Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

原爆の正義(?)を受け入れている被爆国

2013年08月24日 | 原発・核・311

815日のエントリー『『民主政治風専制政治』からヒトラー政権を手本にしはじめた理由』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130815

に続いて、今回もJBpressの伊藤乾氏のコラムのリンクと本文(一部省略)を貼り付けます。

(全文は早めにリンクからどうぞ。)

JBpress (2013.724)

日本に原爆を落とした米国が必ず言う「正義」

By 伊藤乾氏

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38528

(前略)

この、勝算のない戦争での戦争指導部の最悪の愚策群、最もよく知られているのは各種の「特殊奇襲攻撃」と思います。

 夏になるとしばしば、特攻関係の長時間テレビドラマが作られ、オンエアされるのを目にしますが、私には根本的な疑問があります。

 帰還することのない出撃命令、それに準じて若い命を失った軍人、兵士たちの悲惨は言葉に尽くせません。が、そのような出撃命令もまた人間が下したものです。

 こうした奇襲攻撃を立案した人々、それを推進した人々、彼らの責任を本来、ストレートに問わねばならないはずです。

 企画立案者の中には、自らもまた特殊奇襲攻撃(やその準備訓練)で命を落とした人もいます。が、命永らえ、限局された戦争責任への訴求をクリアしたのち戦後の日本社会で活動した人もいないわけではないと聞きます。

「国のために命を落とした人の慰霊」を言うとき、そこで「国のため」として、どういう出撃命令を下しているか、そういう一つひとつをきちんと問うのが、私は本来の筋道と思います。

 どうしても日本人は、「亡くなった人のことを言っても仕方ないから・・・」といった微温なメンタリティーで、被害者と加害者を一緒にしてしまう傾向があるように思います。

 あれもこれも何でも「国のため」で一緒くたにしてしまうことに、私は明確に疑問を持ちます。仮に真情をもって「国のため」を考えたとしても、それで若い多くの命をむざむざと失うような戦争の指導を行うなら、はっきりそれは責任を問われるべきでしょう。

 第2次世界大戦中、ドイツもイタリアも、またもちろん米国も英国も「国のため」もっと言えば「自分たちの国が勝ち、ほかの国を軍事的に制圧するため」に様々な策を講じました。

(中略)

「国のため」の2つの問題点

 いま、日本では見えにくいかもしれない問題を、ドイツのケースで考えてみましょう。

 ヒトラーやゲッペルスに言わせれば、ユダヤ人弾圧政策も欧州進駐もすべて「民族および国家の危難を除去するため」、つまり国のためにやったことになる。間違いなく彼らは、彼らなりの確信を持って、そう強弁するでしょう。

 ここには2つの問題があると思います。

1つは、

「国家が優先して国民が犠牲になる」という理屈がどうして正義として認められるだろうか?

という「全体主義」の問題。いま1つは、

 「自分たちの民族が優先して他民族、他国家が犠牲になる」という独善がどうして正義として認められるだろうか?

という他国、他民族への侵略の問題です。前者は自国民の蹂躙つまり暴政、後者は他国・他国民への蹂躙つまり国際秩序の擾乱で、このいずれも、21世紀の地球上で1つの「国家」がなすべき政策、採るべき姿勢ではありません。

 仮に自国民を弾圧する政府があれば、国連など国際機関が人道的な見地からそれを救う方途を検討することになります。これを「内政干渉」とは言わない。

(中略)

ある国家体制(例えばナチス時代のドイツ)が「自国民に対して働いた暴虐」に対して、国民自身が抗議の声を挙げるのは当然のことです。仮にこれを「内向きの抗議」と呼んでみます。

 逆に、ある国家体制(ナチスと思ってください)が自国民のために行った施策で、国民が感謝するということもあるでしょう。これを上との関連で「内向きの賛美」と呼ぶことにしましょう。ネオ・ナチのような動きは、社会が不況になるといつでも出てくるものです。

 さらにまた、ある国家体制(これもナチスと思ってください)が「他国の国民や、異なる民族の人々に対して働いた暴虐」に対して、被害に遭った国や民族、その子孫が抗議するのも当然でしょう。

 「外からの抗議」、例えばユダヤ人社会からナチス犯罪へのサイモン&ヴィーゼンタール・センターの抗議は戦後68年経過した現在でも終わることがありません。

 こうやって欧州の例で見ると当たり前のことが、日本を含む話になると、突然国内では通じにくくなってしまう傾向があります。竹島や尖閣諸島を巡る問題や、またそれらを念頭においた上での靖国参拝への各国の反応を考え、

 「A国民が、A国祖国を守ってくれた祖先に『内向きの賛美』を捧げる」 と言うとき、そのA国軍の軍事行動で命を落としたB国、C国の人々から、

 「自分たちBC国の祖国や祖先に危害を加えた者に『外からの抗議』がくる」 のは当然のことで、その立場の違いをきちんと了解したうえでなければ、通じる話も通じなくなってしまいます。

「原爆投下は正しかった」:日本で意識されない「別の正義」

 例えば、日本人の多くは「原爆」はよくないもの、核兵器は憎むべきものでその廃絶は人類の重要な課題、と認識していると思います。世論調査などすれば大半の国民が「平和は大切」と答えるでしょう。

 そんなとき「広島・長崎への原爆投下」は「正しい行動だったのか?」と問うと、答えは2つに分かれると思います。

 「原爆投下は正義だったんですか?」と問うと、

 1つは「正義? とんでもない。米軍の原爆投下は絶対に許されるべきではない」という明確なノーの声。存命の被爆者など、直接被害に遭った方で、決して米国を許さないと強く語られる人は少なくありません。

 もう1つは「・・・」と答えに窮するタイプで、若い世代ではこちらの方が多い気がします。これ「あやまちは繰り返しませんから」という主語不明の平和の祈りに似ているように思うのです。

 ところが、国際社会では「原爆=正義」という声は現在でも決して小さいものではない。そしてその常識が、良くも悪くも日本国内にはちっとも実感をもって伝わってこない。ここに情報の分断があると思うのです。

 米国や英国では、今も30年前も60年前も日本への原爆投下は「正義」であった、正しいことだと教えられ続けています。

 かつて2007年春、米国で米軍基地に体験入隊したときには、60年前オキナワやアツギに勤務していたという80代の退役軍人、売店の番をしていた爺さんから、真顔で、

 「お前たちはどこから来た? 日本か。俺もいたことがある。おまえたち、アメリカに原爆落としてもらって良かったな、感謝しなきゃダメだぞ。そうじゃなきゃロシアが北からやって来て、いまのコリアみたいなことになってたんだから、原爆落としてもらってありがたいと思え」

 こんなふうに言われた経験があります。この爺さんに何を言っても通じないでしょう。あれからもう6年ほど経つので、爺さん自身、いま元気かどうかも定かではない。

 私の意見は明確です。日本の戦争指導部の施策も最悪でした。また米国というより連合軍の広島・長崎への原爆投下は、あらゆるローカルな法規を超えて、人類全体への犯罪行為であったと考えています。そして、個人で責任を負える範囲では、そのようにはっきりと国際会議などの場でも発言します。

 日本人の私が「原子爆弾の投下ということ自体を犯罪と思う」と言うと、知識人、大学教授など、ものの分かる人は、すまなそうな表情で言葉少なになります。が、朝鮮戦争に従軍したという、上の80代の老米兵は「正義」と信じたまま一生を送るでしょう。

(後略)

伊藤氏の視点、主張、疑問・・・彼のものは、今回のものに限らず、頷けることが多いです。

以前、私は『本当の戦後処理』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20121118

のなかで、原爆投下の罪について書いていて、そして、ここにもでてくる、アメリカ人の友人ティムさんには、

「広島や長崎に原爆について、日本政府が「自分が悪かったから仕方がない」という態度をとってきていることは、一部の人の戦争責任や戦後処理に対する見解をゆがめていると思う」

と言ってきています。

(また、原爆と離れてナチスドイツの話ですが、日本でもよく読まれている『アンネの日記』。

日本人はこれを読み、他人ごとのようにナチスや協力者を非難する側に身を置きはするけど、「自分の国がこんなナチスドイツと同盟を結んでいたんだ」とまで思いをはせる人は1パーセントもいないでしょう。)

さて、上の伊藤氏のコラムに出てきた80代のアメリカ人退役軍人ですが、そんな彼に対して怒りを覚えたり、彼の浅はかさを笑う人は日本には多いでしょうが、中身は違えど、これと似たような思考回路を持ち、発言をする大物政治家が日本にもいます。

そんな人たちが率いる日本が国際社会で軽視されていったとしても、不思議はないように思います。

コメント (2)
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