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恒例の震災モニュメント・ウォークを終えて。

2009-01-26 19:49:39 | ウォーキング
昨日は、お世話をしているウォーキング倶楽部の月例会で 新年恒例の阪神
大震災慰霊碑(モニュメント)を訪ねてきた
震災で亡くなった人の霊を慰め、復興への 誓いを新たにすることを目的に
して始めたこのモニュメントウォークも6年目

JR三ノ宮から集合場所へ急いでいると神戸市役所の横にある広場は相当数
の人が列をなし、立ちっぱなしで食事をしていた
職や食べ物を失っている人たちへの炊き出しと思われたが、現実にその姿を
見ると気持ちがふさがる・・・200人くらい?いや、もっといたか・・・


10時15分、三宮東遊園地の希望の灯り前をスタート(前回の下見ブログ
に写真掲載) 晴れたり曇ったりの天気だが風が冷たい

最初に公園内の震災跡を訪ねたあと海岸方面へ
浜手バイパス被災構造物展示モニュメントへ向かう、ここで先ずあの地震の
破壊力のすさまじさを見せつけられる

ここは86年に 開通した高架道があるが、72基の橋脚のうち52基が壊
れ、橋桁も最大で3.5メートル横ずれた、コンクリートがはがれ落ちて中
の鉄筋が曲がっている橋脚がそのまま保存されている
縦530トン、横94トンの力に耐えられるという支承も破断して計り知れ
ないエネルギーを伝えている




そこから海岸線を水上警察前を通って神戸港震災メモリアルパークへ
ここには崩れ落ちた波止場のうち南端から60メートルをそのまま残して海
に回廊を設けて被災の生々しいありさまを再現できるように保存されている


再度、東遊園地に戻り今日のコース、三宮から西灘方面にすすむ

三宮のビジネス街の真ん中にある小野神社では、両側に折れた鳥居が二本
ずつ置かれ左右の各一本に「甦れ神戸 復興祈願」と彫ってある


そこからしばらく寒風の中をすすみHAT神戸手前を右折、阪神春日野道駅を過
ぎまっすぐに商店街を上って行く 、このあたりの商店街も壊滅状態になった
ところで今は 新しい街が出現したような新しい建物が続く

商店街から路地を少し入り押絵千体地蔵がある 常光院へ。
休日で中へ入れず院の前で震災の体験談を話していると住職さんが外出から
戻ってきたところに遭遇して中へ招いてもらい押絵千体地蔵をみせていただ
いたどれ一つとして同じ顔 がない押絵千体地蔵は慰霊者の魂を慰めるために
自らも被災者であった押絵「みやび流」三代目の小西松甫さ んとお弟子さん
150人が制作、奉納したもの


高野山大学でも講義をしているという住職さんからたくさんの話を聞かせて
いただくというおまけつきのすばらしい出会いだった
自分が学習のために用意していた資料と寺に掲示してあった資料 が同一の
ものでびっくりした

メンバーの一人、Yさんがこの商店街のすぐ近くで被災しており、ここは案内・
説明役をしてもらう

Yさんの再建された家を突然訪ねて独りで生活をされている82歳の お父さ
んにお目にかかった、ご厚意で暖かい部屋で昼食の弁当をすませ、メンバーに
は、他に二人が神戸で被災を体験しており、お互いの震災当日のこと、その後
のことで話題が尽きなかった

Yさんが数か月避難していたという小学校の教室をみながらすすむ
避難場所の大変だった生活ぶりや地区の当時の状況を聞きながら進む

透析が必要だったお母さんのことを聞いた・・・どんなに辛い日々だったこ
とだろう(詳しくは前回のブログで書き込みずみ)

住宅街の一角、木々に囲まれてたたずむ若宮八幡神社へ、ここには再建した
鳥居がある柱に「復興阪神淡路大震災」の文字が彫られており、震災では社
殿も傾いたそうだそれでも境内は避難場所となり大勢の人が生活をしていた
とお寺の人が話してくれた鳥居の上の部分が折れて落下、今はその部分を接
続した鳥居が立っている


本殿にお参りしたらここで結婚式をあげるというカップルが予行演習をして
いた・・・こんな幸せがいつまでも続いてほしい

またしばらく国体道路をウォーキング 、ここも家屋が倒壊、火災で大変な
被害があったところ、Yさんの説明には説得力がある

JRの線路下をくぐり西灘小学校へ

ここ西灘小学校校庭横の花壇の中に悲しい物語のある時計のモニュメントが
ある

背丈3mの「時計になって帰ってきたアッコちゃんの時計 」と
「あの子は天使です」と彫られた碑がある

卒業できなかった浅井亜希子ちゃんをしのぶソーラー時計だ
あじさいをあしらったプレートには「あの子は天使です」という母、 鈴子さ
んのことばが刻まれている


浅井さん一家の住んでいた灘区の家は震災で全壊した11歳の亜希子ちゃん
は8時間後に救出されたが、破壊された筋肉から出る毒素による「クラッシ
ュ症候群」に侵されていた、そして、2月10日、短い生を終えた

「お母さん、泣いたらあかんで、私、大丈夫やから」

手術の前に、お母さんの首に両手をまわし、逆に励ましたのが 最期の言葉
になったという

ここも4年ぶりに来たが、碑文を読み、資料の読み合わせをしていると自然
に涙が出て・・・メンバーに言葉もない
はるかのひまわりのはるかちゃんも同じ5年生だった、子供のモニュメント
はいたましい

再びJRをくぐって西灘公園のモニュメントへ
阪神大石駅のすぐ南側、西灘公園の一角にある慰霊碑だが ここ西郷地区は
八割が全半壊113名が亡くなったという 、名前が彫りこまれた慰霊碑に
同姓の名前が目立つのは家族で亡くなられたのだろう


ここから、都賀川公園に沿って再び六甲山方面に上って行く
この那賀川沿いも被災地、復興の桜並木が続く、向いは被害を受けた灘の酒
蔵が続く

遊歩道が川の両側にきれいに設置されているが、そこを歩いていた人が昨
年、鉄砲水で数名の人が亡くなっている

しばらくして石碑「復興の誓い」の前へ
碑には”協働と調和の精神を財産とし、 さらなる復興へと力強く歩む”と
メッセージが込められ、933名が亡くなった灘区の街づくりのシンボルにし
ている



寒さも増し陽も六甲山に沈んで夕闇になったのでここでゴールのJR六甲道駅
へ向かう

六甲道駅には復興の誓いの全線開通記念モニュメントが立っており鉄道員の
復興への誓いも壁面に刻み込まれている

大震災でJR西日本は、137両が脱線、転覆した、山陽新幹線の橋げたは
8ケ所で落下した駅舎の中で唯一全壊したのがこの六甲道駅だった
しかし、わずか2ケ月半で復旧、4月1日に全線開通させた

そのJR六甲道駅復旧に賭けたJRマンと支援した地元住民とのことが、
NHK「プロジェクトX・挑戦者たち」 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」
で17年1月11日で放映された物語の場所
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その放送について当時のNHK神戸の記事の一部・・・

1995年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸の鉄道網。道路
は大渋滞で麻痺し、神戸は他都市と隔絶され、陸の孤島となりました。
しかし、わずか2か月半後、驚異的な早さで全線開通した路線がありました。
最大の難所となった六甲道駅一帯(神戸市灘区)。高架化されていたこの区
間は、がれきの撤去、新たな高架橋の建設など大規模な工事が必要でした。
「鉄道の復旧なくして、神戸の街は蘇らない」とJR西日本と共に果敢に挑
んだのは、関西の建設会社・奥村組の技術者たち。変わり果てた故郷の姿を
目の当たりにし、今こそ土木屋の力を出すと誓いました。
工事は難航を極めました。1200トンもある巨大な高架橋は大きく傾き、
二次災害を起こすおそれがありました。さらに度々、強い余震が襲い、工事
中断を余儀なくされました。真冬の現場で24時間体制で闘ってきた技術者
たちは疲労の限界に達しようとしていました。そのとき建設マンを励ました
のは地元の被災者たちでした。
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16時過ぎに六甲道駅へゴール、モニュメントの前で資料による最後の学習
を終えた、駅を行きかう人が不思議そうな目を向けるがそんなことはお構い
なし


寒いので近くの店でコーヒータイム、話が弾んだ

夜にクラブの掲示板を見るとメンバーの一人ひとりが、 参加してよかったと
この日の思いを掲示板に書きこんでくれていた

今年で6年目の震災モニュメントウォークだが、亡くなられた人のこと、震災
のことを忘れないように自分が このクラブを続ける限りこのウォークはずっ
と続けて行きたい

そういえば、住職さんからくれぐれも気をつけてほしいと言われたことがある

被災された人に接する時の心得として

慰めてあげたいという気持ちで神戸にこられることはわかるが
震災を受けた人たちに接する時はことばには気をつけてほしい・・・

重みのある言葉だった

そういえばYさんが
10年目になってやっと震災の話ができるようになったと言っていた
被災者の方々の心の復興にはまだまだ道が遠いのだろう。


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