「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

コタコタ.インドネシア(14)ジョクジャカルタ 夢を誘うサルタンの都

2020-06-30 10:31:00 | 2012・1・1

「異国を旅する旅人たちに夢を誘うのはサルでタンの都ジョクジャカルタである」と”虎刈りの殿様、徳川義親侯がその著 じゃがたら紀行」の中で書いている.。たしかに、このサルタン王国の居城クラトンをはじめ離宮タマン.サリには、日本人が忘れかけてきた旅愁というか夢ににたものがある。

しかし、残念ながらジョクジャ(略名)は郊外にある二つの世界遺産、ボロブドール仏教遺跡、プラブバナン.ヒンズー遺跡の玄関口、短期滞在の観光客が多い。しかし、徳川候推奨のクラトン、タマンサリだけはでなく、町全体が観光的価値がある。特に目抜き通りのマリオボロの夜店は一見の価値がある。歴史のある街だけに鶏肉にナンカをあしらった料理ゲデ(gede)などや伝統の菓子ドドールは美味だ。

この古都も年々発展している。1966年(昭和41年)わが国からの賠償引き当て援助でアンバラクも.ホテルが建てられ宿泊したが、当時ホテルのあたりは畠だったが、今は町中である。最後に訪れたのは2012年だが、ボドールドールも車イスで観光する状態(写真)歳月の流れを感じた。

 


コタコタ.インドネシア(13)スラカルタ ブンガワン.ソロの流れ

2020-06-29 05:00:40 | 2012・1・1

中部ジャワにマタラム王国の流れを組む古都が二つある。戦争中彼の地にいた日本人はジョクジャカルタは京都、スラカルタは奈良と呼んでいたが歴史的な根拠はない。スラカルタはむしろ、市内を流れるソロ川(ブンガワン.ソロ)の名前をとって現地ではソロと言われることが多い。

戦争中南方へ従軍した世代にとって、「ブンガワン.ソロ」の名前はインドネシアには関係なく、戦後藤山一郎や松田としによって歌われ大ヒットした歌の題名として知られている。この歌がソロに住むシンガーソングライターのゲさんであることを初めて日本に紹介したのは筆者である。1966年(昭和41年)12月、当時勤めていた新聞社の特派員としてソロを訪れ取材している。それまで日本ではジャワ民謡とされていた。それが縁で84年,ゲサンを札幌雪祭りに招待、さらに友好協会の協力でソロ川畔の公園に胸像をつくり寄贈した(写真)

現在のジョコ.ウィドド.インドネシア大統領(1961年ー)はソロ市生まれジャカルタ市長前はソロ市長も経験している。根っからのソロっ子で、父親は家具職人、大統領は子供の時、父親の手伝いで市場で家具の販売もしたという。ソロの大学の一つには「スペルスマル」(1966年3月11日政変)がある。スカルノ(初代大統領)からスハルト(第二代)への政権移譲の略名である。筆者がゲさんを取材した年だ。半世紀以上の歳月が流れている。「ブンガワン.ソロ」のメロデイを知らない日本人もいなくなってきたのでは。


レインボーブリッジに注意灯を コロナウィルス拡大

2020-06-28 07:03:59 | 2012・1・1

コロナ.ウィルスの東京での感染者数が昨日27日も57人を記録、これは緊急事態宣言解除後での最多である。しかもここ数日間50人前後の日が続いている。しかし 都知事選挙中ということからか、マスコミはあまり騒がない。小池百合子知事も候補者の一人のためか発言はないが、情勢は「東京アラート」時とあと変わりがない。あの時は東京湾にかかるレインボーブリッジが赤色に点燈されたが、赤色ではなくとも虹色ではない、橙色の注意灯に転ずるべきではないだろうか。

7月5日の都知事選挙までのこの1週間の「空白」が僕には心配だ。緊急事態宣言解除後の社会全体の緩みと行政機能の弛みがあるのではないか。10万円の交付金は手続きをしてから相当たつのに交付されない。その代わりなのか、覚えもないマスク50枚が区(東京)から送られてきた。“安部マスク”と同じで国民の要望に応えていない。

第二波,、第三波が来るのかどうか予断は許さないが。このところの政府の動きを見ていると専門家会議の改組など機構改革に力を入れている。しかし、感染の拡大を防ぐのは国民の意識と行政力である。緊急事態の復活は期待しないは、もしそのような事態が来るのなら、しっかりした見通しを建て朝令暮改では困る。


コタコタ.インドネシア(12)マゲラン スデイルマン博物館

2020-06-26 17:54:04 | 2012・1・1

中部ジャワの3000m級の山脈が連なる山裾の町。インドネシア初代の国軍司令官スディルマン将軍が1950年この地で肺病で34歳で亡くなられいる。スデイルマンといっても一般日本人はジャカルタの目抜き通りの名前としか知らないが、インドネシアでは独立戦争を勝利した将軍として知らないもないものはいない。今、死去された建物は博物館となっている(写真)

戦争末期、ジャワ島を占領下に置く第16軍司令部は組織改革でマゲランに中部防衛隊司令部を置いた。この司令部の憲兵隊が敗戦直後の群衆の”武器寄越せ騒動に巻き込まれ、10人が郊外の茶畑で惨殺されている。戦後、戦友たちが慰霊現地に慰霊碑を建てお祀りしているが、同じような騒動でスマランはじめジャワ島だけ500人以上が犠牲になっている。あまり知られていない悲しい歴史である。


コタコタ.インドネシア(11)テマングン 萬邦大和大結の碑

2020-06-25 17:50:10 | 2012・1・1

中部ジャワの山間の静かな小さな町である。ジョクジャカルタかあ67キロ、マランから15キロ。インドネシア独立戦争時の激戦地の一つである。戦後二代目の在日大使(参謀長)として在勤したバンバン.スゲン氏の生誕地である。街の郊外の小高い丘の上にはバンバン.スゲン氏の銅像が激戦地を指さして経っている。この丘の下の記念館に「万邦大結」と刻まれた石碑が保存されいる。敗戦直後、この町に駐屯していた第48師団、磨大隊が記念に刻造したものだ。石碑は独立戦争で行方不明だったが,戦後30年経って発見され、戦友たちによって再び保存されることになった。

そのバンバン.スゲン氏の末弟のプルノモ氏が平成の時代まで自宅を改造して「寺子屋」という日本語塾を開いていた。プルノモ氏は戦争中、日本軍が造った郷土義勇軍(PETA)の兵士で独立後はインドネシア国軍で少佐まで昇進したが9.30事件に連座し、郷里で、日本時代学んだ日本語を若者たちに教えていた。プルノモ氏の晩年,二回,トマングンを訪れる機会があり軍歌を共にたったが、”ラストサムライ”を名乗る根っからの日本好きだった。(写真はトマングンの英雄墓地)


コロナ専門家会議の廃止と流行の新しい波

2020-06-25 06:41:56 | 2012・1・1

新型コロナ.ウィルス対策に大車輪で活躍していると思っていた「専門家会議」が廃止され「有識者会議」の文科会に変更になると昨日、西村康稔経済開発担当相が記者会見で明らかにした。これと時うを同じようにして脇田隆宇「専門家会議」議長(国立感染症研究所所長)が他の委員と共に日本記者クラブで会見”専門家会議の提言は政府の政策決定と誤解あれていると政府批判ともとれる発現した。

「専門家会議」はコロナ騒ぎが始まった2月以来、緊張事態宣言発動や停止など政府の重大政策前には召集され、安倍晋三総理の国民向け記者会見の前には必ず「専門家会議」を招集し、会見の序言には”専門家会議”の意見を聞いて”と発言していた。

昨日東京では感染者数が55人と5月3日以来の高い記録、全国でも99人と再び3ケタに迫りそうだ。小樽のカラオケ店では9人が陽性と判明,クラスタ―(患者集団)ではないかと心配されている。たしかにコロナ禍も初期のクルーザー船当時とは対応も変化し複雑化してきた。感染症主体のの専門家では対応できなくなってきたのかもいれない。然し、あまり機構や体制いじりはどんなものか。2011年の東日本大震災直後の民主党菅直人内閣のウロチョロぶりが想い出される。

 


南海の孤島で敗戦を迎えた 近衛兵の20か月の軍歴

2020-06-24 05:05:41 | 2012・1・1

「ファミリーヒストリー」を調べられている遠縁の方から、伯父の戦時中の軍歴証明書が入手できたとコピーを頂戴した。伯父さんは大正12年6月まれで存命されておれば、98歳だが残念ながら物故されている。証明書を拝見すると、伯父さんは昭和18年12月1日、満20歳で近衛師団歩兵3連隊に補充入隊している。補充というのは、師団本隊はすでにインドネシアのスマトラに展開、駐屯していたからだ。

軍歴を拝見して僕には改めて驚くことばかりだ。従来からの中国大陸に含めて戦線が豪北方面からインド洋にかけて拡大したため極端な兵力不足になっていた。伯父さんたちは入隊して僅か1週間、新兵教育もろくにせず博多を出港、朝鮮半島経由、14日には、中国山東省の任地に到着、歩兵砲兵小隊に編入されている。僅か2週間の即席兵隊だ。そのあと、中国各地を転々と守備に就きながら移動、明けて19年4月には上海からマニラ経由インドネシアのハルマヘラのワシリ上陸作戦い参加している。

ワシリ作戦には俳優の池部良も参加、戦後自著「ハルマヘラ.メモリ―」にその模様を書いているが、伯父さんたちの部隊はそのあとすぐ6月には近海にあるサンギヘ島に転進、さらに8月にはタラウド諸島のカラケラン島に上陸守備についている。この間、伯父さんは衛生兵に転属しているが、20年8月の敗戦まで約1年間、この南海の孤島に駐屯していた。

カラケラン島のあるモルッカ海峡では、ハルマヘラに隣接するモロタイ島の飛行場奪還のため再上陸してきた米軍との間に激しい戦闘が展開され数千人もの犠牲者が出ている。軍隊は「運隊」と呼ばれたそうだが,同じハルマヘラ作戦に従軍しても、その後の作戦地の違いによって運命を別にしている。天皇と皇居を守る目的で創立された名誉ある近衛師団で敗戦を南海の孤島で迎えた人は少ない。


コタコタ.インドネシア(10)ブキテインギ「日本の穴」

2020-06-23 06:23:47 | 2012・1・1

西スマトラの風光明媚なミナンカ―ボゥ住区の高原の町である。町の中心部近くに断崖絶壁の断層が走っていて先の戦争末期、駐屯していた第25軍司令部ががこれを利用して防空壕を造成した。1966年、僕もここを訪れているが、30年後の96年再訪したところ、インドネシア政府が防空壕を観光資源として売り出し、壕造成後、秘密守秘のため、工事に参加した労務者3000人を殺害したという話を観光ガイドがしていた。僕と同行した戦時中、現地で「スマトラ新聞」記者をしていた先輩は”そんなバカな”と一笑に付したが、帰国後調べると、日本国内でも学者(複数)が虐殺の虚妄を新聞に書いたり自著に書いたりして独り歩きし始めていた。

この虚妄の話は98年、第25軍関係者の働きかけで日イ政府を動かし、インドネシア政府は壕の入口にあった残虐をほのめかす壁画は撤去した。わが国でも友好ボランテイアが真実を伝えるパンフを日本語、英語、インドネシア語で作成関係先に配布したが、残念ながら最近同地を訪れた日本人学生の話では展示説明に誤りがあるようだ。

町の中心部の広場には和蘭植民地時代に建てられた時計台があり、その頂にはミナンカバう独特の家屋が載っている。なぜか日本軍政時代の写真を見るとこれがない。西70キロのボンジョルノという町には赤道がっ走っているが暑さを感じさせない高原の町である。


コタコタ.インドネシア(9)ポンチアナック 赤道直下悲劇の町

2020-06-22 06:05:06 | 2012・1・1

長い拡がりを持つインドネシアでも赤道直下は西スマトラのボンジョルノとこの町の二つしかない。西カリマンタン(ボルネオ島)の州都でカプアス河の河口に発達した華僑の多い港町である。町の名前のいわれとして、ポンチ(ponti) アナック(子供の幽霊)とあまり町名としてはふさわしくない。昔、高波や津波が起こる度に子供が大勢流され死亡したいういわれからだという。

この町で先の戦争中おそらくインドネシアでは最大唯一つの悲劇が起きている。戦時下蘭領ボルネオは海軍軍政下にあり、ポンチアナックにはバンジャルマシンに司令部がある海軍第22根拠地隊の分遣隊が派遣されていた。陸軍の憲兵に当たる「特景」の25歳の若者が事実上の隊長だった。占領当初、陸軍統治下であった頃は前田年為司令長官が土地のサルタン宅を訪問、何番目かの”奥さん”と写真を撮るなど平和であった。

このポンティアナックの町で昭和19年9月頃からスパイ狩と称して連日市民が逮捕され、90キロ離れたマンドゥルに運ばれ惨殺された。マンドゥルの地には現在、犠牲者21037人を祀る慰霊碑が建っている。戦後のBC級戦争裁判で、この事件で日本人16名が処刑されている。しかし、和蘭歴史資料館の記録は犠牲者は1200名としている。マンドゥルでは毎年6月27日。州知事が参加して慰霊祭が行われる。当時の関係者も少なくなってきた。