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伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

「喜寿」は室町時代末期に日本で生まれた習わしであるといわれるが、77歳間近の歳になった過ごし方。

2024年05月09日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


今朝も早朝から愛犬モジャ君との散歩です、今日はコースを梨畑とコースを変えてみた早朝5時30分ではあるが、この時間から消毒の散布する作業車を動かしていた、農園の方に声を掛け写真撮影の許可を頂き今年の梨の赤ちゃんを撮った、暫くして余分な実は摘果するのであろう・・・今年も美味しい梨に期待する。

引退生活も長くなり、あまりこれと言う趣味も持たず、毎日はBGM的に好きな音楽を流し、粗毎日同様な定期的な生活を送っているが、会社員の頃との違いは早朝から愛犬と散歩しシャワーを浴び朝食代わりに淹れたての珈琲を頂き夜は早めに休む生活のリズムが夜型から昼間型に変わった、PCのスイッチを起動しメールチェックしながら近くの市の図書館で借りた歴史書見ながら、不明事項にはインターネット検索し、改めて思うは筆者が学生時代に習った歴史書は古い時代も程正しい歴史と違い驚くやらこれは違った意味に置いて、責めて日本史程度はもう一度見直す価値はありそうである。


最近珈琲豆の在庫も減ったので美味しかった豆を選び4種類ほどの追加注文品が届くので早速新しい豆を使用し珈琲を淹れる。
頻度は2ヶ月に一度程の周期ではあるが、夏場はかなり需要は減る様である。最近購入毎に根が上がるのは早いペースでもある。



今日はエディット・ピヒト=アクセンフェルト( Edith Picht-Axenfeld)のバッハを聴きながら過ごした。

フライブルク大学眼科学の教授であり眼科臨床医の世界的権威テオドール・アクセンフェルトの娘として1914年、フライブルクで生まれた。5歳でピアノの演奏を始め、卒業試験後は当時バーゼルにいたルドルフ・ゼルキンにピアノを、ヴォルフガング・アウラー、アルベルト・シュヴァイツァーのもとでオルガンを学んだ。世界的なピアニスト、チェンバリストとして活躍。オーレル・ニコレ、ハインツ・ホリガー、フィッシャー・ディースカウ、ヘンリク・シェリング、ローター・コッホらとの共演やレコーディングなども数多い。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[24] 第1番 ハ長調 BWV846~第12番 ヘ短調 BWV857
      [1]-[24] 第13番 嬰ヘ長調 BWV858~第24番 ロ短調 BWV869

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[26] 第1番 ハ長調 BWV870~第13番 嬰ヘ長調 BWV882
      [1]-[22] 第14番 嬰ヘ短調 BWV883~第24番 ロ短調 BWV893

2001年、87歳で他界した偉大なピアノ、チェンバロ奏者であり、教育者としても20世紀の音楽界に大きな足跡を遺したエディット・ピヒト=アクセンフェルト。バッハの譜面のすみずみまで熟知したエキスパートである彼女が高度な技術でエレガントに奏でる比類のない音色は、どこまでも暖かく聴くものをやさしく包み込みます。
いかにも厳格な感じのピヒト=アクセンフェルトの演奏はいかにもJ.S.バッハらしい風格も備わった演奏が聴けると思う、またBGMとして聴くも心穏やかになる演奏は大変重宝します。
先日筆者所有のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetも若干改善の手入れをいた結果以前より落ち着きあるエディット・ピヒト=アクセンフェルトの演奏になった様である。確かに書類をまとめる作業にごく小さな音でのバッハの音楽は頭をスッキリさせる効果もある様にも思う。



先ずは縄文時代の歴史は随分当時とは違い、筆者の小学校高学年6年生時代今から約60年前の社会の教科書ではこの時期長く続いて縄文時代は1頁で終了1万年以上続く縄文の歴史が1頁とは情けないのである。
これは我々日本人が1万年以上生活した記録は弥生時代も含め精々2,500〜3,000年しか経過していないのである。この現実を想像する事により日本の歴史は大変に長いのである。
勿論隣国支那に黄河流域には文明が栄えたが、支那の書物には日本の記載は昔からあり最初は三国志時代に「魏」について書かれた「魏書」の一部、「東夷伝」のさらに一部分、「倭人(わじん)」についての記述を指します。
「魏志倭人伝」に書かれているのは、三国志が書かれたのと同じ、3世紀の日本の様子です。「帯方郡 (たいほうぐん)」の海の向こうに倭人がいること、30の国に分かれていることが記されています。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。
魏志倭人伝日本の古代史を知るうえで貴重な資料
日本で漢字が広まり、文書として残されるようになったのは、4~5世紀のことといわれています。
魏志倭人伝が書かれた3世紀の日本では、まだ文字が普及していなかったと考えられており、当時の様子が分かる文書もまったく見つかっていません。
しかし、中国人が三国志に記述を残してくれたおかげで、3世紀の日本の様子が少しだけ明らかになりました。三国志は史実を述べているうえに、同じ時代を生きた人が書いたこともあり、研究に値する重要な資料といえます。
ただし、現存の三国志は何度も書き写されたもので、字の間違いも多く、すべてを信頼できるわけではありません。魏志倭人伝によって、その存在が分かった「卑弥呼」や「邪馬台国」についても、いまだに多くの謎が残されたままです。
「魏志倭人伝」には、古代日本の政治体制や人々の暮らし、魏との関係などが記録されています。それぞれ具体的に見ていきましょう。



邪馬台国の位置や政治「魏志倭人伝」には。邪馬台国への行き方や距離が書かれています。しかし、解釈の仕方によって位置が大きく変わってしまうため、現在も、邪馬台国がどこにあったのかは分かっていません。
邪馬台国は、もともと男性の王が治めていましたが、争乱が起こったため、卑弥呼という女性が王位に就き、国をまとめたとされています。
卑弥呼は不思議な力を持つ「巫女(みこ)」で、その力を発揮して人々の支持を集め、争いを収めたと記されています。

当時の日本人の生活や風習「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)が、魚や貝を好んで食べていたことや、馬やトラ、羊がいない代わりに、サルやキジがいたことなどが書かれています。
また、卑弥呼が住んでいた場所には、宮殿や物見やぐらがあり、その周囲を柵で厳重に囲われていました。卑弥呼が亡くなったときには、大きな墓が造られ、100人ほどの奴隷が「いけにえ」になったとも記されています。
当時の日本人の生活や風習がよく分かる内容といえるでしょう。
国内の争乱を収めるために、大国の力を借りようと考えた卑弥呼は、魏の皇帝に使者を送ります。
そのころ中国では、漢が弱体化して三国時代に突入したことで、それまで漢に朝貢していた周辺の国々が背を向け始めていました。
そのようなときに、傘下に加わりたいと、はるばるやってきた卑弥呼からの使者に、魏はたいそう喜びます。
皇帝は卑弥呼を支援することを決め、「親魏倭王 (しんぎわおう)」の称号や金印、銅鏡百枚などを与えたのです。
実際に邪馬台国が他の国と争いを始めたとき、卑弥呼の要請に応じて魏は支援を決めます。しかし、間もなく卑弥呼が亡くなったため、魏が動くことはありませんでした。
卑弥呼の死後、邪馬台国では男性の王が即位しますが、他国の反感を買い、日本(倭)は再び戦乱の世に逆戻りします。
女王の不思議な力がなければ国を治められないと考えた邪馬台国は、「壱与(いよ、とよ)」という少女を後継者に選びました。
魏との外交も続いていましたが、魏志倭人伝の話は、266年に使者がやってきた時点で終わっています。その後の邪馬台国がどうなったのかについては、どこにも記録が残っていません。
「魏志倭人伝」に登場するさまざまな情報の中でも、特に注目されているのが邪馬台国です。
邪馬台国があった場所はもちろん、本当に国名なのか、邪馬台国の表記自体が誤りではないかとの説もあります。現在分かっている邪馬台国の情報を見ていきましょう。



邪馬台国があった場所には、諸説あります。
「魏志倭人伝」には邪馬台国への行き方が記されていますが、記述の通りに進むと太平洋上になってしまうことから、方角か距離のどちらかが誤りだったのではないかという推測のもとに、研究が進んでいるのです。
「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の政治手腕や周辺国との関係を踏まえて、邪馬台国の場所を特定しようとする研究も行われています。
現在、邪馬台国の場所として有力候補に挙がっているのは、「畿内(きない)」と「九州」です。それぞれの説について、具体的に紹介します。
邪馬台国の場所を特定する研究は、江戸時代から行われていました。江戸時代前期の歴史家は「邪馬台」が「ヤマト」と読めることから、邪馬台国は大和国(やまとのくに、現在の奈良県)だったと考えます。
帯方郡は、現在の朝鮮半島におかれた中国の郡です。中国から見て朝鮮半島の海の先にあるわけですから、まさに日本のことを表していると分かります。
三国時代以前の漢の書物にも、日本に関する記述がありますが、そのときは100を超える国があったとされています。
中国で国が三つに分かれていたころ、日本では100以上もあった小さな国が統合され、30国ほどになっていたのです。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。



三国志時代も終わり隋の時代になり倭国の記実が現る。
後は隋(王朝) (581年〜618年)南北朝の分裂を統一した中国の王朝の頃『隋書』は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である。その頃は日本国も同時期の「日本書紀」推古朝は女帝の時代にあり、倭王が 誰にあたるのかは定説がない。
当時支那は漢字の書物が用いられ、漢文が書かれた書物が流通していた。表題も「隋書倭国伝」の中に倭国の記載は列伝第46条東夷伝の中にある隋書倭国伝に位置、地勢、倭国での順路、倭国の気候、暮らし、習慣や支那との関係等詳しく述べれれている。

この当時仏教の伝来し、権力争いの火種となり豪族の間で仏教を受け入れるかの意見が分かれ派閥が出来上がる。朝廷では蘇我馬子(蘇我 馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。)
当時朝廷内の蘇我馬子が推古天皇が即位し飛鳥時代が始まり、朝廷を中心とする中央政権化が進み592年に初の女性天皇である推古天皇が即位する593年にその甥である聖徳太子が摂政となる蘇我馬子と協力し天皇に忠誠を目指した。



上記の写真は聖徳太子の幼少の頃とされる。

その後聖徳太子が603年(推古天皇11年)に制定した「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)は、優れた人物であれば身分に関係なく取り立てられる制度で、旧来の豪族の力を弱体化して天皇に権力を集中することが目的でした。しかしこの制度が導入されたあとも蘇我馬子は権力の中心にいたことから、聖徳太子を背後で操っていたのが蘇我馬子であったと主張する歴史家もいます。



603年には家柄には関係なく優秀な人材を登用を目的とした冠位十二階(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。 この名称は、儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二にした。)604年に初めての憲法でもある。政治に関する人々に道徳や心構えを説いた憲法17条を制定した。内容は以下の通りである。
 第1条:和(仲良くすること、争わないこと)を大切にせよ。
 第2条:仏教を信仰せよ。)
 第3条: 天皇の命令には必ずしたが従え。)
 第4条:身分の高い人も低い人も、礼儀作法・ 儀式などの社会的・道徳的な  決まりにもとづく行いをすれば、国は自然に治まる。
 第5条:裁判をする人が、賄賂を貰って、金持ちに有利な裁判をすることをやめ裁判を公正にせよ。
 第6 条:人のよい行いをほめ、悪い行いを改めさせよ。
 第7条:その役職に適した人を 選べ。
 第8条:勤勉に仕事をせよ。
 第9条:すべての事にまごころをもってあたれ。 
 第10条:いかりをおさえて表面に出さないだけでなく、心を広くもって人の失敗 をゆるせ。
 第11条:功績と悪事を見分けて、賞ばつを公平に行え。
 第12条: 租税 を取る権利があるのは天皇だけだから、役人が勝手に租税を取ってはならない。)
 第 13条:自分の担当する仕事や役目をよく知れ。
 第14条:人をうらやんではなら ない。
 第15条:地位を利用して、自分の利益をはかってはならない。国や民のた めにつくせ。
 第16条:農閑期を利用して民を使うのは昔からのよき教えであ る。
 第17条:重要な事を決めるときは、おおぜいの人と相談せよ。そうすれば、 人々を納得させるような理(道理、理論)が必ず見つかる。

現在日本の政治問題で問われる事についはこの内容をよく理解した上にて議院バッチを付け、守れない場合は即刻辞職する。1,500年以上前の憲法17条を基本にすれば全て上手く捗る、まず政治家自身上記の記載をよく遵守する事は最低の国民との約束ごとでもあろう。当時この後607年に小野妹子を遣隋使として隋の国に送っている、又隋の歴史書に於いても隋書倭国伝に記載される。

確かに当時は海の向かいの支那に漢文、政治に関する冠位十二階等は学んでいるが、当時の支那の学術を日本風にアレンジし日本人が使いやすい様にした所は見逃せない所でもある。


推古天皇陵

隋の中央官僚には十二等級あり
大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信と並び日本の並び順とは異なっていた。「徳・仁・義・礼・智・信」となっていた様である。日本では「徳・仁・礼・信・義・知」と教えた。又冠位十二階は儒教の影響が強い当時の隋では影響を受け水を真似し日本に導入されたと考えたが、隋の時代の儒教では五徳の徳の教えが「仁・義・礼・智・信」が重要視され「仁」人を思いやる事「義」利欲にとらわれない事「仁」守るべき事「智」通りをよく知るえる人「信」真実を告げ約束を守り誠実である事と述べている。儒教ではこの順番を重要視され隋書が正しいと思われるが日本人の法制度はこの順番を変更し冠位十二階を定めたであろう。しかし720年には冠位十二階は無くなってしまった。

この様に祭り事を行う政治家、役人が昔決められた冠位十二階も学ぶ事なく現在の政治を決める政治は真の平和な世界が作れるのであろうか?
以前トランプ大統領選挙の結果が発表された時に、高々200年の歴史しか持たない米国の判断は本当に正しいのであろうか、日本は世界でも歴史の古い伝統ある国の判断を聴きたいと叫んだトランプ大統領の言葉が今も残る言葉でもある、所詮先の戦争で与えられた日本国憲法も官僚、政治家が冠位十二階をよく学びた後に新たな日本に相応しい日本国憲法も視野に入れた新しい憲法が必要な時を迎えて様にも思う。
昨今の大臣の態度は最悪でもあり、日本人としての品格も疑われる現在の政治家には基礎教育が必要であり実に情けな無い時代となっているのが現状でもある。

ロシアはウクライナ侵攻開始から2年も過ぎている、いつまで続くのであろうかの検証。

2024年04月13日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

筆者の自宅の庭には春の花が咲き始めた、新しい芽も吹き出し春の息吹とはこの様な事であるのかと思わせる、たわいも無い事に何故か喜びを感じる様でもある。

勿論最近は天候不順のため桜の見頃も短く、桜吹雪の舞い散る歩道をモジャ君と早朝散歩する。今日は何時もより若干早く遠吠えし散歩に連れて行けとせがむ・・・。朝6時30分から始まるラジオ体操を終了後散歩から帰宅しゆっくりとモジャ君とシャワータイムである。
その後は淹れてての珈琲を飲みながら最近見つけたソフトにH. シェルヘン ~ ウィーン国立歌劇場 Orc. / マグダ・ラズロー等:バッハ カンタータ 第210番他を聴くが妙に落ち着いた演奏に今までにない重厚な香りを感じを得られた、1962年録音とあるが意外と良い音が聞けるのはありがたい。



思うに2022年2月24日、ロシアはウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始し、民間人に死傷者を出す攻撃を行い、病院、学校、住宅などの市民の建物に被害を与えている。しかしこの軍事侵攻はロシアとアメリカの争いであろう・・・、これは間違いなくウクライナはアメリカの代理をしているに過ぎないのである。これらの事にきな臭い裏事情を疑るのは筆者も悪い曲なのであろうか?

冷静に考えれば米国、日本、欧州諸国の民主国家はウクライナに武器等援助、ロシアの経済封鎖を続けるが意外とロシアはしぶとく余り痛手も感じない様である、ロシアは化石燃料は豊富にあり共産圏に販売し外貨を稼ぎだしている状態では武器等は他の国頼りのウクライナ側が不利であろう。
一部のウクライナ戦争の報道を見ると明らかな事にこの戦争の進め方は、第一次世界大戦の模様であり、戦車等は新しいが、我が国の体験したロシア戦争当時と変わらなく、榴弾砲の弾不足で、上手い砲弾の補給がある程度の勝敗が決まる様子でもある。ロシアの保管する第二次世界大戦以前の兵器も未だ多く保管し、使用可能と言われている長期戦はロシアの得意戦法でもあるのだ。



だが戦争はこの地区だけには終わらず2023年パレスチナ・イスラエル戦争は、2023年10月7日より続いている、パレスチナのガザ地区を支配するハマースとイスラエルとの間の戦争であると言う解説もあるようだ。

筆者が思うにこの戦争は長引けばウクライナ側が不利であろう、また軍事物資等の補給する事も使用方法をレクチャーしなければならず、多くのテクニックあるアメリカ兵が犠牲になって戦死者も出ているとも聞く、アメリカのユダヤ系の資本家は戦争を続けろとアメリカ国家に迫る、ベトナム戦争以来アメリカは全ての戦争で失敗しているのだ!バイデン大統領が終わり、時期大統領に変われば収束するかも知れない。

プーチンはこの戦争を始める前にNATO軍はこれ以上ロシアに近づかない約束をしてのに近づいたとも吐露している。



これに関係する戦争の背後には間違いなくユダヤ系アメリカの影が蠢く、アメリカは当時ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman、1884年5月8日〜1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第33代大統領。ミズーリ州選出連邦上院議員、副大統領を歴任した。第二次世界大戦終結当時の大統領である。東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
このアメリカでのディープステートの歴史は長く大東亜戦争以前より続く暗黒のアメリカで日本を戦争に引き込み征服を企んでいたと言われるのが真実でもある、真珠湾攻撃をワザと引き込んだ暗黒の世界に突入させたロシア、英国、米国のアングロサクソン人種の全てであった様です。被害の多かった国は英国でアジア地区での植民地を多くを失い大東亜戦争以降勢を失っている。

トルーマンがルーズベルトが死去したのちに米大統領になるために画策し世界の金貸し集団のユダヤから大金を借り集め大統領就任した。
勿論日本も日露戦争でユダヤに金策し戦争には勝利したが、ロシアからがは代償金は貰えなかった、その為近年までユダヤに約束通り満額を支払い終了した。



ユダヤ人は国を追われ世界中に拡散したが世界を放浪後英国の産業革命で大金を融通し資本家のしての道を歩む、勿論米国にも同じ手法で資本家になる。
所謂国を無くしたユダヤ人は世界に放浪するが一心教のユダヤ教を信仰するが故に辛い思いもするようで、それ以降所謂新約聖書以降のキリスト教信仰者とも違いアブラハム(信仰の父)所謂ヘブライ語聖書聖典として先祖代々受け継ぐ集団であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教との日本人との違いは日本では圧倒的に多神教信仰が多く宗教の違いを理解できない事が多い事が現状でもある。

一般的にはイスラム教(旧約聖書)からキリスト教(新約聖書)に代わったところが、処女マリアが如何にして妊娠したのであろうか?そしてキリスト誕生となる勿論マタイも実に謎めいて来るのは筆者だけなのであろうか?当時バッハのお造りになったマタイ受難曲は素晴らしいのだがこの辺り造作の聖書は日本人では理解出来ない様にも思う。

アメリカの黒歴史ジョン・F・ケネディ大統領が射殺後すぐにロバート・ケネディはFBIにCIAが怪しいと捜査と犯人逮捕を依頼したが、国防省、CIAは全く動きを止めた話は有名でもある。その後アメリカ大統領がディープステートまたは闇の政府を始め個人財団を作り個人所有は個人財団の税金免除である。これこそ今行われている少しの額が裏金問題である。15億で行われた間違った東京裁判の結果敗戦国日本はアメリカにひれ伏した国となった様である。

特に裏金作りはクリントン、オバマ、最悪はヒラリー・クリントンでクリントン財団は有名である調べれば以下のような事柄が残されている。一番の性悪は悪き事を企むことが趣味でもあり、大好きなヒラリー・クリントンこそが最悪の性悪でもある。

基本的にはそもそも黄色の猿と蔑まれた日本はアメリカからは嫌われており、今日本は憲法改正をしてアメリカから独立するチャンスだったのかも知れない。平和を維持するには最強の武力こそが肝心であり、江戸幕府の時代の歴史を調べれば理解できる。今回最低の丞相岸田は米国から帰り国民は今回の顛末に相当の不満が多く残り、政治離れも甚だしく相当な混乱を残すであろう。



「ハイチ地震の義捐金のほとんどが他に流用され被災者に使われなかったのはクリントン財団のせいと咎められている。 国務長官クリントンに面会するには億単位のクリントン財団への寄付が必要であったという。 中国の人権問題の追及の緩和のために1兆円の賄賂を中国に要求したという。 児童救済のためのヒラリー財団もほとんどの資金が流用され本来の目的に使われなかったという。 彼らの財団運営はお金集めの偽善団体に過ぎない。 大統領選挙直前彼らはすべての資金をカタールとスイスの銀行に送金している。 FBIとCIAの追及を躱して国外逃亡する準備であるという。 少額献金した人の口座から許可なくさらに100ドル以下の範囲でクリントン財団に振り込まれていたという。 彼らは選挙での敗北を予想していたという。 
大手のマスメデアのみが世論調査の結果を無視してヒラリー有利と捏造報道を繰り返したのである。 日本の報道機関も完全に予測を外した。 国民をミスリードしたことを謝罪すべきである。 選挙後の反トランプデモもお金で雇われた捏造デモである。 米国人の民意はトランプだったのである。 著者はヒラリーの負の側面も書くべきであった。」



勿論バイデン親子もハンター・バイデンのラップトップに記録があったように100万ドル程支那から多額の献金を受けている為にある程度は近平には忖度すると言われる様である。オバマ辺りから近年の米国政府は財界人と結び、間違い無く金権腐敗政治である。
アメリカ社会を簡単に思えば政治に関わり合いのある事柄として・・・
ウォール街
ウォール街は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンの南端部に位置する細いストリートの一つ。ブロードウェイから東へイースト・リバーに下る場所にある。 現在では通りの周辺の区域も含めて、世界の金融センター「ウォール街」として定着している。裏話ではクリントン時代のウォール街の連中は後ろでクリントンを操りゴールドマンサックスと共に莫大な金を稼いだ話は有名であり勿論クリントンも莫大な裏金を稼いだと言われる。

ネオコン
アメリカ合衆国における新保守主義は、政治イデオロギーの1つで、自由主義や民主主義を重視してアメリカの国益や実益よりも思想と理想を優先し、武力介入も辞さない思想。1970年代以降に米国において民主党のリベラルタカ派から独自の発展をした。
次の選挙ではディープステートまたは闇の政府を倒す勢いのある、ウォール街並びにネオコン連中を撃破する二人の候補者に期待しましょう。



敗戦国日本はアメリカには逆らえない状況であるが、その様な時期に親中の検討史岸田はアメリカに行きウクライナ戦争のの加担をしている、馬鹿さ加減は如何なものであろう。今日本は一番大切な時期に国内の仕事を放置しアメリカ旅行に出かける事がまともな政治家であろうか、大きな疑問である。

国内政治をまともに出来ない総理に世界の事を話させる事は大間違いではなかろうか・・・? 昔であれば岸田は小部屋に小刀を置かれ、配下のものは部屋を出たのであろう。

日本が最も強かった時代は、正義感があり優れた精神があった頃、明治30年頃江戸時代の武士が歳とともに亡くなり時代が変化した頃までとも言われる、江戸時代を過ごした武士がいなくなったからだと言われる。そして現在は一番の悪の中心は資本家ではなくそれらを牛耳る政治屋と資本家である、政治家が少なくなった長年の驕りと現状が民主国家の敗退かも知れない。しかし以前も回答したが自民党の代わりになる団体が不在な事が日本の不幸かも知れない。



これからの時期はアメリカの大統領時期選挙であろう・・・次のバイデンの大統領は無いと思うが・・・まさか今回はディープステートによる妨害が少なければ、大統領は交代し現在のアメリカ政府の経済関係に支障を来し、イスラエル紛争並びにウクライナ戦争も今年中には終結する道を歩むであろう。

注目はロバート・フランシス・ケネディ・ジュニアは、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。第64代司法長官ロバート・ケネディとエセル・スカケル・ケネディの息子。父同様に名前のイニシャルをとってRFKジュニアあるいは愛称であるボビーと呼ばれることもある来年のアメリカ大統領選挙に向けてこう宣言したのは、“RFK”こと、ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏(69)です。
あのケネディ元大統領の「おい」で、ことし(2023年)10月、民主党でも、共和党でもない、「無所属」の候補者として大統領選挙に挑戦する意向を表明しました。



ドナルド・ジョン・トランプは、アメリカ合衆国の政治家、実業家。第45代アメリカ合衆国大統領。不動産業の富豪として著名になり、リアリティ番組の司会などタレント業も行ったのち、2016年の大統領選に共和党から出馬して当選し、合衆国大統領を一期務めた。
新しいアメリカに期待したくなる様な候補者でもあり今後の展開が久しぶりに期待できそうでもある。ブラボー!

今何故オルガ・シェップス(Olga Scheps):ショパンのピアノ曲を聴くのであろうかの考察

2023年10月26日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

彼女は幼い頃からすでに、強烈な感情と強力な表現力、並外れたピアニスティックテクニックを組み合わせた独自のキーボード演奏スタイルを確立していました。オルガ・シェップス(Olga Scheps)は1986年、モスクワ生まれ、6歳の時にドイツに移住。現在はケルン在住。ケルン音楽・舞踊大学でパヴェル・ギリロフに師事。更にアリー・ヴァルディ、ディミトリ・バシキロフなどの元でも研鑽を積む。また、アルフレート・ブレンデルからは、ここ10年近く重要な芸術的刺激を受けている。
現在オルガ・シェップスはスタインウェイアーティストです。

ここで簡単にフレデリック・フランソワ・ショパンは(Fryderyk Franciszek (Frédéric François) Chopin)を説明すれば、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。美に対して厳しい完全主義者であったと聞く。今も親しまれる21曲の《ノクターン》は、ショパンによる短いながら詩的な偉業だ。特に筆者が好きなアルフレッド・コルトーの演奏、バッハの平均律クラヴィーアの如く、ショパンの24の前奏曲 作品28も厳格なルールに則った曲集である様にも思う。演奏は古いがこれ以上の演奏は見当たらない。



此れはあるピアノ好きな友人から勧められ、一枚のアルバムを聴き最近何気なく流しているのが、オルガ・シェップスOlga Scheps:Chopinである。このアルバムは、2009年に録音されたもので、最後の「幻想曲」のみルール・ピアノ・フェスティヴァルでのライブ。内容も初心者にも喜ばしい曲が満載で音質も大変良く、ピアノ演奏の音質が豊であり実に美しい。聴き終わりに感じる何とも言えない優雅な気持ちになることも嬉しくなる事でもある。
 フレデリック・ショパン
  1 Trois Nouvelles Etudes Nr. 1
  2 トロワ ヌーベル エチュード Nr. 2
  3 トロワ ヌーベル エチュード Nr. 3
  4のエチュードop. 10番 3
  5 エチュード op. 25番 12
  6 マズルカ op. 63番 2
  7 マズルカ op. 63番 3
  8 バラード op. 23
  9 ノクターン op. ポスト。
  10 ヴァルス op. 69番 1
  11 ヴァルス op. 69番 2
  12 ノクターン op. 27番 2

筆者の古い今や発売後50年以上経過したステレオ装置で鳴らすが、今も変わらず大変素晴らしい演奏で聴けるのでした。タンノイの10吋IIILZ Monitor Goldユニットでのピアノ再生は実に綺麗な音で鳴ってくれる、ピアノソロの美しい膨よかな鳴り方のショパン演奏は何故か、心穏やかにされる様でもある。
この様な音が出るまで試行錯誤した結果が今鳴っている音なのだと思う。



Live盤なのではかなり特徴のある演奏に思えましたが、こちらのCDではすごく説得力のある演奏と思わされ事で満足します。さすがショパンはピアノの詩人とは良く言ったものだと思う次第でもある、これはしばらくは秋の夜長の定番となりそうでもある。それとオルガならではの個性味あふれる小品集で、ピアノ音楽の美しさを感じる一枚も加える。曲も誰もが知る曲も満足するところである。

2015年発売の「ヴォカリーズ」以来のオルガ・シェプス待望の小品集は、プレイリストにも最適なリラックスできるピアノ名曲集。



選ばれた曲はかなり面白くもあり。どれもシェプスの大好きな曲ということで、もちろんショパンの「夜想曲第2番」や「エリーゼのために」、「トルコ行進曲」などの耳慣れた曲は散りばめられているものの、アルバムのほぼ半分を占めるのは1950年以降に生まれた、いわゆる同時代作曲家の作品。あまり気を使わずBGMで聴くも良しと言えるアルバムでもあろう。

オルガ・シェプス:Melody
 1. ヘルビッヒ:夕べに(Am Abend)
 2. ブラームス:間奏曲 イ長調 Op.118-2
 3. J.S.バッハ:協奏曲 ニ短調 BWV.974~第2楽章アダージョ(原曲 マルチェッロ:オーボエ協奏曲ニ短調)
 4. エイナウディ:Una mattina
 5. ショパン:夜想曲 第2番 変ホ長調 Op.9-2
 6. ゴンザレス:Armellodie
 7. ベートーヴェン:エリーゼのために WoO.59
 8. グルック/ズガンバーティ編:メロディ(原曲 『オルフェオとエウリディーチェ』~精霊の踊り)
 9. グリーグ:抒情小曲集 第2集 Op.38~メロディ
 10. J.S.バッハ:イタリア協奏曲ヘ長調 BWV.971~第2楽章:アンダンテ
 11. エイフェックス・ツイン:Avril 14th
 12. ビバン・バッティ&ケタン・バッティ:ムソルグスキーによるプロムナードIIのメロディ
 13. モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番イ長調 K.331~第3楽章:トルコ行進曲
 14. ゴンザレス:オルガ・ジーグ
 15. ショパン:夜想曲 第8番 変ニ長調 Op.27-2

ただしイタリア協奏曲ヘ長調 BWV.971流れ出すと今までとは違ったバッハを感じた、何故かいくらかスマートなオシャレ感のあるバッハが感じられた、彼女の中でのバッハ像が描かれている様でもあると思った。
最近この様な綺麗な曲を聴くのかと自分自身に尋ねると、多分現在の世界情勢が大変乱れているための逃避行では無いのであろうか・・・?とも思う。心和ませるには音楽の優しさ、美しさは必要でもあろう。

今やこの中はグローバル化しYouTube配信ニュース等で最新の情報を得られる、筆者等の無力な者は情報を知ることも大変怖い事だともおまいますが、皆さんはいかに考えているのでしょうか。日本政府も不安定な政治局面になり何も出来ない何もしない総理のみ息巻いている状態も不安である。勿論愛変わらず変わり映えのしない野党でもあり先行き不安状態は明白の様でもある。
現在中東問題で世界を騒がせているイスラエル地区の問題での発端は宗教問題であるように思う。



この地図は大阪の地図ではあるが、信長が欲しかった商業都市としての大阪周辺の繁栄した土地であり、その後秀吉が大阪城を完成し大繁栄に至り太閤人気が上がるが、大阪の冬の陣で消滅した大阪を家康が改築して現在の大阪城に成っているが、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました現在の商業都市大阪である。宗教戦争の顛末でもある・・・・。

実は日本も15〜16世紀頃宗教戦争を体験した国である、信長が一向宗と11年間戦いつ付け大阪石山本願寺も顕如(けんにょ・本願寺法主(ほっす))が降伏して、畿内の隅に逃げも平静になりまし。これも間違いなく宗教戦争である。
確かに歴史的に考えれば、古くからの摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院は仏閣作りは巨大な建造物が多い、大阪に新天地として開いた本願寺は城壁と天守閣さえ有れば、難攻不落の要塞であろう、勿論税も無く、死んだ次の世界も極楽に導かれる浄土宗はこの世の極楽でもあったのであろう、当初親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる親鸞聖人は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠こもられました。そして、95日目の暁あかつき、聖徳太子の夢告むこくにみちびかれて、法然上人ほうねんしょうにんのもとをたずねられます。法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。



当時信長と戦ったのは顕如であり、お経さえ唱えれば浄土に行けると解いた浄土宗での教行信証である。また政教分離は当時から問題視された様でもある。しかし筆者から思えば仏の上に神がいる日本には八百万の神は座す事実がある事を皆は承知していた傾向がある、古事記に纏わる神代の時代背景の存在が大きいのではあるまいか?

正信偈(しょうしんげ)は、私たち真宗門徒にとって、古来からお内仏ないぶつの前でおつとめしてきたお聖教(しょうぎょう)です。親鸞聖人は、仏教の教えが釈尊しゃくそんの時代から七高僧しちこうそうを経て、自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。この「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文げもん)によって、後の世の私たちに伝え示してくださったものです。

御文(おふみ)第8代蓮如上人れんにょしょうにんが、ご門徒たちに宛てた「お手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。当時(室町時代)の「御文」は、ご門徒に広く公開され、法座につらなった読み書きが出来ない人々も、蓮如上人の「御文」を受け取った人が拝読するその内容を耳から聴いて、聖人の教えを身に受け止めていかれました。「御文」は、現在約250通が伝えられており、その中で、1471(文明3)年から1498(明応7)年にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を5冊にまとめた『五帖御文ごじょうおふみ』が最もよく知られています。

浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれましたが、その後、室町時代に蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。勿論非課税のため収入はお布施により賄い武士以上の裕福な暮らしぶりだったのであろうと想像できる。
大坂、上町台地は信長のものとなり、いよいよ天下布武が目前に迫った4年後、信長は戦国の舞台から去ってしまった。上町台地の後日談は語るまでもない。豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、翌年に柴田勝家を負かすと、直ちにこの地に大坂城を築造した。信長執念の石山の地は秀吉が引き継いでいった。信長の傍らで仕えていた秀吉は、信長がこだわった上町台地の地形の重要性を知り尽くしていたのだ。そして今度は上町台地に建った大坂城は、大坂冬の陣で落城するまでの約30年間、徳川家康を苦しめていくことになった。

先述の通り、家康は若い頃に一向一揆に苦しめられたことから自分の領内では一向宗の布教を許しませんでした。しかし一向宗の勢力が弱まったため、後に三河の本宗(ほんしゅう)寺の再興を許すなど寛容な態度を見せるようになります。

筆者の出身は東三河であり浄土真宗門徒である、しかし圧倒的に多くは西三河が断然浄土真宗信者は多い、確かに東京に移り50年程になるが、浄土真宗門徒は少なく感じる。
歴史を伺えば、江戸幕府は浄土真宗の勢力を恐れ、関東以東には浄土真宗のお寺を新たに認めませんでした。なので文化の遅れていた関東や東北には浄土真宗の寺院が少ないのです。愛知以西は圧倒的に浄土真宗地盤です。北海道は、開拓民の多くが浄土真宗門徒だったので、明治以降は浄土真宗が圧倒的です。あとは、檀家制度では身分的に百姓や漁師を浄土真宗に組み込んだことも大きかったのではと言われる。江戸時代以前は近畿が日本の中心であった事が理由である。

徳川幕府設立後の家康も岡崎時代の一向一揆の宗教問題には相当この問題に悩んだ事が伺えます。



この宗教問題の拗れは意外と長引き、しかもわずらわしさも残る事であろう。勿論現在ウクライナ問題と合わせアメリカ陣営も2箇所の紛争に関わって経済的にも不満が現れる事であろうが、さらに最近の支那の不動産経営が思わしく無く、膨大な不良債権、マンション等の資金不足により中途の建設途中の別件も多く、支那の経営危機とニュースは盛り上がっている様ですが、これは本当に事実であろうか?支那の国民性から考えれば、何故か騒ぎは少ない事は何時か?

この後トルコの動きは気になる所で、またこれに支那が絡まると話は益々ややこしくなる、宗教と共産国家の絡み合いは今後の先行きが見えない。



支那の最大大手、恒大集団、碧桂園等相次いで何度も外貨建て債務全て支払えないと言われているが、支那の制度では不動産は契約し購入すると、完成していない建物のローン支払いが始まり、引き渡しされないリスクがあるのに住宅を購入し購入者も本人が住まないのに契約し、将来不動産値上がりを考え転売し利益をと考えた、支那国民の中間層がマネーゲームをした結果の結末だと言われる、一番笑えるは購入者の多くは中国共産党員が多く騒ぐに騒げない理由でもある。

この中間層とは5億人ほどの低所得者は購入出来ず、例えば地方公務員等の中間層がこのマネーゲームに夢中になった事が顛末の様であり。この中間層は公務員(支那の共産党員)が多く購入したために、思った程騒がないとも言えるそうです。あとはダブルパンチのようにEV自動車に多額補助金を付け格安の自動車メーカーが次々と倒産し空き地が次々に大量放置されている、電気自動車急成長も「負の遺産」になっている様である。また電池の異常や劣化などに よる安全性や経済性のリスクが高く、EV利用の課題になっている、それとEV自動車は電池部分が重く。道路補修費も負担増になると言われる。

最後にEV自動車ついて言えば今や支那のEV自動車はスマホにエンジンを付けた車で安全基準も曖昧の車は大変危険と言う意識は薄く今やEV自動車メーカーは倒産ラッシュである。



支那が苦しむのは今からである、聴くとこ支那の新幹線の乗車客が少なくどうやら採算が取れず稼働本数を減らしていると言われる。低所得層は今の生活より悪くなり富裕層は支那に見切りを付け海外移住し残るは借金まみれの中間層と低諸国車のみとなり、今一番問題されている一人っ子政策(1979年から2014年)により今後35年間毎年850万人人口がレリ続ける老齢化国となりこの先失速し続ける国となるかのせいは大きい、支那が暴発すれば台湾との戦争が一番の不安事項でもあるのであろう。
さらに今まで一番利益を得た西欧も特にイタリア、ドイツは恩恵した代表の国であるが、香港問題で変わり始め最近人権問題等でのチャイナリスクを感じ脱支那が加速するEUになった事も大きな影響が強い。益々支那の近平が台湾暴発する事も危険信号である、それは日本も巻き込まれる可能性が高い。



一番恐れる問題は中国共産党の不満が台湾問題に転化された場合一番不安が高まる状態である、最近のニュースでは支那がロシアに大量のドローンを輸入した事が明るみになり、今後経済制裁を厳しく追求すればこの先の展開は見えない。勿論北朝鮮等の国は煩わしいがロシア、支那共問題終了後はその様になるのだろうが、宗教トラブルは簡単には妥協しなく、今後トルコが如何に動くか、それが一番の問題であろう。但し悪の巣窟は中国共産党である事が解明される。

今後しばらく世界情勢がどの様に変化するかは全く予告できなく、今は静かに準備をして「いい曲を聴きながら」事の顛末を見るしかあるまい。

読売書法展開催国立新美術館で見学、古代ミステリー 海の縄文人、丸木舟を飛鳥山博物館で探索。

2023年08月27日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

先日愛知に暮らす妹から連絡があり、読売書法展で読売奨励賞受賞したそうで会場は《第1会場》国立新美術館《第2会場》東京都美術館である。
アクセスは意外と都合よく北総公団鉄道町屋駅にて東京メトロ千代田線「乃木坂駅」6番口直結して雨天も気にせずにドアツードアである。
この国立新美術館での開催は初日とあり、まずまずの人手が多く、受付は混雑し詳細を調べるも手間取りました。



「カナの部」は国立新美術館での開催の為、今回交通は電車で向かった、実は帰りに飛鳥山の博物館探索も実行したく早めの朝9時頃出発する。

どうも忘れがちな常備品、この時期は氷入り麦茶の水筒と扇子と帽子は必需品である、いつでもどこでも飲める冷たい水筒は真夏の必需品で、この時期は給水は大切で、また熱中症予防にもなる。



経路は北総線白井駅から出発し、町屋で千代田線に乗り換え乃木坂下車で国立新美術館到着は車より便利でこの近くは駐車場も少なく電車でのアクセスは便利である。 設計監理:黒川紀章が波の様なうねうねとしたガラス張りの建物は有名である。会場は1・2・3Fと使い出品もかなり多い、他の上野の東京都美術館でも繰り広げる様です。



案内で場所を検索し2B -4会場を見つけ1Fで役員関係の作品を見ながら妹の作品を見た、妹曰く読売書法展で読売奨励賞は前から欲しかった賞であると言っていた今回やっと念願が叶った様である。



前回の日展の会場が少なかったと思うほどである、出展数が多い様に思う。
妹の書が読売奨励賞を頂いた作品でした。恥ずかしながら筆者は書の知識は全く無いのですが・・・(笑)。



先ずはおめでとう!次は日展ですね、頑張って下さい。

モダンな国立新美術館を後にして、次は駅までの距離があり少し歩くが大江戸線の六本木駅から乗車し麻布十番駅で南北線に乗り換え王子駅着、昔は王子駅はJR駅と都電しかなかった様に思うが便利になった交通網である。

この辺りで昼食にする、王子駅近のお蕎麦屋で喉越しの良い冷たい山かけ蕎麦を頂く、それと近くで立ち飲みの温かい珈琲を注文するが上手くは無かった。

この王子辺りは余り昔から縁遠く場所は下町なので美味しいお店のあると思うが、全く皆無で駅近くで、こ綺麗な蕎麦屋に入った、蕎麦の量は盛りも良く満足であった、食事の後の蕎麦湯は実に好物でしっかり頂きました。蕎麦湯を飲みたくそばを食う、今後新蕎麦の時期となるが楽しみでもある。



それから飛鳥山に向かう、展望台まで簡易なモノレールがあり乗車するとエアコンが良く効き快適であった。乗車時間は2分程度であるが・・・。
確かに東京と言う割には都市は意外にも木々が多く植わり公園等も備わっている為森林地帯が多く存在する街である。

勿論この王子、飛鳥山も江戸時代に整地され桜の名所として公園になった事は有名ではある。昔読んだ小説の内容だが何故か帝大入試問題で飛鳥山について述べよとの問いに田舎出身の受験生は可哀想であると思った箇所を何故か思い出す。



勿論本の内容だがこの飛鳥山は江戸時代の享保年間に行楽地として整備され春は庶民の桜の名所にもなっている、現在も桜の名所にて一度春の桜の時期に訪れるのも楽しいかもしれない。

来年新一万円札になる園内に残る旧渋沢栄一旧邸もあるそうだが、今回は博物館探索に決めており飛鳥山博物館に向かう。



桜の時期は上野公園とも人気な桜の名所としても有名である。モノレール下車して博物館にはゆっくり歩けば7〜8分程で到着する、飛鳥山は小高い丘上になっていて途中青々とした樹々が涼やかで児童公園には都電も掲示されていた。
途中にわか雨が降り出したが5分ほどで小振りになり目的地に到着する。

それを見ながら通過し、意外と簡素な建物が飛鳥山博物館であった。入場料は300円也でしたが高齢者は150円の割引です。撮影したい方は入り口にて撮影許可証を頂いてください(フラッシュ禁止です)。

少し前に青森の三内丸山遺跡の集落を訪れたが、この縄文時代は実にミステリアスで大変面白い世界であり、学生時代に簡単に学んだ日本の歴史を今学んでいる様である。現在日本には1万箇所以上ある遺跡巡りも実に興味深さがある、未だ発掘作業は途中で、これらの事が明らかになれば我々大和民族のルーツが解明出来ると思えば益々興味深い。

これこそ日本が世界に発信できる日本文化そのものである様にも思う。次の時代に世界に発信できる国は伝統文化のある日本が相応しいのかも知れない。



筆者が唯一BSのNHK番組放映を楽しみに観る、英雄たちの選択  追跡!古代ミステリー 海の縄文人放映した船の展示が飛鳥山博物館で見られる、丸木舟の情報を知りたく、是非現物を見たかった為に今回やっと念願が叶った。

意外と船の幅もあり深く削れているのが特徴的で、或程度の波にも十分波対策は得られるであろうと想像できる。丸木舟で台湾沖縄の横断は可能であるであったのだろう?海上公開について食料、飲料は如何に補給したのか不思議なことは多く益々興味深くなる様である。
この丸木舟のポテンシャルはどの程度の性能があるか色々想像するだけで我々の祖先海の縄文人は何を考えていたのであろう?そうの様な事を思うとロマンで胸が高鳴るのを覚えた。

以前丸木舟での台湾〜沖縄航海は横断成功したとの報道があり、驚くとともに実証されたことでの丸木舟の海上航海は事実となった訳である事が判明した。
勿論日本から見渡す太平洋上には火山活動が盛んな小さな島々が続いて存在し丸木船で島から島へ伝わりながら洋上を丸木船での往来は可能であった事であろうと想像できる。
或程度の水、食料を積み未開の海のの航海を楽しみも含め正に海への浪漫であったのであろう・・・・・。



基本的には日本列島は周りは海に囲まれた島国であり、食料は勿論海からの恵みに恩恵を受けた人々であろう。島々を渡りながら進めば西太平洋のミクロネシアにある米国領の島グアムまでも航海可能である。又台湾ルート航海を考えれなマニラ、フィリピン、インドネシアの航海も可能である。夢は広がる世界観でもあろう。

以前から山内丸山遺跡も丸木舟による海からの道が出来ていた記憶も新しい、今回興味深く見学したが、益々興味を抱いたことは、海上での獲物確保と、海洋交易である、黒曜石等勿論大切な琥珀等も産地から輸送したのであろう。

物の運搬は舟が一番手軽であるが、日本列島は島々が多く北から南まで随分長い、海を自由に航行できれば一番手軽だとも思う、日本列島を取り囲む「海」と古代人の関わりを示す新発見が相次ぎ、「海」を通して古代人のこころの解明に注目が集まっている。


丸木舟に関する上記パネル掲載にはムクノキ使用とあるが、ムクノキの葉は、葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物はトクサと同様、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるそうです。
舟表面を磨き防水並びに表面を研磨し水の抵抗を防いだのかも知れない、現在の研究では人類は1,400CCが脳の重さと言われるが最近人類の脳の重さは若干減っていとも言われる、縄文時代当時は覚えることも多く現在と違った脳の働きも必要とした時代であったのかも知れない、正しく海の縄文人の知恵なのであろうか?と驚く次第である・・・。

今回は、海の縄文人の世界に迫る・・・。
1万年以上続いた縄文時代の後期、突如、貝で作ったアクセサリー「貝輪」の一大ブームがあったそうである。なかでも、美しい輝きを発するオオツタノハの貝輪は珍重され、勿論展示もあり、東日本一円から出土している。この謎に包まれた貝の生息地を求めて各地を探し回っている考古学者もいる。



テレビ画面ではオオツタノハ採取の瞬間を放映していたが、オオツタノハを加工した「貝輪」は実に綺麗な真珠のような色で光り輝いていた。

このほか、全国各地から多数出土した縄文人の丸木舟、さらに技術的に現代のものに負けない骨格製の漁労具などから、知られざる海の縄文人の謎めいた事実も探ってみた。


この丸木船の形状を見ればわかるが木の中心部は船の舳先の下になっているためUの字の上の部分まで船が構成され、波にも負けない構造をしている事は解明できる、実験ではこの木を見つけ、木の伐採工事から丸木船にするまで磨製石器を使用し製作してする時間は20人程の人材で一ヶ月以上はかかると言われる。
その後航海後のメンテナンスを考えれば社会組織も必要になるのであろう。後は航海術、夜間の方位を調べる方法等必要事項も多い様に想像出来る。

しかし一番不思議に思うは、石器時代に「火」を扱うこと、「各種の道具」を扱うことの知識は如何にして湧いたかの疑問だ・・・今後も科学が進み多くの事が解明できればその様な謎も解明できるのかもしれない。


丸木船の舳先の部分です、波の影響も防ぎ安定な航海を考えての制作方法であろう。また当時は海の面積も多く締め、海上輸送が頻繁に行われた様である。

食事の支度、時期世代の子供も考えれば約100人程の人口は必要であり、また船の加工も表名を燃やし防水磨き摩擦抵抗も無くした跡もある様です。同時に海運も従事していたのであろう。造船技師、航海技師もいたのであろう、益々興味尽きない縄文文化であろうか、磨製石器で生活した先祖達に驚くのである。



筆者も思うは昔から海洋国であった事は事実であり、水路を利用した生活は今も続くが湿地帯である江戸に徳川家が入り、関東は隅々まで水路で繋技、上下水道を整備して利根川の流れまで変え、生活圏は住みやすい江戸時代で花開き明治、昭和時代まで続いていた。また海洋では暖流と寒流がぶつかり実に良い食料にも最適な漁場も見逃せない条件であろう偶然の重なりとは言え平和な国であった。

縄文時代は人類が獲物を求め移動生活と言われたが当時は海産物等豊富で移動しなくとも食卓は豊で穀物は栗など木のみが豊富であり栽培も盛んに行われた次第である。日本は間違いなく海洋国であり海と共に背活を営んでいたと想像できる。


ここで古い関東地方の5〜6000年前の地図であるが、手賀沼も大きな湖と分かる水源地はご存じ柏のこんぶくろ池である。関東地方は海の湖に囲まれた世界であり手賀沼、霞ヶ浦とは繋がっていた事がわかる。

此処とは別の場所にある「江戸東京博物館」に掲示される縄文海進とは、最終氷期(現在からみて最も新しい氷期。数万年前~1万年前ごろまで続いた)以降の海面上昇に伴い、縄文時代早期~前期に現在の海岸線よりも奥まで海が侵入したことを指す。



「この図の見どころは、縄文時代の貝塚遺跡の多さを実感していただくことです。それに加え、自分自身の住まいが当時はどういうところであったか(海!)探していただけると楽しめるかと思います。そして周辺の貝塚に興味をもって訪れていただければ幸いです」上記のようなコメントが残されていた。
確かに埼玉にも海は存在し、茨城も霞ヶ浦も内海で陸地は北側の日立市からの陸地で千葉も上総が先に繁栄し島の状態に近い。三浦半島から海を船で航海すれば近い上総である、関東地方は海が広がり遠浅の海洋生物が多く食料事情も良い事が想像出来る。当然貝塚も多かったのであろう事が判明する。

一番驚くは奥東京湾が表示されて川越奥まで続くまで海並びに湿地帯であった様に示されている、勿論現在の埼玉は海であった様である。丁度ここ飛鳥山付近は海岸近くであった様に地図には明記してある。


次の展示物は黒曜石の原石である、以前にも述べたが神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島までこの丸木舟の航海は正に命賭けである。

後はブレスレット「貝輪」の事ある、聞くところ貴重なオオツタノハの貝輪は大規模な集落でも1~2点しか発掘されていない。更に詳細な生息地も定かで無く大変貴重な人気の貝であったようである。
見知らぬ小島の大潮の干潮時に現れるオオツタノハは貴重品であったと言われる、一変的にはベンケイガイの貝輪が一般的であったと言われる。


縄文時代の研究は始まったばかりで今後新しい情報が期待できる面白さがある。


飛鳥山博物館にも様々な貝塚の展示があった。中から人骨も出土している、の本の土壌は弱酸性で骨は溶けて無くなるのですが、貝塚周辺位は人ことも見つかっている。



これは栗の木の化石である、当時栗の木は巨木でありそれも山内丸山遺跡の謎の高層建物も栗の木を用いて製作している。

縄文から弥生時代に変わるが、面倒な穀類の農作物作りは地球の温度変化によって自然に生活様式が変わって行ったのであろう、土器も低温で仕上げた土器から高温で仕上げる様になり薄く丈夫などきに変わって行ったのであろう。
穀類の長期の保存ができる米主体の生活に変わり緩やかに過ごしやすい時代に変わって行ったのであろう。


続いて弥生時代に移る為、土器は薄く食事は現在に近づいてくる。弥生時代から古墳時代と日本には多くの人達が移り住み平和な時代が続いてのであろう。
その後幸いにもモンゴルの来襲にも屈せず征服されなかった事は日本独自の歴史を続ける事になった。
この様な事は日本人のDNA解析で証明されている、もちろん朝鮮人、支那人はモンゴル系統の系統が流れている事は証明墨と言われている。


食事の支度の展示品である、注意深く観察すれば昭和初期時代の食卓にも共通する感じが強い、実にバランスの良い食事でもある。特に現在のキャンプに近い。

現在日本食は実に健康的な栄養バランスで仕上がっている為、肥満傾向の海外の人達も日本食を大変興味深く考察している様である。


農機具の展示もあるが、形は今でも使えそうである。


そして面白きは江戸時代のお花見等に使ったお弁当等の展示がある。

江戸時代はやはり白身の魚が多く赤身魚はカツオが多いよ聞く、マグロのトロ部分は痛みやすく脂身の為に処分されていたと聞くが、保蔵手段が無かった事が調味料にも酢、醤油等を用い保存方法を考案した事が最大の理由であろう、写真を見ても分かるが大変美味そうである。


甘いデザート(お饅頭)の重もあり実に美味そうである。思えが一般的に和食は昔から余り変化はないらしい。


今現在海外から日本への旅行客も増えているそうでが、意外と和食に人気があるようで、和食の栄養のバランスも良く健康維持には日本食は良い食文化と言われるそうである。
現在支那は原発事故の処理水問題で勝手に騒ぎ、食品は全面的に輸入禁止状態であるが、美味しい海産物は日本で消費しましょう、健康のためにもバランスの良い海産物を摂取しましょう。


地下部分が博物館で構成された手軽な博物館でした。帰りは今回2回目の乗車する都電を利用しました。


王子から乗車した都電ですが、意外と混んでいました、町屋までおよそ20分程で到着する、何か懐かしい都電で旅であった、町屋からは北総線経由で今回の散策は終了します。

話は変わりますが、現在ネットでもお馴染みの如く「中国の崩壊」「中国地方都市不動産の闇」等の記事が多く新規雇用の就職率も異常に低いが、お隣の国の支那では日本の食品全面輸入禁止処置が実行され騒いでますが、美味しいお魚は日本人が食べましょう、又旅行先にも日本には渡航禁止法案が提出されたと聞く、大歓迎である。日本人の生活リズムを乱す常識知らずで、大騒して五月蝿い団体支那人の来日禁止は実に良い法案である。一刻も早く法案成立が望ましい。
支那の政策はナイス近平である、ブラボー!

5,500年前の三内丸山遺跡のロマンを訪ねる、縄文時代の前期中頃と言われる広大な遺跡の考察。

2023年06月28日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

我々の祖先でもあろう日本人のルーツ、氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代が始まり、その後終わりを告げ、縄文時代以前の「岩宿時代」の存在を裏付けた事から始まりました。今後旧石器時以前の時代の物が発見されるかもしれませんが・・・・?

戦後間も無く1946年に民間考古学者「相沢忠洋」により両毛線岩宿駅近くから局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭の石器が採取された岩宿遺跡から始まったと言われる考古学であり、その後日本全土で発見された遺跡は一万ヶ所以上あると言われているが、今回東北での広大な三内丸山遺跡を訪ねた。

約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。縄文時代の開始とともに、磨製石器に変化したり、新たに土器が出現しました。縄文時代の人々は、土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。
今回この三内丸山遺跡だけでも1500年以上の平和な暮らしが続いた遺跡の見学は想像を育む世界でもあろう。




三内丸山遺跡に関する最も古い記録は江戸時代に遡ります。県は野球場をはじめとする新たな施設整備が計画されました。工事着手前に発掘調査を実施することになり、平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました事で見つかった三内丸山遺跡である。

上記は三内丸山遺跡の全体マップである、全体で約42ヘクタールありこれは東京ドーム約9個分の広さです。
と同時に遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。さらに、イヌが飼われ、植物の栽培も行われるようになりました。縄文時代は、食料を主に採集・漁労・狩猟によって得ていました。
特にこの時代は温暖で、この地域には豊富な食料にも恵まれ永く定住したのであろう事が想像できる、簡易な木の実の栽培もおこわれていたのであろう。


流行り病の為、自由な移動が出来ない時代が3年間も続き、前回の温泉巡りの旅の2回目である、今回は筆者も大変興味深い、縄文の世界を覗く旅になった。幼少期社会の時間で教えられた縄文時代の生活とは全く違い、この様や遺跡は日本尾あらゆる場所での発掘が行われtりる様である、今回訪れる三内丸山遺跡に至っては平成4年(1992年)から始まった発掘調査で明らかになった様である、今や世界文化遺産に登録されている。

新幹線乗車までは通勤ラッシュもあり混雑したが、上野から新幹線に乗車し盛岡から北東北までの旅である。



取り敢えず皆との待ち合わせ場所の盛岡まで東北新幹線での旅、所要時間は約2時間30分程で到着、ゆっくり前日に購入した「anajog」の冊子を見なが駅構内での淹れたての珈琲を飲みながらは意外と速い時間で到着する。
本の記事内容はLINNのレコードプレイヤーの記事を読みながら、発売当時から
定評のある音響機器レコードプレイヤーは定評がある、最新の機器はは大変高額になっていた、これは雑誌でしか楽しめない商品である。

最後の記事には「オーディオマニアは皆んな病気なんです」のコメントに妙に納得を覚えるのでした。



正午盛岡到着である、友人達が盛岡駅北口に迎えに来ている、久しぶりの再会である、丁度お昼の時間でもある。
ゆったり出来る隣のホテルメトロポリタン盛岡のホテルのレストランでランチタイムを頂きながら、今回の2泊3日の予定を告げられる。年齢は皆近く70歳代の高齢者で久々にお会いする元気な顔に安心を覚える。



ランチを済ませ車に乗り込み青森の目的地三内丸山遺跡に向かい出発する。
盛岡市街地より高速道路は若干混雑していたが、高速は順調である、関東の道路事情とは全く違い実にスムースに走る、しかし冬場は積雪のために舗装状況は関東とは違う感じがする。
しかし皆さんそれぞれの投薬は持参している状態である。

青森から八戸の旅である、途中浅虫温泉等遊び心の多い旅である、また漁港としても有名な八戸は街は意外と盛況であると言う、毎週日曜に行われる朝市は一度は見学の価値は高そうである。と教えられた勿論最終日は朝市見学予定である。



約2時間弱で青森の目的地に到着する、到着したの午後のため入り口近くの駐車場も空きは多くすんなり早速駐車場に車を止め、入り口での記念写真である。

天候は曇り空ですが、雨は免れる模様であり三内丸山遺跡見学はゆっくりみられる様である。



早速入場し入り口には大きな縄文土器のモニュメントが印象的であった。入り口の壁面には断層のモニュメントが施してある。

今まで縄文時代の生活は獲物を求め定住しなかったと言われる縄文時代の生活であるが三内丸山遺跡は定住した痕跡が見られ有名な6本柱で長方形の大型高床建物が建てられ今までの常識を覆している。
学生時代に教わった古代日本史は今思えば全て全く違う世界であり大変興味深く大きな発見があった、日本の縄文時代が素晴らしく平和な世の中であった。



早速入り口にジオラマ付近で見つけた。小冊子があり早速見ると。なんと昔お付き合いしていた、東北エリアマガジン rakra ラ・クラが編集する三内丸山遺跡の小冊子を見つけた、当時お付き合いしていた代表は既に引退しているが、東北に情報誌小冊子はrakra ラ・クラ独自の雰囲気が漂うものであった。




本人とは、今は全く連絡は取れないが元気で引退生活を謳歌していることをの望む、昔は仕事もお手伝いしたことがありrakra ラ・クラの名前は大変懐かしく感じた。

時間的に本日最後のボランティアガイドで遺跡見学できるので早速申し込み本日です最終の案内された、案内の中年女性曰は、筆者が手に持つ小冊子を見つけこの冊子の案内の写真は私ですと始まった。説明は若干青森弁が混じり所々方言の不明箇所もあったが、最北端の青森に来た実感を覚える。この各地方独特の方言の語源は実に聞き取りにくいが楽しい味わいでもある。


全体を縄文土器に見立て、北海道と北東北の形を、縄文時代のパワーを象徴するような渦巻きの形で繋いでいます。
図形の色は縄文時代の漆器や土器にみられる赤漆色とし、構成資産の分布している範囲を濃い目の色のグラデーションで表現しています。

デザインの左右に「縄文」の文字を、下部に「JOMON JAPAN」の文字を配置しました。「JAPAN」には「漆」の意味もあります。



「漆」についてアジア大陸に自生していた「漆」の木は、縄文時代(約16,000年前〜2,900年前)に日本列島に伝わり、広がったと考えられています。 福井県の遺跡で発見された木材を2012年に調べたところ、約12,000年前の「漆」であることが分かりました。

先ずは三内丸山遺跡のロゴの説明から、これが漆なのであるそうです、漆といえば昔の知り合いに浄法寺町の頃の町長(現在は引退)赴任中から東北浄法寺町の漆の質は大変上質で金閣寺、日光の東照宮等の塗り替え工事には全てを浄法寺町の漆を使っている等営業したと自慢された記憶が残る。金箔を貼るには質の良い漆は必至な接着剤だそうです。質の悪い漆を地ようすると「金閣寺」でなく「黒閣寺」になると笑っておられた事が印象的でした。縄文人達も確かに接着剤としての使用範囲は大変広い様である。接着剤としてはアスファルトも使っていて多様です。



上記写真は、お土産に購入した縄文ロゴ入りのTシャツである。

参考にしてください。YouTubeの三内丸山遺跡案内です、【解説付】縄文時代にタイムスリップ!三内丸山遺跡(青森県)



ボランティアガイドをして頂ける本地最後のガイドさんです、小冊子にも登場されてます、跡の規模は、全体で約42ヘクタールあります。 これは東京ドーム約9個分くらいになります。発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきましたが未だ発掘途中で後30年ほどは作業が続くそうです。


縄文の道路脇に当時の知名人が眠るお墓でそうです。道路を両側から見守っている様に配置されたいる。


丸山遺跡中心部に小高い丘があり、そこが一般の墓地が並び、出土すると一緒に埋葬した土器が発掘されている、人骨は日本の土壌は弱酸性のため今や土に帰っているそうです、しかし僅かながら亡骸からは紐状のものから僅かな漆素材が見つかっている様です。


この建物は一般的な家庭であったと思われる住居後である。


他には高床式の住居が並び意外と精巧な作りとなっている。食料品等の保存用に使われたものであろうか?

当時から多分ネズミ被害防止策とし高床式の倉庫としても重宝したいたのであろう。


近寄って見ると簡単には入居できない工夫おあり、資料館では魚の骨もあり1メートルほどの鯛の骨も貝塚から見つかって現在展示されている。


縄文人達は意外と規律は正しく。壊れた土器等は場所を決め廃棄処理していた事がわかる。まさに当時は北陸地方、北海道地区久慈地方との交流もあり、海洋交通も盛んに行われた様であり、どの様な船で海洋交通をいていたのであろうか?
言葉は話したのであろうか?文字は如何に等疑は尽きない・・・


これは壊れた土器を集めた場所である。
不思議なとこは次々に頭によぎる、次には子供のお墓である、当時出産は生死が虎理合わせでの作業であったようで、また子供の頃は抵抗力も弱く成長が不安であったと思われる。子供専用の墓地であり、使われた土器に入れ埋葬し土器の後ろに小さな穴をあけ、蘇ることを祈ったのであろう。



亡骸を入れた土器は斜めに埋め此の場所に何層もの同じ形式の土器が発掘された様である。



大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

しかし縄文時代のこの時代には数値に詳しく、柱をわざと傾かせ強度を計る等は建築設計者が居なければこの柱建物は出来ない様に感じるが・・・?



高さ15メートルある大型掘立柱建物は、ガイドさん曰くこの建物の補修したときに上に登れたそうであり、上からの景色な陸奥湾まで見渡せ勿論津軽の海も見えたそうです。
この建物は何の為に作ったのかは未だ不明である。何れにせよここから見えるのは近隣の海の様子でもあり海洋国に相応しく丸木船の目印になっていたのかも知れない。謎は深まるばかりである。



多分ドングリの柱の創作には黒曜石の刃物が使われたのであろう、ノミの様な道具でも製造したと思う、しかし見学していると縄文時代の想像をするのが楽しみでもある。縄文人は暮らしやすい村を構築して行ったのであろう。

直径1メートルのドングリの木の櫓で組み込んでいるそうです、しかしこの建物は設計者がいなければ建築は不可能と思う、当時は文字も言葉も使った板等に思う、1400CC程の脳の重さがある縄文人は現在の脳と同様とは驚きでもある。



少し面白いお話ですが、木の実等(桑の実等の果実を発酵させ簡単なお酒も作っていた様であり、神への捧げ物とし記念日などには皆で楽しんだのでは無いのかとの思いに耽るが、お酒作りも発見されている様である)全く現代と変わらない生活を感じる、と同時に今の生活より平和度は高い様である。

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。
復元されていて内部を見学することが出来ます。
この建物も個人用の建物同様建物の床は一定の深さを掘り其処に柱を建て屋根を配置し、中央で火を焚き柱等の腐食を防ぎ実に日本建築の当初の建て方と同様であり学ぶ事も実に多くある様である。縄文土器のお陰で煮る、茹でるの新しい調理用は食材を丁寧に調理し常に食卓を豊かにしてのであろう。

下記写真は大型住居跡の内部で写真です。



集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
中央から建物を見ると柱が鳥居に見えるは筆者だけなのであろうか・・・?皆で神々の信仰も行なっていたのであろう・・・・・?



大型住居跡の柱を見て何か感じませんか?東側に鳥居の形してませんか、共同礼拝所であったのかもしれません。



大型の縄文土器の展示物。特に食の新しい料理方法に変革を起こした土器類は調理は焼くから、煮る、蒸すという新しい調理方法の発見であろう。
旧石器時代から縄文時代に入りの革命は土器の発明であろう、食文化が大幅に向上し平和に豊かにと変化してのであろう。


上記縄文土器は現在でも使えそうであり、5000年以上前から煮物等に使っていたと言われる。



ヒスイ:約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれました。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっています。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要でした。
黒曜石:ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきました。 
コハク:岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきました。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられます。

ここで想像できる事は縄文人は大変に平和であったのであろう、食料もある程度豊富で、ある程度整った衣服を身につけている。次には珍しい琥珀、翡翠等の装飾品を身に纏いお洒落も楽しんだであろう、豊富な魚介類に囲まれ穀物は栗、椎の実、ドングリ等の穀物を食べ生活を楽しんでいたのであろう。

閉館時間も近くなり青森の宿泊地に出発です、ホテルチェックインした後取り敢えずビールで乾杯。その後は新鮮な魚介類で縄文の世界を語り合った。


本日は青森の新鮮なお魚をたっぷり頂きなが縄文時代の話が盛り上がり、老人の歴史勉強で盛り上がった様です。
このブログはもう少し前に仕上げたかったのですが、東北と関東の温度差の違いに体力が付いて行けなく、上野に到着後大変身体が暑く感じた、体調を整えるので時間が掛かった、確かに老人の世界に足を踏み入れたと実感する、この後の旅行の続きは後日掲載予定します、縄文の世界にブラボー!