本所を東西に流れる竪川にかかる一之橋と二之橋の中間に架かる「塩原橋」があります。
この塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして昭和3年11月に架けられました。当時は
木橋でしたが昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられました。橋の名は、江戸時代の末
に「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名と炭屋の塩原」とうたわれた塩原太助がこの
辺りに住んでいたことから、その名が付いたいいます。
塩原太助の立志伝は有名で、当時、南二葉町(現亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によ
って人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇になって、歌舞伎の「塩原太助一代記」は明治
25年に初演され、愛馬「青との別れ」で大変な評判をとったそうです。
「塩原太助青の別れ」で検索すると面白い噺が聞けますので、そちらをおすすめします。
また 一つ偉くなりましたよ。塩原太助寄贈とは。
今度は「佐倉ソウゴロウ」の話でも。東映ですね。
この塩原太助は、円生の長講一番で聞きました。
40年も前ですが感心したことを記憶しています。
大名さんがいるのは「過ぎたるもの」と
いうことだと解釈していますが。
コツコツと飽きない商売したのでしょう。
江戸っ子に「過ぎたるもの」と評価されたのですから。
江戸時代に、参詣者が 江戸・大坂から 船で丸亀に
上陸して、琴平に向かったというのを聞いて、
丸亀港へ行きました。
すると、旧丸亀港に 太助燈籠という、大きな燈台が
ありまして、江戸の塩原太助が 寄贈・建立したもの
だと書いてありました。
数千万円はしそうな、大きな石灯籠です。
昔、ちらっと名前だけは聞いた記憶がありましたが、
東映映画でしょうかね? 最近は、名前を
聞くこともありませんでした。
両国二丁目の塩原橋 の話しですね
いろいろと塩原太助について少し調べてみました
このひとは1743年~1816年にかけて生きた人らしいですね
お宅様がブログで書いてお出でになる同じ文言が "本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名と炭屋の塩原" と歌にまで詠まれる程の大成功者の一人とあります
又、戦前は教科書にも登場したとありますね
その他 青の別れについても いろいろと勉強させて頂きました
では失礼致します
過ぎたるもの二つ 津軽大名がわかりません
青の分れ 噺聞いてみます
塩原太助氏のお名前も今初めて知った訳ですが
普段、何げなく見てるもの
見逃しているものにも
素晴らしい歴史がありますね
今日は久々の花音です