詩歌の森へ (16) 中原中也・憔悴
2018.10.5
憔悴
Pour tout homme, il vient une époque
où l'homme languit. ──Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
──Cathrine de Médicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁〈うれ〉はしい 平常〈いつも〉のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処〈そこ〉に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく
Ⅱ
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
Ⅲ
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
Ⅳ
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
Ⅴ
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂〈わら〉はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤〈もつと〉もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
さうしてこの怠惰の窗〈まど〉の中から
扇のかたちに食指をひろげ
青空を喫〈す〉ふ 閑〈ひま〉を嚥〈の〉む
蛙さながら水に泛〈うか〉んで
夜よるは夜よるとて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
Ⅵ
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑〈をくづ〉が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!
中也の詩には、こういう長いものが結構あって、それがまた魅力的だ。
冒頭のエピグラム(だっけ?)はフランス語で、最初の二行がことわざで、「誰でも疲れるときがくる」という意味らしい。次の一行は、カトリーヌ・ド・メディシスが語った言葉で、「まず喉の渇きを……」ということらしいが、ネット情報なので、確かなことは分からない。
別にこういうのはなくてもいいように思うのだが、あると、かっこいい。中也はランボーの詩を訳しているくらいだから、こういうのは得意だったのだろう。ぼくも、昔、詩を書いていたころ、こういうことしてみたかったけど、結局ダメだった。
「昔私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと けれどもいまでは恋愛を/」ゆめみるほかに能がない」とか、「あゝ それにしてもそれにしても/ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!」なんて、詩の表現というよりも、中也の肉声を聴く思いがする。
こうした自嘲的な表現は、人によっては、何を甘ったれたこと言ってやがるだ、という反発を生むだろう。もっと、前向きに生きていかなきゃダメじゃないかと腹立たしく思う人もいるだろう。
でも、エピグラムにあるように「誰でも疲れるときがくる」(ほんとにこの訳でいいのか?」)ことも確かだ。疲れはて、焦り、絶望し、もう何にも信じられない、何にもしたくないって思うことは、誰にだってある。そういうときに、「夜よるは夜よるとて星をみる/あゝ 空の奥、空の奥。」とか、「あゝ 空の歌、海の歌」とかいう詩句がふっと心に浮かんだら、ちょっと気分が軽くなるのではなかろうか。
詩にはそういう「効用」もある。
「だった」とか、「…せぬ」とかいった、いわゆる「常体」を使ってきたところへ、最後の連になって、「懐疑の小屑が一杯です。」「生き生きしもするのですが」「おもふのですが」という「敬体」表現が出て来る。そこに肉声が感じられるわけだが、こうした方法は、たぶん、宮沢賢治からの影響だろう。中也はまだ無名の(というか死ぬまで無名に等しかった)賢治の詩を愛読していたことはよく知られている。(この方法は、朔太郎もよく使っている。)
それはそれとして、最後の3行のなんという素晴らしさ。
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!
「ぼくは美の核心をしっている」なんて!
「美の核心」は、「知って」いても、言葉にはならないだろう。「知った」と思った瞬間に、手のひらからこぼれ落ちていってしまう。そんな瞬間が、ぼくらにはなんども、なんども、ある。
「美」は、「きれい」ということではまったくない。そんなこととはまるで関係がない。「美」は、生命そのものの輝きであり、生きる意味そのものだ。「美の核心」を「知った」まではいかなくても、「触れた」と感じたとき、ぼくらは、生きていることの意味と喜びを知るのだ。
中也の人生は、みじめなものだったと思われている。親友の小林秀雄に恋人を奪われ、その小林は、中也が死んだとき、「中也はドブネズミのように死んだ」と書いた。たとえ親愛の情をこめたにせよ、かつての親友にかける言葉ではない。
けれども、中也の人生が「みじめ」だったかどうかなど、他人には所詮分からないことだ。彼は懸命に生き、そして「美の核心」を知りながら、嘆きのうちに死んでいった。そして、多くの愛すべき詩を残した。どこが「みじめ」だろうか。
こうした中也の長い詩を、教師になって二年目に扱ったことがある。その授業のことは今でも忘れられない。授業に関するエッセイを依頼されたとき、『詩の授業』と題して、こんな文章を書いたことがある。興味があるかたは、どうぞお読みください。
『高校生と近代詩』高校通信・東書・国語・262号 (1986.5.1発行)