伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

花の都パリでのオリンピック2024◆開会式、異様に感じたパリの文化、今後この様な世界に変わるのか・・・ホモサピエンスは何処を目指すのか・・・?

2024年08月07日 | J.S.バッハ関係

暑き夏に炎天下での仕事を連続したが、流石バテバテである・・・食欲も減退し、体調は最悪であった。
水分補給は充分したので熱中症は免れたがこの炎天下での作業は地獄の如きでもある。既に8月になり夕暮れは早くなっていた。我が家のモジャ君も暑そうなので早めにカットしてサッパリした、カット後は何故か不機嫌で椅子に座らせ落ち着くを待った5〜6分後に落ち着いた様であった。



オリンピック開催中だが日本選手も競技を楽しんでいる様だが、パリも相当暑く選手村の宿泊施設でもエアコンも無く体調管理は大変であろう、浴室トイレ事情も悪く出場選手は不満が多いそうである、上記の写真の男子トイレは最悪で4人同時に排泄可能なトイレもあり、昔から伝統の様に紹介する中世の排泄物の処理の方法を記事で見た事はあるが、実に非文化の極みではないのであろうか?昔から美食家が多くレストランも最高級を誇るフランスそれもパリにおいての醜態は驚く事係である。
アスリート達の食事はビーガン食であり、肉・魚介類はもちろん、卵や乳製品、蜂蜜など動物性食品を一切口にすることがない人を指します。 また食事面だけでなく、毛皮やレザー、ウール製品は身につけない、動物実験された日用品を使わないといった生活スタイルを選択。

これが最後の晩餐である、常識も宗教も何処に行ったのであろうか?これがフランスの文化なのであろうか?エログロとしか思えない絵柄でもある。



日本では昔から花の都パリ、等憧れの町パリではあるが、セーヌ川の水質悪化を受け競技が延期されていたトライアスロンが行われるとされるが、ゴミはセーヌ川に捨てられヨーロッパで最も有名な川の一つとして観光スポットにもなっている一方で、訪れた人をガッカリさせるほど“汚い”ことでも有名だ。日本で汚い川の代表として例にあげられることもある、大阪・道頓堀川の4倍もの大腸菌が検出されたとの報道もあり、セーヌ川は1923年より水質汚染による健康被害を理由にして遊泳が禁止されている。
オリンピックの取材でパリに滞在していて意外に困るのが、トイレです。日本のように、地下鉄や鉄道の駅に必ず設置されているわけではないし、気軽にトイレを借りられるコンビニがあるわけでもありません。

日本の銭湯や温泉での入浴に気恥ずかしさを覚える外国人がいるように、羞恥心の感じ方は千差万別。パリの仮設トイレも、見方を変えれば「開放感抜群」と言えないこともありません。体が求める生理現象に、我慢は禁物ですね!
パリ五輪選手村の食堂を巡り、各国選手団から「肉が足りない」といった不満が相次いでいる。大会組織委員会は「地球にやさしく健康的なメニュー」を誇ってきたが、29日には「700キロの卵や肉を投入し、動物性タンパク質を増強する」と発表し、計画を一部修正した。



衝撃なパリ五輪開会式「マリー・アントワネット生首演出」のコンシエルジュリーで「国王一家に実際に行われたこと」日本では深夜に行われた開会式をめぐっては、インターネット上に関連ワードがさまざまトレンド入りした。中でも、フランス国王ルイ16世の妻で、フランス革命で斬首となった王妃マリー・アントワネットを想像させるドレス姿の女性が「生首」を手にして歌う演出には、賛否両論、驚愕(きょうがく)のコメントが相次ぎ「マリー・アントワネット」も、トレンド入りした。



決定的な絵柄はパリオリンピック開会式に登場したダンサー男性、股間に⚫︎⚫︎タマらしきものが映り込み物議を醸す、果たして⚫︎⚫︎タマなのかどうかが世界中で大論争に、テレビ観戦はしたが文化に違いに筆者などは呆れて物も言えないオリンピックの開催が相応しいのであろうか、疑問だけ残る開催である。
この様なゲテモノ趣味様な催しは教育上にも万台ではないであろう?

冷静に判断すればこの様な式典は如何にも狂っているとしか思えない、しかし競技にも審判団のミスも多く支那のIOC基金が多いのであろうか?台湾選手へのボイコットが多く此れが平和の祭典であろうか疑わしい限りである。

狂喜乱舞のパリオリンピックはパリの都とは思えないフランスの醜態を晒す様である。このクソ暑い時期に何かいけない物を見た感じで、具合が悪くなった!



相変わらず今年も実に暑いが、この様な時は頭の回転を平常に戻すことが肝要であり、この様な状況においてはJ.S.バッハの音楽が実に心地良いとも感じる。
上記写真は現在のアイゼナハの町 である。

昨日は広島平和記念日でした広島市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、当時連合国のアメリカ合衆国ハリー・S・トルーマンの命令で、枢軸国の日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。 その後日本は敗戦国になり同じ様な運命を味わうドイツも国を二分化された忌まわしい戦争である。



ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から再統一に至った1990年10月3日1990年10月3日 午前零時 ドイツ国歌が演奏される中、ベルリンの帝国議会議事堂の前に黒赤金のドイツ国旗が掲揚されました。ベルリン市街では数十万人が祝い、ドイツの各都市でもドイツ再統一を祝いました。東西統一から30年を迎えたドイツ。国民を分断していた「ベルリンの壁」は無くなったが、東西の格差は今なお残る。世論調査では、統一がおおむね成功したと答えたのは半数に満たず、双方の住民が抱く「心の壁」は消えていない。だが、統一は対等な国家統合ではなく、社会主義体制が行き詰まった東独を西独に編入する「吸収合併」だった。東独の民営化された国営企業の多くは倒産や売却を余儀なくされ、大量の失業者を生み出した。政府は「連帯税」を財源にインフラ投資などを進めてきたが、旧東独の経済状況は追い付いていない。調査機関フォルザの世論調査によると、統一がおおむね成功したと考えるのはドイツ全体で47%、旧東独地域に限れば25%しかない。モドロウ氏は「形の上では統一されたが、実際には分断されたまま。政府は真に公平な未来のドイツの姿を示すべきだ」と訴える。



以下の様な解説もありぜひ一読されたい。

今思えば当時東ドイツでの演奏家の演奏はヘルムート・コッホ式いるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、250年を超える歴史を誇る由緒あるオーケストラである。その発祥は、ライプツィヒの商人たちが資金を出し合って発足させたコンサート愛好会に遡る。この愛好会が、音楽界の歴史を作り、世界でも最も有名で、かつ高い名声を誇るオーケストラを育ててきた。歴代のゲヴァントハウス・カペルマイスターは、フェリークス・メンデルスゾーン、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、フランツ・コンヴィチュニー、そしてクルト・マズアらが務めてきた。彼らはいずれも、比類ない音楽的言語を持つこのオーケストラに、確かな足跡を遺してきた。その伝統をヘルベルト・ブロムシュテットが21世紀に引き継いだ。彼の後継に任命されたリッカルド・シャイーは、伝統と革新の体現者であり、実に35年振りに、ゲヴァントハウス・カペルマイスターと、ライプツィヒ・オペラの音楽監督(2008年まで在任)の両方を務める指揮者となった。

ゲヴァントハウス・オーケストラは、地元ライプツィヒだけで、1シーズンに70近くもの『グランド・コンサート』を行っている。200年以上もの間、彼らはライプツィヒ・オペラの歌劇場付きのオーケストラとして演奏し、また、毎週行われる聖トーマス教会でのJ.S.バッハのカンタータ演奏会も行い、さらに1シーズンに35以上の客演を世界各地で行ってきた。また、数え切れないほどの録音も行っている。ライプツィヒ、その町の名が広く知られているのは、ゲヴァントハウス・オーケストラの様々な活動と、世界で最も古い歴史を誇る、商人階級の人々によって創設されたオーケストラ、という事実によるところが大きい。
実際、1743年3月、ライプツィヒの16人の商人たちが集会を開き、コンサート愛好会の発足を決め、『グランド・コンサート』の名のもとに僅か16人の楽員で産声をあげたとき、ゲヴァントハウスが成し遂げた今日までのサクセス・ストーリーを予測したものはいなかった。



ブランデンブルク協奏曲は、コンチェルト・グロッソ、イタリアのソナタ・ダ・キエザ、フランスの序曲の要素を取り入れたとも言われ、音楽形式の発展における大きな転機となった作品です。バッハの最も影響力のある作品として広く知られており、バロック音楽のレパートリーの中で最も愛されている曲のひとつです。ブランデンブルク協奏曲は弦楽器、木管楽器、金管楽器、鍵盤楽器など、さまざまな楽器のために作曲されています。各協奏曲は3楽章からなり、楽章は伝統的な「速い-遅い-速い」のパターンで並んでいます。

聴けば分かるが,まるで音楽の玉手箱を開けた様な感じに陥る、60年前の演奏には思えなく実に簡素な演奏でありメンバーも相当吟味しこの様な演奏が今に蘇るとこは大変な喜びでもありバッハファンとしても大歓迎である。


収録内容
構成数 | 2枚エディション | Remaster
【曲目】
J.S.バッハ:
<DISC1>
 1. ブランデンブルク協奏曲 第1番 ヘ長調 BWV 1046
 2. ブランデンブルク協奏曲 第2番 ヘ長調 BWV 1047
 3. ブランデンブルク協奏曲 第3番 ト長調 BWV 1048
<DISC2>
 4. ブランデンブルク協奏曲 第4番 ト長調 BWV 1049
 5. ブランデンブルク協奏曲 第5番 ニ長調 BWV 1050
 6. ブランデンブルク協奏曲 第6番 変ロ長調 BWV 1051

【演奏】
 カール・ズスケ(ヴァイオリン<BWV1047-1049>、ヴィオラ<BWV1051>)
 ゲルハルト・ボッセ(ヴァイオリン)<BWV1048&1050>
 フランツ・ゲンツェル(ヴィオリーノ・ピッコロ)<BWV1046>
 エヴァ・ケストナー<BWV1049>、テクラ・ヴァルトバウアー<BWV1047&1049> (ブロックフレーテ)
 ハインツ・ヘルチュ(フルート)<BWV1050>
 フリッツ・フンガー、ハンスールドヴィヒ・モーヒェン、ペーター・フィッシャー(オーボエ)<BWV1046>
 ヴェルナー・ゼルトマン(ファゴット)<BWV1046>
 ヘルマン・マーカー、ヴァルデマール・シーバー(ホルン)<BWV1046>
 ヴィリー・クルーク(トランペット)<BWV1047>
 ハンス・ピシュナー(チェンバロ)<BWV1050>、他
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ管弦楽団
 ヘルムート・コッホ指揮

【録音】
 1963年4月29日 & 5月10-12日
 ベタニア教会、ライプツィヒ



ヨハン・カール・ズスケ(Johann Karl Suske)ヴァイオリニスト。1934年ベルリン生まれ。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席コンサートマスター、ゲルハルト・ボッセに師事。同楽団の次席に就任。同時にゲヴァントハウスQの第2ヴァイオリンとなる。62年指揮者コンヴィチュニーの推薦で、ベルリン国立歌劇場管の首席コンサートマスターとなり、65年にズスケQ(後のベルリンSQ)を結成。77年にゲヴァントハウスに復帰してボッセに代わって首席に就き、四重奏団も引き継いだ。



ハンス・ピシュナー(Hans Pischner)は、ドイツ出身のチェンバロ奏者及びインテンダント。 ブレスラウの生まれ。102歳の長寿であり、ブロニスワフ・フォン・ポズニャクにピアノ、ゲルトルート・ヴェルトハイムにチェンバロを学び、シレジア・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学で音楽学を修めた。以前筆者のブログにも取り上げました。
当時は使用楽器はモダンチェンバロでの演奏で若干鈍重な鳴り方ではあるが世界的な知名度やレコードの売り上げはそれほどないようですが、実際には相当な実力派です、曲にしっかりと向き合いながらも音楽が感じられるという意味で蓋し名演でしょう。

本題のブランデンブルク協奏曲は当時のブランデンブルク選帝侯であるクリスティアン・ルートヴィヒに献呈したと言われるブランデンブルク協奏曲、まるで万華鏡のように色鮮やか!個性あふれる6曲からなる協奏曲はバッハの魔法の作曲集の様でもある。今回の演奏はまるで正調ブランデンブルク協奏曲と言える様な作品でもある。

1962年、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者フランツ・コンヴィチュニーは、第1コンサートマスターのゲルハルト・ボッセをリーダーとするトップ奏者を集め、バッハを演奏する小編成のオーケストラを組織した。そして翌年1963年にアナログ・ステレオ録音され、旧東ドイツでのみLPで発売された幻の名盤が世界初SACD化(CD化も初)された。ライプツィヒはバッハが楽長として赴任した最後の地で、19世紀にバッハ作品が人気を失った時代にも、その演奏伝統は脈々と受け継がれてきた。戦後、西側では各地の演奏様式が混合し、グローバル化が進んだが、東独は文化的に言わば鎖国状態にあり、ライプツィヒでの蒼古な音色による感情豊かなバッハ演奏が守られたのである。しっとりと落ち着いた響きと清廉なアンサンブル、あくせくしない格調の高さ。こうしたバッハは現代では耳にし得なくなっただけに、極めて貴重な復刻と言えるだろう。
確かにカール・ズスケを初め往年の名演技者の演奏は実にお見事でもありBWV1050の演奏はもちろんハンス・ピシュナー(チェンバロ)の演奏が良く光る。



実に整然と演奏するJ.S.バッハの演奏である、昔から聴く ブランデンブルク協奏曲 を今回改めて聴き直しバッハの音楽の深さを感じる次第でもあった。因みに拙宅で使用する装置で塩梅良く鳴る音楽は実に好ましいTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetでの視聴には正にピッタリハマる音量と思える演奏でもある。
ヘルムート・コッホ指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ管弦楽団のJ.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲を聴くうちに徐々に平常心に戻る様でもあった。良い音楽は精神安定剤でもある、ブラボー!