「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

こうして煙草をやめた

2006-05-31 05:24:04 | Weblog
きょうは世界禁煙デーである。今年のシンポジュームのテーマは
「やめたい人を手助ける禁煙支援」だそうだ。そこで、ささやか
ながら自分が”こうして煙草をやめた”体験談。

昭和58年の、ちょうど今ごろの季節だったと思う。自転車に乗って
”セブン・スター”を買いに行った。多少二日酔いだったのかも
しれない。前の買い物籠に置いたはずの煙草が家に帰るとない。
とたんに喫煙が馬鹿らしくなった。前から周囲の家族から”ワイ
わい”喫煙をとがめられていたこともあったが、これをかぎり
プツリと煙草をやめた。三日に二箱程度の平均的スモーカーだったが
やはり最初の数日間はきつかった。しかし、マラソンと同じである。
禁煙継続日時を何時間、何時間と時間単位で数えいるうちに、逆に
それが面白くなって、いつか平気になった。


厚生労働省の昨年度の記録によると、まだ男性で43・3%、女性の12%が
喫煙しているという。これだけ煙草の害、とくに最近は受動喫煙の
害が叫ばれているのにである。僕の周囲の若死にした友人、知人は
まちがいなくスモーカーであった。なかでも”ピース”の両切愛好者は
100%早逝している。
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66年前のお台場 その変容

2006-05-30 05:21:14 | Weblog
「ゆりかごめ」も「レンボーブリッジ」もなかったころ、お台場への
アクセスは舟だけだった。当然だ。もともとお台場はぺリーの黒船の
来航に備えて徳川幕府が1854年、江戸湾に急遽造った浮かぶ城だった
のだから。幕府は1年がかりで、近くの御殿山の崖をけずり第1から
第6まで六基お台場をこしらえた。そのうちの二基、第2と第6が今
かろうじて文化遺産として残っている。

66年前の昭和15年の夏、今は埋立られ姿を消した第5台場で海洋少年団
の水泳道場が開かれた。当時小学校4年だった僕は母に連れられ一週間
ここへ通った。日の出桟橋から毎朝はしけが出て、会場の第5台場まで
運んでくれた。岸の近くに木製のインスタント・プールがあり、ここで
とっくり組みは海軍式に鍛えられた。僕もこの道場で初めて泳げるよう
になった。

当時でも海はきれいではなかった。台場付近の水域は湾に流れ込む目黒川
流域住民の汚染物投棄場になっていた。第3お台場は公園になっていたが
子供の目にも荒れ果てた印象だった。道場では最終日には羽田沖まで遠泳
も行われた。

毎月新聞に挟まれてくるお台場宣伝のフリー・マガジーンをみるたびに
お台場臨海地域の発展と変容に驚かされる。蒼桑の変とはまさにお台場の
ことをいうのだろう。




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ジョクジャカルタの英雄墓地

2006-05-29 06:51:35 | Weblog
昨夜おそく(僕にとっては)知人のM氏から電話を貰った。M氏の父親は
先の戦争のさい、海軍軍属としてインドネシアに従軍したが、そのまま
日本に帰国せず同国の独立戦争に参加した。出征まえに結婚、M氏ともう
一人のお子さんがいたが、他国の独立に情熱を傾け家族を犠牲にしてし
まった。今では考えられない話だが、当時の日本人にはこのような人がいた
のは事実だ。M氏のお父さんは、いま、ジョクジャカルタの町中にある
インドネシア政府の英雄墓地の一角に葬われている。M氏からの電話は
お父さんのお墓の安否の問合せであった。

ジャカルタのカリバタ英雄墓地には、M氏のお父さんと同様インドネシア
政府が国のために功績があったと認定した旧日本軍関係者十数人が眠って
いるが、地方の町にもそれぞれ英雄墓地があって独立戦争に参加した
日本人がインドネシア政府の手で供養されている。しかし、戦後60年、
地方の英雄墓地を訪れる日本人もいなくなり、墓前の供花もめっきり
減ってきたようだ。M氏からの電話で改めて南冥の地に果て異国の地に
眠る方々に合掌した。






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地震と噴火のダブルパンチ ジョクジャ

2006-05-28 05:14:05 | Weblog
ジャワの古都、ジョクジャカルタが今度はM6・3の地震に見舞われた。一報を
聞いたとき、誰もがついにムラピ火山が大爆発したのかと思ったに違いない。
ムラピ火山は半月前に噴煙を出し火砕流の流失で大勢の住民が避難したばかり
である。(小ブログ5月16日参照)しかし、今回の地震は断層の横ズレによる
もので、火山の爆発とは関係ないようだ。

仏跡ボドブドウールなど観光地を持つ古都ジョクジャカルタは、ムラピ火山の
爆発の余波を受け、最近は閑古鳥が鳴く閑散さ。ニ、三日前の新聞報道では
政府の観光関係者が”火山の爆発の危険は遠のいた”と客の誘致作戦に乗り
出した矢先であった。

幸いボドブドウールなどの遺跡には被害は出ていない。しかし、目抜きの商店
街やホテルの中には倒壊したものもある。ジョクジャカルタと京都とは古都
同士という結びつきで姉妹都市の関係にある。僕は昭和41年以来、十数回この
街を訪れているが、古いたたずまいを持つよい町だ。一日も早い復興をお祈り
する。
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海軍記念日 東郷元帥とニミッツ提督

2006-05-27 05:40:08 | Weblog
今日は海軍記念日であった。明治38年(1905年)5月27日、東郷平八郎大将
(後に元帥)率いる我が聯合艦隊が対馬の沖でロシアのバルテイック艦隊を
撃破し日露戦争を勝利に導いた。それを記念して戦前は海軍記念日として
祝ったが、戦後占領軍の命令で廃止された。しかし、日露の役では日本海
海戦は文字通りー「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」ー
で、国運をかけての戦いであったのだ。

若者の街、原宿竹下口から徒歩3分の所に元帥を祀った「東郷神社」がある。
本殿は昭和20年の空襲で消失したが、戦後昭和39年再建された。この再建に
あたって戦争中敵として戦ったニミッツ聯合艦隊司令長官が自著の印税の
一部を寄贈した。ニミッツ提督は東郷元帥を尊敬してやまず横須賀の元帥の
かっての旗艦「三笠」の保存にも尽力した。

敗戦まじかの昭和20年7月ごろ、こんな歌が流行った。
♯ 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ 地獄へ逆落とし
国民の戦意向上、敵愾心をあおるための軍歌だったが、それから数か月後
ニミッツ提督は焦土の横須賀に足を印し「三笠」を訪れている。
 


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”ダ・ヴィンチ“現象と仏教

2006-05-26 07:17:01 | Weblog
信心とはほど遠い僕が昨日、菩提寺の「お施我鬼」会に出席した。お寺には
お盆と春秋二回のお彼岸にお墓参りに行く程度の仏教徒である。浅草のお寺
の本堂には百数十人の善男善女が集まっていた。十五人の草色の衣を着た僧を
従え紫の衣を召した僧正の佛会は厳粛ながら鳴り物入りで賑やかであった。
ふだん葬式の時しか仏会に接したことのない僕には”散華”(実は僕はこの
名前すら知らなかった)は珍しく派手やかであった。

年齢相応にここ数年物故する友人知人が増えてきた。そして、なぜか本人の
希望ということで宗教儀式なしの”お別れの会”が”流行”してきた。大方の
日本人は名目的な”仏教徒”だから本人はそれでよいのかもしれない。しかし
日本の伝統文化の根源ともいうべき仏教にとっては問題だろう。わずかに葬式
を通じて庶民と接点のあったお寺さんやお坊さんである。”お別れの会”の
流行はその接点すら奪おうとしている。

このまま進めば、将来お経を聞いたことがない日本人が出てくるかもしれない。
西欧の”ダ・ヴィンチ”現象と同じことが着実にわが国でも進んできている。














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"大衆魚”、鰯の思い出

2006-05-25 05:50:47 | Weblog
”鰯っこや、鰯っこ””アサリ、シジミ”-と昔、物売りが江戸の町を
売り歩いた。実際に見たわけではないが、子供の頃までその独特の節回しは
残っていて仲間同志”あさり、死んじまえ”などと茶化して遊んだものだ。
鰯やアサリ,シジミは八百八町庶民の手ごろな栄養源だったのだろう。

その鰯が一匹一千円の高級魚なみの値段をつけ話題になっている。1988年には
年間15万㌧あった水揚量が2000年には449㌧に激減、さらにここ数年へり続け
ている。それが高値をよんでいる原因だという。なぜ鰯は減っているのかー。
乱獲か、環境破壊か,異常気象によるものか、はては鯨の頭数が増えたために
よるものかー。色々いわれているが定説はない。

北海道では鰯を"七つ星"という。体側に七つ斑点があることからくる名称だ。
札幌にあしかけ10年生活,すすきのの炉端焼でよくお世話になったが大衆魚
という感覚ではなかった気がするのだがー。戦争直後の焼跡の闇市で大羽の
鰯を焼いて売っていた。なにも食べるものがなかった時代、庶民にはとても
手の届かない高値だった。
鰯は時には高くなり、時には安くなったりする変なサカナだ。






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焼夷弾が落ちてきた夜

2006-05-24 06:05:02 | Weblog
あの切羽詰ったような空襲警報の不気味なサイレンとB-29 の爆音は生涯
忘れられない。61年前の昭和20年5月24日午前1時50分、空襲警報のサイ
レンと共にB-29の編隊が上空に現れ、焼夷弾を落下し始めた。ザワザワ
っと落下音がして各所に火の手が上がった。僕はあわてて父母と一緒に
水のついた火たたきで消火した。不幸中の幸い大事に至らずにすんだが
この夜の空襲でも東京では3月10日の大空襲につぐ犠牲者が出ている。

この夜の空襲で近くに住む住吉胡之吉さん一家6人が戦災死している。
胡之吉さん(24 歳)は当時東大工学部学生で航空研究所に動員されて
いたが、亡くなられる20日前の日記にこう書かれている。
「美しきも清き富士,郷土愛、民族愛が祖国愛たることならば、人後に
落ちない。だがただ過去の歴史、国体のために戦うのは、どうしても
割り切れぬ」(「きけわだつみのこえ」=日本戦没者学生の手記)
空襲から3か月後、日本は敗戦を迎えた。


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10キロ減量作戦

2006-05-23 06:17:51 | Weblog
3年前の5月22日僕は10キロ減量作戦を開始した。結果は見事に成功、2か月
後の7月22日、83・5キロから73・5キロに減量した。
減量は糖尿病の治療、切羽詰まった理由からであった。当時の血糖値は473、
グリコヘモグロビンは10・4で、喉が渇いて仕方がなかった。主治医の
勧めで「食品交換表」を購入、一日15単位(1,500㌍)を目標に作戦を
開始した。

参考までに当時の記録を見ると(朝食)ご飯軽く一杯、味噌汁一杯,おかず
野菜(生キャベツ、トマトなど)魚少量(昼食)食パン8枚切り1枚,豆もやし炒め
酢漬、ハム一枚(夜食)ご飯一杯、煮魚少量、ゴーヤ・チャンプール、生野菜
サラダ(間食)ヨーグルド、りんご小片3、バナナ半本ー毎日メニューは違うが
大体カロリーは15単位に抑えた。そして、この食材の記録を毎日、冊子に書き
残した。

三年後、体重は見事に減量作戦前に逆戻りしてしまった。血糖値、グリコは
かろうじて正常値に近いが、やはり人間である。喉元すぎればの喩えの通りで
ある。失敗の原因は記録していた冊子のページが一杯になり、書かなくなったに
すぎない。その年の10月31日まではカロリー15単位前後の記録が残っている。
継続は力、継続させるためには、こんな簡単な仕掛けも必要だという一例。
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古田監督の”選手起用”の失敗

2006-05-22 06:06:36 | Weblog
昨夜というより今日(22日)早暁までTV でヤクルト対ソフト・バンクの
野球試合をみてしまった。ヤクルト・ファンにとっては、この5時間25分
の熱戦も、古田監督の”選手起用”の誤りで後味の悪い試合になってしまった。



たしか延長10回の裏、ヤクルトにチャンスがめぐってきて指揮をとっていた
古田監督も、ベンチから出て”選手”(ピンチ・ヒッター)として出る準備を
開始した。そして一度はネクスト・サークルに入って観客をわかしたが、自ら
"選手起用”を誤って出場しなかった。ちょっと口うるさい解説者も言っていたが
あの回は観客サービスのためにもバッター・ボックスに立つべきだった。
昼間の野球が遅れたため連日、試合の開始が遅れ、しかも先発の元大リーグ投手の
乱調でヤクルト・ファンはイライラしていた。終電車の時間を気にしながらも
沢山のファンが球場に残っていた。

翌日のスポーツ新聞の見出しが古田プレーイング・マネージャーの頭には
浮かばなかったのかー。興行的にも監督の"選手起用”は失敗だった。
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