「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           交通信号に時間を表示したら

2011-11-30 07:28:16 | Weblog
自宅から駅に行く信号のある通りで先日の夜11時30分頃、バイクと横断歩行者がぶつかる事故が発生し、バイクを運転していた20歳代の青年が死亡した。歩行者が信号を無視して横断したのか、あるいはバイクが信号を無視したのか警察が今調べている。周辺では大ニュースで、事故現場には青年の死を悼んで、1週間たった今でも花束が供えてある。

所管の警察から「交通安全情報」の号外が配られてきた。それによると、都内の高齢者の交通事故による死亡者は80人と、昨年に比べて15人も増えている。このうち75歳以上の高齢者は47人で、前年同期に比較して16人も多いということだ。号外には”事故は身近なところで起きている。他人事ではありません”と結んでいるが、まったく他人事ではない。

年をとると、確かに号外が指摘しているように、注意力、判断力が低下してきている。僕は意識して横断歩道を渡る時には無理をしないことにしている。歩行力も弱くなっており、信号が変る寸前では渡りきれないこともある。歩行者横断のボタンつき信号では、車の往来がなくともボタンを押して青信号になるまで待つことにしている。

先日旅行してきたインドネシアは交通渋滞が激しく道路を横断するのは一苦労だが、数少ない信号には赤青の信号に時間表示がしてあった。日本にも同じ様式の信号もあるそうだが、高齢者の僕らにとっては、これがあると便利だ。横断時間があと5秒とか10秒となれば無理して横断しないのではないだろうか。

警察の号外には”これからの季節は、日が短くなり暗くなり始める時間が早くなります。夕方から夜間にかけては明るい服装をして、反射材用品を身につけましょう”と書いてあった。要するに年寄は夜間はやたらとうろつくな、ということである。
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           ”喪中につき”の挨拶状

2011-11-29 07:01:01 | Weblog
10日間のインドネシア旅行から帰国したら、東京の街路樹の銀杏がすっかり黄ばみ始め、朝晩すっかり寒くなってきていた。あと数日で師走である。旅行の留守中に"喪中につき”の挨拶状が届いていたが、馬齢と共に毎年その数が増えてきている。中には親しかった友人が亡くなっており驚かされる。出来れば生前もう一度会いたかったのにと残念に思う。

Y君逝去の通知もそうだ。Y君は68年前、一緒に小学校を出た仲間だが、長い間同期会の幹事をしていた。学校時代ブラスバンドでクラリネットを吹いており、70歳をすぎてまで六本木でライブで演奏をしていた。明るい面倒見のよい男だったが、2年前倒れた。僕ら仲間は早速見舞いに行こうと思ったが、本人は強くこれを拒否した。男の美学なのか、やつれた姿を他人に見せたくなかったのであろう。葬儀もすでに終わっており、僕らはただ遠くからご逝去を悼み合掌することにした。

知人のN氏の場合は”喪中につき”の通知もない。11月亡くなったので時間的に間に合わなかったのかもしれない。生前、色々と会を主催し交際の広い人だった。数年前奥様が亡くなった時には、芝の増上寺で数百人の会葬客があった。ご本人の遺言なのか、あるいはご遺族の意向なのかわからないが、人生の一つのピリオドである。生前、つきあいの多かった人だけに関係者になんらかのお知らせは頂きたかった。

最近、近親者のみの葬儀が増えている。たしかに他人に迷惑をかけてはいけないという遺族の配慮は解からないでもない。しかし、葬儀は一生に何度もあるわけではない。香典とか、そのお返しとかなしに、葬儀ができないものだろうか。偲ぶ会という形式もあるが、やはり葬儀は一つの儀式であり、僕は反対である。
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     80老のインドネシア独り旅(7)日本人の存在感

2011-11-28 07:50:30 | Weblog
たった10日間の駆け足旅行でモノを申すのは僭越だが、どうもインドネシアにおける日本の"存在感”が薄くなってきた感じがする。45年前、僕がジャカルタに常駐していた当時は日本の占領時から20年しかたっていなかった時代であり、ちょうど賠償引き当ての援助が進行中だったこともあって、日本とインドネシアとの関係は密接なものだった。この時代だけではなく僕は1990年代から毎年1回はインドネシアを訪れているが、かっての日本とインドネシアとの間の特別に親しかった関係は次第に希薄化なもになってきた印象を受ける。何故なのだろうか。

ジャカルタの邦字紙「じゃかるた新聞」が先日インドネシアにおける韓国の進出ぶりを特集していた。インドネシア在留の日本人の数は、このところ若干増えては来ているが、10年ほど前のクリスモン(経済危機)以後1万人前後を推移しているが、韓国人はなんと5倍の5万人が在留している。各地に巨大なプロジェクトがあり、ジャカルタ郊外には"韓国人町”まで出現している。これにつれてインドネシア人の若者の間で韓国語を学ぶ者がが増えているという。

今回、僕はジャカルタの安宿に泊まったこともあるが、知り合い以外、日本人は一人も目にしなかった。かっては日本人で賑っていた近くのホテルの日本レストランも、昔のようではなかった。最後の日宿泊したタンゲランの宿のショッピング・モールにあった日本食レストランに至っては客の姿がなく閑古鳥が鳴いていた。

帰国後、在京のインドネシアに滞在したことがある複数の知人にこの理由を尋ねてみた。理由の一つは、在留日本人が昔のように一軒家を借り、現地のインドネシア人と接触する機会がなくなったことをあげている。高層のマンションの一室で生活しているため、職場以外現地人と接触することがなくなった。また海外勤務は贅沢するものと考える日本人がが増加して”汗を流して"働く日本人の気風が失われてきた、という人もあった。昔のことで恐縮だが、半世紀前、アラビア石油のカフジの現場を訪れたことがあったが、日本人は灼熱の砂漠にカマボコ型の簡易宿舎で働いていた。

先の戦争でわが国は蘭印(インドネシア)だけで10万人をこす尊い生命を失ってる、そして戦後の苦しい時代に巨額な賠償金をインドネシアに支払っている。さらに世界一のODA援助をこの国にしてきた。韓国がインドネシアと国交を結んだのは、30年ほど前の1972年である。
(写真はジャカルタの空の玄関、スカルノ・ハッタ空港に近くオープンする韓国人専門の免税店)(80老のインドネシア独り旅終わり)
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         80老のインドネシア独り旅(6)英雄墓地

2011-11-27 07:29:46 | Weblog
今回の旅の最後の日、僕は故アリフィン・ベイ氏(元筑波大学客員教授)のタンゲランにある遺族宅を見舞った。本来は墓参を予定していたのだが、交通渋滞で時間がかかるということで取りやめた。アリフィン・ベイ氏は戦争中の大東亜共栄圏留学生の一人で、広島文理大学(現広島大学)に留学中に被爆された。ご本人は何も語らないが、生前いつも咳きをされており、もしかすると、被爆の影響ではないかと周囲は心配していた。

僕は1966年、アリフィン・ベイ氏がジャカルタで英字紙の編集長をしていた時、同氏と知り合ったが、その後アリフィン・ベイ氏は再来日、在東京インドネシア大使館の文化アタッシェを経て筑波大学などで教えられていた。数すくない知日派で、著書「インドネシアの心」は、日本人がインドネシアを理解するための名著である、と高く評価されている。

今回の旅は僕にとって墓参の旅でもあった。ジョクジャカルタでは、英雄墓地に眠る牧野正一氏の墓を詣で、現地風に墓の上一面に華を撒き手を合わせた。牧野氏は戦後インドネシアに残った一人で、スラバヤの独立戦争に参加後、同地の海軍兵学校で、柔道と写真技術を教えられていた。講道館の柔道七段で、インドネシアでは"柔道の父"として知られ、イルサン元駐日大使も直接牧野氏から教えを受けている。

インドネシアの主要な都市には、国に貢献した人たちの英雄墓地がある。ジャカルタのカリバタ墓地は有名だが、このジョクジャカルタのような地方都市にもあって、戦後この国に残留し、独立戦争に参加した日本人が少なくとも数十人は埋葬されている。しかし、戦後66年たち、祖国日本から墓参しに訪れる遺族は年々少なくなっている。どの地の英雄墓地にどのような方が埋葬されているかは整理しておきたいものだ。
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       80老のインドネシア独り旅(5)「菊正宗」

2011-11-26 06:15:19 | Weblog
インドネシアではジャカルタなどの大都会は別としてビール以外の酒(Minuman keras)はなかなか手に入らない。それどころかイスラムの戒律に厳しいアチェでは、ホテルに酒を持ち込んだだけで犯罪である。晩酌がくせになっている僕のような旅人は、あらかじめ用意しておかないと、折角の美味しいインドネシア料理の味が半減してしまう。今回の旅では、ジョクジャのような観光地ではスーパーへ行けば売っているだろうと思ったら間違いだった。

味気ないトマングンの夜を覚悟していたら"神のお恵み”か、なんとプルノモさんから「菊正宗」の特級酒四合ビンをプレゼントされた。誰か以前にプルノモさん宅を訪れた日本人が寄贈したものだろう。教室に教材として置かれてあったものらしい。有り難く頂戴したが、酒を飲む習慣のないインドネシア人に対して、日本から重い思いをして、お土産に酒を持参する奇特な人もいるものだ。

僕が言いたいのは、解かっているようで、まだまだ日イ双方の草の根の相互理解となると欠けていることが多いことだ。特に日本人のイスラムについての理解がたりない。日本国内でのことだが、国際研修施設でイスラム教徒の研修員の朝のお祈りの声がうるさいと部屋のドアーを蹴飛ばした、日本人がいた。逆に来日する回教徒の若者の中には、日本にも自国と同じようにどこにもモスクがあると思っている者もいる。

プルノモさんは僕との話し合いの中で、日本から若い人たちをトマングンに呼び、逆にトマングンの青年を日本に派遣する計画は、どうかと提案してきた。もちろん計画については大賛成である。しかし、残念ながら実行に移すとなると難しい。だけど、プルノモさんの提案の中で、トマングンでは百万ルピア(約1万円)もあれば、1か月三食つきでホームステイできるという話に興味を持った。現地の人と同じ生活のホームステイだから決して贅沢なものではない。しかし、直接現地を理解でき、こんなに勉強になることはない。
(写真は現地の一般的なトイレ。マンデイ(水浴び)用の水溜めでトイレの水も流す)


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    80老のインドネシア独り旅(4)大分師団の萬邦の碑

2011-11-25 07:05:55 | Weblog
トマングンでは僕はプルノモさんが用意してくれた”ゲストハウス”に泊まった。インドネシアには、オランダ植民地時代の名残の、こういった外からのお客を泊める宿泊設備がある。僕の泊まった"ゲストハウス”は80平方㍍の広さの部屋にベッドが二つおいてあるだけで家具類は一切ない。山間部の町なのでエアコンはなく、マンデイ(水浴び)も温水ではなく冷水でする昔ながらの生活だった。

45年前、インドネシア在勤中僕はスマトラ縦断旅行をしたが、その時もジャンビーという町で、洪水によって道路が破壊され、約1週間、次の目的地パカンバルへのトンカン(材木運舟)待ちのため"ゲストハウスにお世話になったことを想い出した。あのときはコトブス(南京虫)に悩まされたが、今回は壁に潜むトーケー(やもり)の鳴声を子守唄に熟睡できた。

トマングンの丘の上には、独立戦争の英雄、プルノモさんの長兄バンバン・スゲン将軍(元駐日大使)の銅像が建っているが、その下には戦時中大分47歩兵師団第一大隊「磨部隊」の"萬邦”の記念碑が二つ建っている。「磨部隊」約250人は守備についていた東チモールから西へ転戦の途中、昭和20年5月、トマングンの警備に当たり終戦を迎えた。部隊はその記念に近くの川原から岩を運び"萬邦大結”と刻みこんだ。この記念碑は戦後の1991年、風雨で痛みがはげしいため、関係者がぼきんして修理し、同時にもうひとつ日イ友好の碑を建て、二つの碑に覆いの屋根をつけた。

トマングンは自然の残るきれいな町である。郊外には「water park」という水をテーマにした立派な公園があるが、ここには昔、磨部隊が復員まで収容されていた兵舎が建っていたという。プルノモさんは若き日、磨部隊所属の義勇軍として、日本軍と一緒に寝食をともにした。僕は今回の旅のお土産として、プルノモさんの生徒が、とくに僕のために製作してくれたトマングンのdvdを頂戴した。何よりの記念である。
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            中島慎三郎氏逝去

2011-11-24 17:34:55 | Weblog
東京新橋にあったインドネシア料理店「インドネシア・ラヤ」の店主だった中島慎三郎氏(92)が逝去された。葬儀は近親者のみですでに行われた。中島氏は国際機関ASEANとは無関係のアセアン・センターを主宰し、東南アジア諸国の友好につとめてきた。福田赳夫氏が総理時代、私的な通訳をしたという話もあり、石原慎太郎都知事ら一部の政治家とも交流があった。インドネシアには300回以上出かけたと自負している,インドネシア通だった。
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    80老のインドネシア独り旅(3)最後のサムライ

2011-11-24 07:24:49 | Weblog
今回の独り旅の一つの目的はトマングンで「友好寺小屋」を開くバンバン・プルノモさん(86)と会うことだった。僕は小ブログのコメンテーター「ディエン」さんを通じてプルノモさんを紹介された。プルノモさんは大東亜戦争中、日本軍によって創設された郷土防衛義勇軍(PETA)兵士で、インドネシア国軍の参謀総長や戦後駐日大使などを歴任したバンバン・スゲン将軍の末弟でもある。

トマングンはボロブドールなどで知られる古都、ジョクジャカルタから67㌔北の山あいの小さな町だ。プルノモさんの「友好寺小屋」はスマランに通じる国道添いにあった。ここでプルノモさんは20年まえから地元の若者たちに日本語を教えている。自宅を兼ねた「寺小屋」には小さな教室があり、寺小屋の教育方針である"自分のことは自分でやろう”という張り紙が黒板の上に大書されてある。

寺小屋は12月から新学期が始まるそうで、残念ながら授業風景は見られなかったが、僕が滞在中の2日間、朝早くから夜遅くまで、寺小屋で学んだ若い男女の塾生が寺小屋に出入りして、ネーテイブの日本語を話す僕に"コンニチワ ハジメマシテ”と初歩的な会話を試みてきた。そのたびにプルノモさんは、そばに付き添って”手とり足とり”指導している。言葉だけでなく66年前、自分が義勇軍時代、指導された日本の精神を教えているように僕には受け取られた。

プルノモさんの恐らく昭和時代産の古い日本製の自家用車の後窓には、英語で「Last
Samurai」と書かれてある。そういう目で見るからか、プルノモさんの一挙手一投足には、日本では今や忘れられかけてきた武士道のそれを感じさせた。滞在中の一夜、僕は寺小屋の卒業生のやっている屋台のナシ・ゴレン(焼き飯)の店に招かれ、プルノモさんが義勇軍時代、日本の軍人から学んだ「軍歌演習」を共にした。
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      80老のインドネシア独り旅(2)満杯のホテル

2011-11-23 07:45:29 | Weblog
ジャカルタではたった3日間の滞在だったが、確かに5年前に比べてインドネシアの経済はよくなっており、活気を感じた。僕の泊まったホテルの宿泊者は僕を除けば全部インドネシア人で、それも若い人たちである。一泊朝食つき43、0000ルピア(約4、000円)もするのだが、地方からの公務員や会社員が、中心部に近い立地条件もあって利用している。40年前、日本にビジネスホテルが出現したころを想い出した。

帰国前の2日間はジャカルタ郊外のタンゲランのホテルを利用した。空港に比較的近いことから、この数年飛躍的に伸びている地区だ。宿泊代は58、0000ルピアもしたが、こちらもインドネシア人が多かったが、外国人の姿もあった。ジャカルタで「Manga School」(漫画学校)を経営している知り合いの前山まち子さんの話では、ジャカルタの高級ホテルは外国人で満杯だとのこと。もしかすると、ジャカルタでは宿泊できず、こんな遠くのホテルに宿泊しているのかもしれない。(写真はジャワ風俗をしたアイルランドから来た青年)

観光地ジョクジャカルタのホテルにも一泊したが、こちらも現地の若い観光客で一杯だった。東京の旅行社を通じて8、000円払って予約したホテルだが、金持ちの華僑の若者をターゲットをしているらしい。およそ古都にはふさわしくない造りで、けばけばしく昼間から高い音声で若者向けの音楽を流していた。経済の好調から、金持ちの華僑の子弟をねらっただけで経営がなりたつわけだ。

しかし、ホテルの前には昔ながらのべチャ(三輪人力車)がたむろしていた。値段を交渉した上、繁華街まで往復20、000ルピア(約190円)を払って乗ったが、ジャカルタに比べて街を走っている自動車は、ほとんど旧式のくたびれかけたものが多く、観光客用なのだろうが馬車(アンドン)も走っていた。表面的な観察でモノを言うのは危険だが、経済の好調さは、ジャカルタの一部の金持階級と高級公務員だけで、貧富の差が広がっているように見えた。


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     80老のインドネシア独り旅(1)ジャカルタの渋滞

2011-11-22 13:32:06 | Weblog
インドネシア語で疲れたというのを"チャペイ”という。語感からいかにも疲れたという感じが出ている。今日(22日)朝早く、僕は9泊10日の80歳のインドネシアの旅を無事終え帰国したが、さすがに、今回はチャッペイだ。5年ぶりのインドネシア旅行だつたが、大きく変った面もあったが、まったくの昔のインネシアの姿も残っていた。

僕のジャカルタの定宿は20年来、中心部のオバマ米大統が、その昔学んだ小学校に近いスティア・ブデイ・ホテルだ。今回もお世話になったが、都市改革の大波で、僕が楽しみにしていたプールは壊され、マンデイ・マタハリ(日光浴)を楽しむことが出来なかった。写真のようにホテルの周囲には高層ビルが建ちならび、、マンデイ・マタハリどころではなくなってしまった。

ものすごい車の渋滞である。ジャカルタ市当局は数年前から、渋滞解消を狙って”スリー・イン・ワン”方策をとっている。朝晩の通勤時間、市内の中心部に入る車は三人以上の乗車でなくては許されない。通勤者は家族を連れて通勤するわけにはゆかない。そこで禁止区域の周辺には三人に満たない車のために"ジョッキー”という乗り手のアルバイトが出現しはじめたが、赤ん坊を抱いた母親が"ジョッキー”として好まれているようだ。治安上安全だからという理由のようで、一回の料金は距離には関係なく10,000ルピア(約百円)が相場だという。

滞在期限の少ない僕のような旅行者は、タクシーを利用するが、タクシーにはこの"スリー・イン・ワン”は適用されない。しかし毎日の通勤者にとっては、やはり面倒な制度だ。一説にはインドネシアでは一日に車が300台も増え続けてているという。このままゆけば、こんな姑息な"スリー・イン・ワン”では抜本的な解決にはならない。大丈夫なのだろうか。

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