私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

山崎城跡を訪ねる

2017-05-11 16:19:38 | 歴史探索
 5月11日(木)  天気;晴れ 一時 曇り    室温:25.4℃

 きょうは 山崎の街を歩いて来ました。 5日に ターンアート展を見るため 防災センターへ
行き そこで ”歴史あふれるまち~山崎~ 街並探訪” を パンフレットをいただき ボランティア
ガイドの方と いろいろお話ししました。 2012年に ”山崎街歩き” で 山崎を 一通り歩いた
ので もう歩くつもりはなかったのですが 9日の新聞の播磨版 はりま歴史探訪に ”紙屋門 本多
家の象徴” の見出しで 山崎城跡が 載っていたので  急きょ また 歩くことにしました。
 今回は 山崎城跡の周辺だけ 歩きましたが その他の山崎街歩きについては 2012年7月の
<ページ> を見てください。  以前 大歳神社の千年藤を 見たことがありますが ページが出
てきません・・・。

 きょうは 11時ごろ 防災センターの前の駐車場に 車を停め 山崎城跡周辺を見て 西の
闇斎神社から 北へ回り 老松酒造、山陽盃酒造を見て 東へ歩き 光泉寺、総道神社、青蓮寺
を回りました。 最後に 角鷹門跡を 見ようと探しましたが いくら探しても ありません・・。
 探しても見つからないと 腹が立ちますが・・。

 山崎城は 別名・鹿沢城と言われ 元和元年(1615)に 池田輝政の四男・輝澄が 宍粟郡
三万八千石の領主として 入封して 初めて築かれた平城です。 本丸は 三方を薬研堀の内堀で
囲み南は 自然の崖地を利用して 川水を引き込んた堀を巡らし 東西に 二の丸があり 中堀を
経て 三の丸を置き 三の丸には 武家屋敷を配置し 三の丸の外に 外堀を廻らせ 町屋との境界
を厳重にし 諸門を設けて 次第に城下町の陣容を整えていきました。

 駐車場から まず中門跡へ。 中門は 城下町から 大手前に通ずる 中央の門で ここから南へ
外堀を渡って 三の丸に入り 更に 中堀の表門を通って 二の丸に入り 内堀の紙屋門をくぐり
本丸に入りました。
 武家屋敷と町屋の境界に 外堀がありました。 この外堀は 清水口から 門前まで 東西に長く
延びていました、

 寛永八年(1631)には 佐用郡を加封され 六万三千石となり 町の北方に 足軽の居宅を
配し 町屋を取り囲む 独特の城下町を形成しました。 以降 松井五万石、池田三万石と 転封交
代を重ねて 延宝七年(1679) 本多忠英の入封により 一万石となり かなりの城郭を備え
るかたわら 陣屋と称する構えとなりました。
 大手前は 中門から 表門につづく 通りの中心部にあたります。 昔は 本多家筆頭家老 武間清
左衛門の邸がありました。

 表門の碑は 山崎小学校の校門のところにあります。 表門は 西向きの高麗門だったそうで
かなり背が高い門で 槍を立てたまま 通ることができました。 池田恒元の頃までは 二の丸の
東側に 筆頭家老の屋敷があることから 裏門であった可能性もありますが 本多氏の頃からは
表門となりました。

 図書館の前を西へ行くと 公園の入り口に 内堀跡の碑があります。 山崎城の本丸は 周囲
より 一段高く 東・北・西の三方に 幅十間ほどの薬研堀の内堀をめぐらしていました、
 内堀跡の碑を見て 公園を抜けると 鹿沢城の本丸跡。 前が 紙屋門。 紙屋門は 本多家
山崎陣屋の本丸表門として 建造された門で 建造費を 町方の「紙屋」が 献納したことから その
名が付きました。 この門は 嘉永~安政期の建築と考えられます。 門・土塀の屋根の軒丸瓦
には 本多家の家紋・立葵があるそうです。 確認しませんでした・・・。

 門の左右の塀は 低い石垣の上に 土を積んだ土塀で 上に屋根が掛けてあり この築造は
門より古く 本多氏入封の延宝七年(1679)以前からのものです。 

 小学校の裏から 階段を降りると 桜の馬場跡。 ここから 小学校の東へ回り 搦め手門跡の
碑を見ます。 築城当時から 池田家三代の三万石時代まで 城の大手口となっていました。
 しかし 本多氏一万石の陣屋となってからは 搦手(裏門) となり 大手は 中門南の北側入口
となりました。

 池田輝政が 築城したときは 城の南側崖下に 幅10mほどの堀があり その南側に 馬場があり
ました。 本多氏になり 堀は埋められ 幅2mほどの溝川になりましたが その堤に接して 東西
に 長く伸びた 300m近い馬場がありました。 この辺りには 桜の木が たくさん並んでいたので、
桜の馬場と言われました。


 桜の馬場跡を西へ進むと 埋門跡に出ます。 山崎城の四隅には 隅櫓があり 特に南西の隅櫓は
本丸から西の丸の藩主邸へ通ずる重要な門で この櫓の下を通路とし 万一の時は 石で埋め塞ぐ
ことから 埋門(うずみもん)と呼ばれました。
 石垣の間を抜け 文化会館の駐車場へ。 文化会館のある所は むかしの二の丸跡です。

 文化会館へ寄ると ロビーで 大山書道会展をしていました。 これを チラっと見て・・・。

 文化会館の北・道路脇に 下屋敷跡の碑があります。 本多家下屋敷跡は 山崎城の二の丸に
位置し 東西は 内堀、南は 石垣と城壁に囲まれ、北は 本多町と称する武家町に面し 武者格子窓
を配した 長屋門を兼ねていました。 邸内には 「西尾屋敷」 と呼ばれた藩主の家族の住居があり
ました。 維新後 母屋は取り壊され 別棟に 本多家の家族が 昭和の初めころまで 住んでいました。

 土橋門へ行く前に ちょっと 南の闇斎神社へ寄りました。 山崎闇斎は 江戸時代初期の有名な
学者で 垂加神道や 崎門学派の学問を開き その門弟は 数千を数えたということです。 山崎闇斎
の祖父・浄泉は 山崎村で生まれて 木下家定に仕え この辺りの屋敷に住んでいました。
 その後 京都の闇斎神社より その御霊を勧請し 神社として お祀りしたものです。 

 北へ進むと 土橋門の碑があります。 土橋門は 武家屋敷から 町屋へ通ずる門です。 これ
より南約300mの所には 鶴木門がありました。 城の南の人々は 古の鶴木門から 土橋門を通
って 町へ行きました。 このため 土橋門は 通行量の多い門でした。

 土橋門を渡り? 山崎城から 城下町へ行きます。 この辺りは 昔の城下町の面影を 今も
残しています。 老松酒造は 江戸時代中頃(明和五年) に 現在の山崎町門前において 造り
酒屋として創業し 安永九年に 現在の場所に 移転し 屋号を門前屋と称しました。

 山陽盃酒造は 天保八年(1837) 創業の造り酒屋で 江戸時代から 明治時代中頃に 現在地
に移転したと言われています。 主屋を中心に 通り西に土間を挟んで 仕込1号庫、東に 主屋と
接して 蔵、その東に 塀が並びます。 主屋と蔵は ほぼ移転当時のものとみられます。

 東へ進むと 光泉寺があります。 浄土宗本願寺派の寺院で かって 天台宗の庵が 戦国時代に
浄土真宗に転じ 江戸初期 池田輝澄の時代に 現地へ移ったとされています。
 文化十年(1813) 尼崎藩領宍粟郡下三川村を出発した 伊能忠敬測量隊の別動隊が 測量を
行いつつ 光泉寺に作業場を設け 地図の作成に励みました。
 池田輝澄は 本丸を中心に 堅固な城郭を構えましたが また 城下町防衛のために 鍵型と丁字
形の町筋を 併せて迷路とし 外敵侵入に備えました。 パンフレットに 町筋の遺構とあるので 何
か碑でもあるかと 探しましたが・・・。 むかしは 道が 大きく曲がっていたようですが 今は
道が わずかに 曲がって その名残をとどめている・・。

 総道神社の前を まっすぐ進むと 道の左に 清水口見付門跡の碑があります。 ここには 山崎
藩城下へ入る関所として 冠木門がありました。 門の外に 枡形の広場や 番所があって 因幡街道
の見張りをしていました。 清水口門の西に きれいな水が湧き出て 民家は飲み水としていたので
清水口の名が付きました。 

 青蓮寺へ行きます。 青蓮寺は 徳川家康の側室西郡の局の菩提寺です。 池田輝澄が 宍粟郡
拝領となり 山崎に城を築いたとき 姫路にあった青蓮寺を 元和四年に 移転して 祖母と母の
永代供養のために 建立したお寺といわれています。 

 県道の東鹿沢の交差点の角に 道標があります。 これには 右因幡道、左美作? と刻まれています。
パンフレットを見ると 角鷹門があり まだ見ていません。 中鹿沢の交差点から 北へ歩き 探しま
すが 見当たりません。 何人もの人に聞きますが ない! 防災センターへ戻り 受付で 電話して確認
すると、たこ焼き屋さんで 聞けばわかる・・。 たこ焼き屋さんは 少し北にあります。 しかし な
いものはない! 近くの人は 道路脇の溝を整備したので その時なくなったのでは・・・。 ないもの
を探すのに 30分以上かかりました。

 パンフレットの後ろに 出石の高瀬舟の記述がありました。 山崎では 元和元年 池田輝澄が 入封
して 間もなく 山崎町の龍野屋孫兵衛たちが 資材を投じて 岩石を取り除くなど 水路が開かれ 高瀬
船の航運が可能となり それにより 山崎町出石から 網干港までの運行が 可能となりました。

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コメント
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