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スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

フィンランドの銃乱射事件(2)

2008-09-26 07:05:02 | コラム
再び起きたフィンランドの銃乱射事件だが、ネット上での犯行示唆や言動、そして現場での行動など、一年前に起きたヨケラ中高校での無差別殺人事件との類似性が指摘されてきた。しかし、新たな疑いが浮かび上がってきた。前回の事件の犯人と、今回の事件の犯人は接触を持った可能性が高いというのである。おそらくインターネットを介した接触だったと見られている。


また、前回の事件の犯人は、事件が起きたヨケラという町にある武器販売店で購入した拳銃を用いたことが明らかになっているが、なんと今回の犯人が犯行に用いた拳銃も、ヨケラの同じ武器販売店で購入された可能性が濃厚だという。ただし、今回の現場であるカウハヨキはフィンランドの西岸に近く、ヘルシンキに近いヨケラからはかなり離れている。なので、今回の犯人はわざわざその町へ行って、拳銃を購入したようなのである。このことからも、二人の以前からの接触の疑いが強くなっている。

昨年の11月に起きたヨケラ中高校での無差別殺人事件は、フィンランド全体を震撼させた。おそらく今回の犯人の耳にも入っていたに違いない。それから1年近く、彼は何を考えて生きてきたのだろうか? ヨケラで事件を起こし、最後に自らの命を絶った彼を英雄視していたのであろうか? それから1年の間に、人生に希望を与えてくれる何かに出会うことはできなかったのだろうか? 社会は救いの手を差し伸べることはできなかったのだろうか?

事件が起きたのは今週の火曜日だったが、実は先週の木曜日に、彼が今回の事件の現場となる職業専門学校の前で、ろうそくに火を灯す姿が目撃されていたという。お墓参りのときに墓石の前に灯すろうそくだったという。恐怖を感じた学生が警察に通報している。また、犯人は同じく先週の段階で、ネット上のYoutubeに犯行を示唆する映像をアップロードしていた。そのため、警察は彼に事情聴取を行っていた。しかし、ろうそくの件に関しては、彼は否認したという。また、既に書いたように、銃所有のライセンスを取り上げるほどの危険は感じられない、と判断されてしまった。

犠牲者は10人にのぼる。このうちの多くは同じ教室で筆記試験の最中だった。1人は51歳の男性教員。彼が教室に入ってくるのを最後まで阻もうとした。その他の犠牲者は学生だった。床に伏せているところを撃たれた者が多かったという。8人が女子生徒、1人が男子生徒だった。この男子生徒は、犯人の一番の友達だったという。その他の犠牲者も、彼がよく知っていた人だったらしい。その後、彼は可燃性のある液体をまき、火を放ったという。

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事件以来、スウェーデンでもメディアで大きく取りあげられている。本国フィンランドでの捜査の展開や、事件に対する社会的な議論の様子が報告されている。と同時に、スウェーデンで発生してもおかしくない事件と捉えて、いかにしたら、犯行を未然に防ぐことができるかが議論されている。スウェーデン警察の中でもIT課がネット上の監視に力を入れつつあることが報告されている。また、どのようにしたら危険ゾーンにある若者を事前に見つけて、救いの手を差し伸べることができるか、についても議論されている。

厳罰によって、この手の犯罪を防ぐべき、というような話は聞かれない。また、この手の事件があると、日本ではよく「自殺したいのなら他人を巻き込まず、一人ですればいい」というような冷めた声がコメントとして聞かれるが、私はあまりに他人事すぎる無心な意見だと思う。無差別殺人も自殺も、大きな悲劇である。まさか自分が、いつか将来を悲観して自殺願望を抱いたり、自暴自棄になって殺人鬼になったりするはずがない、と思っている人でも、長い人生の中でもしかしたら道を踏み外し、そのような予備軍になることだってあるかもしれない。自分でなくとも、自分の子供がそういう状況に陥るかもしれない。そんなときに、唯一の救いになるのは、周りの人間であったり、市やNPO、各種団体などの社会サービス(例えば、心理カウンセラー、電話相談窓口)などであると思う。だから、全くの他人事だとは考えず、不幸にもそういう心理状態に陥ってしまった人が、少しでも救いの道を見つけられるように、私たち社会としてセーフティーネットを張るように努力すべきだと思う。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2008-09-27 22:45:29
最後の段落ですが

日本でも、この手の事件の場合は
厳罰化議論はまったくありません。
実際、秋葉原事件のとき、そういった議論は
ありませんでした。それ以前でも、聞いたことないです。

厳罰化は、ひったくり、窃盗、強盗といった
犯罪についてなら、よく聞きますけども。
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Unknown (疾風)
2008-10-01 23:17:17
日本の場合はこういうことすれば死刑が確実なので、厳罰化の議論はしようがないんですよ。

一般的に、大量殺人をする人は先天的な、もしくは人格形成上の問題があるんじゃないでしょうか。普通の人が自分の問題として考えないのは健全ですね。

なんでも社会に転嫁するのは社会主義国スウェーデンらしいと思いました。
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Unknown (Yoshi)
2008-10-02 00:46:59
>一般的に、大量殺人をする人は先天的な、
>もしくは人格形成上の問題があるんじゃ
>ないでしょうか。

先天的だとは、私は全く思いませんね。むしろ、人格形成に失敗したか、自分の置かれた状況に悲観し自暴自棄になった、というケースが多いのではないかと思います。

先天的などといった視点に立てば、もともとダメな人間がいて、彼らが悪いことをするから、社会から排除すべき、と死刑を容認する意見も分かるような気がしますが、そもそもそのような見方は私はしていません。また、人格形成が問題である場合も、その人間ただ一人の問題ではなく、家族や学校環境を含めた幅広い視点で見るべきだと考えています。

>普通の人が自分の問題として考えないのは
>健全ですね。

これは全く「勝ち組」の意見ですね。社会の中の格差が広がるにつれて、そのような見方が日本でますます強まっていくのではないかと、私は危惧しています。無論、そのような状態が健全だとは到底考えていません。他者に対する配慮を忘れていき、他者の立場に立ってものを考えることができなくなれば、社会はますます殺伐としていくのではないでしょうか。

>なんでも社会に転嫁するのは社会主義国
>スウェーデンらしいと思いました。

何を指して「なんでも」なのか分かりませんし、社会主義国うんぬんについては、レッテル貼りを目的とした適当な表現ですね。
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10万分の一 (Unknown)
2008-10-13 02:11:53
>自分の置かれた状況に悲観し自暴自棄になった、というケースが多いのではないかと思います。
秋葉原の事件はコレでしょうね。
十年間連続で年間3万人以上の自殺者が出ているわけだから、10万分の1くらいのオーダーで事件を起こすとすればそんなに大きな数値ではないと思います。

>普通の人が自分の問題として考えないのは健全ですね。
事件を起こすたびに言われること。
「犯人は他人の痛みの分からない人間だった。」

「普通の人が自分の問題として考えないのは健全ですね。」と、「他人の痛みが分からないで当然!」と言い切ることは、非常に恐い思想だと思います。
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Unknown (Yoshi)
2008-10-13 07:20:32
コメント拝見しました。ありがとうございます。

年間3万人以上の自殺者、と改めて考えると、そんなに多くの人々が自ら命を絶っているのか、と衝撃を受けます。

社会としてできることはもっとあるように私は思います。
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正気と狂気 (里の猫)
2008-10-13 19:44:31
「普通の人が自分の問題として考えないのは健全ですね。」「他人の痛みが分からないで当然!」
こういう考えがまかり通っているのは恐いですね。
以前(2003年)日本人同士で作っている小冊子「大鹿」に読後感を書いたものがあるので、ちょっと長くなるりますが引用します。

最近人に薦められて村上春樹の「アンダーグラウンド」という本を読んだ。地下鉄サリン事件で被害に会った人たちにインタビューしてまとめた本だ。700ページを一気に読んだが、読みながら春樹はなぜ被害者の再現にこのように労力を使ったのだろうという疑問は残った。そして最後の章「目印のない悪夢」に至って、凄く感心した。それまでニュートラルに語っていた彼が、初めて自分の考え、なぜこの本を書いたのかを、実にはっきりと書いている。若者がこの人を崇拝する気持ちも分かるような気がした。

彼の意見はこうだ。1995年3月20日、あの事件が起きた時、ジャーナリストを先頭に、正常に生きてきた普通の人たちは、ひとつの明白な構造を作り上げた。それはこちら側と向こう側の世界、という単純なものだった。『要するに、正義と悪、正気と狂気、健常と奇形の明白な対立』であり、『人々は多かれ少なかれ、「正義」「正気」「健常」という大きな乗り合い馬車に乗り込んだ…つまり麻原やオウム真理教信者に比べれば、また彼らがなした行為に比べれば、世間の絶対多数の人は間違いなく「正義」であり「正気」であり「健常」だったということだ。これくらい分かりやすいコンセンサス(意見の一致)はない。』正気の馬車に乗った人々は安全な場所から狂気の世界を見て「ヤツ等はなんとヒドイことをするのか」となじった。
 しかし村上春樹はこの構造に対して、疑問を抱く。そして次のように言う。『私たちはこちら側で狂気を排除するために、一種の完成された正義の世界を作る。それは完璧な構造を持っていて、欠点は全然見当たらないし、狂気から私たちを守ってくれるように見える。しかし、観点を変えて見ると、狂気の側に立った人も、同じように正気の世界(彼等の多くにとっては、その世界は矛盾に満ちた、汚い世界なのだ)から抜け出して、麻原の元で、自分達の理論による「まとも」な「整然とした」世界を作り上げたのだ。そして、私たちがしているのと同様に、対立している世界を排除したのだ。』
 しかし良く考えてみると、この二つの世界は合わせ鏡の形で相対しあっている。『もちろん一つの鏡の中の像はひどくゆがんでいる。凸と凹が入れ替わり、正と負が入れ替わり、光と陰が入れ替わっている。しかしその暗さと歪みをいったん取り去ってしまえば、そこに映し出されている二つの像は相似したところがあり、いくつかの部分で呼応しあっているようにさえ見える。』考えてみると、この「正気」と「狂気」の世界は恐ろしいほど近接して存在しているのだ。そして、いつ向こう側とこちら側がひっくり返るか分からないほど、似通った面もあるのだ。

 9月11日のニューヨーク・テロ以来、世界中の人々は(いや、世界中の政治家と言ったほうが当たっているかもしれない)国連も含めて、この乗り合いバスに乗ってしまい、「狂気の輩」をバスの外に追いやり、一息ついた。そしてアフガニスタン、そしてイラク。ジョージ・ブッシュという運転手に運転を任せて。始めは全く安全だったはずのこのバスは、いつ狂気の世界に向かってハンドルを切るのだろう。人々は無意識にバスから降りたがっているのではないだろうか。私たちはどのような世界に下りようとしているのだろうか。全く「目印のない悪夢」だ。
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Unknown (Yoshi)
2008-10-14 09:01:14
面白い記事を掲載してくださり、ありがとうございます。

この本のスウェーデン語版が出版されたときに、スウェーデンの新聞の書評欄でも取り上げられていたので、それらに目を通しながら、読んでみたいな、と思っていました。でも、この記事を読んでみて、ますますアンダーグランドを読んでみたくなりました。

善と悪の二項対立で、物事を片付けようとする見方の問題点は、全くご指摘のとおりだと思います。そして、アメリカの「テロとの戦い」にしても、「悪い者(テロリスト)を排除すれば問題が解決する」というあまりに単純な思考がまかり通っていると私も思ってきました。

戦争による悲劇やアメリカの統治政策が、むしろ新たなテロリストを次々と作り出している、という点に目を伏せてきたおかげで、アメリカは今や泥沼状態ですね。日本の協力している「テロとの戦い」も、本当のところ何と戦っているのでしょうか。(インド洋でしたっけ?)


>考えてみると、この「正気」と「狂気」の
>世界は恐ろしいほど近接して存在しているのだ。

おそらく毎年3万人いるという自殺者も、自暴自棄に陥って惨事を引き起こした人々も、自分は「正気」もしくは「善」の側にいるんだ、と自覚していた時期もあったのだと思います。他人の心の痛みが生まれつき分からない人間がいるとも思えません。それなのに、それがどこかで歯車が絡まって、おかしくなってしまって・・・。

だから、この2つの世界は恐ろしく近接しているのだ、という認識は、様々な社会問題を考える上で、忘れてはならない視点だと思います。
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