立教大学で開催中のインドネシアにおける日本の史料展のワークショップで、僕も「大東亜戦争とインドネシア 日本の軍政」など著書もあり、半世紀以上ものインドネシア.オブザーバーの僕は共催の国際交流基金アジアセンターに対して”押しかけ“講師”を申し入れていたが、時間の都合でできないと断りのメールが入った。最初から期待はしていなかったが、せっかく準備していたので、一部を紹介してみよう。
すでに僕は共催の交流基金と在日大使館にアウトラインを提示してあるが、大切なの史料の時代的な解釈だと提案するつもりであった。一例として日本の一部の研究者の間では、インドネシアの独立宣言にある期日、17-8-05(皇紀2605年)を取り上げ、インドネシアの独立は日本の完全支配下で行われたと説明しているが、それは誤りであると、昭和19年の「ジャワ年鑑」(復刻版)をみて、表紙に「年四百六千元紀」と書いてあるように皇紀が一般化していたことを紹介するつもりであった。
一事が万事、戦後生まれの日本人には、銃後の生活が理解できないと、軍政下の生活も分からず、誤解を呼ぶのではないだろうか。戦前は宮城遥拝、日の丸掲揚、隣組などは日常的な行事であり、組織であった。戦後20年、1966年、僕がジャカルタに常駐していた時には、たった3年だった日本軍政の名残があちこちにあり、銃後の生活の体験者を苦笑させたが、今の人たちはどうだろうか。
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