薫 風 ~KUNPOO~

初夏に薫る爽やかな風に思いをよせ、YukirinとKaorinが日々の出来事などを綴るページです。

なんのための日本語

2005-05-18 | 本  棚
■ 加藤秀俊『なんのための日本語』中公新書。数年前から町内会の公民館報編集委員をやらされ…イヤ、させていただいているので、否応なく<ことば>というものに関心を持たざるを得なくなりました。

■ 日本語は、日常的に主語がないまま使われることが多いコトバですが、「つねに『主語』がなければ『文』が成立しない英語のほうがおかしい」と一刀両断。「そもそも『文法』という観念それじしんが西洋からの輸入学問であ」り、「日本語には英語のような『主語』『述語』に相当する関係は存在していない」と切り捨てます。

■ また日本語の持つ曖昧さについては、「だいたい、英語がつねに『イエス』と『ノー』の二分法で成立している、などというのはとんでもない誤解、曲解である」とし、「あいまい表現というのは洗練された言語がもつ文明の技術」であって、「もしもあいまいが悪ならば、およそ文芸はありえないし、ふだんの暮らしで摩擦なく生きることもできない」と続けます。

■ そういえばrichicoさんの<ことば>ノートにも、経済学者の書く論文と小説との違いについて、次のような一節がありました。“ひとことで言おうと思えば言ってしまえることを、迂回して迂回してその一言を言わずに伝えようとすること。感情一つ伝えるのでも、優れた小説家ほど「彼女は悲しかった」とは書きません。その一言を言わずになんとか「彼女は悲しかった」と伝えようと苦心します。この効率の悪さ!経済感覚のなさ!”

■ なるほど、藝術とはそういうものなのでしょう。たしかに、そのものずばりストレートに言われるより、ずっと心に響く婉曲な言い方ってありますよね。小説に限らず、映画でも、演劇でも、ドラマでも。糸井重里監修『オトナ語の謎。』新潮文庫も、面白さの本質という点については、きっと底辺で共通しているものと思われます。

■ さらに面白かったのは日本語の表記の仕方について。日本語には正書法というものがなく、「どんなときに漢字をつかい、いつかなをつかうのか、という問題についての原則も約束もない」とのこと。館報の原稿書くときにも迷うんですよね、漢字を使うべきか、かなそのままいくべきか。日本語には、「いろんな表記があって、それでいて、それらが並存していて、あんまり不自由はしない」し、「どっちみちおなじことでも漢字を使い、それを音よみにすると高級に聞こえる」から不思議。著者自身としては「ことばが漢語、あるいは音よみの漢字であるときには漢字をつかい、訓よみのときにはかなでかく、という、乱暴だが、簡単な原則」をとっているとのこと。しかしながら、私が実際に読んでみた感想としては、もう少し漢字で書いてくれたほうが読みやすいかな、と…。

■ “正しい日本語を使いましょう”とか“最近、言葉が乱れている”とかいうことをよく耳にしますが、著者は「ことばの意味や用法の『乱れ』というのはたぶんに個人的なもの」であって、「言語というものは何らかの必要があったときに、その必要をみたすための手段なのである」とします。この見解には全く賛成だな。