荒巻豊志の整理されないおもちゃ箱

日本一下手なドラマーです。仕事の話をすることはこのブログではめったにありません。

『松下政経塾憂論』

2012-01-25 23:25:52 | 読書
今年は50冊以上の本を読む、という目標をたてた。ということは、50以上の「読書」のエントリーが立つことになる。

とりあえず、この本が今年最初の読書になったんだが、今年の読書レポがこの本が最初で最後にならんように、という戒めの意味もある。
冬期直前講習という忙しい合間なのにものの数分で読むことができたのは、予備知識が大量にあるからだ。やはり、全く知らない人物やら人間関係、耳慣れぬ言葉が出てくると読む速度は遅くなる。

著者は参議院議員の江口克彦、昭和女子大学客員教授の東海由起子(以下敬称略)。出版社は宝島社。

江口克彦はみんなの党で議員になっているらしい。「かなり年齢がいってるはずだよなぁ」と思ってたら案の定70歳をすぎていた。東海由起子は歳は俺よりも4つ下だが、23期生で入塾したらしい。ただ卒塾ではなく中途退塾ということになっているようだ。

俺は卒塾してから、新しく入ってくる塾生と人間関係を築いたり、ということをやらない人間なので、彼女のことは風の噂で名前だけを知っていた(24期生から26期生はちょっと松下政経塾に講義にいっていたので、そのときに名前を知ったのだろう)。さらに2010年の参議院選挙で立候補したことも、彼女の名前を記憶にとどめておくことにつながった。

この本は基本的に東海の手による。あとがきによると、後半は江口へのインタビューで聞いたことを東海がまとめたものになっているようだ。途中に数ページ埋め草(ページのあいたところに入れるコラムのようなもの)として二人の対話が掲載されている。

松下政経塾とは何か?、という類似本としては『松下政経塾とは何か』(新潮新書 出井康博)があるが、そちらを読んだときには「まぁ、それなりに調べてあるなぁ」という感想だったが、こちらはさすが塾に在籍した人が、しかも故松下幸之助の側近であった江口からいろいろと聞いているだけあって、俺の知っていることとずれていることなく、かなり忠実に松下政経塾とは何かということが知らない人にもわかる内容になっている。

Amazonにはいまのところ評価が2件。ひとつは4で内容をそれなりに評価できるというもの。もうひとつは1で、中退した負け犬の遠吠えだ、というもの言いで本の内容に言及したものではなかった。


松下政経塾とはどのようなところなのか?という情報部分はさておいて、この本が少なからず気に触るところは、やはり、塾出身の政治家についての印象の部分であろう。東海が自民党から立候補したこともあるのだろうが、民主党の議員に対する評価は低い。

政治家の評価なんて音楽同様で人それぞれだから、別に俺はなんとも思わない。批判したければ身内だろうがなんだろうがすればいい。俺だって、かつて授業の中の雑談ではあるが、前原さんの「偽メール事件」のことを前原さんの性格と絡めて批判したことがある。

俺がこの本を通して終止感じていた違和感は(いや、在塾時から)、政経塾出身の議員を批判するときに松下幸之助原理主義的態度から批判することだ。

まず、松下政経塾のカリキュラムに対して、松下幸之助が言ってたことを実現するようなものになっていないことが随所に書かれている。
途中からは松下幸之助がいわんとしていたことを理解できている人間がほとんどいない、という論調になっていく。

この点について、俺の意見だ。慶応義塾生が福沢諭吉の、早稲田の学生が大隈重信の言わんとしていたところを忠実に理解し、大学運営にそれを反映させていることはないといっていいだろう。松下政経塾もそれでいいと考えている。だから、この「松下幸之助は~と言っていたから」という立ち位置から批判をするのは、「お前は松下幸之助さんの弟子なのか」ということを議論するのならば有効なのかもしれないが、「こいつは無能な(有能な)政治家だ」ということを議論することとは別なのだ、ということがわかっていない。

野田首相や前原さん、樽床さん他、多くの議員がどういう政治家なのか、ということは松下幸之助との距離関係だけで評価できるものではないはずだ。

松下幸之助は生前、無税国家論を主張していた。そのことを引き合いに出して、消費税アップを図ろうとしている野田首相を批判するのはお門違いも甚だしい。
詳しい説明は避けるが、この「無税国家論」という発想自体が、非常に新自由主義的な(ネオリベ的な)考えと親和性が高い。江口がみんなの党から出馬していることもこれと大きく関係しているものと思われる。ちなみに松下幸之助が無税国家論を主張したことはとても先見の明があったと思う。日本では赤字国債が次第に累積しはじめた時期で、世界的な潮流からも1980年代の新自由主義的路線(中曽根、サッチャー、レーガン)にもつながるものであった。確かにこの段階で何か手を打っておけば、現在クビが回らぬ状態になった財政状態は訪れなかったかもしれない。

とはいえ、この新自由主義的路線というものが、結局のところ「小さな政府」の実現も「財政赤字の縮小」もなんらできなかったという事実を忘れてはならない。福祉国家を支える理念そのものを全否定できない限り、大山鳴動して鼠一匹的な行財政改革が行われる程度にしかならない。

面白い記述があった。「減税で可処分所得が増え、国民が消費をするようになる。国民が消費をするようになれば、結果的に税収も増えるという論理です」(177ページ)と論語を引き合いに出して松下幸之助の無税国家論が万古不易の論理という説明をしている。
減税と無税は別物だと思うのだが、という点はおいておく。それよりもこの引用した箇所は悪名高きラッファーカーブと同じものではないか。レーガンがこのラッファーカーブを真に受けて減税政策をとったことでアメリカは双子の赤字を大きくかかえてしまったことを知らないようだ。

俺は、今の日本で増税か減税かという議論をしてもいいし、減税のほうがいいという論調が大きくなったとしても別にかまわない。むしろ、減税になると個人的には嬉しいくらいだ。どうせ、早晩死んで行く身なので増税だって一向にかまわない。ただ、そういうことを議論するのに「誰々がいっていたから、やるべきだ」というような単細胞きわまりない議論はつまらないので、やめておいてはいかがか、と忠告したいだけだ。

松下政経塾は政治家へのリクルートの多様化を促す第一歩になったことは間違いない。その先駆者として歴史的使命を終えたのか。はたまた、まだ混迷する日本の政治に一石を投じる価値があるのかはわからない。そして、そういうことを考えるのも時間の無駄なのでどうでもいい。
まぁ、昔のよしみとして応援するところは応援し、「ダメだな」と思ったら授業の中やブログで愚痴をこぼす程度だ。ただ「俺が何か恥ずかしいことで捕まったりしたら、松下政経塾の名を汚すことになり、みんなに迷惑をかけることになるだろうからつつましくいきていくか」という生活倫理の支えにはなっている。それは、俺にとってかけがえのない2年間を与えてくれた松下幸之助塾主および松下政経塾への感謝の念だと思っている。だからといって、別に俺は松下政経塾の代弁者でもなく松下幸之助の思想を体現しようと生きているわけでもない。

「塾を愛する気持ちを持ちながら、成り行きのまま自然に「中退」という選択をしたというのが、正確ではないかと思っています。だからこそ、逆に、政経塾を愛する私の気持ちは、かなり強く大きいものがあると自負しています」(まえがき)。
そんなに愛してるのか?。そこまでしてコミットメントしたいのはなぜか?。ということが全く文面からは感じられなかった。だから「どうすれば松下政経塾を再生させることができるのか」という問いかけが俺には「どうすればジンバブエをインフレから救うことができるのか」という問い以下のものにしか思えなかった。

思い入れの強さが、客観的に批評することをさまたげたように思えてならない。批判するなら中途半端にならず、徹底的にあらゆる方向からやったほうがよかったように思われる。もしくはユーモアとペーソスを交えた文体でもよかったのかもしれないが、二三顔を合わせた程度ではそれも難しかろう。他人を批判するというのはなかなかに難しいことだ。