ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるググるグル。そんでもって、Google!

2006-09-30 | 映画
うずまき」(Higuchinsky監督)を見た。

この作品、はや、6年前の作品なのね。初音映莉子といえば「松茸の味お吸い物」の映莉子だったのであるが、そう、こういうホラーが初主演作だったんだよね。NHK連続テレビ小説「純情きらり」に出ているようだが、だいたい、ほとんど見ないからわからないんだNHKの高視聴率番組は。

初音映莉子演じる五島桐絵の「わたしが生まれ育った黒渦町で起こった物語をお話しよう」というようなモノローグで、作品は幕を開ける。

幼馴染の斎藤秀一(フィーファン。この名前、何者?)の父親が「うずまき」に魅入られる。仕事もせずに町中の「うずまき」を集めてくる。好んで食べるのも、ナルトの味噌汁なのだ。この、強迫観念(オブセッション)が世界を侵食していくのか、あらゆるものに「うずまき」が「取り憑き」はじめる。

黒渦町では、かつて沼から古代鏡が大量に出土された、とか、それは「蛇鏡」であるとか、蛇は「永遠」の象徴であるとか、思わせぶりな情報が告げられるのだが、それらも結局は主人公達には届かず、遂に斎藤秀一もまた渦に巻かれて(魔かれて)しまうのだった。

シン・ウギョン(韓国俳優。韓国版「リング」主演。そのほかに「花嫁はギャングスター」)が出ていると聞いたので再見することにしたが、その役名も丸山千恵という女性TVレポーター役で、実にちょい役に過ぎなかったのだが、それがまるで違和感なく日本語を喋っており、あるいは、もともと喋れる人なのかも知れないけれども、何のための出演なのか疑問であった。(偉そうに「もっとちゃんとした仕事持ってきなさいよね」かなんか言ったあとに、次ぎ写ったら目ん玉うにーってとび出して死んでるし)。うん? そうか! 韓国の「リング」だから、「うずまき」に出ろ、ということ? 洒落みたいな発想ね。

伊藤潤二ってマンガ家の、あの絵柄を実写で見てみたい、という人はある程度マンゾクできる作品だと思うぞ。

サイレン、シレーヌ、死を呼ぶ人魚。

2006-09-29 | 映画
「サイレン」を見た。

ゲームをベースにした作品だが、そんなことよりも、市川由依のお姉さんっぷりに感動した。

あの、「ZOO」あってこその、お姉さん映画かな。

そして、そして、堤幸彦監督が、冗談演出抜きでがっちりと作品化している点に好感が持てた。

しかし、それにしても、微妙なくすぐりは、ある。

夜美島(やみじま)は、もちろん、ヨミジマ=黄泉島である。そうなると、「ケイゾク/映画」の黄泉の島を思い起こしてしまうじゃないか! 何でも消失する島のモチーフに、あの映画の時もマリー・セレスト号事件を引用していなかったか?

不老不死の人魚を食したために、人魚に呪われ、しかも死ぬことを許されない人々が住む島。

モチーフは実に面白い。

異常心理なのか。ゾンビなのか。人魚(あるいは海の邪神)の呪いなのか。

それぞれの可能性を残しているのが、つまりは「ゲーム版」のモチーフを維持しているということだな。

それにしても、今回、久しぶりに見た森本レオであるが、声だけではなく、我ながら似ていると思った。「似てないよ~」といい続けたが、今回ばかりはもはや逃れようがない。似ている。うん、似ている。

それから、阿部寛の役名が「上田」である点も、エンドロールでこっそりと笑ったのだった。

よぐそとふとふ とか くとひゅるるぅ とか にゃるらとほてっぷ とか?

2006-09-28 | 映画
久々に「玩具修理者」を見た。

主演は田中麗奈。忍成修吾。 監督は はくぶん。

角川ホラー大賞を受賞した小林泰三の、同題の超傑作短編小説。

「女」と「少年」の設定年齢は原作より下がっている。しかも原作ではあらかじめ「姉」と「わたし」とが姉弟とわかっている。もちろん、映画では田中麗奈を主演に迎えるという段階での変更だろう。

DVDで田中麗奈のコメンタリーを聞いていると、やっぱり、「よぐそとふとふ」だって、「くとひゅるるぅ」だって、ちっとも彼女はわかっちゃいない。「クトウルー神話」なんて、知っていなくてもこの怖いオチのファンタジーは、もちろん成立するわけである。

「クトウルー神話」のことは「ネイムレス」や「ダークネス」の回でも書いたし、「ザ・リング」の回でも指摘した。それに、きっと近々「マウス・オブ・マッドネス」(ジョン・カーペンター監督!)の作品を再見する気持ちがあるから、どうせまた触れると思うので、もはや、言及するのはやめにする。それでも是非「クトウルー神話」については何らかのかたちで読んだり見たりして欲しいな。そうすれば、楽しめるホラーはもっと増えるはずだから。(ネタバレになるが、殊能将之の「美濃牛」を読んで、その上で「黒い仏」を読んだとき、その知識がないと面白さが半減する。せめて矢野健太郎のマンガ「邪神伝説シリーズ」でも読んで見て欲しいところだな)。

本編47分。CGもまた美麗な作品だ。

キイワード「ときどき部品は入り交じる」によって、オチへと一気に向かうのであるが、うん、ラスト・シーンは本当に美しくさえあると思う。

残念ながらDVD版はレンタルされていないので、セルDVDかレンタルVHSを利用して欲しい。短編だから借りて(買って)損をした、なんてことは先ずない。原作を読んだ方も、そうでない人も試しにどうぞ!


*TOY REANIMATERという英題もいいよね。「リ・アニメーター」っていうのはラブクラフトの「死体蘇生人ハーバート・ウエスト」=映画版は「死霊のしたたり」=のこと!*

初めに大林ありき。そして、大林は神であったのか?

2006-09-27 | Weblog
今日の記事は本当の記事じゃないかな? 思い付きを書き留めるだけ、ね。

「イルマーレ」、「ターン」。そかし、その初めには、「ある日どこかで」があったのか。それとも小説「たんぽぽ娘」があったのか。

そうだな。「たんぽぽ娘」はあったかも知れない。しかし、「たんぽぽ娘」の前には、そうだな、「ジェニーの肖像」があったのかも知れない。そして映画「ジェニーの肖像」があって、石ノ森マンガ「ジュン」があって、「時をかける少女」がある。

「時をかける少女」は大林宣彦を通して、日本の、いやアジアのスタンダードになったのかもしれない。そしてそのスタンダードは、あるいは「スキップ」「ターン」「リセット」という北村薫の三部作を生んだのかもしれない。

「ターン」が韓国で「イルマーレ」として結実し、ハリウッドでキアヌとサンドラが演じた……。

あるいは。

「異人たちとの夏」(この年になって、風間杜夫の気分が一層わかるようになった)である。死んで、会えないから切なく、懐かしい人々との再会。このテーマは「黄泉がえり」となり、その変奏曲として「いま、会いにゆきます」を生むことになる。

大林がオリジナルと、言い切れないかもしれないが、大林がかつて用いたモチーフが、いま、再作品化されている……というのは、言い過ぎなんだよな~。

*「黄泉がえり」。これが成り立つには、あるいは小松左京の「ご先祖様万歳」が必要だったんじゃないか、とか、昔から無責任な感想は得意なんだ!*

*画像は「ラーゼフォン」。なぜか? 訊くなよ~。野暮だな。*

犬も歩けば足跡残す。シュレディンガーの猫を否定する犬!

2006-09-26 | 映画
イルマーレ」(THE LAKE HOUSE)

韓国映画「イルマーレ」のハリウッド・リメイク版である。

主演のふたりがイ・ジョンジェとチョン・ジヒョンからキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックに置き換わっただけで、かなりおとなのにおいのファンタジーに成り代わったような気がする。

そもそも“Il Mare”(イル・マーレ)とはイタリア語で海を意味するそうで、オリジナル版では件(くだん)の家をイルマーレと愛称で呼んでいたわけであるが、英題“THE LAKE HOUSE”でお分かりのとおり、こちらでは湖畔の家には特段愛称がないのだ。(その代わり、ふたりが時を越えて何とか会おうとするレストランの名前を「イルマーレ」としていて、オリジナル版に敬意を払っている)。


さて。ネタバレの皮切りに宣言しておく。少々の紆余曲折はあるが、この物語はハッピーエンドだから、安心して見てよろしい。


しかし、それにしても広く知られるあらすじ(こちらははっきりと細かい部分は覚えていないとはいえ、オリジナル版を見ているしね。)を知ってさえいれば、バレンタインの日の事故、あれがキアヌの死であること、そして、まあ、少なくともいったんはそのためにふたりが会えないだろうということはすぐにわかってしまう。

ところが、これが実にうまい。(オリジナルにそんな感じのところはあったかしら?)中盤、「湖畔の家から見える木立が懐かしい」というサンドラのため、キアヌは彼女の将来住む集合住宅の建築予定地に苗木を植えに来る。それがサンドラ側では、今までなかったところに突如枝振りのよい木が生えているという風に描かれるのである。

つまり、未来からの示唆に従い、過去を変えることで、現在がすっと修正されるということを、ここで、描いておいたのである。

これあってこそ、キアヌの交通事故死が修正されるところの意味が安っぽくならないわけである。

因果の確定性を巧みに否定して見せた、心地よい場面である。

肩肘張らず、ちょっと薄っすら泣きたいという気分にはぴったりの映画だろう。

*オリジナル「イルマーレ」よりも、平山秀幸監督の「ターン」を思い出すシーンが多かったな。時を隔てて同じ店に座っている、なんていうところは。もちろん、それは北村薫の原作に描写されているのだが。*

*「シュレディンガーの猫」。量子論でお馴染み。その死を観測されるまでは生死が不確定であるために、生と死のいずれにもある(あるいはいずれにもない)という「猫」のこと。それ以上の説明は、きちんとした量子論の説明になるから……簡単じゃないよ~。*

ジョン・カーペンターという、素晴らしきオタク監督の、「霧」の中の怨霊譚

2006-09-25 | 映画
ザ・フォッグ」(THE FOG)

劇場では二回かそこらしか見ていないので、若い頃見た映画としては少ない方だが、そもそも字幕なしの輸入VHS所持、「日本語吹き替え版」も所持しているから、そいつでかなりの回数を見ている作品だ。

ジョン・カーペンター監督といえば、「ニューヨーク1997」で、脇役にこんな名付けをしていたりする。マンハッタン島監視所勤務の医師で、主人公スネークの首筋に(任務達成して無効化されなければ)24時間後に爆発する小型爆弾を埋め込んだ憎いヤツ、白衣も似合いのエリート風な男にクローネンバーグ。マンハッタンの帝王=キング・オブ・ニューヨークを自称するデューク配下でパンクファッションで擦れた笑い声、青白い顔に剥き出しの歯のゾンビ風男にロメロ。

 ……さて、「ザ・フォッグ」では、「霧の中の怨霊」にあっさりとぶっ殺される気象予報官にダン・オバノンという名を与えている。

ジョン・カーペンターのカルトSF「ダーク・スター」での盟友ダン・オバノンは、このころは「エイリアン」の脚本で有名になったばかりであり、「ゾンゲリア」(脚本)もまだだし、まして初監督作品「バタリアン」もまだまだのころ。ロメロやクローネンバーグよりはマイナーな存在だった。

エイドリアン・バーボー演じるシングル・ママDJに、恋心を抱く気象予報官がダン・オバノンである。彼女の放送局は港町アントニオ・ベイを見渡す高台の灯台で、クライマックスでの彼女の役割は意思を持つように見える霧の状況に気を揉み、放送で警告を出すこと。高みから迫る霧に、「ダン、気をつけて!」と折角の電話を軽視して、霧の中に出てやられてしまうんだ、ダンったら。

ラストシーンで彼女はクリスチャン・ナイビー版(制作のハワード・ホークスの名の方が有名だが)「遊星よりの物体X」のセリフのもじり(「空を警戒してください」ならぬ)「霧を警戒してください」という台詞をいう。これ、カーペンターにとっては意味ある台詞。(ナイビー版があってこそ、オバノンとカーペンター「ダーク・スター」が、そしてオバノンの「エイリアン」企画・脚本が、もちろんカーペンターの「遊星からの物体X」が存在するわけだから)。

本当にマニア(オタク)監督なのだ。

カーペンター印の映画の本質は音楽も彼が作っていること。監督作品としては一本前となる「ハロウィン」にも引けを取らぬ印象的なテーマは聞きものだ。

ジェイミー・リー・カーチスとジャネット・リーの母娘競演、ハル・ホルブルック演じる神父の、愚かな末路と、見所も結構多いしね。未見ならば、是非。

リメイク版はあまり見る気にもならないな。オタク度が違いそうだもの。

*こちらも、某DVDレンタルのレビューからサルベージ*

ガンダム・ファイト、レディ・ゴー!:機動武闘伝の世界。

2006-09-23 | アニメ
「機動武闘伝 Gガンダム」をレンタルDVDで見直している。

面白い、面白いぞ。ドモ~ン! ←マスター・アジアの声で、ね。

まあ、放映当時「もう、Gガンは見ない」と、視聴者をして言わしめただけのことはある。

「機動戦士ガンダム」、宇宙世紀(UC.)00××年の世界に馴染んでいる人ほど、抵抗が大きかっただろうことは容易に想像がつく。

地球圏の覇権を争っての愚かな戦争の果て、荒廃した地球。その再生と、宇宙コロニー間の平和的な統治権の決定方法としてコロニー国家間で提携された条約が「ガンダム・ファイト国際条約」という。

つまり、代闘士制である。コロニー国家が自慢のロボット「ガンダム」を開発し、これで四年に一度、一年間の「ガンダム・ファイト」を行ない、その優勝国家が次の大会の終了まで政治的な優位を得られるのである。

そう、この「世紀」の「ガンダム」はモビル・スーツではなく「モビル・ファイター」という。「モビル・トレース・システム」で、「ファイター」の動きを直接「ガンダム」に伝えることから、搭乗者=ファイターの多くが何らかの格闘技の名人である。

ドモン・カッシュは母の死、父の「冷凍刑」という悲惨な状況を背負って、ネオ・ジャパンのファイターとなった。父カッシュ博士の友人ミカムラ博士の娘レインをパートナーとし、「シャイニング・ガンダム」(後には「ゴッド・ガンダム」に乗り換える)で闘うのだ。

父カッシュ博士とともに兄キョージが開発したアルティメット・ガンダム、その怖ろしい機能をして「デビル・ガンダム」とも呼称される機体と兄の行方を追うという秘密の指令をも抱えたまま……。

今日は、遂にマスター・アジア東方不敗先生登場の第3巻第12話「その名は東方不敗! マスター・アジア見参」を見てしまいましたよ。

やっぱり、

「答えよ、ドモン! 流派東方不敗は」「王者の風よ」「全新系列」「天破侠乱」「「見よ!東方は赤く燃えている!! 」」

これ! これである。マスターあってのGガン! しばらくは、Gガンで楽しめそうだな。

昨日失った記事を再現しようとした

2006-09-21 | ゲーム
一番好きなゲームを選ぼうとすると、散々迷った挙句に、このゲームを選ぶだろう。

それが、最高のパズル・ゲーム、「パネルでポン」だ。

パネポンは、そのキャラクターである妖精たちの魅力と、取っ付きの割りに奥深いゲーム性との二拍子が見事に揃っている。

キャラクターとパズルといえば、「ぷよぷよ」だろうが、その模倣者たちは意外に多い。

順不同で数え上げよう。

元祖テトリスの変形ゲーム「テトリス武闘《バトル》外伝」。(うっ。いきなり結構はまったゲームを書いてしまった。普通のテトリスと違って、「魔法」【っていうか、技だね】を使えるのである。対COMPでも、2Pでも、選んだキャラクターの技で自分のフィールドをリカバーしたり、相手の邪魔をしたり……うん。キャラも魅力があるんだな。コラムスの対戦は「花組対戦コラムス」となると「サクラ大戦」に寄りかかりすぎなので、「コラムスⅢ」を選ぶべきだろうが、これはキャラクターもしょぼくてあまり熱中できなかった。「くにおのおでん」「どっすん岩石バトル」「へべれけのぽぷーん」……あるな、あるな。曰く落ちものパズル。

「パネルでポン」も、その模倣者に見えるのだが、せり上がりという、その逆方向な動きの中に、実はアクション・パズルならではの戦略の妙味があるのである。アクティブ連鎖! うん。連鎖を、計算と運の双方から後追いに続けることが出来るのがアクティブ連鎖である。この技術を身につけると、面白いこと、面白いこと。

キャラクターの魅力! 花の妖精リップがおかしくなってしまった仲間の妖精を正気にするためパネポンで闘うのだが、この妖精たちが可愛いんだよ。

実際にプレイしてみればわかる。わたしは最後の妖精、月の妖精セレンちゃんが好きだな。ちょっと高飛車な性格が魅力的である。

そしてハードモードで救った妖精を使い切らないで終わればエンディング・デモが見られる。それも、理想はノー・コンティニュー、つまり妖精勢ぞろいな終わり。

一番はまっていたころは、真のエンディングを見ることができるハード・モードのノー・コンティニューを何度も達成したが……いまは無理かな。

スーパーファミコン・ソフト「パネルでポン」。是非、プレイして欲しい一本だ!

*再現というよりも、まとまりのいい記事になってしまった*

*画像も昨日分を「ぷよぷよ2」にしてみた*

「明日なる夢」を認めてさえも、気に喰わなかった点……。

2006-09-19 | 映画
「仮面ライダー響鬼」DVD最終巻。四十五之巻 「散華する斬鬼」 、四十六之巻 「極める鬼道」 、四十七之巻 「語る背中」そして最終之巻 「明日なる夢」の四話だ。

正直なところ、だいぶ慣れたこともあり、反発心も薄れて気楽に見ることが出来たのだが、それでも前面肯定はできなかった。残念なことだ。

命を投げ出す、命を投げ出しても尽くしている事実を知らせて再起を促す、そんな生き様があってもよいのだが、「本来の斬鬼さん」には似合わないやり方であるという気がする。つまりこういうことだ。斬鬼さんの(感動的な)死にざまが浮かんだ、それに合せて轟鬼の致命的負傷という事態が設定された、そういう因果の逆転が臭ってしまうのだ。

だから、見ていて、モッチー、お前なんでチア辞めた? と思ってしまう。おい、その不治の病の少女と、ボランティア、それを明日夢の前に運ぶための、お前は道具か、とそう思ってしまうわけだ。パネルシアターとモッチー、なんとなく合わないよな。明日夢も、明日夢だ。お師匠さんの危機に居合わせた、あのときのキミの思いが医療への情熱に結びついたのなら、納得もしようが。

京介よ。お前、フランスかどこかに行っている母親はどうでもいいの? 死んだ消防官のオヤジさえ超えられれば、いいの? どこか重荷に思いながら捨てきれない母、そんな母の姿が一切見えないから、キミは不可解な人物のままなんだ。

まあ、それでも響鬼さんは、最後にいいところを見せてくれたと思う。鬼にならなくても、果たすべき使命を思えば闘える、という、その姿勢は買いたい。それに、道は違ってもそばで生きていける、というのは、それこそよい。むしろ、「語る背中」という副題に示される姿勢を、もっともっと示してくれていれば、本当によかったのに。

さあ。「仮面ライダー響鬼」への不満を、もう一度「理想の響鬼」へと、実際に放映された作品を(イメージの中で)リファインすることで完成に近づけていけたらと、心からそう思う。

そして、もしかしたら「オレのそばで自分らしく生きてみなよ」という響鬼と明日夢の「明日なる夢」の答えとして、結実してくる、それは理想の結末になるのかもしれない。

「魔化魍を作る者たち」については、その向こうにまたひとり居たという、そんなハッタリみたいな構造には、呆れたね。