ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

「誘拐犯に憐れみを」。失っていたのは記憶。

2006-08-12 | 映画
プレイ/ pray」 佐藤祐市監督 玉山鉄二(ミツル)、 水川あさみ(マキ)

本編77分で、まあ、実質テレビムービー並みでしょう、というのが今日見ることにした。きっかけ。多分、このあとテレビを見るから、その隙間で見終わる作品ということで。

チンピラ・カップルのミツルとマキ。車の後部座席には眠る女児。ふたりはこの女児を誘拐したのだ。たどり付いたのはかつてミツルが通っていた、今は廃校となった小学校。マキが身代金を要求する電話を架けたが、その様子がおかしい。それもそのはず、切られてしまったという、その電話の相手は、「娘は1年前に死んだ」と答えたのだった。

睡眠薬で眠らせたはずの女児が、寝かせた保健室のベッドから消えていた。ふたりは仕方なく、無人のはずの校内を探し回る。

時を同じくして、霊媒師を尋ねる夫婦。1年前に行方不明になった娘のことが知りたい。死んだなら死んだと諦めもするが、なんとしても行方が知りたい。親から受け取り、卓上に置いた写真に手をかざしながら霊媒師はいう。「ああ、そばには誰かがいますね……」

女児を探してミツルは音楽室にたどり着く。その横引き戸に手を掛けようとすると、指先に静電気が走る。その瞬間、形を成さない記憶の残滓がミツルの脳裏に浮かぶが、そのヴィジョンは長持ちせず、すぐに消えてしまった。

「ああ、また。今度は三人の男が……」。果たして、霊媒師には本当に失踪した娘のことが見えているのか……。「その場所を教えてください」と父親は言う。

廃校にやって来たのはミツルの手下(てか)のヤスダら三人組。そして、ひとり、ひとり、不可解な死を遂げる。

殺される者はなぜ、手首を切り落とされるのか。娘は本当に死んでいるのか。そして、ミツルのヴィジョンにはどういう意味があるのか。


うーん。まあ、二転三転くらいはする筋立ても、まあ、わからないでもない。しかし、実は登場人物の底の浅さゆえに、結局は薄っぺらであったとしかいえない。

軽い気持ちで見ていれば、そんなに詰まらなくはない。

バジェット的にもテレビドラマ以上、ワイドドラマ以下という感じで、劇場作品と言いたくはない出来である。でも、その程度と思っていれば見られないこともない。

満腹大作の箸休め、そういう作品が見たい人にはよいのではないだろうか。

しかし、あのオチは蛇足だね。あの前で止めるべきでしょう。



*二日連続で「誘拐もの」を見てしまいました。ハイ。*

*「絶対恐怖」という括りで同時上映だったという「ブース/Bootn」の方も今度見てみようと思う。*

*発売元が日販! 東販と並ぶ本の取次ぎの。栗田はもう少し小さいんだったよね。違う? 東販で、学生のときバイトした記憶が……。*