Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

『民主政治風専制政治』からヒトラー政権を手本にしはじめた理由

2013年08月15日 | 国際・政治

85日のブログ『ナチスは悪者、でも自分たちが手法を真似るのには抵抗がない安倍政権とイスラエル』http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130805

に、

「ヒトラー政権もムッソリーニ政権もイメージ作りから不満を抱えていた国民の支持を伸ばしていきました。そして、実際彼らが大胆な経済政策を打ち出したことで国民は自信を取り戻し、不況を脱出させたことで国民は彼らを英雄視。

もうこうなると、あとは「あれ?おかしいぞ」と思う政治家や国民が出てこようと、もう好き放題。」

と書きました

ヒトラー政権は『独裁政治』でした。

日本は形の上では『民主政治』。

しかし、明治以降の日本の政治は『民主政治』の形はとっても、世襲大物政治家が国の実験を握り、彼らは実業界の大物の子どもと婚姻関係を結んだりして癒着。国民は羊のよう。なので、実際は「専制政治」に近いようにも思えました。

ところが、福島原発事故以降、少なくない国民は、『羊』であることをやめました。

こうなると、『民主政治のふりをした専制政治』は成り立たなくなります。

よって、彼らはヒトラーを真似し始めます。

が、独裁政治と専制政治は一夜にしてできあがりません。

1.耳に優しいことを言ったり、『憎悪の対象』を作り出す

2.ストッパーを無くす

3.都合の悪いものは排除

の手順でできあがります。

以下のJBpressの伊藤乾氏の記事を読んで、現在とくらべてみてください。

JBpressの記事はある期間を過ぎると、会員以外は1ページ目しか読めなくなりますので、早めにリンクから本文を読んでください。)

JBpress (2013815)

終戦の日にナチス・ドイツ誕生の経緯を振り返る

いま、私たちが同じ過ちを繰り返す危険性は本当にないか?

By 伊藤乾氏

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38447

(前略)

憲法は「正義」ではなく「正義のストッパー」

このところ「憲法」が社会的に議論に上ることが少なくありません。ここでちょっと変わった質問をしてみましょう。

 皆さんは「憲法」は「正義」だとお考えになりますか?

 「何を言っているんだ、憲法は正義に決まっているじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、実は私はそうは思わないのです。この確信を私は、刑事罰を巡るEU本部とドイツ連邦共和国の合同プログラムを通じて強く持つようになりました。

 そもそも「正義」とは何か・・・?

 これ自体が難しい問題です。しかし、いま私たちが通常の社会で生活していて、何か争いがあるとき、何が正義で何が不正であると判断するかと言えば、マスコミの不正確な報道などは別として、筋道としては裁判所、つまり法廷が、その別を決定しているはずです。

 これは法律的な意味での「正義」「不正」であって、法廷の決定、つまり「判決」が字義としては「正義」を表すはずです。が、実際にはあらゆる判決に不服や不平はつき物です。日本では裁判は3審制で、自らに有利な「正義」が争われる。

 つまるところ、法的な「正義」というのは、実は相対的なものでしかありません。

 憲法というのは、そういう「個別の正義」を代表するようなものであってよいのか・・・? もちろん「否」と言わねばならないでしょう。

 むろん、憲法の内容が「不正義」であってはなりません。その意味では憲法もまた「不正」の反対側に立つものですが、憲法は単に「個別の正義」を実践するものではない。

 既存の法律に従って、裁判所が下す「個別の正義」、あるいは政府が実施する「個別の政策」や立法府が新たに定める「個別の法律」、こうしたもの全体をチェックする役割、もっと言えば、それら「正義の暴走」に対するストッパーというのが、憲法という法律、つまり国の基本法典が持つべき、最も重要な役割であると思うのです。

司法、立法、行政という、一つの国が持つ3つの主要な国権。これらが独立せず、わがまま勝手な国の経営が許されれば、民主的な社会を築くことはできません。これらがきちんと動くことが、普通の意味での「正義」に必ず求められます。

これが少しでも狂うとどういうことになるか、という実例として、ナチス・ドイツを見てみましょう。実際に狂ったのは本当に「少し」の部分でした。そして、それは十分ドイツのみならず全欧州、全世界を壊滅的危機にまで追い込むものでした。

「ナチス憲法」なんてものはない

どこかで不勉強な政治家が「ナチス憲法」とかいう言葉を使っていましたが、ナチスに憲法、つまり国権の制限する基本法典がなかったから、ああいうことになってしまった。その本質を理解していない時点で、まじめな議論が基本的に成立していません。

 実際にあったのは以下のような出来事です。

 1932年、ワイマール共和国大統領選挙でアドルフ・ヒトラー候補はパウル・フォン・ヒンデンブルク候補に次いで次点となります。同年731日、116日の国会議員選挙でナチス・ドイツは相次いで第1党の地位を占め、翌1933130日ヒンデンブルク大統領はヒトラーを「首相」に任命します。

 次いで連邦各州内閣の権限が「国家弁務官」に譲渡される権力の集中が始まりますが、決定的だったのは227日、ベルリンの国会議事堂が放火される「ライヒスタークスブラント」事件が発生、これを「共産主義者による反乱計画の一部」と見なしたナチス政権は事件を政治的に徹底的に利用しました。

 実際、つい十数年前にロシア革命によってソ連が誕生していたため「共産主義者の反乱」という言葉は一定以上の説得力を持っていたのも事実でしょう。

ヒトラーはまず緊急事態を宣言する大統領令を発布、ワイマール共和国憲法で定められていた基本的人権や労働者の諸権利を停止します。

「誰も気がつかないうちにいつの間にか憲法が変わっていた」なんて推移ではありません。誰もが「国家の危機」と思い込んだ瞬間に、物事はさっさと、公然と進められていきました。

(中略)

ワイマール共和国憲法は「憲法改正には議員の3分の2の賛成を必要」と定めていました。そのため、議席の半分は占めていたものの3分の2には達していないナチス連合与党は憲法改正ができません。

 そこで議院運用規則を「修正」して、欠席議席数を分母から取り除き、より容易な実質的な「憲法改正」を実現しようとします。

 どこかの国でも似たような改正手続きからの再検討が机上に乗っているような気がしますが・・・。

 そして、実際に運用規則を「修正」し、非常事態を理由に「円満に」ナチス政権、内閣・行政府が立法権を掌握する「「民族および国家の危難を除去するための法律」を成立させてしまいます。

 「民族および国家の危難を除去するための法律」この扇情的なネーミングに注意しておく必要があります。後年、専門家はそんな名前は使わず「全権委任法」という露骨な呼称でのみ、これを呼ぶようになります。

(中略)

 そんな中で、法律条文のほんの少しの改変が、国の大本をすっかり様変わりさせてしまうこと。元来は相互監視やストッパーの役割にあったものを「兼任」などしてしまうことで、誰も暴走を止めることができない機構の怪物を生み出すことが可能であること・・・。

 歴史の事例から、私たちが学ぶべきものは、決して少なくないのではないでしょうか?

コメント
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