「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

"大山鳴動”の五輪会場選び 小池都知事の正念場

2016-11-30 06:26:34 | 2012・1・1
2020年東京五輪パラリンックの開催費削減をめぐってボート.カヌー、水泳、バレー三会場を見直しする東京都、政府。五輪組織委、IOC(国際五輪委)四者トップ会議で、昨日、ボート.カヌー、水泳会場は「海の森水上競技場」と「アクアティック.センター」の新設という従来案で一致をみたが、バレーボール会場については「有明アリーナ」(江東区)にするのか「横浜アリーナ」にするのか決まらずクリスマスの時期まで結論は先送りになった。

四者会議の結果をみて、小池知事には悪いが僕には”大山鳴動”の感がないではない。それでも都民に対して五輪の冗費を喚起し若干でも節約になったのは好かった。解からないのはバレー会場が先送りになったことだ。森組織委会長によれば、横浜市は会場誘致に迷惑しているそうだ。五輪は国家的事業であり、迷惑といのもおかしな話だが、小池知事は、きちんと横浜市との間に話がついているのであろうか。

小池都政について、都議会自民党が緊急提案の中で知事は”スタンドプレイ”が多すぎると批判している。”スタンドプレイ”とは①スポーツなどで観衆の拍手を受け要とする派手なプレー②自分をめだたたせる意識的に行う行動(三省堂 大辞林)とあるが、僕が見ても小池知事には多少、その気がないでもない。森組織委会長は、最初から小池知事に対して”独断先行されては困る”と言いう立場をとっている。ここは小池知事の正念場である。マッチポンプであっては困る。

「氷の水族館」と”生類憐みの令”

2016-11-29 06:00:27 | 2012・1・1
北九州市のテーマパーク「スペースワールド」が館内のスケートリンクにサカナ5000匹を氷漬けにした「氷の水族館」をオープンさせたところ”サカナが可哀想だ””なんたる倫理観だ”と批判が集中、中止になり「スペースワールド」は急きょ、犠牲になったサカナの供養をすることになったという。德川五代将軍綱吉の時代だったら、関係者は”生類憐みの令”によって、うち首に処せられたに違いない。

皇国史観の国史を叩きこまれた僕らの世代でも”生類憐みの令”は知っている。お犬様を極端に可愛がった悪法として教わったが、元禄年間24年間に犬、猫の家畜だけでなく、サカナ、トリに至るまで、ナマで食用にしたら”お触れ”に反していたらしい。ウナギ、ドジョウもお触れで販売を禁止されていた。戦時中の教育だったから、元禄時代は、人々が平和ボケしていてから、こんな悪法がでたのだと教わった。

現代も元禄時代にもまして犬猫などのペットブームである。雨の日、家のまわりを散歩すると、どの犬も胴のまわりにカッパをまとい人間サマが,オイヌさまのシモの世話をしている。僕らが子供時代だった頃は、東京の町にも野良犬がウロウロしていた。イヌにとってどちらが幸せなのだろうか。

昔、60余年前、新聞社の駆け出し記者だった頃、愛鳥週間に、屋内に鳥を放ち、子供たちにつかみ取りさせる企画を批判して書いた事がある。「スペースワールド」の「氷の水族館」の記事を読んんで、いつの時代も同じようなことがあるようだと思った。同時に今は、元禄時代と似た平和な好い時代である事にも感謝した。

&TOKYO  東京の 名物は?

2016-11-28 06:27:58 | 2012・1・1
升添都知事時代の”遺産”らしいが、2020年東京五輪パラリンピックを前に東京の魅力を世界に発信させようというキャンペーンが巨費を使って行われているようである。その一環として”&TOKYO"のロゴマークを、通訳などのボランティアの制服にも使っているらしい。その制服が”ダサい”という小池知事の指摘から僕は初めてこのキャンぺーンを知り、改めて東京の魅力について考えてみた。

まず、次元の低いところで東京の名物はあるのだろうか。昔、東京へ修学旅行に来た生徒たちが、東京名物は浅草の”雷おこし”ぐらいしかなくて困ったと聞いたことがあるが、今でも同じような気がする。40年前、札幌に勤務していた時、北海道土産といえば、函館修道院のクッキーとか北見のハッカー飴しかなかったが、今は札幌名物といえば、白いチョコレートで、外国人観光客は必ず土産に買って帰るそうだ。

昨日、老妻と娘が、江戸時代から続く品川の荒神さまの秋の大祭に行き、名物の”お釜おこし”と”久寿餅”を買ってきた。荒神さまは、”火の用心”と”お釜おこし”の”神様”として江戸っ子に親しまれ、お釜の形をした”お釜おこし”(写真)が昔から縁起ものとして売られている。”久寿餅”は、元は亀戸の天神様や川崎大師の名物だが、戦後、荒神様の門前でも売られるようになった。

東京は江戸400年の歴史しかないが、”歴史のない”新興国にとっては魅力のある町だ。”&TOKYO”キャンペーン悪くはないが、もっと東京の魅力を再発見し、同時に、新しい東京名物を売り出してはどうだろうか。
(写真は”お釜おこし”と”久寿餅”)

”限界集落” 大麻 現代版ヒッピー

2016-11-27 06:03:47 | 2012・1・1
長野県北安曇(あずみ)郡池田町の”限界集落”に住みついた27歳から64歳までの男女22人が厚労省麻薬取締部と警察との合同捜査班によって大麻の栽培.所持の容疑で摘発逮捕された。男女たちは池田町の”限界集落”を売り物にした音楽イベントなどを開催、大麻を使用していたという。池田町は北アルプスが展望でき、安曇野の広がる、人口1万人足らず、”日本で最も美しい村”連合を売物にした町だ。

この報道を知り、僕は先ごろ沖縄の石垣島で同じように大麻の栽培.所持で捕まった元女優の高樹沙耶と同居していた男性3人のことを思い起こした。池田町の事件と似かよっている。早速調べてみたら、平成25年9月、池田町で同じような音楽イベントにからんで大麻事件が起きており、このイベントに高樹沙耶が、本名の益戸育枝の名前で参加、”祝詞”を述べている。言ってみれば、同じ穴のムジナなのだ。

1960年代の後半、世界的にヒッピー運動が盛んだった。ベトナム戦争に反対して、人間性と愛と自然の中での生活を標榜して若者たちが離島や寒村などに住みつき麻薬を吸い問題になった。池田町や石垣島の連中も現代版ヒッピーである。世相も泥沼の中東紛争、難民、国内では先がみえない老後の不安などなど。迷惑なのは池田町だ。童謡”照る照る坊主”の作詞家、浅原六郎の生誕地として、自然豊かな”日本で最も美しい”村を標榜している。外部が勝手に”限界集落”呼ば割するのは失礼だ。














老人の高血糖と合併症

2016-11-26 06:21:15 | 2012・1・1
昨日、近くの病院で月一回の定期診断を受けたところ、HBAIC(ヘモグラビン.エーワンシ―)値が、このところ、高いながら7台で推移していたのが一挙に2ケタになってしまった。主治医は、出来る限り薬を出さない先生だが、やはり薬を使うことになった。そして、合併症を心配して眼科医での診断を勧めた。早速、その足で僕は眼科医へ行き、精密検査をしたが、幸いまったく正常なことが判り、レントゲン写真を頂いて帰った。

高血糖からくる合併症の怖さについては、素人ながら僕も知っている。周囲には若くして失明したり、足を切断した人もおり、現実に友人の一人は腎不全から人工透析を受けている。僕の場合は、子供の時、近所の悪童との”石合戦”の石が右目に当たり、網膜剥離で失明、左目も10年前白内障の手術を受けている。それだけに、目については人一倍気にしている。

HBAICが何故上昇したのか判らない。今年1月の大腸ガン手術後、僕は50年来の晩酌を止め、食事にも配慮してきたのだが、やはり、口さみしから最近、間食が多くなっていたのかもしれない。医師は少量ならアルコールは問題ないといっている。僕も、昔の友人との会合などでは、僅かながら口にしている。残り少なくなった人生である。禁断の生活にするか、人生を楽しむべきかなのか。to be not to be、ハムレットの心境である。とりあえず、スーパーで時々買って食べていた安大福や団子だけは食べるのは止めよう。



お米の配給”ニ合五勺”に増配 70年前の亡父の日記の時代

2016-11-25 06:08:30 | 2012・1・1
東北の原発事故被災地の知り合いから快気祝に2キロ入りのお米が届いた。やはり、米どころのブランド品は美味しい。早速二人して頂戴した。戦中戦後の未曾有の食糧難を体験してきた僕ら世代には色々お米について想い出がある。

70年前の昭和21年11月の亡父の日記補遺に”朗報!今月から、お米一人一日二合五勺に増配”とある。尺貫法の廃止で現代人には解からなくなったが、今流に直せば約300グラムである。300グラムと聞いても僕には見当がつかないので、老妻に聞くと、わが家二人の1か月の消費量は8キロといから、かなりの量である。だから朗報には違いないのだが、僕の記憶では実感がない。ただ、この年出来秋前の5月には、皇居前で”朕はたらふく食っている。汝、臣民餓えて死ね”の米寄こせデモが行われいただけに庶民には朗報だったわけだ。

当時、亡父の日記によると、やはり二合五勺に増配になったというが、言葉だけで依然サツマイモなどが代替品として配給されていた。亡母は電車に乗って多摩川を渡り、当時まだ農村地帯であった元住吉へ、定期的に野菜の買い出しに出かけていた。しかし、わが家の近くの開通前の目黒通り上には、バラックながら引揚者による仮設のマーケットが建てられ、おカネを出せば肉もサカナも買えるようになった。

新嘗祭(23日)の日、僕は後楽園球場に弁当を持参、職業(プロ)野球の見物に出かけている。川上(哲治}赤バット、大下(弘)靑バットの走りの時代である。家では配給になった玄米を一升ビンに入れ、ハタキの棒で”精米”していた時代である。加齢とともに色々昔のことが懐かしく想い出される。

"霜月(11月)の初雪昭和も遠くなりにけり”

2016-11-24 07:43:23 | 2012・1・1
二階のベランドの窓を開けたら、みぞれが何時か雪に変っていた。雪国では11月の積雪は珍しくはないが、東京では僕の記憶にない。調べてみたら当たり前だ。気象台の記録による前回の東京の初雪は昭和37年11月、54年ぶりだという。僕はこの時期、新聞社の中東移動特派員として、湾岸諸国を歴訪中だった。多分、アデンからイエメンのタイズへ向けて砂漠の上を走っていた。

俳人中村草田男の句”降る雪や明治は遠くなりにけり”は明治34年生まれの草田男が昭和6年、母校の麻布の小学校を訪れたとき詠ったもので、時の経過は27年にすぎない。54年という年月はその倍である。霜月(11月)の降雪を見て一句”霜月の雪昭和も遠くなりにけり”。

昭和37年11月といえば、世界はいわゆるキューバ危機で米国とソ連(当時)との間で核戦争が起きるのではないかと揺れていた時だが、日本では2年後の東京五輪を控えて景気が上向き、巷では橋幸夫と吉永小百合の歌ったデュオ”いつでも夢よ”や中尾ミエの”可愛いベビー”がヒットしていた。東京新宿の超高層ビル群はまだなく、高速道路も一部しか開通していなかった。しかし、54年前には今のような年金問題も老人医療介護の問題もなかった。貧しかったが、国民が将来へ向かって皆夢を抱いていた時代のように思う。

僕の記憶にある初めての東京の降雪は昭和11年2月26日の2、26事件前の大雪だが、これは80年も前の事だ、昭和ははるか遠くの事になりつつある。
(目黒の自宅ベランダの手すりはうっすり,濡れているだけ。24日正午)


小池都知事、”おもてなし”制服より、老人向け交通インフラ整備を

2016-11-23 06:28:38 | 2012・1・1
小池百合子都知事が2020年東京五輪パラリンピックのボランティア用に、升添前知事時代に制定された制服は”ダサイすぎる”という理由から新たなものにするという。すでに、3015万円かけて3731着作っているのに、知事の”もったいない”精神にもとるうな気がするが、どうなのだろうか。五輪会場の見直しは理解できるが、ここまで来ると、女性の単なる潔癖感にしか思えない。

1964年東京五輪の成功の一つは、五輪を契機に東京の交通インフラが整備されたことだ。都内の高速や幹線道路は見違えるほどよくなった。僕は72年の冬季五輪前後にも、札幌にいて新しく地下鉄が開通、交通網が整備された姿をこの目で見てきている。しかし、2020年五輪パラリンピックでは、こういったレガシイ(遺産)は何か計画されているのだろうか。

昨日、南麻布の知人宅に用事があって東京メトロの広尾駅で別の友人と待ち合わせたが、杖突き老人にとっては一苦労だ。駅にはエスカレーがなく、一基あるエレベータ―を利用して、やっと地上に出たが、友人宅からはるかに遠い出口だ。広尾駅だけではない今月、僕は会合が多く、都営地下鉄内幸町駅、神保町駅でも同じ体験をしている。杖突き老人にとっては、バリアーだらけだ。

2025年には、団塊世代が皆、後期高齢者を迎える。杖突き老人はもっと増えるのは必至だ。その意味で2020年五輪は、交通インフラ整備にとって良い機会だ。例えば地下鉄九段下駅から、杖をつきつつ靖国神社を参拝、帰りに下りのエスカレーターのある入口を探すのが、どんなに厳しいか。小池知事、一度機会を見て視察されたらどうか。

(写真は車イス対応の設備しかない広尾駅と改札フロアーから地上まで階段しかない内幸町新橋口)

長門日露会談 眉に唾をつけて臨んでほしい

2016-11-22 05:35:56 | 2012・1・1
北方領土問題を含む平和条約締結について話し合う12月15日の日露首脳会談に先立って安倍総理とプーチン大統領がリマのAPECの会議の席上話し合った。現地からの報道は”好い話し合いが出来た”(安倍総理)”とか”日本側の8項目経済協力提案は素晴らしい”(プーチン大統領)といったバラ色の観測が多い。しかし、一方では、メチャクチャ満点の結果は望めない”(二階自民党幹事長)といった煙幕発言や”ロシアの食い逃げ”を恐れる観測もある。

日ソ平和条約宣言が調印されたのは、昭和31年(1956年)12月、ちょうど60年前の事だ。当時の鳩山一郎総理とフルフチョフ第一書記との間で、はっきりと平和条約締結と同時に歯舞、色丹は日本側に引き渡すと明言している。以来半世紀余を経て、両国で何回も交渉を続けてきたが進展はない。それだけ難しい問題である。

東京のロシア大使館の所在地の昔の地名は「狸穴」(まみあな)といった。江戸時代には雌狸の巣があったほど辺鄙な場所だった。昔から俚諺に”タヌキやキツネに化かされないよう、眉に唾をつけろ”と言われてきた。ロシアは冷戦が終わるまでソ連と呼ばれていたが、当時、庶民は駐日ソ連大使館を「狸穴」と呼び、事あるごとに右翼が街宣車が抗議かけていた。

戦前、女の子の毬(マリ)つき唄に”一列談判破裂して、長門の浦を船出して日露戦争始まった”といのがあった。安倍総理の故郷、その長門での”談判”である。談判が破裂されては困るが、したたかな”タヌキ”の国だ。化かされないよう眉に唾をつけて臨んで欲しい。

日本料理店が一軒もなかった半世紀前のジャカルタ

2016-11-21 06:47:26 | 2012・1・1
昨日、半世紀前、インドネシアの首都ジャカルタに在住していた昔の仲間の会に出た。昭和41年から42年にかけて、インドネシアでは前年の40年9月30日に起きたクーデター未遂事件直後で、スカルノ(初代大統領)からスハルト(2代大統領)への政権移行期、国全体が混乱の極にあった時代に苦楽を共にした仲間たちである。

当時、ジャカルタは夜間外出禁止令が出ており、ほとんどの日本人は治安の悪化から単身赴任でホテル生活をしていた。スカイロケットと呼ばれたものすごいインフレで、国民は塗炭の苦しみの中にあった。毎日のように学生のデモがあり、僕ら日本人は華僑と間違えられないように、外出時の車にはフロントに日の丸をはったりした。そんな中で、不注意から僕は白昼、中心街で軍服を着た強盗に拳銃を突き付けられ、財布と時計を強奪されたりした。

世界的な日本食ブームで、ネット情報によれば、今、ジャカルタには日本食料理店が千軒以上あるそうだが、半世紀前には一軒もなかった。インスタンントラーメンさえなかった。僕ら単身赴任者は日本食恋さに、中心街のメンテンにあったイタリアレストランに日本食まがいのものを求めたり、外港のタンジュンプリオクまで出かけ中華料理店でイカの刺身を特注したりした。

僕ら日本人は、華僑を通じて”闇ドル”を購入していたからスカイロケットのインフレの中で、かえってその恩恵に浴していたが、一般庶民は大変で、僕らが下町の中華食堂で昼食をとると、食べ終わった途端、子供たちが残飯を求めて集まってきた。敗戦直後の新橋の闇市で進駐軍”払いさげ”の残飯の雑炊が売っていたそうだが、それ以上に子供たちの”乞食”は痛ましかった。僕らは昭和21年にできたという新橋の老舗中華料理店で、当時の話を肴に話し合ったが、半世紀の年の流れを感じた集まりだった。