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一日一書 1741 寂然法門百首 90

2024-07-07 17:46:02 | 一日一書

 

月満已復缼

 

月満ち已(おわ)ればまた欠く
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』87番歌題に同じ。
 

【題意】 月は満月になるとまた欠けていく。


【歌の通釈】


無常のこの世に住んでいるので、満月が細くなるように、いよいよ心細くなっていくことだよ。
 

【考】

月の満ち欠けによって無常を表現。人も満月が欠けていくように、その姿は変化し続けるものである。一瞬たりとも同じ状態でいることはない。(中略)無常を心に掛けることがすべての根本であることを説く。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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★このシリーズもなかなか進みませんが、やっと90番台まできました。81番〜90番までの10首は「無常」をテーマとしていましたので、この90番はその締めくくりということでしょう。
★仏教ではとにかく「無常」がその根本にあると寂然も言うわけですが、ともすると、この「無常」は、悲観的な人生観のように受け取られがちです。なんか、前向きじゃないよね、と言われそうで、もっとポジティブに生きようよと言う人もいるだろうと思います。けれども、これは決して「人生観」なのではなくて、生きるということの「現実」なんだと思います。ネガティブでもポジティブでもない。「無常」こそが否定できない「現実」なんです。
★評者は、「(人の姿は)一瞬たりとも同じ状態でいることはない。」と言っていますが、このことは、歳をとればとるほど、切実な「現実」として身に迫ります。我が身ひとつにとっても切実ですが、世界をみても、これこそが「現実」だといわざるをえません。
★満月を見て、ああ、きれいだなあと思う一方で、ああ、このままじゃないんだなあと思わざるをえないし、それが「現実」です。そういう「現実」を意識することは、「きれいだなあ」という感慨をぶち壊しにするようにみえて、実は、「きれいだなあ」という感慨を深めるものだと思うのです。それは、「きれい」なものが喚起する「見えない世界」への思いです。仏教的にいえば、「だから仏を常に思え」ということになるでしょうし、キリスト教的にいえば、「だから神(イエス)を思え」となって、結局結論は同じです。乱暴にすぎる結論かもしれませんが、この世に生きている時間は限られ、この世にあるものは、すべていずれ滅びる。だからこそ、目に見えている世界「だけ」に生きているのではなくて、その「向こう」にある世界に思いを致すことが重要になるのです。
★一枚の絵を見て、ああきれい、ああすてき、ああかわいい、で終わり、じゃなくて、その絵を描いた人の思い、心、感性、あるいは理性、あるいは肉体、あるいは人生経験、そうしたものに思いを馳せない人がいるでしょうか。それらすべては、絵をみているその時には「見えていない」ものです。
★絵を見て、その絵のことを思い出しながら、家路をいそぐ人、音楽を聴いて、その音楽を頭に響かせながら電車に揺られる人、かれらは、「もう見えない絵」「もう聞こえない音」を確かに「見ている」「聞いている」のです。
★絵も音楽も、みな「無常」です。音楽などは、聞いているそばから消えていきます。絵もいつでも存在するわけではありません。いずれは消えてしまいます。みんなそうした「現実」を抱えている。その「無常という現実」を意識しないでいることは、実際にはあり得ないことなのです。その「現実」をいつも意識しているからこそ、「現実」が愛おしくなる。それが仏への、神への道のように、ぼくには思えます。

 

 

 

 

 

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