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日本近代文学の森へ 270 志賀直哉『暗夜行路』 157  「別居」へ  「後篇第四 十」 その2

2024-10-09 11:39:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 270 志賀直哉『暗夜行路』 157  「別居」へ  「後篇第四 十」 その2

2024.10.9


 

 直子は、どうしたら謙作に「ほんとうに赦してもらえるのか」を考えているのだと言う。謙作が、口では「お前を憎んでいない。赦している。」と言いながら、ぜんぜん行動が伴わないばかりか、走り出した電車から突き落とすなどというとんでもないことをしたのだから、もっと謙作を非難してもいいはずなのに、そんなことを考えていると言うのだ。
その直子に対して、謙作は、意外なことを言い出す。


 「お前は実家(さと)に帰りたいとは思わないか」
 「そんな事。またどうして貴方はそんな事を仰有るの?」
 「いや。ただお前が先に希望がないような事をいうから訊(き)いて見ただけだが……とにかく、お前が今日位はっきり物をいってくれるのは非常にいい。お前が変に意固地な態度を示しているので、此方(こっち)から話し出す事が今まで出来なかった」
 「それはいいけれど、私の申上げる事、どう?」
 「お前のいう意味はよく分る。しかし俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。お前は憎んだ上に赦してくれというが、憎んでいないものを今更憎むわけには行かないじゃないか」
 「……貴方は何時(いつ)でもきっと、そう仰有る」
 直子は怨めしそうに謙作の眼を見詰めていた。


 いきなり「実家(さと)へ帰りたいとは思わないか」というのは、唐突すぎる。直子はどうしたら赦してもらえるのかと考えているところなのだ。話がみえない。だから直子もびっくりする。それに対して、謙作は、聞いてみただけだと言葉を濁してから、直子がはっきり物を言ってくれるのは「非常にいい」と、実に「上から目線」の言葉を発する。

 なにが「非常にいい」だ! その前に、まず謝れ! って今の、朝ドラの視聴者ならSNSに書き込むことだろう。ふざけるな謙作! 消えろ! とかね。

 しかし、こういう時代だったのだ。謙作がまずは素直に謝ることが肝要なのに、自分が謝れなかったことを、直子の「意固地な態度」のせいにする。くどいようだが、謙作は、あの事件について、一度も直子に謝ってないのだ。時代とはいえ、ひどい。

 そのうえ、謙作は、屁理屈を並べる。「憎んでいないものを今更憎むわけには行かない」なんて、ただの言葉遊びでしかない。「俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。」というのがその理屈の根拠になっているのだが、どうしてそこまで「自分」が信じられるのだろうか。

 おそらく謙作は、「自分」の心の闇を覗くのが怖いのだ。「自分」というものに疑いを持つことができないのだ。それは、「自分」はどこまでも、「立派な自分」でなければならない、あるいは、そういう自分でありたいと強く願って生きてきたのだ。だから、今回のような、直子の過ちが、自分にどんな衝撃を与えようとも、「そんなこと」で、妻を「憎む」というような浅はかな「自分」ではありたくない。そんな「自分」は、許せない。そういうことではなかろうか。

 直子の「貴方は何時でもきっと、そう仰有る」という言葉からも分かるように、謙作は、いつでもそうして「立派」であるべき「自分」を守ってきたのだ。

 直子に怒って、直子を殴り、悪罵を浴びせかけ、徹底的に糾弾するといった「自分」はありえない。「自分」はそんなありきたりの男じゃないんだという矜持。

 しかし、謙作も、考えてはいるのだ。しかし、その「考える」方向がなんか違う。

 

 謙作はそれは直子のいうように実際もう一度考えて見る必要があるかも知れないと思った。
 「それにしてもこの間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ。とにかく、俺たちの生活がいけないよ。そしていけなくなった原因には前の事があるかも知れないが、生活がいけなくなってから起る事がらを一々前の事まで持って行って考えるのは、それはやはり本統とは思えない」


 「この間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ」と謙作は言うのだが、「迷惑」とはどういうことなのか。オレはお前のことを憎んでいないし、赦している。電車から突き落としたのは、癇癪の発作にすぎないんだから、その原因がお前の過ちにあるとお前が解釈するのは、オレには「迷惑」なんだ、ということだろうが、なんていう勝手な言い草だろう。「迷惑」だろうがなんだろうが、直子にはそうとしか思えないんだし、端からみても(たとえばお栄から見ても)そうとしか考えられないんだから、直子のそういう解釈を「迷惑」だといって非難する筋合いではないのだ。

 だから直子はこう反論する。


 「私は直ぐ、そうなるの。僻み根性かも知れないけど。それともう一つは貴方はお忘れになったかも知れませんが、蝮(まむし)のお政(まさ)とかいう人を御覧になった話ね。あの時、貴方がいっていらした事が、今、大変気になって来たの」
 「どんな事」
 「懺悔という事は結局一遍こっきりのものだ、それで罪が消えた気になっている人間よりは懺悔せず一人苦んで、張(はり)のある気持でいる人間の方がどれだけ気持がいいか分らない、とそう仰有ったわ。その時、何とかいう女義太夫だか芸者だかの事をいっていらした」
 「栄花(えいはな)か」
 「その他(ほか)あの時、まだ色々いっていらした。それが今になって、大変私につらく憶い出されるの。貴方はお考えでは大変寛大なんですけど、本統はそうでないんですもの。あの時にも何だか貴方があんまり執拗(しつこ)いような気がして恐しくなりましたわ」

 


 直子は自分のことを「僻み根性かもしれない」というが、そんなことはない。ごく普通の感覚だ。そして、直子は、かつて謙作が言っていたことを心に深く刻んでいたのだ。

 懺悔して赦された気になってのうのうと生きて行くより、一生罪を背負って生きて行くほうがえらい、みたいな話を謙作がしたことが、トゲのように直子の心にひっかかり、それが、今傷として膨らんできたのだ。その謙作の考え方、感じ方を自分に当てはめたとき、直子は慄然として、自分はあの栄花みたいに、一生罪を背負って生きていかねばこの人は認めてくれないんだろうかという恐怖を感じたのだ。そして、そういう謙作の心根を「執拗(しつこ)い」と表現した。

 この「執拗い」という言葉は、時としてとても強烈に響く。ぼくもなんどかこの言葉を投げつけられたが、そうとう腹が立ったものだ。まして謙作だ。

 


 謙作は聞いているうちに腹が立って来た。
 「もういい。実際お前のいう事は或る程度には本統だろう。しかし俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったように寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考え方だよ。同時に功利的な考え方かも知れない。そういう性質だから仕方がない。お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。何時だって俺はそうなのだから……。それにつけても生活をもう少し変えなければ駄目だと思う。もしかしたら暫く別居してもいいんだ」
 直子は一つ所を見詰めたまま考え込んでいた。そして二人は暫く黙った。
 「……別居というと大袈裟に聞こえるが」謙作はい<らか和らいだ気持で続けた。「半年ほど俺だけ何所(どこ)か山へでも行って静かにしてて見たい。医者にいわせれば神経衰弱かも知れないが、仮りに神経衰弱としても医者にかかって、どうかするのは厭だからね。半年というがあるいは三月(みつき)でもいいかも知れない。ちょっとした旅行程度にお前の方は考えてていい事なのだ」
 「それは少しも僻(ひが)まなくていい事なのね」
 「勿論そうだ」
 「本統に僻まなくていい事ね」直子はもう一度確めてから、「そんならいいわ」といった。
 「それでお互に気持も身体(からだ)も健康になって、また新しい生活が始められればこの上ない事だ。俺はきっとそうして見せる」
 「ええ」
 「俺の気持分ってるね」
 「ええ」
 「暫く別れているという事は、決して消極的な意味のものじゃないからね。それ、分ってるね」
 「ええ。よく分ってます」

 


 やっぱり怒った。そして開きなおる。「俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。」と。ここはほんとうに一貫している。とにかく「オレ一人」の問題だ。お前は関係ない。スーパーウルトラエゴイストなのだ。

 「お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所(そこ)へ落ちつくより仕方がないんだ。」というのは、謙作の、本質なのだろう。しかし、「其所(そこ)へ落ちつくより仕方がない」という「そこ」とはどこなのだろう。「寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば」が、「そこ」なのだろう。

 「考え」と「感情」の乖離。「考え」のほうは、きわめて近代的な「自分」の捉え方で、いわゆる「近代的自我」に関する「理想」である。しかし、「感情」のほうは、近代もなにも関係なく、「癇癪の発作」として暴走してしまう。そこをどう折り合いをつけて、調和させていくか、それが謙作の唯一の「問題」であり、そうである以上「オレ一人の問題」であるほかはない。

 そこにおいては、直子という「他者」を「認めない」ことになっても仕方がない。「他者」との「関係」において「自分」を形成していこうという発想は、謙作にはないのだ。

 なんの脈絡もなく発せられたかにみえて「実家(さと)に帰りたいとは思わないか」という謙作の言葉は、ここに至って、今はやりの言葉でいえば「回収」されたことになる。(「栄花」の話も、「回収」だね。)

 直子は「僻まなくていい事なのね」と何度も念を押す。つまりこの「別居」が、自分のせいであると考えなくてもいいのね、ということだ。謙作は、「勿論そうだ」と答えるが、直子もそこをもう疑うことができない。アホらしくて疑う気にもなれなかったのかもしれない。

 最後の「ええ。よく分かってます」にしても、謙作の思いへの心からの同意ではなくて、一種の諦めの言葉であろう。

 二人は別居することとなった。お栄は尾道でのことを持ち出して反対した。けれども、あのときは「仕事」で、今度は「精神修養」と「健康回復」が目的だからと説得した。

 

 「何処へ行く気なの?」
 「伯耆(ほうき)の大山(だいせん)へ行こうと思うんです。先年古市(ふるいち)の油屋で一緒になった鳥取の県会議員がしきりに自慢していた山だ。天台の霊場とかで、寺で泊めてくれるらしい。今の気持からいうとそういう寺なんかかえっていいかも知れない」

 

 お栄の問いにそう謙作は答えた。

 心に深く傷を負った直子をおいて、謙作は、「伯耆大山」に向かうというのである。勝手な話である。

 それなら、直子も、メンドクサイ謙作なんて捨てて、さっさと実家に戻ったほうがいいと思うのだが、直子はそうしない。謙作は、大山で、なんらかの心の解決を得て、直子は、この人についていこうと思うというのが、結末だったはずだが、ふたりの心の変化がどのように描かれるのか、心して読んでいきたい。ぼくは、謙作より、直子の心境の変化により興味を感じるのだが。

 

 

 

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