私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

山崎 街歩き

2012-07-17 14:08:38 | 日記
 7月17日(火)  天気:曇り 後 晴れ   室温:33.2℃ 暑い!

 今朝 曇っていたので 多少 涼しいかと思って 山崎へ行ってきました。 ところが 意外と蒸し
暑く 日が照ってくると 猛烈に暑くなり 予定の個所は 廻りましたが 篠の丸城跡へ登るのは 止
めました。 きょう 近畿地方の梅雨も 明けた?
 地図にある駐車場は 何か建物を工事中で 駐車不能。 図書館・歴史郷土館は お休み・・。
地図にある 図書館2階の歴史資料館は 歴史郷土館の間違いです。

 私の街歩きも 加東市、室津、赤穂、龍野、網干、林田町、神戸・大輪田の泊、出石、加古川、明
石・・ときて 残るは 山崎町くらいしかありません。 山崎の街を 歩くとすれば 下の図の星印の個
所ですが・・。   与位の洞門、伊和神社や 御形神社は 別の機会に・・。

 図は 道の駅 「山崎」 でもらった パンフ 「宍粟市すぽっとMAP」 を 拡大したものです。
歩いたのは 文化会館に 駐車し 歴史郷土館(休館)、山崎城(鹿沢城跡)紙屋門、山陽盃酒造、
老松酒造、町家カフェ・ギャラリーさんしょう、八幡神社、闇斎神社、大雲寺、妙勝寺、興国寺、総道
神社、青蓮寺・・・です。  山崎には 史跡が少ない?  旧因幡街道の道標は ありましたが・・。
 これらは 先日入手したパンフ ”先進のACT(悪党)回廊 武士のこころ息づく 西播磨” にも 「宍
粟の歴史景観・文化遺産を巡る道」 として 載っています。


 8:31 出発。 たつの、新宮を通り 山崎に入り 国道29号線に出る手前で 左折して 山崎
の街中へ。 山崎小学校の東の道路脇に 鹿沢城の搦手の碑があります。 山崎城=鹿沢城な
のですが どちらかに統一していただきたい。 この場所は 鹿沢城の搦手として 裏門への入口
となっていたそうです。 築城当時は 城の大手口だった?
 県道へ出て 図書館へ向かいます。 図の駐車場(旧山崎町役場?)は 工事中です。 直進して
文化会館へ行き 広い駐車場に 9:27 駐車。  ここまで 26.1km。 すぐ スタート。
 文化会館の東側は 公園で ここに 山崎城・内堀跡の碑が・・。 


 公園の奥へ進むと なんと ここに 鹿沢城・本丸跡の碑がありました。 後方の建物は 「山崎
歴史民俗資料館」 ですが 鍵がかかり しばらく 使われていないようです。
 この辺りが 山崎城で 今から 370年余り前 徳川家康の孫に当たる 松平石見守輝澄が 宍粟
郡3万8千石をもらって この地に 城を築きました。 寛永8年 赤穂城主であった弟の 政綱の死
去により 佐用郡と赤穂郡内から 3万石を加えられ 6万8千石となりました。

 寛永15年 御家騒動により 領地没収となり 代って 岸和田城より 松平周防守康映が 城主と
なり 宍粟郡、佐用郡の内 5万石を 賜わりました。
 周防守は・・・島根県浜田に移り その後に 岡山県から 池田光政の弟 松平備後守が城主とな
り・・・。 その後 明治になり 学制頒布により 池田藩邸が 今の山崎小学校になり・・・。
 近年まで 池田氏の家紋である 揚羽蝶の瓦を葺いた町家が あちこちにあったそうですが・・・。


 本丸跡の前が 山崎陣屋「紙屋門」 で 左右に 白い土塀もあります。 土塀は 低い石積み
の上に築かれ 屋根がかけられています。 「紙屋門」の 建造の時期は 不明ですが 嘉永~
安政期の1850年代と考えられます。 山崎陣屋の現存する唯一の建物で 山崎陣屋の本丸
の正面に当たる門です。 門としての形式は 一間一戸四脚高麗門で 扉の上半部は 透かし
となっています。 こうした形式の高麗門は 姫路城にも 存在しています。
紙屋門の名前の由来は 建造費を町方の紙屋が 寄付したことによるのだそうです。


 古い石垣の残る 「表御門」跡を 抜けると 図書館です。 が 本日休館には がっかり・・。
昨日 電話すると 誰も出なかったので 月曜が休みで きょうは 開いていると思ったのに・・。
図書館には 何も用はないのですが 2階の 「歴史郷土館」 に寄りたかった。 無料で 写真
OKらしいので 訪ねることのできる 山崎の史跡を 確認したかった・・。


 県道に出て 西へ行き 闇斎神社へ。 闇斎神社は 江戸時代の儒者・山崎闇斎を祀った
神社です。 山崎闇斎は 山崎町の出身?で 元和四年(1618) 京都で生まれ 幼くして
比叡山に預けられ 次いで 妙心寺の僧となり 19歳のとき 土佐・吸江寺に移り・・・朱子学
を修められ 38歳のとき 京都に帰り 還俗して 塾を開いた・・・。
 新道を学び 垂加神道と称する一派をつくられた。 即ち 神の道と天皇の徳が 唯一無二
と説く 神儒一致論である。
 この神社は 皇紀2600年を記念して 昭和15年に 建立された。 なにはともあれ 神社
は 特に見るべきものは ありませんでした。
 外にある闇斎のブロンズ像は 作家吉川英治が寄贈した木像を・・・。


 北の山裾にある八幡神社へ向かいます。 景観地区の「さんしょう」、「老松酒造」の間を
行くと 八幡神社。 長い石段の参道を上がります。 随身門があり 中に 埃を被った随
身さんが 座っています。 手水舎の手水鉢には 水が滴り落ちていて 気持ちがいい。


 境内は 広く 明るく 爽やかに 後ろの森はこんもりと・・。 八幡神社には 由緒書きが
ないので 何も分かりません。 正面の絵馬殿?、拝殿?は 銅板葺き、唐破風の屋根で
豪華な感じです。 絵馬殿には たくさんの絵馬が 奉納されています。


 境内には 樹齢約500年のモッコクがあります。 元来 モッコクは 海岸地方に自生するツバ
キ科の常緑樹で 生長の遅い木ですが 海岸から 約30キロの内陸で 環境に適応しており
学術的に価値が 認められているようです。 樹高13m、幹周り2mの巨木ですが 地上3m
付近の樹幹から 8本の支幹が出て 半球形の樹冠を形成している。
 神社が 創建された応仁元年(1467)以来 神木として 大切にされてきた・・。


 境内には 中を見ることはできませんが 立派な能舞台もあります。 能舞台は 元禄12
年(1699) に造られた?  歴代藩主の中に 誰か 能の好きな人がいたのでしょうか?
≪追記≫
 9月5日 能楽と狂言を披露する薪能が 山崎町門前の山崎八幡神社 能舞台であった。
 夜を照らす かがり火の中 華麗な装束をまとった演者が 勇壮に舞い踊る 幽玄の世界
 に 境内を埋めた約500人が 酔いしれた・・。


 町家へ戻り カフェ・キャラリー「さんしょう」 見て 対面の「老松酒造」を見ながら
東へ歩きます。 「山陽盃酒造」の前を通り・・。 関西で 唯一、鉱山坑道で熟成・・・。
 山陽盃酒造は 旧城下町にある蔵元で 天保8年に創業し 地酒を造りつづけており
「播州一献」 は 播州地域の良質の米、水、環境を使い 地酒の本来持つ良さを大切
にし 醸したお酒を どうぞ との思いを込めて・・・。



 通りを歩いていると 功徳山光泉寺があったので 予定外ですが 寄ってみました。 意外
なことに ここに 伊能忠敬の銅像がありました。 伊能忠敬 一行は 文化10年(1817) 天
文方が 山崎周辺の測量を実施。 その実測を基に 光泉寺本堂で 「大日本沿海輿地全図」
を 作成しました。 一行は 橋屋と伊勢屋を宿して・・・。 野次馬の多いのに 困ったそうです。


 光泉寺を出ると 通用門があり・・。 この門は 旧山崎藩家老の小野家の正門で 山崎城
搦手前の武家屋敷の遺構を 明治12年に移築したのもです。 思わぬ拾いものでした。
 ちょっと 人生の道を間違えて 大雲寺へ行く前に 泉竜寺へ行ってしまいました。


 永昌山泉竜寺は 浄土宗のお寺ですが 外に 延命地蔵堂の説明板があったので 延命地
蔵尊が有名? 延命と火事にご利益がある? 本堂の額には 無量光と。 読めないので 教
えてもらいました。 横の薬師堂には 薬師如来像が 安置してありました。


 最上山の東麓には 三寺が並んでいます。 南は 青龍山大雲寺。 門前にあった歌碑の ”月
影の 至らぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ” の歌は 法然? ここにあった 「さずけ
地蔵尊」 の由来は 享保年間 山崎は 大火や飢饉が相次ぎ 賽誉上人が 泰平祈願を目的とし
人々の幸福なる日々を 切に願い 享保8年に建立された・・。 夜中に さずけごとを持って 家々
を訪れ 朝には 地蔵堂に戻るという・・・。


 隣は 日蓮宗の法光山妙勝寺です。 ここには 「夜泣き石」 があります。 門を入って
左に 「夜泣霊碑」がありました。 「赤穂へ帰りたい・・」 と 夜な夜な泣き声を上げたと 伝
えられています。 この悲しい話は 江戸の末期に さかのぼる。 赤穂藩の娘が 若者と恋
仲になったが 親の反対を受け 娘は 山崎藩の叔父に預けられた・・。(以下省略)
このお寺には 亀趺がありました。 亀趺を見るのも 久し振り・・。


 隣の泰安山興国禅寺に行きます。 臨済宗妙心寺派のお寺ですが・・・。 パンフには 山崎藩
の菩提寺とありますが 私には 見るものがありません。 そうそう 本堂の前に 「仏足跡」 があ
りました。 仏足跡は お釈迦様の足跡を 印したもので インドでは お釈迦様の標識として 礼
拝されました。 日本では 奈良の薬師寺にある仏足石が 広く知られています。 ここの仏足跡
は インドの古い時代のものを 模刻したもので 法輪、螺王、魚、月王、どう幡、網 が模刻され
ています。  この仏足跡を合掌し 礼拝した手で 体の悪いところを撫でると 治る? 


 南の泉竜寺に戻ると 東隣が 龍眼山随陽寺。 狭い山崎の街に お寺が多いのは なぜで
しょう? 花が お好きなようで 植木鉢、盆栽が たくさん置いてありました。 中に かわいい
ネジバナが 一輪・・・。
 随陽寺の由来は 備前岡山に浄福寺という浄土真宗大谷派の寺があった。 慶安2年に
 備後守恒元が 宍粟藩の領主となって 山崎に移ったとき、恒元の家中で 浄福寺の檀家20~
 30軒も 領主に従って 山崎に移住してきた。 そこで 浄福寺住職了室は 山崎に移り 隨陽
 寺を建立した。 隨陽寺は 池田氏ゆかりの寺なので、池田氏断絶後も 岡山藩から 扶持の
 支給は続けられ 岡山藩池田氏の援助は 大きいものがあった。


 山崎町のマンホールの蓋も スカートを穿かない鯉かと思いきや アユのようです。 花は?
南東方向にある総道神社へ行きました。 由緒記によると 總道神社が この地に鎮座せられ
た年代は不明ですが その昔 山崎藩が 当時領主であった龍野藩主木下勝俊によって 新町
の申付けを受けたのが 約四百年以前のことなので その頃 三町の住民によって 創建され
たものと考えられる。


 御祭神は、八街比古(ヤチマタヒコ)の神、八街比売(ヒメ)の神、男女二柱の神様である。 これらの
神々は 市街地の守護神であって 昔 京都の街の東西南北 四方の守りに 祀られていたと伝え
られ 山崎町家街の鎮守様として 迎えられたものと思われる。
 また 神社の表通りは 東西が 出雲街道、北行きが 播磨一の宮伊和神社への参詣道路であ
り その分岐点であった。 玉垣の大柱の一本に その道標(一ノ宮道)が 現存している。
 これらの点から 道祖神のように 道しるべの神とも仰がれ 神社名の總道神社とは そこから
名付けられたものであろう。
 昔の道は、揖保川船元の渡しから 中広瀬、山田を通り この神社を 目指していたのだろう。


 総道神社の南、県道の角に 右・因幡道の道標があります。 東にある青蓮寺へ行きます。
青蓮寺は 山崎町山田町の清水口見附にあります。見附とは 城郭の出入り口のことで、桝
形・虎口という方が 分かりやすい。 清水口見附は かつての山崎城の外堀であった上溝に
架かる 永観橋を越えた付近をいい 山崎城 また 城下の大手口に当たります。


 青蓮寺は 池田家の菩提寺で 境内の御霊屋には 池田輝澄の祖母蓮葉院と母督姫の
位牌が 祀られています。 この御霊屋には 葵紋の瓦が葺かれており 格式の高さを表し
ています。 本堂の屋根は 2階建て構造になっており きょう訪れたお寺の中では 一番
立派なお寺ですが 家で 写真を見て がっかり・・。 門と本堂の2枚しかありません。

 青蓮寺は 慶長12年(1602) 徳川家康の側室西部(にしのごおり)の方の菩提追善のため
娘である於富宇(督姫)の方の請いにより 家康の下命で 池田輝政により 姫路城下 東山に
寺格10万石として 建立されし寺で 元和元年(1615) 輝政4男輝澄が 宍粟郡を拝領したと
き 現在地に移建された。 徳川家有縁の寺として 徳川歴代将軍の位碑を祀っています。
 山門の屋根の上にある二つの金色の丸印は 三つ葉葵の御紋のようです。 目に入らぬ・・。
開山は 法華宗 総本山 本成寺の貫主・日教上人。 本成寺発祥の地から 二文字を取って
青蓮寺(しょうれんじ)と名付けられました。  京都の青蓮院と つながりは?  ない?


 青蓮寺を後にして 県道に出て 西へ戻ると 小学校前の信号の角に 「大手前」の大きな
道標がありました。 この地は 鹿沢城の大手前に当たり その昔 本多家・筆頭家老 武間
清左衛門の屋敷地であった。 その後 山崎高校などがあったが 昭和33年 山崎町役場
が移転した。 お休みの歴史郷土館の前を通って 11:50 車に戻りました。
 折角なので 文化会館の中を覗きましたが・・・。 11:57 帰路につきます。


 中広瀬で 国道29号線に出て 右に曲がると 関電の入口脇に 旧因幡街道の道標があり
ます。 道標を見て これで 完璧です。 心おきなく帰れます。 そうそう 篠の丸城跡に行か
なかったのは・・・。 篠の丸城跡は 能見城ともいわれ 定かではないが 貞和年間に 赤松
定範(円心の二男? 姫路城の基を築いた?)によって 築かれたと言われ 後に 宇野氏
の居城となり 長水城の支城として・・・。 山頂の一本松は 元気でしょうか?

 新宮、たつのを走り 途中 バリュウ太子で 昼食を買い 13:20 帰りました。
道の駅山崎で 冷やしそうめん でも と思っていましたが よく考えると きょうは 火曜日なの
で 道の駅は 休みのはず・・・。  それにしても きょうは 暑かった!
本日の走行距離は 往路:26.1kn 復路:27.0kmで 計:53.1kmでした。
  。。。。。。。。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。。。。。。。

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