが、膝の人工関節手術後、身障者4に認定され、多分それによる税金控除によるものだろう。昨年4月から、窓口負担が1割になった、と書いた。このブログを見た70年来の旧友の一人が、メールで、その詳細を教えてくれと言ってきた。旧友は80歳過ぎだが、依然、会社を経営しており、恐らく3割負担なのだろう。そして、多分、負担の矛盾に悩んでいる一人なのだろう。

僕ら年金が主な収入源の後期高齢者にとって、窓口負担の3割と1割とでは大違いである。3割負担の時には3か月に1度の定期診断(膀胱ガンの内視鏡検査)の際にはいつも支払いに1万円札が必用だったが、1割では1ケタ違うお札でも間に合う。診察の内容は違うが、昨日、大腸ガン手術後のCT検査の結果を聞きに行き、整腸剤1か月分貰っても支払いは千円札でおつりがきた。

国家全体の収入からみれば、後期高齢者の医療費窓口負担を上げたからといっても微々たるものだ。わが国では昔から長寿を祝う良習があり、還暦(60)から始まって白寿(99)まで節々のお祝いがある。超高齢者時代到来による高齢者医療費の増大が、医療福祉制度の根幹を揺るがす問題になっているのは了解しているが、「残薬」など、もっと手を付ける問題があるのではないのだろうか。