3月19日(火) 天気:晴れ 室温:17.5℃
きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川秀昭さんの ”赤松家を再興・
赤松政則” です。 今月も 出席者が多い・・。 公民館の館長さんは 幼稚園の卒園式に出席?で、不在。 いた
だいた今月の資料も 膨大なので 大部分を割愛します。
。。。。。。。 赤松家の再興・赤松政則 。。。。。。。
Ⅰ 赤松氏再興の夢
1.赤松政則 ー赤松総領家滅亡から、再興を果たすー
・生年及び没年:享徳4年(1455)2.19~明応5年(1496)4.25 42歳没
・父:赤松時勝、母:不明(早世か) ・正室:不詳、継室:洞松院(細川勝元女)
●長禄の変と赤松氏の再興(法師丸4歳・長禄2年(1458))ー後南朝から 神璽を奪還、総領家再興なり、
●次郎法師丸元服ー足利義政から 偏諱を受け 政則と称す。(寛正6年(1645).12 12歳)
●応仁の乱と 播磨・備前・美作 三ヵ国 奪回ー政則は 東軍(細川勝元方)として 西軍(山名宗全方)と 戦う
●侍所所司に就任(応仁元年(1467)) 14歳ー将軍足利義雅から信任と寵愛を受ける
●姫路城大拡張と置塩城築城・・異説あり、姫路城を小寺豊職に守らせ、置塩城に移る
●山名氏との抗争 ~山名氏及びその配下が 前領国(播磨・備前・美作)に侵攻~
ー政則、真弓峠で 但馬国守護山名政豊と闘い、大敗し、出奔(文明15年(1483).12)
●七条家 赤松義村を養子に迎え、政則女・松と婚姻(延徳元年(1489))、政則、従三位に叙せられる
洞松院(細川勝元女・龍安寺女僧から還俗)と婚姻 (明応2年(1493)
●一流の文化人:芸能諸事・作刀に造詣、猿楽の名手、和歌・連歌に秀でる、篤く仏教を信仰、刀工として一流
2.嘉吉の乱 (嘉吉元年(1441).6.24) 以降
◇足利将軍家の動き
・足利義教・嫡男 千也茶丸(のちの義勝・8歳)を跡継ぎに決定、義勝、元服し 将軍宣下をうける
義勝、疫病により 急死(10歳)、義教5男・三春(のちの義政 8歳)を跡継ぎに定めた
◇山名持豊による播磨支配 ・播磨守護代:恒屋・太田垣・犬橋の各氏 (恒屋氏は、山名四天王の一人)
◇禁闕の変 嘉吉3年(1443).9.23 夜
・日野有光らが後花園天皇の内裏に押し入り、三種の神器の神剣・神璽を奪い、延暦寺の根本中堂に籠る
三種の神器:八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
・神剣は 清水寺で発見されるも、神璽は 吉野に持ち去られる
・吉野奥地(北山・川上郷)に 神璽を持ち去った南朝残党
・前内大臣三条実量に 赤松氏再興の条件打診ー神璽奪回と引き換えに 赤松総領家の再興を叶える総領家に恩賞
Ⅱ 神璽奪回と赤松家再興
◇長禄の変(長禄元年(1457)~長禄2年(1458)
・康正2年(1456):上月満吉は 吉野に入り、神璽のありかなどの情報収集 ・・・・・
・長禄2年(1458)8.30 神璽が 小川弘光や 大和衆徒らに警護され、無事 入洛し 朝廷へ返還された
◇幕府は、次郎法師丸に 赤松総領家の家督を安堵し、加賀半国の守護職など 所領をあたえた
◇赤松家再興:長禄2年11までに、 11.19 次郎法師丸(のちの政則 4歳) 禅僧に付き添われ将軍・義雅に謁見
Ⅲ 応仁の乱と三ヵ国の回復
◆足利義視(よしみ)と義尚(よしひさ)
・寛正5年(1464)12 足利義政の弟・浄土寺義尋が 還俗、元服し、足・利義視を名乗る
・寛正6年11.23 義視の元服直後に、義政の実子・義尚が 誕生(母は 日野富子)
◆幕内の三つの勢力:義政の側近集団、山名宗全をリーダーとする集団、」細川勝元をリーダーとする集団
◆文政の政変・文政元年(1466)9.6
◆畠山氏の家督紛争(畠山義就・政長の争い)
◆応仁の乱の始まり(応仁元年(1467)5.26):細川勝元(東軍)・山名宗全(西軍)両者完全に決裂、激戦を展開.
◆赤松氏、応仁の乱での活躍と旧領(播磨・備前・美作)奪回:応仁2年(1468)赤松政則、侍所所司に任じられる
◆応仁の乱の経過
◆応仁の乱の終結へ・・京では 戦いに倦んだ山名宗全・細川勝元の間で 和議の動き(文明4年(1472)
・文明5年(1473):山名宗全没 70歳、文明5年 足利義尚(9歳)将軍宣下、第9代将軍に(後見:日野富子)
Ⅳ 山名氏との死闘 ~赤松政則の没落と回復~
◇山名氏、所領回復の機会伺う ・赤松政則、山名一族の領国・因幡、伯耆で 反山名勢力支援、分断工作
◇備前・松田元成が 赤松氏に叛旗←備前守護・山名俊豊(政豊の子)が支援
◆赤松政則、播磨・但馬国境の真弓峠で 大敗 文明15年(1483)12.25・・政則、没落し行へ知れずに
・浦上則宗ら 政則の家督を剥奪・追放し 後継(有馬慶寿丸)を擁立
◆赤松政則、復活する機会をつかむ~別所則治、亀泉集証、足利義政の支援
◆赤松政則、赤松総領家 家督及び守護職の回復:山名氏と三ヵ国奪還へ向けた戦い
・山名政豊、坂本城を出て、但馬へ走る 長享2年(1488)7ー山名氏、備前・美作からも撤退
◆赤松政則、山名氏から 播磨・備前・美作の三ヵ国奪還 長享2年(1488)7
◇播磨の支配体制
・9代将軍・足利義尚没 25歳 長享3年(1489)3.26
・足利義稙(義材)、第10代将軍に就任 延徳2年(1490)7.5
Ⅴ 赤松政則の婚儀と死去
◆置塩(おじお)城の築城 ・文明元年(1469)築城説、しかし、長享2年頃から築城か
◇政則の最初の正室との子・松(まつ)と赤松義村(養嗣子)との婚姻 延徳元年(1489)
※赤松義村:赤松七条家・赤松政資の子、松は18歳、義村も同じ年頃か
・前8代将軍・足利義政 没 55歳 延徳2年(1489)1.7
◇赤松政則(39歳) 洞松院(細川勝元女)と婚姻 明応2年(1493)4.20
※<落首> 天人と 思えし人は 鬼瓦(不美人) 堺の浦に 天下るかな
◆明応の政変 明応2年(1492)2~閏4
◆政則」、従三位の叙せられる 明応5年(1496)3.29 42歳
◆赤松政則 没 42歳 明応5年(1496)4.25 於:播磨・久斗寺、墓所:加西市福居町 長円寺の裏山
。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。