como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

八重の桜 第23回

2013-06-15 00:28:06 | 過去作倉庫11~14
 今週は、奥羽越列藩同盟の発足と、世良修蔵暗殺事件、白河城攻防戦の敗北と、戊辰戦争の序盤を一気に描きます。
 それはいいんですが、白河口の大敗を、特に内容も説明せずにあっさりスルーしたのはいかがなものでしょうか。あの敗戦って、戊辰戦争の展開のうえでかなり重大だと思うんですが。
 白河口の大敗を細かく検証すると、「要するに西郷頼母が無能だった」ということに言及しないわけにはいかなくて、そうするとストーリー上差し支えるから…ということなんでしょうけど、それにしたってねえ。まあ、ひとりで「突貫だー突貫だー」と大騒ぎしている西郷頼母は、たしかに十分無能に見えましたけど。
 会津戦争はかなり重層的で、奥羽越各藩のそれぞれドラマを抱えているわけなので、どこを掬い上げるかがキモになってくると思うのですが、ここであまり浪花節的な、二本松少年隊とか白虎隊とか、その手の悲話にばっかり依存しないほうがいいと思うんだよね。せっかく戊辰戦争を前哨戦から時系列で描いているわけですから、敗因もちゃんとやったほうが面白いのに。なんかもったいない。
 
 今週は、さらっとピンポイントでいきます。

 第22回 会津を救え
ってダサいサブタイだなあこれ。「白河口の戦い」でいいじゃん。内容も。

○ 斎藤一がどんどん進化している件

 官軍がジワジワと会津に迫りつつあるなか、会津若松入りした旧新選組の土方歳三(村上淳)と、斎藤一(降谷健志)が、容保様(綾野剛)に謁見します。あ、ちなみに容保様は今週から総髪です。まあ、二か月もあれば髪は伸びるよね、マープ増毛もあるし(←離れなさいそこから)。
 近藤勇が流山で捕縛され、板橋で処刑されたことを、「哀れな…」と悼み、懇ろに弔うようにと懇切な言葉をかける容保様。「会津のお殿様はよい方だ」と土方もカンゲキです。そりゃそうだ、さんざん尽くした幕府から追い払われ、見捨てられたのだからね。
 流山での近藤との最後の別れの場面が挿入され、さらに、「斎藤、刀の時代は終わったな」とボソッと一言いう土方。これは有名なセリフなんですが、その中に、新選組が経てきた苦労が切々と滲み出てます。でもそう言われても、剣一本で生きてきた斎藤の心境は複雑。そんな中、お城の中庭で、灯明にお線香をあげているひとりの奥女中と出会ってしまい…。
 これが時尾ちゃん(貫地谷しほり)だったんですね。運命の出会いです。キラリーン。
「鳥羽伏見の戦で亡くなった、友達の弟の祥月命日なので」という時尾ちゃんに、「一緒に供養させてくれ」と、並んで手を合わせる斎藤。「おれにも弔いたい人がいるんだ…」と。
 この場面すごく良かった。先週、斎藤がすごい長セリフをしゃべったので、感動して、あとは内容がアタマに残るまでもう一歩ね!(笑)、などと失礼なこと言いましたが、申し訳なかった。今週は、この短い場面に深い情感とか、斎藤の抱えた喪失感までしっかり感じられ、ジワッと涙腺が緩むとこまで行った。凄い進化だ!!

○ 世良修蔵・地獄の使者

 地獄の使者だよー(笑)
 いえ、これNHKの番宣の惹句なんだけど、それにしてもよくもまあ、地獄の使者にふさわしい強烈なご面相の人を連れてきて、この役に据えたよね。
 この世良修蔵によって、仙台藩主・伊達慶邦に会津藩討伐の命令が下されるのですが、藩祖伊達政宗より連なるチョー名門の殿様が、こんな長州周防大島の農民出身の下郎に平伏して、言いたい放題に罵倒されるいわれはないわけです。この時点でもう胸に怒りがたぎってます。さらに、
 陸奥に桜かりして思ふかな 花散らぬ間に戦せばやと
 などとふざけた歌を詠まれて愚弄され、その怒りを胸に、仙台の主席奉行・但木土佐が、会津藩説得に向かいます。会見場所は国境の七ヶ宿。いわゆる七ヶ宿会談
 ここで、恭順の証しに藩公の首を…などと言われた、会津代表の梶原平馬(池内博之)はキレてしまい、オレがここで死ぬオレの首をとれ!!とお腹を出して騒いだので、但木土佐もスイッチが入り、「俺だってあの野郎ぶっ殺してえっっ!!」と。そこで意気投合。奥羽列藩で同盟を組んで、断固として立場を主張しようではないか、という線で話がまとまっていきます。奥羽(あとで越後長岡が入って奥羽越)列藩同盟の端緒です。
 東北諸藩25藩が白石に集結。連名で会津の助命嘆願を提出し、粘り強く戦争回避の努力をしていこう、と路線がまとまった矢先、参謀の世良修蔵が殺されます。こやつは、25藩の殿様が名前をそろえた嘆願書を、鼻で嗤ってグチャグチャにしたばかりか、「東北は田舎モンのクズばっか、朝敵の会津と語らって官軍に逆らおうとしてるんで、さっさと援軍を出して早めに叩き潰しておくといいっス」という趣旨の報告書を官軍総督府に送り、その報告書が送る途中で福島藩士に押収されてしまったのですね。
 あまりの暴言にブチ切れた仙台藩の有志が、世良が宿泊している福島の旅籠にいって寝込みを襲います(但木土佐の内諾があったとも)。その夜殺される世良は、旅籠で芸者を揚げてどんちゃん騒ぎして、芸者に宴席で大っぴらなセクハラ、同席した仙台藩士に宴会芸を強要するパワハラ、っと、もうやりたい放題のあと女郎と同衾して中庭に立小便。もう救いようのないサイテーぶりで、誰がどう見ても死ぬしかありません。
 余談ですが、この世良暗殺の実行犯のひとりの仙台藩軍監が、姉歯武之進といい、この名前がインプットされてたので、例の耐震偽装事件のとき、あの建築士は「仙台の人?」とまず思ったのを覚えています。子孫かなあ。だとしたらなかなか悲劇的な血筋ですよね。姉歯武之進は、このあと間もなく白河口の戦いで戦死しています。

○ 白河口の戦い、サラッとスルー。

 はい、冒頭でも文句言いましたとおり、この大事な序盤戦をスルーしておりました。まあ、そんでも、崩れ落ちる城に居座って「お前らは逃げろ、俺が死ぬ。突貫だー突貫だー」とワンマンショーをやって、斎藤一とかに、「バカか、ひとりで突貫して死ぬ気か」などと止められる西郷頼母(西田敏行)には、なんというか、人格者っぽくうわべを飾っても隠せない、素のダメオーラが漂っておりました。
 あんま大きな声じゃ言えないけど、西郷頼母って人に関しては、「結局能が無かったってことじゃね?」とずっと密かに思ってましたんで…。といっても会津史観のドラマで、そこをズバッと指摘するのは難しいし、演じる西田敏行は役の実年齢より25歳以上年を食ってたりすることもあって、パッパラ指揮官に描きにくい事情も分かるんですが。だったら、なんでこの人をキャスティングしたんだよと、第2話くらいで封印した根本的な違和感に立ち戻ってしまいますね。
 そんなわけで、いろいろ深く描けない大人の事情が見え隠れするなか、会津戦争の序盤で非常に大事な白河口の戦いは、不完全燃焼のままスルーでございます。
 で、白河口の戦いのあと、各藩から回収してきた壊れ銃を、尚さま(長谷川博已)が手作業で直したりしているんだけど、これがまた、各地にゴロゴロしてた時代遅れのゲベール銃、ヤーゲル銃なんか進んでいるほうで、火縄銃なんぞもあったとか。
 奥羽越連合軍の軍備はバラバラで、たとえば、幕府軍から脱走してきた旧フランス伝習隊なんかは最新式の元込め銃を持っていたり、越後長岡の虎の子のガトリング機関砲とかあるかと思えば、鳥撃ち銃に毛の生えたようなのもあったわけです。また、実戦経験がなくて射程距離というものを知らないので、ホントに悲しいくらい当たらなくて、白河城に屍山血河をつくったのも、確かにそのあたりが原因みたいですね。

ほか、ピンポイントでいろいろ。

○ 白河口の敗戦のあと、危機感を覚えた米沢藩の有志が、八重ちゃん(綾瀬はるか)と尚さまのところに泊まり込みで鉄砲を習いに来ます。八重ちゃんに構え方から指導され、指導されたのはいいけど体におっぱいが当たったかなんかして「ひゃー」と真っ赤になって狼狽する「米沢藩の法螺貝を吹く家」の人は、このあとテストにでますから覚えておいたほうがいいです。
 この人たちに、「戦争に勝ったらおっぱい見せてあげる♪」と八重ちゃんが鼓舞したりして…などと一瞬思ってしまった。不謹慎ですみません。

○ 「越後の蒼龍」河井継之助が登場します。演じる岡森諦さんという方は、「風林火山」で水川あさみのお父さん矢崎十吾郎を演じた人ですのね。
 この人を列藩同盟に担ぎ出すべく説得にいったのが佐川官兵衛(中村獅童)なんですが、佐川官兵衛の説得で河井が「よし、やるべ」とか言って腰を上げた、みたいに見えたけど、それってちょっと違くねすか? いや、ま、結果としてはあってるんですが、ものの本によると、河井と佐川はぜんぜん合わなかった、むしろ磁石の両極みたいに反発しちゃったみたいですね。
 で、河井は会津には深入りせず、長岡の局外中立の道を模索するんだけど、長州の軍艦の岩村精一郎ってのに、小千谷の慈眼寺で、それこそ足蹴にされるような徹底的な侮辱を受けて、もはやこれまでと参戦を決意する…というのが実際の流れであります。この小千谷会談(5月2日)をスルーしたのは、まあ河井継之助が主役じゃないのでいいっていえばいいけど。
 で、これもどーでもいいネタですが、何年前か、亡き勘三郎さんが河井継之助を演じた日テレだかのドラマのとき、この岩村精一郎を獅童さんが演じてるんですよね。それがまた憎ったらしくて良かったの。この小千谷会談とニアミスみたいなところにまた獅童さんがからんじゃったので、ちょっとデジャヴでクラっとしました。

○ 薩摩の牢にまだはいったままのあんつぁま(西島秀俊)は、だんだんやることがなくなって、ネタも尽き、いよいよ夢落ちしかないのかとおもったら、その夢落ちのなかに、退場した吉田松陰(小栗旬)が登場したので、思わず身を乗り出しちゃいました。
 例の松陰の「立ち上がれえっっ!!」という獅子吼の現場にはあんつぁまは居なかったはずでは?などと突っ込んではいけないのです。時空を超えて魂にアプローチする回想シーンなのですからこれは。そう、「牢屋つながり」で。
 いえ、そんなことではなくて「会津はどこでまつがってしまったんだべ…」とひどく落ち込んでいたあんつぁまは、松陰先生が夢枕に立ったことでフッと覚醒。「オレにもまだできることがある!」と生気を取り戻すのでした。なにができるっていうのか、それは次回以降のお楽しみとして、いや私ね、こーいう、思想というか、キザっぽくいえば志っつーか、そういうのが、意外な人間のつながりでリレーされていくというパターンにけっこう弱いのですよ。幕末ドラマでは特に。
 このドラマの序盤で、覚馬が松陰の志を継ぎ、容保が井伊直弼の志を継ぎ、そこで、意外にも吉田松陰と井伊直弼が、「国を思う」という一点をリンクに繋がるということがありました。わたし、こういうのに実は弱い。いや、毒吐いててばっかいるから信じてもらえないかもしれないけど、そうだよな、歴史ってこういうことで紡がれてきたんだよねと、けっこうジーンと感動してしまったりするわけです。そういう見どころがある歴史ドラマは、魅力的だよねえ。


今週の八重ちゃん出直し学習会。

今週は、ドラマに代わって白河戦の戦犯を糾弾する会。

 白河城は、譜代の白河藩主の居城だったのですが、慶応二年に白河藩主の阿部正外(もと老中)が棚倉へ移封になり(開港論議でしくじったための懲罰人事。「棚倉送り」は大名の左遷の代名詞)、以後空き家になっていて、とりあえず二本松藩があずかって管理していました。

 世良修蔵率いる官軍が白河に入り、会津攻撃の拠点にする計画でしたが、世良は閏4月19日に暗殺されます。翌20日に、会津藩はここを攻略。もと新選組の山口次郎(斎藤一)が先乗りし、警備の二本松兵と連携して官軍を自慢の白刀で粉砕し、城を占拠して総督と副総督を迎えました。総督は家老西郷頼母、副総督は横山主税Jr。
 そして23日に、白石で会津藩赦免を願う議定書に調印した「白石会議」が軍事同盟にスライドし、仙台を盟主にした奥羽列藩同盟が正式に発足しました。

 そして列藩同盟の連合軍が白河に入城し、東日本の防衛拠点をここに築く…はずだったのですが、5月1日の第一次白河攻防戦で惨敗し、1日で官軍に奪還されてしまいました。
 以後、5月26日、6月12日、7月15日と、再奪還戦を仕掛けるものの、全部完敗して敗走を繰り返し、そのたびに列藩同盟の結束も穴が開いていき、最終的に白河をあきらめる頃には、会津戦争の行く末にも重たい暗雲がさしていた…という、ようは、白河戦戦は、戊辰戦争のゆくえを決定づける、決して落としてはいけない一戦だったわけです。

 この白河城の攻防は、何がだめだったといって、それは

西郷頼母をその方面の総大将にした。

 この一点につきるという。いえ、実際はもっと複雑な敗因も、いろいろ探そうと思えば探せるのですが、それもこれも、総大将がこんなにダメでなかったらなんとかなったものばかりで、ようはこの方面の大将がべつの、日光口にいっていた山川大蔵あたりだったらもうちょっと違ってたはず。
 といっても、山川大蔵はまだ20代の若造で、門閥家老を差し置いて重要拠点の総督を任される格ではありません。ようは、会津はいまだに門閥で戦場人事を決めてたわけですよ。だから、鳥羽伏見を見てもいない、戦場の空気を吸ったことない西郷頼母を、白河方面の総大将になどというピントのズレた人事をしてしまったわけです。
 
 白河城に集まった会津・仙台中心の同盟軍は2,500人で、対する薩摩・長州中心の新政府軍は、750人くらいでした。
 新政府軍を率いていたのは、薩摩の伊地知正治。この人は、隻眼で足が不自由、それで軍略の才能は天才的で、「今勘助」と評判だった人物です。伊地知正治は、白河城周辺の地形を徹底的に調査して、地図を描き、地元民を調略して道案内に採用して、白河城の同盟軍が予想もしない間道から、城下に迫ります。

 敵がそういうことをする、ということを想像もしない大将はバカであります。
 とはいえ、西郷頼母を責められない点のひとつは、新政府軍の、とくに長州兵は、長州戦争などで相当にゲリラ戦の場数を踏んでいるわけですね。薩摩の伊地知正治も、鳥羽伏見の最前線で戦ってきています。こういう経験値の高い連中に、門閥家老のボーッとしたのが最前線で采配を振れといってもどだいが無理な話で、経験値でいうならそれこそ、旧幕府軍で転戦してきた大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門といった連中に、傭兵隊長として丸投げしたほうがずっと良かったわけですよ。それを門閥至上主義から脱却できない会津は……ああ!

 傭兵代表として白河に投入されていた、旧新選組の山口次郎と、純義隊(彰義隊の生き残りなどの旧幕臣)の小池周吾は、白河の防衛について西郷頼母に相当に意見したらしいです。この人たちはフリーターの自由さで、門閥家老にも歯に衣着せずものが言えたのですね。ようは、どだいがチャチな白石城に籠城しようなんて考えず、同盟軍を周辺各地に展開してゲリラ的に新政府軍を各個撃破しろと。そりゃそうでしょう。
 そんでも西郷頼母は、そういうアタマの回転ができなくて、白石城に敵を引き付けて正々堂々、同盟軍の大軍の威容をもって粉砕するという幻想から離れられず、フリーターの意見には耳を貸しませんでした。それであほらしくなったのか、斥候を出したり遊軍的な展開をするという工夫も放棄して、歴戦の兵が、唯々諾々と愚将の采配に従って負けていくことになります。
 ほんとにだめすぎます。なんか呪いになって、二百三高地の乃木大将に継承されたんじゃないかと思うだめさです。

 5月1日は朝から豪雨であり、それも、索敵されずに新政府軍が白河城下に近づけた一因なんだけどね、白河城を囲む雷神山・立石山・稲荷山の守備兵が、あっというまに粉砕されます。まだ火縄銃なんか持ってる兵隊も多くて、雨と当然使えないわけですし。もと新選組が白刃で応戦しても限度というものがあり、白河城を囲む山々には、これ見よがしの狼煙が上がりました。
 ここではじめて、白河城がまるハダカで包囲されたと気付いても遅いです。副総督・横山主税は稲荷山で討ち死。総督・西郷頼母は、城を棄却して城外にのがれ、そこで再編成を試みますが、ほとんど集まりませんでした。壊滅でした。
このときに、西郷頼母が一騎で突出する、敵陣を突くと無茶苦茶なことを言って、そばにいた朱雀一番隊の会津藩士が必死で止め、総督が死んでどうする、退却して立て直せよと説得したというのは、ドラマ内では斎藤一がやってましたけど、事実らしくて「会津戊辰戦史」に書いてあるとか。西郷はそれでも耳を貸さず、しょうがないのでこの会津藩士が、馬の頭を会津若松方面にむけて尻を叩いて、だめ総督をとりあえず現場から追っ払った、ともあります。

この戦勝を、ほとんど一方的な圧勝として「花は白河といわれた大勝利」と、大山巌の息子の大山柏(戦史研究家)が総括しておりますが、まあ、これはようするに敵が負けてくれたっていうもんだろうねえ。


2 コメント

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Unknown (うし子)
2013-06-15 08:39:51
自分的に、西郷頼母に西田敏行はミスキャストです。というか頼母のキャラ設定からして間違ってると思うんですよね。史実では仰る通り、頼母さんは無能…なだけでなく、人望もなかったわけです。藩内のだれも頼母に賛同しないのも、彼自身の人望の無さゆえでもあるわけで。そこを変にいい人っぽく描いたり西田さんをキャスティングするからわかりにくくなるわけで。
いつも思うんですけど、なんでドラマ化される時いつも頼母さんはイイ人に描かれるんですかねぇ。「恭順派」だったから?
家族が自刃したこともあって、悲劇の人として描きたいのはわかるんですが…。
白河の敗戦、もったいなかったですね。ドラマでの描き方ももったいなかったですね。
少年たちの悲劇も大事だけど、そこに依存して、こういう歴史の重要ポイントが簡略化されちゃうなら、従来の「白虎隊」に特化した単発ドラマと変わらなくなっちゃいますしね。
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滅びゆくもの (素問)
2013-06-17 05:45:02
この回で僕が最も切なかったのは、米沢の皆さんが山本家の角場で新式銃を手にして喜んでいる場面でした。

つまりそれだけ新しいものに触れていなかったわけで、東北諸藩の軍事・政治の遅れが却って明らかになってしまいました。(法螺貝を吹く家系の件も同様に)

また庵主様の「西郷頼母=乃木希典」のお話ですが、むべなるなかと思ってしまいました。

以前旅順要塞攻略戦での日本軍の被害の多さについてある方が語っていたところによると、これは「出るべくして出た」とのこと。

旅順要塞はロシアがそれ以前のものをコンクリートをガンガン流し込んで更に強化したうえ、高速連発機関銃や榴散弾砲など最新式の装備を整えて当時の世界の要塞の中でもトップクラスの防御力を持たせたようです。

それに反して日本陸軍は対要塞戦についての知識が不足しており、洋書を取り寄せて司令部で翻訳しながら作戦を考えていたという話もありました。

そんな中で乃木大将は従来通りの突撃作戦を採らざるを得なかったのは、無能だからではなく知識も経験もなかったからだと。

西郷頼母さんも同じようなもので、大蔵さんのように洋式調練のできた兵を揃えて洋式の戦術論を学んでいたら、あのような結果にはならなかっただろうと思われました。

装備の優劣は戦争には常に付き物ですが、状況を把握した上で的確な判断を下すための人材育成をしてこなかった会津の上層部の頭の硬さが、ここに来て全て裏目に出てしまったということなんでしょうね。

放送開始当初は「ならぬものはならぬ」という言葉が金言のように持て囃されましたが、新しい潮流がやってきた時、思い切って「君子豹変」できなかった容保さん以下のお歴々ですから、会津討伐はもはや起こるべくして起こってしまったことなんだろうと感じました。(-_-;)
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