「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

日本人と英語 雑感

2006-09-30 05:19:36 | Weblog
田中角栄首相や鈴木善幸総理の時代には考えられなかったが、最近政治家の
英語をテレビで聞く機会が増えた。小泉前首相がプレスリーの博物館でブッシュ
夫妻と楽しそうに談笑していた。安倍新首相の英語も先日聞いたが、なかなかの
ものだ。もっとも自分が党首の党名を間違えて言っていたのは愛嬌だがー。
考えれば当たり前だ。二人とも若いとき海外に留学英語を勉強していたのだから。

戦争中、英語を習った僕らの世代はからっきしダメだが、変な単語だけ覚えて
いる人が多い。ハバハバ(hubba hubba)である。進駐軍が使っていた俗語で
”急げ急げ”という意味だと理解していたが、美人を誉める言葉でもあるという。
いずれにしても進駐軍のキャンプで働いていた日本人を通じて一般に広まった
英語である。沖縄ではシークアサーの果汁入りの泡盛をハバハバというそうだが
飲んだことはない。多分酔いが早いからかもしれない。

伊吹文部大臣がいち早く小学校での英語必修なしと言明した。僕も必修の
必要はないと思うが、日本人の外国人コンプレックス解消のためには、選択
でもよい。今の外国人を学校に派遣して子供が英語を通じて接する制度は
残したほうがよい。英語嫌いの日本人の多くは、恥ずかしがり屋の性格から
きているのだから。
これだけ英語が国際語化しているのだから、伊吹発言をよいことに英語学習
ブームが下火にならないか”老爺心”ながら心配する次第。
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歩け歩け 68年前のハイキングコース

2006-09-29 06:17:11 | Weblog
昭和13年9月発行の「歩け市民の健康路」というパンフレット(東京市・
東京鉄道局)が見つかった。”銃後の人々は歩こうではないか”と時代を
反映した、このパンフレットには、当時東京から足代一円以下で行けた26
のハイキング・コースを紹介されている。一円というと、今の千円ぐらいの
感じだろうかー。

江戸川河港 東葛飾 水元水郷 松蔭神社と九品仏 新田神社・矢口渡
鶴見川総持寺 都筑丘陵 萬騎ケ原 西郊緑地帯 野比止平林寺 滝山
丘陵 多摩聖蹟 貯水池めぐり 聖将遺跡 南多摩丘陵 氷川神社と安行
樹木村 八柱霊園と中山法華寺 高麗神社 古利根水郷 六国峠越えと鎌倉
多摩河原と枡形城址 大宮八幡・井の頭 聖蹟高幡不動 大泉風致地区
三富開拓遺跡 入間川

滄海桑園ー68年の時の経過で26のコースのほとんどは都市化の波に呑まれ
今は高速道路がはしり、高層のマンション群が立ち並んでしまった。
パンフレットの写真をみると、田園風景の中を行くは行くは行列を作って老若
男女のハイカーがー。面白いのは中折れ帽子にゲートル姿,下駄履きの着物
姿の女性が多いことだ。当時NHKの国民歌謡にこんな歌があった。

「歩くうた」 高村光太郎作詞 飯田信夫作曲 徳山環歌(昭和16年5月) 

歩け歩け歩け歩け 南へ北へ 歩け歩け 東へ西へ
歩け歩け路なき路も歩け歩け 路なき路を歩け歩け

これを歌った最後の世代も70代なかば、矢の如しだ。
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慰霊碑 厚労省の無知無礼

2006-09-28 05:44:52 | Weblog
先日,小ブログはお彼岸にあたり海外の慰霊碑参拝問題を書いた。在外公館の
ある地ぐらいは年に一、二回、国のために死んだ英霊に想いをはせ、在外邦人
の代表が参拝して貰いたい、という主旨だった(9月19日)。

数日後、海外の遺骨収集に当たっているNPOから僕に電話があり、在インドネ
シアの慰霊碑調査に協力してくれとの申し出であった。しかも厚労省への報告
期日が迫っており、明日会ってくれという。面識のある方からの申し出だったの
で時間をつくって協力した。

実はこの問題について僕は過去に二度も厚労省から"煮え湯”を飲まされている。

一回目は先のブログでも書いたジャカルタの博物館の第二師団戦死者の慰霊碑
再建のときだ。戦友会など関係者の善意とインドネシア側の協力で放置されていた
碑を再建したが、大使館の担当(厚労省からの出向)は、僕らからの懇請にもか
かわらず、再建の式典にも出席しなかった。
二回目は平成12年、僕らが「南方各地慰霊碑一覧」を関係者のご寄付で出版し
数部を厚労省に贈呈したが礼状一つこなかった。それどころか、無断でこれを
使用、コピーしてNPOなど調査を依頼する団体に配布していた。

だいたい、僕らがすでに調査したものを再調査する必要があるのだろうかー。
破壊された碑を再建するというのなら解かるが、その意思はまったくないという。
前回の調査団(キャンセル)のときはVISAなしで調査しようとしていた。
現地の事情にも暗く、言葉も満足にできない調査団を派遣して問題を起こさ
なければと心配する。前回もそうだが、予算の消化時期になると、この問題が
とび出てくる。
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勤労奉仕と社会奉仕 安倍新内閣

2006-09-27 06:00:14 | Weblog
戦争が終った昭和20年10月、僕ら中学3年生は戦災の焼跡整理に動員
された。第一京浜国道の旧品川区役所周辺は、まだ焼けた廃材やトタン板
などが堆く積まれていた。工場動員から解放されてやっと学園に戻れたとい
うのに、また一か月間僕らは学業を放棄,土方生活をした。国道をジープで
走る米兵が僕らに同情して”ラッキー・ストライク”(煙草)を投げてよこした。
交通費は出たが無償の奉仕であった。

安倍新内閣は教育再生の一環として国公立大学の入学時期を9月とし高校
卒業から大學入学までの期間、青年たちに社会奉仕をしてもらう案を教育
改革推進会議(仮称)で検討するという。戦後の日本人は自分たちが生きて
いる社会に対してあまりにも無関心で奉仕精神を忘れてしまっていた。
その意味で僕はこの案に賛成だ。

皇居外苑公園に約二千本の黒松が植えられている。全部ではないが、この
うちの数百本は皇紀2600年(昭和15年)の奉祝事業として、当時の旧制
中学校(女学校)の勤労奉仕で植樹された。今は皇居外苑になくてはならない
景観の一つとなった。

60年まえ、僕らは米兵が投げてよこした煙草をヤミで売り払い,その
おカネで近くの映画館へ行った。不良行為だが、今でも僕らの想い出の
中に生きている。徴兵制復活への第一歩などと反対しているグループも
あるようだが、等閑されてきた若者の社会への関心を呼び戻すためにも
ぜひ実現して貰いたい。ただし、その運用に当たっては識者の意見をとり
いれ慎重にお願いしたい。

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人間魚雷と牛車の時代

2006-09-26 06:15:16 | Weblog
人間魚雷「回天」をテーマにした映画”出口のない海”を昨日、品川の
ホテルのシネマで見た。終戦時中学3年だった僕らは,特攻隊員につぐ
世代で、戦争がもう少し長引けば同じ運命をたどるところだった。
率直な感想は”懲り懲りの時代”、思い出したくないものを思い出してし
まったーというものであった。それだけ映画はよくあの時代を再現していた。

たまたま、僕らが勤労動員されていた六郷(大田区)の工場では「回天」
の部品を作っていた。「回天」と知ったのは戦後だが、当時僕らは”秘密
潜航艇”を作っているのを自慢していた。部品の鋳物には○六の印が書いて
あった。○六は「回天」で、海軍のもう一つの秘密兵器「震洋」(ベニア
板製)は○四と呼ばれていたとの事。僕らの作った○六部品は完成すると
牛車に載せられ出荷された。

映画では、「回天」隊員は事故であたら尊い生命を失っている。とっさに
僕は工場でヤスリを使って○六「回天」部品を研磨していた当時を思い出
した。牛車に積まれた○六も昨日のように目に浮かんだ。「七生報国}の
鉢巻をしても、これではいくら生命があっても足りなかった。

# 学徒出陣の歌 (ああ紅に血は燃ゆる)
  花も蕾も若桜 五尺の生命ひっさげて
  国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目だ
  ああ紅に血は燃ゆる   (野村俊夫作詞 明本京静作曲) 

映画を見た品川は戦時中戦地に向かう兵士と家族との別離の場であった。映画に
もそのシーンがあった。特攻隊員だけでなく数十万の兵士たちが,お国の
ために戦地に向かい、そのまま帰らぬ人となった。あの時代を知る世代に
とっては思い出したくもない。しかし、戦争を知らない世代にはぜひ映画
を通じて当時を追想し戦争の空しさを考えて貰いたい。
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虫の声と季節感

2006-09-25 06:08:31 | Weblog
わが家の2階のベランダの植木の間から虫が夜長の秋を告げる。僕の
耳には”スウィ スウィ スウィ スウィ”と聞こえるが、小学校唱歌「虫の声」
には、そんな声で鳴く虫はいない。何の虫なのだろうか。
 # あれ 松虫が鳴いている チンチロ チンチロ チンチンロリン
   あれ 鈴虫も鳴いている リンリン リンリン リンリンリン
    ああ面白や 虫の声
       
   キリキリ キリキリ コオロギや ガチャガチャ ガチャガチャ
   くつわ虫
   あとから馬おい追いついて チョンチョン チョンチョン
   スイッチョン
   秋の夜長を鳴き通す あお面白い虫の声 
   
虫の声など自然の音色はよいが、人工音は難しい。先日隣家で仕舞い忘れた
風鈴の音が気になると、受験勉強中の孫から苦情が出た。幸い隣家で心よく
取りはずしてくれた。真夏、浴衣姿で団扇で涼をとりながら聞く風鈴の音は
風情があるが秋風が立つと騒音にもなる。
    
 # 柿食えば鐘がなるなる法隆寺(子規)
単純だが、なんとなく鐘の音に秋を感じる。しかし、最近都心のお寺では
鐘を突くと、騒音だと近隣からクレームがつくそうだ。”鐘は上野か浅草か”
の江戸の情緒はなくなった。世の中が騒々しすぎるのだ。
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インドネシア観光の問題点

2006-09-24 06:09:32 | Weblog
先週の週末、東京お台場のホテルでインドネシア観光文化省主催の
”観光の夕べ”とこれに先立つ関係者の集まりがあった。豪華なおカネ
のかかった催しに招かれながら苦言を呈するのは心苦しいが、あえて
40年のこの国のウォーチャーとして許してもらおう。

一昨年のスマトラ沖地震・津波以来数重なる天災それに爆弾テロな
どの影響でインドネシアの観光収入は前年比4・67%の落ち込みだ。
インドネシア観光の63・6%がバリ島という日本人観光客の減少も
大きい。しかし、これは天災による一時的な現象で、それほど大きな
問題ではない。僕が言いたいのは、せっかく世界有数の観光資源を
もちながらも"十年一日”の観光政策である。

"観光の夕べ"では伝統的なガメラン音楽、バリ舞踊が披露され招待
客には豪華なパンフレットが一杯入ったカバンまでプレゼントされた。
会場では首都ジャカルタ観光のビデオが大きなスクリーン一杯に映された。
林立する高層のビル、豪華なレストラン、立派に手入れされたグリーン、
エステ・サロンetc. しかし、これで日本人の観光客をジャカルタに呼
べるだろうかー。

ジャカルタには”じゃがたらお春”の昔からの歴史遺産がある。彼女は
17世紀、優雅な一生をこの町を終えた実在の人物である。直接彼女に
つながるものは残っていないが、当時の世界は再現できる。これだけで
も日本人観光客は呼べる。近隣のシンガポール、マレーシアは歴史遺産を
上手に利用して観光の目玉にしている。例えばセントーサ島のように。
市内には歴史構築物博物館(Museum Taman Prasasti)があり、蘭印時代
のエルベルフェルトの”さらし首”や日本軍の戦死者慰霊碑があるが、
なぜか観光文化省のパンフレットには紹介されていない。

この国は新しいものを造るのは好きだが、古いものを維持保存するのは
得意ではないようだ。日本の賠償引き当てで僅か40年前に建てられた
ホテルがすでに壊された。自然が豊かなので、歴史遺産は観光資源として
無用なのかもしれない。



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壱銭五厘時代!

2006-09-23 05:55:25 | Weblog
父の遺品の整理をしていたら壱銭五厘の未使用の葉書と次のように
僕宛に投函された葉書が出てきた。
「懐かしい壱銭五厘君よ,随分長い間御活躍になりました。いよいよ
今日でお別れです。壱枚買うと剰銭の代わりに五厘切手を押付けられ
たのも、もう過去の語り草です。「葉書は二銭、切手は四銭」の時代が
きました。サラバ壱銭五厘君!」 昭和十二年三月三十一日
父が当時六歳だった僕に葉書壱銭五厘時代の終焉の想いをこの葉書に書き、
ポストに入れたものだ。

「一銭五厘」というと戦時中徴兵された若者が自分の生命の安さを自嘲的に
喩えた言葉として使われている。一部では徴兵令状が「一銭五厘」で届いた
ように誤解されているが誤りだ。戦後アメリカ兵が自分のことをGI
(Government Issue=官給品)と自嘲したのと同じである。僕は一銭五厘の
葉書が値上げになった時期が昭和十二年四月なのに注目した。まだこの頃は
日支事変の前で国民の間で戦争気分はなかったし徴兵数も少なかった。

父が残した葉書によると「壱銭五厘」は別な”押付け”という理由で評判が
悪かったようだ。後世の人間が自分の知らない時代を推測するのは難しい。
今回の東京地裁の国旗・国家判決を見て、つくづくそう思った。判決前に
その時代を一方的な角度だけでなく総合的な角度からみてもらいたかった。
裁判官は時には歴史家でなくてはならない。
















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銃後の生活の遺品

2006-09-22 06:04:57 | Weblog
この一週間ばかり屋根裏に立てこもって父の遺品整理に奮闘した。家を
造ったとき、下手に屋根裏に物置を設けたのがアダだった。物資のない
時代に育った老妻が”もったいなさ”からなんでもかんでもダンボールに
詰めたままにしていたから大変だ。狭い物置の中であっちへ行ったり
こっちへ行ったりで汗をかいたせいか体重が2㌔も落ちた。


遺品の中には若山牧水が父との別離のために書いてくれた和歌もあった。
そのほかわが家の百年の歴史を語る品々が数十のダンボールに無造作に詰
められていたが、一箱からは戦争中の銃後の”遺品”がごそっと出てきた。
よくぞこんなものをと思うガラクタばかりだが、今となっては当時の歴史
の”証拠品”である。

衣料切符、国防婦人会タスキ、家庭用蔬菜購入手帳、雑炊食券、国民酒場、
東部軍管区情報カード、家庭用石鹸購入券(資生堂広告付き)塩購入券、
味噌購入券、戦争死亡傷害保険証券、訓練用五頓エレクトロン爆弾などなど。
わが家に置いても散逸するのはたしかだ。ちかく専門の博物館と相談して
寄贈したいと思っている。

戦争は戦場ばかりではない。銃後も戦争であった。衣類が欠乏、ズボンの尻に
”猿のオケツ”の布をあてて育った少年たちもすでに70代。竹やりを構え
バケツ・リレーで防火演習した女性は80代。銃後も遠くなりにけりーだ。
この時代を次の時代に伝承するのも僕らの義務かもしれない。


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安倍晋三と伊藤博文

2006-09-21 06:13:59 | Weblog
安倍晋三氏が自民党第21代総裁に選ばれた。同党としては史上最年少で、
戦後生まれの初の総理誕生となる。今日が誕生日で52歳。母方の祖父が
岸信介、大叔父が佐藤栄作、父親が安倍晋太郎という、まさに政界のサラ
ブレッドである。期待するところ大”。理想の灯を絶やすことなく改革のたい
まつを受け継いで”貰いたい。

安倍氏には問題が山積して待っている。その中の一つが韓国との関係改善
である。ここ数年”韓流”ブームで民間レベルでは友好が進んできたのに”靖国
参拝”の誤解で流れが頓挫しているのは残念である。
歴史認識がからむ難しい問題だ。日韓併合はおよそ100年前の出来事。そして
安倍氏の同郷の大先輩政治家、伊藤博文が初代の朝鮮統監であった。安倍氏は
総理就任を機会に、伊藤博文がなぜハルピン駅頭で安重根に狙撃されたのかー
複眼で歴史を検討し、両国の友好につなげて頂きたい。

伊藤博文が初代首相に就任したのは、安倍氏よりさらに若く44歳であった。
明治維新後の日本の近代化の舵取りをした大政治家であった。朝鮮併合には
反対であったが、時の流れで朝鮮統監になったがために韓国では大悪人化さ
れていると聞く。数年前ソウルのかっての朝鮮総督府の建物が取り壊される
とき、日本で歴史的建築を壊すとはと反対運動があった。しかし、韓国の国民
感情からみれば、どうだろうかー。歴史検証と同時にお互いの国への配慮も
時には必要なこともある。
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