「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            自然災害と民主党政権

2011-07-31 06:24:03 | Weblog
日本列島は一体どうなっているのだろうか。今度は新潟、福島地方に記録的な豪雨である。信濃川の支流の五十嵐川など5河川の堤防が決壊するなど大きな被害が出て、一時は40万人近い住民に対して避難勧告や指示が出た。そんなことはないと思うが、2年前の政権交替の際の民主党の”コンクリートから人へ”の政策が、被害を大きくしているのではないだろうか。

僕は治水砂防については素人だが、1990年代から2000年にかけてJICA(国際協力機構)の海外研修員に同行して日本各地の堤防、砂防ダムなどを視察する機会に恵まれ、わが国のこの面における技術力の高さに驚き、これが、いかに国民の防災に役立っているかを実感した。

神戸の六甲砂防には何回もお世話になったが、阪神大水害(昭和12年)の被災のすさまじさに驚く一方、当時の国の対応の早さに驚嘆した。7月の大水害から僅か2か月後の9月には国の直轄事業として現地に砂防事務所ができ、対策工事が始まっている。以来六甲には大きな被害は出ていない。

”コンクリートから人へ”の象徴として政権交替時、群馬県の八ツ場ダムがクローズアップされ、前原誠司国土交通相(当時)が毎日のようにテレビに出ていたが、そのご建設はストップされたままなのだろうか。民主党政権になって以来、ダムや堤防はすべて税金のムダ使いとみる風潮があるのではないか。

残念ながらわが国は地形的にも気象的にも自然災害に直面して行かざるを得ない。このために先人たちが色々と知恵を働かせ対策をたててきた。民主党には過去のものはすべて悪とみる変な考え方があるみたいに思えてならない。


         菅総理に国を思う心はあるのか?

2011-07-30 06:05:45 | Weblog
民主党のご意見番と称せられる渡部恒三氏が産経新聞のコラム「国益が第一」(7月28日)の中で”菅くんに国を思う心が残っているならお盆前に自ら退いてくれることだ。私はそう信じている”と書いていた。お盆は一般には8月13日から16日までである。あと2週間しかないのだが、菅総理は辞任するだろうか。辞任しなければ渡部氏流にいうと、もう菅総理には国を思う心がないということになる。

延長された今国会の会期は8月31日である。菅総理が辞任のメドにしている第二次補正予算は野党の協力もあって可決されたが、残る二つの特別公債法案と再生エネルギー法案の可決への見通しはどうなのかー。残る会期は1か月である。民主党の岡田幹事長は無責任にも、会期前でも三つの条件のメドがつけば菅総理は辞任すると、言っていたが、今の政局ではさらさら、そんな気配はない。

マスコミの報道を見る限り、菅総理は四面楚歌である。民主党支持母体の連合の古賀会長も実行力のないリーダーと菅総理を批判し、経団連の米倉会長に至っては復興への最大の障害は総理の居座りだと厳しい。全国都道府県議長会も菅総理の退陣をもめる緊急決議を採択している。異例なことだそうである。

作家の曽野綾子さんが、同じ産経新聞のコラム「小さな親切大きなお世話」(7月29日)に「高齢者時代の礼儀」という見出しで次のような文を寄稿している。”私は現総理に会ったこともないので一般論になるが、明らかに病変によるかなり深刻な人格変性が出てきたきたような政治家が現れた時社会的被害を食い止めるのは家族の冷静な行動以外にない。そんな時、その人が自分で辞めない限り、どうにもならないといことは世間的には、かなり恐ろしい状態だ”

菅総理は曽野さんや僕に比べれば65歳でずーっと若く、高齢者といえるかどうか判らないが、頭の構造は末期高齢者のそれのように僕には映る。


               節電と電休日

2011-07-29 06:21:01 | Weblog
まもなく66回目の敗戦記念日がやってくる。昭和20年8月15日、天皇陛下の敗戦のご詔勅(玉音放送)を僕は自宅の防空壕で亡母と一緒に聴いた。わが家の場合は、ごく稀で亡父の仕事の関係で、敗戦を5日前から知っていた。だから特に感激も悲しみもなく”これで空襲がなくなり、動員先の工場へ行かずにすんだ”とぼんやりと思った。

8月15日は水曜日であったが、僕が動員先の千葉県の利根運河から帰京し、新たに7月初めから派遣された多摩川べりの軍需工場は、水曜日が電休日であった。電休日とは戦争末期電力不足から、軍需工場ですら生産できなくなり、週に一回、操業をストップする制度であった。5月の空襲で消失した前に動員されていた工場では電休日はなかったから、度重なる空襲で発電設備が破壊されたための措置だったのかもしれない。

戦時下は戦意昂揚のスローガンが、オンパレードであった。”撃ちてし止まん””贅沢は敵””鬼畜米英””一億火の玉”など枚挙に暇がないが、”節電で産めよ戦地で待つ兵器”というのもあった。しかし、一般家庭では今ひとつピンとこなかったのではないか。家庭では現在のような電気製品はなかった。灯火管制はあったが、これは節電よりは敵の空襲に備えるものであった。

日本人が節電に意識したのは戦後の昭和40年代の”オイル・ショック”の時ではなかっただろうか。テレビ局は深夜放送を中止し、デパートの中にはエスカレーターをストップしたところもあったが、一般庶民は、風評によって派生したトイレットペーパー不足で電力不足を体験した。

戦中戦後の停電時代を体験している僕らの世代は電気の大切さをよく知っている。エアコンなどなかった時代に生きてきたのだから、エアコンなどなくても平気だ。だからと言って熱中症になって若い人に迷惑をかけるわけにはいかない。ほどほぢに節電に協力しよう。

          忘れられた「通州事件」から74年

2011-07-28 06:04:44 | Weblog
74年前の昭和12年(1937年)7月29日、北京郊外の通州で民間人を含む日本人居留民260余名が当時の支那軍保安隊によって虐殺されている。日支事変の発端となった盧溝橋事件から3週間後の出来事で、惨殺された日本人の多くは北京から避難してきた人たちであった。

僕の先輩の安藤利夫さん(故人)もたまたま、この通州事件に遭遇したが、九死に一生を得て生き残った数少ない日本人であった。安藤さんは当時同盟通信(現在の共同通信)の特派員として北京にいたが、北京の情勢が悪化したため、一般邦人と共に通州に来ていた。戦後安藤さんは、その時の支那軍保安隊の残酷さを文芸春秋臨時増刊号「昭和の35大事件」(昭和30年8月発行)に書いている。この事件が契機で、日支間の戦争は本格化し、戦火は中国全土に拡大していった。

しかし、今や通州事件といっても特別な研究者以外知る日本人少なくなってきた。多分歴史の教科書にも登場してこないだろう。中国の現代史も無視しているに違いない。これに反して日本では、中国の史観にたった南京虐殺事件が正当化され独り歩きしている。

安藤さんは大東亜戦争勃発時は、同盟通信の蘭印バタビア((ジャカルタ)支局長をしていて、開戦と同時に蘭印当局に逮捕され、他の在住邦人と一緒に豪州の砂漠地帯のラブダイに送られ、1年間抑留生活を送っている。その後、戦争中も日本軍政下のジャカルタにいてどちらかといえば、インドネシア通として知られている。

僕もインドネシア問題について安藤さんから教えを受けた一人だが、通州事件や南京陥落当時の中国についてはお聴きするチャンスがなかった。今思うと残念なことであった。

         菅内閣は拉致問題から手を引け

2011-07-27 06:16:00 | Weblog
鳩山内閣の拉致問題担当担当大臣中井合(サンズイ)氏が先週21-23日、長春で北朝鮮の高官と密かに会い、拉致問題解決について話合っていたらしい。この会談には政府の拉致問題対策事務局の職員も同行していたという。これについて菅総理も松本外務大臣も、関与していないと否定している。しかし、この動きに同調したかのように菅総理の北朝鮮電撃訪問説とか8月の日朝会談説まで飛び出してきた。

中井氏は拉致問題についての日朝接触を否定し、生まれ故郷の長春を訪れたにすぎないといっているが、拉致問題事務局の職員を同行しており、話し合いが行われたのは間違いない。中井氏といえば過去に女性問題のスキャンダルとか、皇族に対する蔑視発言、衆院予算委員会でのおかしな発言など、マスコミを騒がせるには、こと欠かない人物だ。おそらく、今回の北との接触も、うまく行けばの一発を狙ったものだろう。

拉致問題について現職の中野寛成担当大臣が18日、ソウルで玄仁沢・韓国統一大臣と会談後の記者会見で、拉致問題解決についての”共同体制”構築が出来、解決に向かっての足並みがここ数年これまでそろったことはない”といった意味の発言をしている。菅総理がこれを受けて、一発を狙って、もともと”軽はずみ”な中井氏を利用したのではないだろうか。

”死に体”、断末魔の状態の菅内閣にとって拉致問題の解決は、願ってもない起死回生の策である。一方、北朝鮮にとって、今の菅内閣は交渉相手としてはもっとも手弱いに違いない。尖閣問題に見られるように、簡単に国益を捨て、しかも歴史認識にかける政権である。菅内閣は、"三つの問題"にケリをつけるだけの”暫定”政権である。将来に禍根を残すような”拉致交渉”からは手を引くべきだ。


        東京からニイニイ蝉がいなくなった!

2011-07-26 05:53:52 | Weblog
ニイニイ蝉の鳴き声が東京(区部)から聞こえなくなって久しい。昔は7月初めから夏休みが始まる頃にかけて、あちこちでその鳴声を耳にしたものだ。松尾芭蕉が立石寺で詠んだ「閑けさや岩にしみいる蝉の声」の、あの蝉は時期場所からみて、このニイニイ蝉だったといわれている。東京では夏の到来を告げる先がけだった。

ニイニイ蝉だけではない。最近はあぶら蝉も少なくなってきた感じだ。わが家は東京でもまだ緑が多少残っている地域だが、今年はまだあぶら蝉の鳴声は一度も聞いたことがない。一説には都会のヒートランドによるものだというが、おかしな現象は、昔は住宅地にはあまりいなかったミンミン蝉やオヒーツクの鳴声を耳にするようになったことだ。

昭和10年代、少年時代僕は東京の目黒川沿いに住んでいたが、当時周囲にはニイニイ蝉やあぶら蝉はいくらでもいた。トンボも僕らが”しおから”とか”むぎわら"と呼んでいた類ならイやというほど捕れた。しかし、羽が透明に近い、、ミンミン蝉やオヒーツク、またトンボも”ぎん””ちゃん”と呼んでいた、大型のヤンマーは高台の池田山へ行かないと取れなかった。

池田山には皇后陛下の実家の正田家の邸宅(現在品川区立ねむの木公園)があった。僕ら悪童は、竹ざおの先にモチを塗りつけ、お屋敷の庭に忍び込み”高級”の蝉やトンボを取ったものだ。もう70年も前の話だが、都会から緑が失せ、小川も暗渠になって、蝉やトンボも自然界から姿を消してきた。これが人間社会にどのような影響を与えているのだろうか。

        ”地デジ化”難民にはならなかったが

2011-07-25 07:56:46 | Weblog
昨日の正午で地上波テレビのアナログ放送は被災地3県を除き全国44都道府県で終了しデジタル放送に移行した。このデジタル化に伴って、対応できていない機器の家庭ではテレビが視聴出来なくなり、なんと全国で10万人もの人が総務省やNHK,民放などに問合せや苦情が寄せられたという。

地デジ化への移行は、すでに1年前からマスメディアなどを通じて周知徹底されていたと思っていたのに驚きだ。しかし、僕ら高齢者の中には"機械に弱く”PCはおろかFAXも使用できない者もいる。地デジ化といっても理解できなくても不思議ではない。また生活困窮者の中には、経済的な理由から移行できない家庭もあったのかも。

40数年前、僕は福島県のUHF局民放の開局に立ち会ったが、当時のテレビ機器はVHFしか見れず、UHFを視聴するためにはコンバーターが必要だった。僕らの仕事は県内の電気屋さんを回ってコンバーターの普及から始まった。コンバーターの普及率が営業に直接反映してきた。今回の地震と津波で被災した浜通りは、コンバーターなしでも東京のテレビが全部見える地域があり苦戦したことを思い出した。

そんな体験から僕は地デジ難民にはならず、早くから対応できたが、高齢になると、たしかに新しい"機械”に弱くなってくる。今、困っているのはNTTやKDDIといった旧電話会社を名乗る企業からの”光通信”の電話による勧誘である。わが家では、これに加盟しているケーブルテレビ会社まで参入しての売り込みである。高齢になると、専門用語に弱くなる。でも"難民”になると困るので、対応はしているが迷惑である。

     「新日本復興の源泉」 97歳の先輩からの提案

2011-07-24 05:43:04 | Weblog
大正3年生まれ97歳の先輩から二宮(尊徳)報徳会の機関誌「ほうとく」(平成23年夏季号)の寄贈を受けた。先輩は、この機関誌の中で「新日本復興の源泉ー禍を越えて輝く未来ー」を寄稿されている。東日本大震災からの復興について、先輩がどのように考えているのか、参考になるので紹介してみよう。

先輩は小学生の時、大正12年9月1日の関東大震災を体験している。家は被災しなかったが、難を避けて白金の火薬庫(現在の自然教育園)の森に避難したという。関東大震災の記憶のある数少ない世代だ。大東亜戦争にはシンガポール上陸作戦に第五師団の"一兵卒”として参加、豪北のセラム島で敗戦を迎えている歴戦の勇士だ。

先輩は寄稿原稿の中で菅政権について"被災者の方々の悲しみを共有している人たちは(菅総理の)責任逃れ、隠蔽(いんぺい)歪曲(わいきょく)言動の驕り(おごり)に不信感を持ち、その場あたり主義にあきれている"と批判している。そして”新日本復興には一つの例として"山に迷った時には立ち止まり、引き返すのが原則である。戻ることによって新しい道が見出せる、と歴史は教えている”と結んでいる。

僕も菅総理の言動には驕りがあると見ている。われわれに比べれば、はるかに少ない自分の経験だけで物事を処理し、しかもそれを鼻にかけている。過去の歴史に対しても、おかしな考えにとりつかれて、これに固執しているようにみえる。歴史から学ぼうとする謙虚さがない。大震災後の失政について一度立ち止まり、見直す気持ちがないのなら、一日もも早く国のため国民のため総理の座を去るべきである。

       ラジオ体操が禁止されていた占領時代

2011-07-23 05:42:28 | Weblog
夏休みに入り、今年も町内会主催のラジオ体操が始まった。昨年は退院直後だったため遠慮したが、今年はなんとか参加できそうだ。この街のラジオ体操には、子供も孫もお世話になっており、もう半世紀もの歴史がある。住宅地の道を体操の時間だけ車を止めて行うのだが、その整理には80歳のお年寄りも出て、文字通り町ぐるみの催しだ。

NHKのラジオ体操は昭和3年から始まっており、日本人なら誰もが夏休みにやった想い出がある。僕も戦争中だったが、学校の校庭のラジオ体操に参加した。首からさげた参加カードに「出」のスタンプを押してもらい、最終日にご褒美のノートや鉛筆を貰うのが何よりの楽しみだった。当時のラジオ体操の歌はー
            踊る旭日(あさひ)の光を浴びて 屈(ま)げよ伸ばせよ
            吾等(われら)の腕(かいな) ラジオは叫ぶ一、二、三
であった。

このラジオ体操は敗戦後の昭和21年から25年まで中止されている。正式に調べたわけではないが、多分占領下、連合軍の命令か、あるいは遠慮してかの措置だと思う。あの時代はおかしな時代であった。剣道は”しない競技”と改名させられた。多分、ラジオ体操も"旭日”が"旭日旗"を連想させ、それで禁止の対象になったのかもしれない。

今でも、ある一定の大人たちの間には、ラジオ体操を嫌う世代がいる。多分占領期に教育を受け、夏休みのラジオ体操の想い出がない世代ではないかと思う。リーダーが前に立ち号令で行われると誤解しているみたいだ。彼らは、ラジオ体操の効能は理解していても、皆と一緒にする体操の輪には入らない。
(写真は老妻と二人の参加カード。昔に比べてカラーフルだ)

              義援金と風評

2011-07-22 05:45:10 | Weblog
床屋談義だが、先日出かけた理髪店の主人が”震災被害者への義援金はいったいどうなっているのでしょうか。どこで消えてしまっているのでは”と僕に聞いてきた。日本の国である。そんなことは絶対にないとは信じているが、震災から4か月余を経ても、いまだに義援金が届いていない被災者がいるというと、床屋の親父さんならずと変な疑いを持ちたくなる。

政府の「義援金配分委員会」の7月1日現在の数字によると、義援金の総数は238万件で、総額は2588億円で、うち第一次配分で878億円、第二次配分で1446億円、合計2324億円と9割方がすでに市町村に配分されている。ところが直接義援金を受け取っていない、被災者が、まだまだかなりの数に上るという。配分基準が複雑のうえ、被災地の窓口の職員不足が原因しているとのこと。

2004年12月のスマトラ沖巨大地震と津波の後、インドネシアではM8を越す余震がスマトラだけではなく、ジャワでも続いた。そのつど日本政府や民間から義援金が贈られている。僕も貧者の一灯だが、協力させてもらっているが、現地の日本人組織の間には、集まった義援金は直接、被災地に渡し、さらに目に見える形で行うべきだとの意見もあったそうだ。インドネシアではkorupsi(汚職)がはびこっており、公式機関を通じて援助しても善意が届かないというのである。

他国の事だと思っていたが、今回の震災で国の内外から集められた巨額の義援金がいまだに被災者の所に届かない現実を知ると問題である。政府の「義援金配分委員会」は配分で事足りたでは困る。大震災から4か月余経っても避難所暮らしのテレビ画面が外国に紹介され、義援金を受け取ってないことがわかれば、日本政府の鼎の軽重が問われることにもなる。