como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

「篤姫」出直し学習会VOL22

2008-08-09 22:34:54 | Cafe de 大河
安政の大獄とは何だ(2) 桜田門外の変まで

 安政の大獄は、もちろん、同時代の当事者たちのなかで「安政の大獄」と呼ばれたわけではありません。
 では、なんと呼んだのかというとこれが「飯泉喜内(いいずみきない)一件」。飯泉喜内という人は京都の三条家の家来で、逮捕されたのが安政5年9月17日。江戸の一橋派同志との連絡役として、江戸に滞在していて逮捕されました。将軍のお膝元での初逮捕だったのですね。
 なので、江戸での初逮捕者の名を冠して「飯泉喜内一件」で統一です。水戸のご老公も尾張公も、御三家のお殿様までが「飯泉喜内」に連座したかたちですね。
 この飯泉喜内ですが、家宅捜索から仲間の手紙など多数押収され、尊攘志士人脈が芋づる式に浮かび上がりました。当人は、小塚原で処刑されています。

 1858年8月(太陽暦で9月)、夜空にはドナティ彗星が出現。尾を三本引大彗星に、世界の終わりかと人々は驚愕。大都市では、外国船によってもたらされたコレラが大流行し、みたことない奇病で人がバタバタ死んでゆきます。そのかたわらで、ときの大老による手当たり次第の逮捕劇…という、同時代の日本人にとってはまことに暗澹とした、深刻な終末観が世に満ち満ちていました。

戊午の密勅はどうなったのか。

天皇家から水戸家に密かに下された、通称「戊午の密勅」は、内容的には挨拶程度のものだったのですが、受け取った水戸藩にしてみれば鳥肌が立つほどの重大事。水戸が他藩を率いて、夷狄を打払い、国難を乗り越えてくれというのですから。
 密勅は、13代将軍家定の発喪からまもない8月16日に、京都留守居役の息子・鵜飼幸吉が運んできて江戸藩邸に届きました。
 大名が天皇から直接の通信を受け取ったためしは古今に無いので、水戸藩主・徳川慶篤は、父親の隠居・斉昭に許可をもとめ、そののち水風呂で身を清めて正装し、平伏して密勅を開封しました。
 慶篤は勅状のコピーをとり、まず御三家・御三卿にくばります。水戸の国許にもコピーが送られました。なんといっても、勅状には「このことを水戸藩から各大名に周知するように」と、天皇じきじきの指示が書いてあるのですから。
 幕府にも黙っているわけにはいかぬので、きちんと報告はしました。が、慶篤の報告と前後して、大老・井伊直弼のもとには長野義言のリーク(学習会VOL20参照)がもたらされていて、密勅降下は水戸藩が仕組んだ政治工作、大陰謀である!と思い込んでいるわけです。
 安政の大獄こと飯泉喜内一件は、実にこのときから始まったといってよいでしょう。

 慶篤の報告をうけた井伊は、老中・間部詮勝と大田資始を水戸藩邸にやり、勅書を実見させました。幕府に届いたのと同じ内容だったので、一応安心した老中たちは、コピーを配るのはこれ以上やめるようにと強く言います。
 慶篤としては苦しいところでした。なぜなら、勅状には、水戸から全大名に周知しろと、天皇じきじきの指名で言ってきている。それを幕府は止めろという。勅命と幕命と、どっちが優先なのか…ということですね。悩みに悩んだ末、けっきょく、慶篤は幕命に逆らえませんでした。
 疑心暗鬼の塊になった井伊は、水戸が持っている密勅そのものを、コピーも含めて全部回収しなければ収まりません。朝廷をおどして、天皇による「勅諚返納命令」を出させると、勅命違反ほのめかしてて慶篤を脅迫しはじめます。

天狗あらわる

 徳川慶篤の苦悩は、幕府と朝廷の板ばさみたけではありませんでした。国許の水戸には、下手に刺激すると何をしでかすかわからない、世にも過激な藩士たちの集団を抱えていたからなのです。

幕府は水戸藩の内政にも干渉をし、尊攘主義者の武田耕雲斉などを藩政から退かせ、今後は徳川家連枝で藩政を監視すると沙汰を出します。
 これはものすごく屈辱的なことでした。当然、地元水戸藩の藩士たちは怒りで沸騰。藩主慶篤の日和見を責めるため、安政5年9月、集結して続々と江戸を目指します。江戸の東・小金原(千葉県松戸市)に集合した数は、膨れ上がって2000人超。この人数が、勅命を遂行しろ、しなければ死んで責めるといって意気を上げ、じっさいに激情に駆られてその場で腹かっ捌いた者もひとりやふたりではありませんでした。
 当時、水戸藩の藩士たちは、尊皇攘夷を標榜する水戸学の原理主義者と、御三家としての水戸家の立場を大事にする穏健派に二分されていました。この二派が、はっきり「対立」という立場にたったのがこのときです。尊攘激派は別名「天狗」と呼ばれていました。
 自国の藩士の暴発におそれをなした藩主慶篤と、父親の烈公・斉昭は、必死になって慰撫につとめます。君らの気持ちはわかったから、いまは騒ぎを起こさぬよう、大人しく国に帰れ帰ってくれ~~~、という、藩主親子の弱腰ぶりに天狗たちは幻滅。
 が、これで失望して尊攘原理主義運動も立ち消えに…とはいかないのが厄介なところ。藩主をみかぎった天狗たちは、独自の組織を立ち上げて、国事奔走の道をひた走り、幕末の空を血潮で彩ることになるのでした。

天狗、暴走

 安政6年になると、井伊大老による粛清の嵐が吹き荒れます。
 とくに水戸藩は散々で、大殿・斉昭が永蟄居、藩主・慶篤が登城禁止・慎み。藩主の弟の一橋慶喜も慎みを命じられます。
 さらに、密勅の受け渡しにかかわった京都留守居役や江戸家老たちが、片っ端から断罪されて切腹。密勅を江戸に運んできた鵜飼幸吉は斬首・獄門という酷い見せしめで、血の気の多い天狗たちが怒るまいことか。
 そのタイミングで、幕府から勅諚返納の圧力がかかったからたまりません。水戸藩は、返納するべき、いやダメだ、と、真っ二つに割れて大激論になります。最終的には幕府の圧力に屈し、安政6年の年の瀬に、勅諚は返納ときまったのですがこれに怒った天狗たちはいっせいに羽ばたき、暴走をはじめました。そのスローガンは、「斬奸」、つまり「井伊直弼、ぶっ殺す!」これです。

 主上を脅迫して勅諚返納を出させた井伊は、尊王の見地からも許せない。殺すべきである。そして横浜の居留地を焼き討ちし、幕府に攘夷の断行を迫る。すでに要人テロ&自爆テロの世界に入っています。
 この危険な天狗たちが、かねてアジトとしたのは、なんと、江戸の薩摩藩邸です。薩摩の有村雄助(俊斉・治左衛門兄弟の末弟)たちと共謀して、幕府転覆の計画を練っていました。ことが成就したあかつきには、薩摩の島津久光が三千の兵を出し、江戸を戒厳令下においてしまう。そして一気呵成にクーデターを行おうという、かなり壮大な計画です。
 この計画は、安政7年の2月決行をめざし、薩摩の若者のリーダー・大久保一蔵にも接触がはかられました。大久保経由で島津久光の耳にもはいりますが、さすがにあまりに過激な計画に難色を示され、薩摩勢は、結局この計画から手を引きます。
 
そして桜田門外へ…

 結局、クーデターは計画の大部分を省略し、「井伊直弼暗殺」1本に絞ることになりました。
 3月3日はお節句の日なので、大名たちは総登城します。その日が決行日にえらばれました。場所は、彦根藩邸から目と鼻の先の、江戸城桜田門外
 その日に備えて続々と水戸を脱藩してきた天狗たちは、17人。それに、薩摩藩から有村治左衛門がひとり参加して、総勢18人です。
 安政7年3月3日、春の大雪が江戸に降りました。その雪を血で染めた桜田門外の変がドラマチックに幕をあけます!


4 コメント

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桜田門外! (SFurrow)
2008-08-10 00:14:53
いよいよですね~
豪徳寺は地元でございますので炊き出し(っていうのですか?)いたします。
http://sfurrow.hp.infoseek.co.jp/goutokuji/goutokuji.html
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お暑うございます (吉子)
2008-08-10 12:52:12
私、生まれて初めて花の東京にのぼった折、
皇居の周りを歩いて、「桜田門」という表示を見た時にしびれました。
あぁ、ここがかの…!と。
でも、石碑とか看板とか何のモニュメント的な物もなく、「はれ?」と思った私は、近くの番所、もとい交番のお巡りさんに聞いてみたんです。
するとそのおじちゃんお巡りさんは「まぁねー、時の権力者の暗殺だからねー、そういうのは作れなかったんじゃないの?」と答えてくれました。
あのお巡りさんは、もしかして歴史好きだったのかもしれない。
今を遡ること16年前、1992年のことでございます。
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招き猫・羅漢 (庵主)
2008-08-10 21:04:45
SFurrowさん

炊き出しありがとうございます!
今日の「紀行」は直弼関係で、豪徳寺もでましたね。でも「招き猫」はなかったですね(笑)。期待したんですが。
お国許・彦根にある菩提寺には、「五百羅漢」という、わらわらと膨大な羅漢様の像がひな壇に祭ってあって圧巻です。ちょうどあの招き猫とそっくり!
なにか、国でも江戸でも似たようなものに見守られる井伊直弼というのも、どういう宿命なのか。
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おまわりさんも… (庵主)
2008-08-10 21:12:08
吉子さん

>石碑とか看板とか何のモニュメント的な物もなく

そうなんですよね。
わたしは、特に桜田門をめざして歩いたことは無いんですけど、近くを歩いていてもなかなか気が付かないと聞いたことがあります。
そのへんは、今でも同じでしょうね。(井伊家の上屋敷は、いまの国会議事堂の真隣なんですね)。
交番のおまわりさんも聞かれるのに慣れているかもしれないですが、なにげに、その辺の歴史は良く知らないと、桜田門の交番のおまわりさんは務まらないのかもしれませんね^^;
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