「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

     ”近いうちに”の民主党政権がやっと終わった1年

2012-12-31 07:12:09 | Weblog
平成24年(2012年)も今日で終わり。この1年を振り返ってみた。政治的には「鳩山最低」「菅最悪」「野田最弱」といわれた(額賀福志郎元財政相の言葉)3年3か月の民主党政権が”近いうちに”と振り回さたが、やっと暮れにきて終わりを告げた。これで新しい年を迎えるにあたって国民は将来への希望がひらけた。民主党政権のまま年を越したとすればと考えるとぞーっとする。

野田佳彦(前総理)は結果的には民主党にとって最悪の時期に国会を解散してしまったように見えるが、早晩こいういう運命になることは間違いなかった。「鳩山最低」「菅最悪」の二代にわたる失政で、三代目の政権は野田総理でなくとも「最弱」状態であった。6月の消費増税の国会採決の時期で、すでに党内で57人が反対し7人もが棄権していた。政治に”レバタラ”はないが、この時点で野田氏は解散の擧にでていらどうだっただろうか。

1年を振り返ると、民主党内部のモラルの低下がめだった。震災復興を第一に掲げて党の要職にある副本部長が国会に休暇届をだしてフィリピンで仲間内でゴルフをしていたり、法務大臣が国会内でテレビの競馬中継を見ていたり、防衛大臣が国会を抜け出してコーヒーを飲んでいたり、またまた総理秘書官が自室でネット.オークションをしたりしていたという。最強の布陣といっても、これでは末期的布陣だ。

今年を象徴する言葉は「金」であった。たしかに暗いニュースの多かった1年の中でロンドン五輪の日本の選手の活躍は良かった。しかし、一方では民主党議員の外国籍人からの政治献金が国会で問題になりすぎた。農林副大臣が中国への食品輸出で、不正疑惑も国会で追及されていた。とにかく、民主党政権は3年3か月、失政の連続であった。新しい年の自公政権に期待しよう。
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          一帳羅(いっちょうら)の正月の晴着

2012-12-30 07:08:53 | Weblog
昨日、老妻に”連れられて”歳末の風景を見ながら近くのUNI-CLOへ正月の晴着を買いに行った。戦前昭和の時代、まだ日本日本全体が貧しかった頃、どこの家庭でも正月には子供に新しい一帳羅の晴着を買ってやったものだった。一帳羅という言葉自体もう死語に近いが、辞書によると”持っている衣服の中で一着しかない上等なもの”で、語源は「一挺蝋」(いっちゃうろう)=一本の大きな蝋燭=が訛ったものだという。昔、蝋燭が照明として高価だった時代の名残なのだろう。

子煩悩だった僕の亡父は、僕の誕生日ごとに近くの写真スタジオで記念写真を撮ってくれた。写真は満3歳から6歳のものだが、一帳羅の盛装である。アルバムには昭和18年、僕が12歳までの一帳羅姿が載っているが、その後は戦争で、それどころではなく中止されている。この時代は食糧難だけでなく衣服にも事欠いた。最低限度の衣料は配給切符で買えたが、成長期の子供を持つ家庭では、母親たちが色々と対応に困った。古くなった自分のセーターの糸をほどき、子供のために編み直したり、古着を裏返しにして着たりさせた。子供の半ズボンのお尻の部門には猿のおケツのような補強の布が縫われていた。

80歳をすぎて今さら正月の晴着でもないが、結婚58年の老妻の好意を有り難く受け、歳にしては派手すぎるセーターを一着買ってもらった。年寄りにとって、冥土の旅の一里塚にすぎない正月だが、やはり一帳羅のほうがよい。これで暖かく新年を迎えることができる。感謝。
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    小沢一郎の”結婚詐欺” 家風の違いでは済まされない

2012-12-29 07:30:25 | Weblog
”卒原発”を旗印に発足した「日本の未来の党」が僅か1か月足らずで分党、旧「国民の生活が第一」の小沢一郎一派が、新しく「生活の党」を組織し、代表だった嘉田由紀子滋賀県知事らは、党から追い出される形で、政治団体「日本の未来の党」としてスタートした。何とも国民を愚弄した話である。分党を発表した記者会見には、党の”一兵卒”のはずの小沢一郎まで姿を見せていたが、”成田離婚”どころか、あらかじめ謀った”結婚詐欺”である。

嘉田知事は、昨日の会見の冒頭で”小選挙区300万票、比例代表340万票の支持を寄せてくれた国民に陳謝する”と述べていたが、分党の理由として”家風の違い”をあげていた。しかし、これはかりに譬えとしても大人の政治家の発言ではない。嘉田知事は結党にあたり”小沢一郎の政治家としての経験に期待する”旨の発言をしていたが、過去に政党を作ったり、壊したりしてきた人物を見抜けなかったのだろうか。結果的には嘉田知事は”結婚詐欺”にあったようなものだ。

分裂騒ぎは、平成25年の政党交付金が決まる1月1日を前にしてのものだ、というのが一般的な見方だ。「生活の党」を名乗っているが、だれのための生活なのか、国民の生活ではなくて、自分たちの生活のための政党といわれても仕方がない。一方、嘉田知事の政治責任も重い。何で、あの時期にバタバタと「日本の未来の党」を立ち上げたのか。「日本維新の会」をはじめとする、いわゆる”第三極”ブームに便乗しようとした政治的野心があったのではないだろうか。

”老兵はただ消えゆくのみ”といった言葉があるが、小沢一郎はこれ以上”一兵卒”の醜態をさらし、国民に迷惑をかけるべきではない。一刻も早く、責任を取って議員を辞任すべきである。(自画自賛! 小ブログ「全共闘世代と日本未来の党」(11月29日)で分裂を予測していました)
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                    納めの目黒不動尊

2012-12-28 15:08:32 | Weblog

12月28日は納めの不動である。徳川時代から江戸っ子の信仰を集めている目黒不動尊の縁日に老妻と出かけてきた。寒いせいか参詣人は思ったほど多くはなかった。本堂に参詣した後、裏にある、僕ら夫婦の御本尊である大日如来にも参拝した。境内には童謡「青い眼の人形」などの作曲者と知られる本居長世の碑や昭和の思想家北一輝の顕彰碑もある。この一年、幸いわが家は、これといった事故も事件もなかった。まあまあの年だったといえよう。
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           在外勤務者の健康管理と若年死

2012-12-28 07:02:05 | Weblog
昔、短期間名目的に籍を置いていた民放局から社内報が届いた。立派な紙質と装幀だが”ご冥福をお祈り申し上げます”と、二人の社員について関係者の弔文が大きなスペースをさいて載っている。一人は58歳、もう一人はまだ48歳という働きざかりの年齢である。気にかかったのは二人とも国際局に所属していることだ。僕も若い時海外勤務した経験があるが、健康管理に問題があったのではないだろうか。

先日、スーパーのローソンが健康診断を受けなかった社員は15%、その上司に対しては10%ボーナスから減額すると発表した。そして診断の結果、例えば成人病の疑いがあれば、万歩計を支給するなど健康管理の指導をするという。会社が社員の健康について、これだけ積極的に考えたのには、それだけのメリットがあってのことで画期的な案だ。

若い時は健康に自信があり、仕事も面白い。僕も20代、30代の時代には会社から健康診断の通知がきても”この忙しい時に”とバカにして受けなかったものだ。今考えると2年近くの海外生活(単身赴任)では、一回も健康診断を受けていない、会社側からも健康診断をうけろとの通知はなかった。

この10年近く海外に勤務する日本人の数は増加する一方で外務省の統計によると、百万人を越えている。長期海外勤務者に対しては派遣前と後に健康診断を受けることは事業主に法律で決められているそうだが、果たしてこれが守られているかどうか疑問だ。在外勤務中の健康管理はどうなっているのだろうか。いわんや、個人で海外で仕事をしている場合には、自分で自分の健康管理をしなければならない。ジャカルタで邦字紙を経営していた夫妻も先年若くして亡くなっている。関係者は留意すべきである。
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      大叔父(佐藤栄作)祖父(岸信介)にならって長期政権を!

2012-12-27 07:09:40 | Weblog
”石の上にも3年”自公が政権を奪還、安倍晋三氏が96代目の総理に就任した。一度辞任した総理が再び返り咲くのは戦後では64年前吉田茂以来とのことだ。吉田茂の名前を聞いて、戦後すぐの頃に青年時代を送った僕は昔の事が懐かしくなり、ちょっと戦後の政治史を振り返ってみた。

吉田茂第1次内閣は敗戦直後の昭和21年5月から22年5月までの368日と短期間であった。これは第1次安倍内閣の在位366日間のときしくも似ている。戦後の食糧事情の悪化と労働攻勢に耐えられず辞任、そのあと日本社会党、民主党、国民協同党連立による片山、芦田内閣が続いたが、長続きせず23年、再び吉田茂が登板、第2次内閣がスタートした。

吉田内閣はこの後第5次まで、なんと6年2か月も続いている。連合軍占領下の難しい時代から主権回復までの期間である。その間”バカ野郎”解散(28年)といった強引な手法もあったが、今振り返ると見事なかじ取りであった。吉田茂の合計在位期間は2666日で、これは歴代4位である。歴代1位は明治時代の桂太郎(2886日)だが、2位は安倍総理の大叔父佐藤栄作の2798日、祖父の岸信介も1241位で第9位である。

発足した安倍内閣は「危機突破内閣」を謳っている。3年3か月の民主党の失政で外交も経済も国家の安全も危機状態である。まずは危機突破であるが、来年の参院選挙で勝利して安定した後は、大叔父、祖父にならって長期政権を目指してほしい。長期安定政権こそが危機突破への道である。

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            原発事故の責任と海江田代表

2012-12-26 07:11:30 | Weblog
民主党の昨日の両院議員総会で海江田万里.元経済産業相が辞任した野田佳彦氏にかわって新代表に選ばれた。申し訳ないが、海江田氏というと、まず思い出されるのは昨年7月の衆院経済産業委で自民党議員の追及にあい、言葉をつまらせ涙を流したシーンだ。当時の菅直人総理夫人が”人前で涙する男は大臣としてふさわしくない”といったそうだが、どんな理由があったにせよ見苦しい。

海江田新代表は2011年3月11日の東日本大震災の際の経済産業相である。経産省の傘下には原発事故に直接関係のある原子力安全保安院があるが、福島原発事故当時を振り返ってみると、何故かテレビの画面にあまり登場してこない。記憶にあるのは菅総理のパーフォーマンスと枝野官房長官の独断的な会見だけだ。原子力については素人だと、菅総理に無視されたのだろうが、事故後の東電の”計画停電”の対応は大臣としてなっていなかった。

鳩山、菅、野田三代の民主党内閣で入れ替わり立ち代わり大臣が誕生し、その数は延べにして100人近い。しかし、今回の選挙で現職の閣僚8人を含め20人近くが落選したり、党を離れている。昨日の両院総会の衆院出席者は僅か58人に過ぎない。明らかに人材不足がうかがえる。原発事故で本来なら責任をもって辞任すべき男が代表である。これから党を再生し、来年の参院選に備えなければならない党である。なんだか国民には理解できない漢詩を記者会見でちらせつかせる手法は、この党の独特のパーフォーマンスだ。海江田代表の誕生で喜んでいるのは自民党だ。その高笑いが聞こえてくる。
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            ”神武景気”時代のクリスマス

2012-12-25 07:00:36 | Weblog
クリスマス.シーズンになると、昔独身の安サリーマン時代を想い出す。折から日本の経済は”神武景気”(昭和29年12月から32年6月)で湧いていた頃だ。戦後のどん底だったわが国の経済は、やっと朝鮮戦争特需で上向きになり、街から焼跡もなくなり建設のつち音も聞こえ始めてきた頃である。

街には今以上にジングルベルのメロディが賑やかに街頭放送から流れていたが、家庭で家族がクリスマスを祝う習慣はあまりなかったようだ。クリスマス.イブというと、サラリーマンが盛り場へ繰り出し、派手な三角帽子をかぶって大騒ぎをする日であった。12月に入ると行きつけのバーやクラブの女性から職場に電話がかかり、高いパーティ券を買わされた。当時僕ら安サリーマンの月給は1万円前後だったが、パーティ券は500円もした。

クリスマス.イブといっても店の中にツリーが飾ってあるだけで、僕らはひたすら飲みかつ食べるだけ。カラオケ以前だから、あまり歌うこともなく、流しの歌い手が来ると、そのアコーディオンにのってチークダンスを踊る程度だ。あの時代は趣味娯楽といっても麻雀ぐらいで、若者たちはよく酒を飲んだものだ。酒のマナーも悪く、駅のベンチには酔い倒れた男が寝ており、空き地で立小便する男が多かった。

でも、”神武景気”といっても今思うと、けっして豊かな時代ではなかった。”三種の神器”と呼ばれた家電製品の白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵器は、まだそれほ普及していなかった。”グルメ”という言葉もまだなく、クリスマス.ケーキといってもクリームの上にイチゴが載ったショートケーキやバナナを素材にしたケーキであった。今のように豊かな時代ではなかったが、何か人々は将来への期待感がり、活気にあふれていた気がするが、それはまだ僕が若かったせいであろうか。
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           台湾からのクリスマス.カード

2012-12-24 07:00:16 | Weblog
台湾の新北市に住むCさんから今年も年賀を兼ねたクリスマス.カードを頂いた。Cさんは旧日本軍のスマトラ派遣25軍の軍属だった方だが、11年前、東京の九段会館で開かれた戦友会で初めてお会いした。以来、毎年こうして季節の御挨拶状を頂戴しているが、お会いしたことはない。3年前、訪台した時も残念ながら機会を逸してしまった。Cさんは今年86歳、是非来年こそお会いしたいと、息子さんの台北の携帯電話番号まで知らせてくれくれているが、杖の世話になっている僕が行けるかどうかだ。

今年、僕が頂戴したクリスマス.カードはCさんからのこの1枚だけである。1980年から2000年にかけて、僕は嘱託でJICA(国際協力事業団)の国内研修の仕事の手伝いをしていたが、その当時は、クリスマスの季節になると大勢の方からカードを貰い、また海外へカードを送ったものだった。しかし、仕事を離れてからは少なくなり、今はCさんともう一人の、やはり25軍のRさんから頂戴するだけだ。

JICAでの仕事の3年間は集団研修といって多国籍の研修生を1年間面倒を見る仕事で、その半分は工場実習など一緒に生活を共にする仕事であった。従って、単なる短い研修とは違い研修員との親密度は高く、帰国後すぐは文通していたが、最近は途絶えてしまった。考えてみると、JICAの研修員は開発途上国からの人たちで、西欧のようなクリスマス.カードの交換などの習慣は元々ないのだ。

僕はイスラム圏の人たちとの交流が比較的多いが、もちろん、クリスマスを祝う習慣はない。かわって断食明け(Idulfitri)が最大のお祝いで、この時期にカードを送る習慣も一部にはあるが、一般的ではないようだ。日本では年賀状が唯一つといってよい季節の挨拶(season greeting)だが、先日も小ブログで書いたように年々減少の傾向にある。何か寂しさを感じる。
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          日本最古のインドネシア料理店で忘年会

2012-12-23 07:41:21 | Weblog
昨日の昼、老妻の傘寿のお祝いを兼ねて娘夫妻、孫二人と一緒に忘年会を目黒のインドネシア料理店「せでるはな」で催した。「せでるはな」はインドネシア語で”ほどほどに”とか”簡単な”といった意味である。(「現代インドネシア語辞典」大学書林)で、この店の料理は、その店名通り”ほどほどの”お値段で、”簡単な”家庭料理で美味しい。

「せでるはな」は僕が知っている限りでは、日本で一番古いインドネシア料理店だ。昭和30年代はじめ六本木で開業、38年に先代の故田中さんご夫妻が現在の場所に移転してきた。田中さんは戦争中、バリ島近くの小スンダ列島の小島に勤務していた海軍民政部の軍属で、現地で結婚、敗戦とともに奥さんんを連れて日本に復員してきた。戦後の混乱期、田中さんご夫妻は、まだ国際結婚が珍しいこともあって大変苦労されたが、その中で店をオープン、お子さんたちを大学まで出させている。

現在の経営者は次女の方だが、子供の時からお母さんの手ほどきを受けた直伝の料理である。故田中夫人はスラウェシ(セレベス島)のメナド地方の出身でキリスト教徒であった。そこで「せでるはな」では、インドネシアでは珍しく豚を素材にした料理もある。現在の店のお手伝いさんはスマトラのパレンバン出身のアラブ系インドネシア人で、前もって頼めばスマトラ名物の”エンぺ.エンぺ”も作ってくれる。

僕はこの店では、いつもバリ島で出来た35度の強いお酒「ARAK」を少し飲み、この店特製の激辛の”野菜カレー”を食べることにしている。店内には昭和30年代の「ジューク.ボックス」が置いてある。今は針がないので、ほとんど動かさないが、ボックスの中にはインドネシアの伝統音楽クロンチョンも数曲入っている。バリ島だけでなく、インドネシア全体を知るには格好の店だ。なお、土曜、日曜は予約制だから要注意。
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