私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

竜山 たつやま 92.4m

2011-06-15 13:52:47 | 山歩き
 6月15日(水)  天気:曇り   室温:28.3℃   地図:加古川

 この週末も 天気予報は 芳しくありません。 山へ行けるかどうか? 仕方ない、今のうちに行って
おきましょう。 という訳で きょうも近くの低山 高砂の竜山へ登ってきました。 生石(おうしこ)神社に
車を置き 神社にお参りし 浮石を拝み 竜山へ登りました。 二等三角点:石宝殿です。


 9:03 出発。 この時間になると 姫路バイパスもスムースに走れます。 高砂西ランプを降りて そ
のまま国道250号線に入ります。 ソーローの私は 左に見える岩山の伊保山を 竜山と勘違いして ひ
とつ手前の信号で 曲がってしまいました。 転んでもタダでは起きたくない性分なので 住宅街にあった
白矢薬師如来堂に寄り ひと廻りして 国道に戻り 竜山の信号で左折。 細い道を登り 9:47 生石
神社に駐車。 ここまで 27.8km走りました。



 山は さておき まず 生石神社にお参りします。 一礼して鳥居を潜ると 手水舎があり 龍の口から水
が滴っていて 気持ちがいい。 神様は 起きておられる。 手水鉢に 水が流れないと 神様は寝てしまう。
 生石神社は 崇神天皇の御代(97年) 日本全土に 悪疫が流行して 人民死滅の境にあるとき ある夜
二神が天皇の夢枕に現れ 「吾が霊を斎き 祭らば 天下は 泰平なるべし」 とのお告げがあり 依って 此
所に 生石神社が 創建されたのである。 祭神は 大已貴神(おおなむちのみこと、生石大神)と 少彦
名神(すくなひこなのみこと、高御位大神) 高御位山とは 少なからず 関係がありそうです。


日本三奇・史蹟 播磨国石乃宝殿 鎮の石室(いわや)とは
 神代の昔 大穴牟遅(おおあなむら) 少毘古那(すくなひこな)の二神が 天津神の命を受け 国土
 経営のため 出雲の国より此の地に座し給いし時 石の宮殿を造営せんとし 工事を進めらるるも・・
 (中略)・・・たとえ 此の社が未完成なりとも 二神の霊は この石に籠り 永劫に国土を鎮めんと
 言明せられたのである。 以来 此の宮殿を石乃宝殿、鎮の石室と称して居る所以である。



鎮の石室(通称 浮石)の容姿と工程
 鎮の石室は 三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で 池中に浮く東西に横たわりたる姿である。
 その容積は 約7m四方で 棟丈は 約6m。 重量は 500~700トンと云われて居る。
 此の工事に依って生じた屑石の量たるや 又 莫大であるが この屑石を人や動物に踏ませじと
 一里北に在る霊峰・高御位山の山頂に 整然と捨て置かれて居る。 
 池中の水は 霊水にして 如何なる干魃に於いても 渇することなく 海水の満干を表はし 又
 万病に卓効有るものと云ひ伝へられている。



では ここで 歴史秘話を・・・・・実は 「生石神社略記」 に書いてあったのですが
 天正七年(1579) 羽柴秀吉が三木城攻略の折り 神吉城も落とさんとして 当神社を陣所に
 貸与せよとの申出に対し 兄の城を攻める(時の宮司は 神吉城主の弟)陣所には貸さぬと拒否
 したるため 秀吉の怒りに触れて 焼き撃ちに逢い そのため 神社伝来の凡てが 一瞬にして
 灰燼に帰したのである。 そのとき焼け残った梵鐘は持去られ 後日 関ヶ原の戦に 西軍・石田三成
 の勇将・大谷吉隆が陣鐘として使用したるも 敗戦の結果 徳川家康が戦利品として 美濃国赤坂
 の安楽寺に寄付し 敵将ながら 実に惜しむべき武将であると 慨嘆し 朝夕この鐘を撞いて 未来永劫に
 吉隆及び戦歿者霊を慰めよ とのことであったと云われている。 現に 大垣市の指定文化財として
 保存せられ 鐘の表面には 当生石神社名が 刻銘さる。



 本殿の脇にある霊岩を 力いっぱい押すと パワーがもらえると ありましたが・・。 境内から加古川の
景色を眺め 岩に削られた階段を上がり 神社の裏山に上がります。 裏山は 宝殿山と言うのでしょう
か? 平坦な岩山を北へ進むと 正面に高御位山の山並が望めます。 宝殿山の西斜面の木が 黒く
なっていましたが 山火事跡? 下の写真は シチダンカかと思いましたが 違うようです。 失礼をば・・。



 西の伊保山を見ながら 降りました。 10:26 車に戻り 竜山へ向かいます。 大鳥居の向かい側
に 草に埋もれた細い山道があります。 初めは 雑草の茂ったヤブ道ですが 直ぐに 良い道になります。


 地図の通り 左は採石場で 絶壁です。 ここを歩くときは 内股が涼しく 縮み上がり 馬ノ背を
歩くと 須磨アルプスを思い出します。 この先は 右が絶壁です。 これを過ぎると 雑木林に入り
絶壁が見えなくなり 悠々と歩けます。


 開けたところに出ると 右のコンクリの階段を降ります。 ここに 大岩に 「観涛処」 と刻んだ碑石が
あります。 中国伝来のものかと思いましたが ”波の見えるところ” という意味の文字で 旧姫路藩の
蘭学者?書家?の永根文峰が書いたものを 河合寸翁(姫路藩の家老?)が刻ませ 天保七年に完
成。 この山は 加茂山? ここは 展望台で 波は 見えませんが 瀬戸内海の家島を見ることができます。
登山道に戻り 先へ進みます。 丘のような 古墳跡は 歩いては いけないそうです。


 山頂へ向かって 緩く登る辺りでは 木々が黒く焦げていましたが この辺りでも 山火事があったので
しょうか? 10:53 山頂に出ました。 一面草の茂る広い草原で 三角点は 道の脇の草に埋もれて
いました。 最近 地理院のGPS測量が 行われていますが チップはありません。 街中にある三角点
にしては 疵のない きれいな三角点でした。



 北を除いて ほぼ270度の展望があります。 雨の降りそうな曇り空で モヤがありますが 茶色い山肌
の男鹿島や淡路島は 見ることができます。 目の前に電波塔が 一本 立っていて 後方には 新幹線が走
り 騒音もよく聞こえます。 電波塔のフェンス脇に 「魚崎横居跡」 の標柱がありましたが 山頂一帯も
古墳なのでしょうか?  雄・雌岡山は?   山頂を10分ほど うろついて 10:58 下山。



 以前 来たとき 伊保山霊園の主人は 石切職人が居ないので 石が切り出せなくなったと 言われてい
ましたが 伊保山採石場では 重機が 稼働していますが 今でも 石の需要が あるのでしょうか?
来た道を そのまま戻り 11:20 車に戻りました。 登りは 27分、下りは 22分でした。
神社の庭に 白と紫のホタルブクロが あります。 つい 花の中を 覗いて見たくなるのは 私だけ?




 11:26 帰路につきます。 細い坂道を500mほど下り 国道250号線に出て 右折。 西へ
走り 国道が 合流したところで 姫路バイパスに上がり バイパスを走って帰りました。
途中 寄り道し 弁当を買い 12:32 家に 帰えり 家で 弁当を食べました。
本日の走行距離は 往路:27.8km 復路:25.9kmで 計:53.7kmでした。



 。。。。。。。。。。。。。。。。。。       。。。。。。。。。。。。。。。

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2 コメント

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Unknown (シルベスターU)
2011-06-16 21:36:17
YSさん こんばんは
ようこそ わが街、わが村へ
日本三大奇石の一つの生石神社の浮石ですか。ついでに竜山(加茂山)の姫路藩の儒学者によって刻まれた碑石「観濤処」を見て頂きたかったな。今のペースだとアクシデントがない限り二等三角点踏破は年内確実ですね。頑張ってください。
竜山 (YS3)
2011-06-16 22:41:07
シルベスターUさん こんばんは。
21:36には まだ 観涛所に到達していませんが
22:30には 山頂まで行きました。

シルベスターUさんは 加古川でしたか?

二等三角点も 残り14点で 地図も用意はできていますが・・。
まあ あせらず ぼつぼつ・・

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