自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

心の優しさについて

2013年11月15日 | Weblog

 心の優しさは、
 正義がもっている領土よりも
 もっとずっと広い領土をもっている。
              (ゲーテ『箴言と省察』より)

 我こそは正義なり、と声高に演説するのは、その人を支持する側から見れば、すこぶる格好のいいものだと思う。しかし、その人に反対する側から見れば、とんでもないことで、時としては許し難い行為である。それ故、「正義がもっている領土」なるものは、極めて限定されたものだと言わざるを得ない。
 これに反して、「心の優しさの領土」は、年齢、性別、国籍、民族、宗教、政治的立場などの相違を越えて、広大無辺だと言えよう。
 ゲーテの言う通りだと思う。しかし、現実には、「正義」はもとより「心の優しさ」も現実離れしているようにも思われる。僕はかつて、「正義」について机上で熟慮したつもりであったが、それはやはり空論であった。僕は大抵の時、「心の優しさ」を持とうと思っているが、この思いと反対の行為に出る場合がある。それは、相手が権力もどきを隠れ蓑に僕に対して来る場合である。
 思うに、「正義」も「心の優しさ」も、もうひとつ奥深い所で、自然の摂理と合体した人間としての「優しさ」に支えられていることに気がつかねばならないのだ。一月後に出番を待っているトナカイの「優しさ」のような。

紅葉が待ちきれなくて

2013年11月14日 | Weblog

 (一昨年撮った写真は京都・永観堂の紅葉)

 何年前ぐらいからか、紅葉が遅れる傾向にあるらしい。温暖化が原因だとの指摘もある。
 草木の葉が黄(紅)変するのは、アントシアンという色素が葉中に形成されることによって生じるが、それは四季にわたり、例えば、春の終わり、常緑樹に新しい葉が出る時、古い葉が黄変して落葉する。しかし日本の秋の紅葉が特に美しいのは、その気候や地形が紅葉に適した条件を整えているからであろう。紅葉が鮮やかに発現するには、温度、水分、太陽光などが蜜接に関係し、昼夜の寒暖の差が大きい、適度の湿度がある、紫外線が強いなどの条件が必要で、山間部の渓流近くで紅葉が特に美しいのは、これらの条件がそろっているからである。

  奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の
        声きく時ぞ秋はかなし(詠み人知らず)

 この歌から想像するに、奥山の渓流に水を飲みにきた鹿が落葉した紅葉をふみわけ、冬まじかな空気を察して鳴く、その鳴き声につられて、秋はかなしきと作者は詠んだのであろう。
 もう一つ、句を、

  この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉(三橋鷹女)

 輝きわたる一面の紅葉を前にすると、この世とあの世の境が判然としなくなるような恍惚とした気分になる。黄昏時ともなればなおさらであろう。紅葉を詠んだ句としては、この句に優る句はないように思う。

 とかなんとか、うつつをぬかしている間に十一月も半ば。何故か今年は何もしていないのに、時の経過が早い。何もしていないから、何かしなければと、気分が落ち着かないのだろう。


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葉脈

2013年11月13日 | Weblog


 落葉樹は8割がた葉を落としている。毎年葉を落とす訳だが、二ヶ月もすると芽吹く。一枚々々の葉の命は短いが、木は無数の葉を次々と生み出し実を落としながら何十年、何百年、ときには何千年も生きる。一つの個体でありながら、同時に種としての普遍を表現しているとも言える。アメーバから人間までの生物学的進化を示す、幾つにも枝分かれした「系統樹」という図があるのも、そうした木の命の相からヒントを得たからかもしれない。
 一枚の葉も、よく見れば、木全体の縮図にも見える。橡でも欅でも椿でも、よく見ると、その葉柄からのびる葉脈は、幹から分かれる枝に似ているようにも見える。一枚の葉が、緑の葉を繁らせた一本の木のように見えないだろうか。葉を水の中で腐らせて溶かして(子供の頃したように、あるいは運がよければ見つかるのだが)、葉脈だけを残した葉は、葉を落とした冬の日の木の縮図のようで美しい。
 自分の縮図である葉を無数に繁らせて、夥しいいわば小宇宙を身につけたいわば大宇宙といった風格で、悠然と佇んでいる木もある。
 かつて落葉照葉樹林の道がケルトから大陸を通り日本にまで続いていた時代が遠き昔あったそうだ。シルクロードと海路ともう一つの道があったそうだ。その木々の伐採を糧に人々は文明を築いてきた。これからは世界規模で木を育てる時代だと思う。

憲法の「憲」って?

2013年11月12日 | Weblog

 憲法改定の是非を問うための国民投票法の改定が取り沙汰され、一部で憲法を巡る論議が盛んになっている。そもそも「憲」ってどういう意味なのか。
 憲法といえば、歴史的には聖徳太子の十七条憲法(604年)がよく知られているが、これは官吏らへの道徳的訓戒という意味が強く、近代憲法とは性格を異にしている。
 明治時代の法律家・穂積陳重(のぶしげ)の『続法窓夜話』によると、国家の組織や統治の原則を定めた根本法という意味で憲法という言葉が使われたのは、明治の初めからだそうだ。法学者の箕作麟祥(みつくり りんしょう)が‘constitution’の訳語として憲法を当てたのが最初とされる。当時は、ほかに「国憲」、「律例」、「根本律法」、「建国法」など、様々な訳語があふれていたようだ。
 数多い訳語の中で憲法が定着したのは、やはり十七条憲法の存在の影響だと推測される。
 『字通』(白川静)によると、「憲」は、目の上に入れ墨をした様子を表した字だそうだ。古代中国では、刑罰として顔に入れ墨をさせられた。それが変じて「おきて」を意味するようになったとのこと。最高法規にふさわしい厳しさをもった字と言える。

 ところで、最高法規の憲法を今、なぜ変えようとしているのか? 次代をになう小学生や中学生や高校生にも明瞭に分かるように説明する義務がエライ人にはあると思う。なにしろ「最高」を変えようとしているのだから。

武という字

2013年11月11日 | Weblog

 字を手で書くことが少なくなった。現に今、字を打っている。手で書くことが少なくなればなるほど、字の意味を忘れるのではないか。
 意味を忘れる前に、字を忘れることもある。やはり字は書かれなければと思いながらも、この文の字を打っている。
 以前に気になったのは「武」という字である。或る辞書によると、「武」は「弋(ほこ)と、足の形の止とからできて、ほこをもって勇ましく進むこと」とある。僕はこの意味を直感的にいぶかった。
 そこで、図書館で『漢字学』という古い本を見つけ調べてみたことがある。それによると、「そもそも武(勇気)とは軍功をたてれば戦いを止めること。それが本当の勇気である。だからこそ「武」という字を見よ。それは止(やめる)と弋(武器、いくさ)とからできているではないか。」
 武という字の本義は、武器の使用の停止にある。これが本義だと思う。
 本義を忘れた世界の武器をもてる荒武者たちよ、もういいではないか、戦いを止めるがよい。 武器を持たせた者どもよ、もういいではないか、戦いを止めるがよい。

2013年11月10日 | Weblog

 森と林はどう違うのか。森の方が林より木が一本多い、と言えば冗談のようだが、字面だけからしても森の方が林より鬱蒼としている。
 木という漢字がもともと象形文字で、その木を50本も100本も書く訳にはいかないから、三つ集めて一文字とし、三つの木は殆ど無数の木の集合を表していると考えられる。
 森の字を含む熟語に「森厳」があって、「森厳の気満つ」などと使われる。この表現は奥深い大自然を前にして人々が抱いた畏敬の念を想像させる。「森羅万象」と言えば、一般に宇宙の万物を差すが、辞書によれば「森羅」とは本来無数の木が茂ることを言う。
 ともあれ、天地万物の象徴として森のイメージが用いられたこと自体、自然・世界に対する人間の感じ取り方を本来表していると思われる。
 古代には世界中至る所に人跡未踏の森があり、そこには神々が住まいし、木霊、木魂が棲んでいた。神秘な畏敬すべき場であった。オランウータンは「森の人」を意味し、人間は彼らを敬った。
 古代に戻ることは出来ない。戻れなくても、しかし、森を守り、森を増やすことは出来る。環境破壊から持続可能な世界を目差すには木に頼ることが必須である。木を植える人を大切に思わなければならない。僕の視界からどんどん林が消えていくのを見るとき、つくずくそう思う。

2013年11月09日 | Weblog


   
  菊 花   白居易(中唐)

一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し


(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
 寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
 そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
 その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

 一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かぶ。
 朝晩、秋冷が続きます。お風邪など召されませぬように。

特定秘密保護法案 議員の良識で廃案へ

2013年11月08日 | Weblog

(朝刊より)
 特定秘密保護法案が衆院で審議入りした。国家が国民の思想の領域まで踏み込む恐れがある。国会議員は今こそ良識を発揮して、廃案にしてほしい。

 潜水艦の潜水可能な深度、テロ情報収集のための情報源、公電に使われる暗号…。自民党はホームページで、秘密保護法案により漏えいを禁じる特定秘密の具体例を挙げている。

 国家が秘密にしたい事例として、納得する人も多いだろう。だが、秘密に該当しない情報さえ、恣意(しい)的に封殺しうるのが、この法案である。行政機関の「長」が「秘密」というワッペンを貼れば、国民から秘匿できるのだ。

☆35センチの壁も「防衛秘」

 特定秘密の指定の際に、有識者が統一基準を示すというが、あくまで基準にすぎず、個別の情報を調べるわけではない。国会や司法のチェック機能も働かない。これは致命的な欠陥だ。

 特定秘密は防衛省や外務省、警察庁などが扱い、約四十万件が指定されるとみられる。だが、秘密とするには、実質的に秘密に値する「実質秘」でなければならない。最高裁判例が示している。

 この膨大な秘密の山は、本当に「実質秘」だけで築かれているだろうか。ある情報開示訴訟で国側が敗訴したケースが、その欺瞞(ぎまん)性を象徴している。

 海上自衛隊が那覇基地の建物を「防衛秘」としたことに、最高裁が二〇〇一年、秘匿の必要性を認めなかった。国側は「爆撃機の攻撃力を計算して、耐えうる壁の厚さを設計した」などと、もっともらしい主張をしていた。だが、壁の厚さは、たったの三十五センチだった-。

 要するに行政機関は、隠したいものは何でも隠すことができる。いったん「特定秘密」に指定されてしまうと、半永久的に秘匿されうる。問題点は明らかだ。

☆崖に立つ報道の自由

 法案には防衛や外交の分野のみならず、「特定有害活動」「テロ活動」も加わっている。

 特定有害活動はスパイ活動を指すが、この項目には「その他の活動」という言葉もさりげなく挿入している。テロは人を殺傷したり、施設を破壊する行為だが、条文を点検すると、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若(も)しくは他人にこれを強要」する活動も含まれると解される。

 主義主張を強要する活動が「テロ」とするなら、思想の領域まで踏み込む発想だ。原発をテロ対象とすれば、反原発を訴える市民活動も含まれてしまう。

 秘密を漏らした側にも、聞いた側にも最高十年の懲役刑が科される重罰規定がある。とくに「特定秘密を保有する者の管理を害する行為」を処罰する点は問題が大きい。管理の侵害とは何か、全く判然としていないからだ。

 しかも、既遂や未遂はむろん、共謀、教唆、扇動も罰せられる。これは秘密に接近しようとする行為に対する事前処罰であろう。刑法の共謀は犯罪の実行行為を必要とするが、この法案はその前段階である「話し合い」を共謀、「呼び掛け」を扇動とみなしうる。

 刑罰は強い拘束力をもつため、あらかじめ罪となる行為を明示せねばならない。だが、この法案では処罰範囲が、どこまで広がるかわからない。近代刑法の原則から逸脱する懸念が強い。

 報道の自由について「出版又(また)は報道の業務に従事する者」と限定しているのも、大いに疑問だ。ネット配信する市民ジャーナリストらを排除している。かつ「著しく不当な方法」による取材は、取り締まりの対象だ。

 不当かどうかの判断は、捜査当局が行う。ここにも恣意性が働く。裁判で無罪となるまで、記者らは長期間、被告人の立場に置かれてしまう。強い危惧を覚える。

 ドイツではむしろ「報道の自由強化法」が昨年にできた。秘密文書に基づいた雑誌報道に対し、編集部などが家宅捜索を受けた。これを憲法裁判所が違法としたからだ。今やジャーナリストは漏えい罪の対象外である。

 民主党は情報公開法の改正案を出しているが、秘密保護法案は情報へのアクセスを拒絶する性質を持つ。「国家機密」が情報公開制度で表に出るはずがない。

☆憲法原理を踏み越える

 何より深刻なのは国会議員さえ処罰し、言論を封じ込めることだ。特定秘密については、国政調査権も及ばない。行政権のみが強くなってしまう。

 重要な安全保障政策について、議論が不可能になる国会とはいったい何だろう。議員こそ危機感を持ち、与野党を問わず、反対に立つべきだ。

 三権分立の原理が働かないうえ、平和主義や基本的人権も侵害されうる。憲法原理を踏み越えた法案である。

個人主義

2013年11月07日 | Weblog

 人は考える事をよくする。ロダンの「考える人」からはいかにも何かを考えているような印象を受ける。僕は物事について筋道を立てて深く掘り下げて考えているだろうか、と気になることがある。人の請け売りをしているだけではないのか?しかし、本当に請け売りではない知識というものがあるだろうか?あるとしても、余程の異質な経験を積んだ人か、考えに考えを重ねて、そこに偶然がはたらいて新しい事を考え付く人か、とにかく、請け売りではなく考える人は少ないのではないか。
 そうだとすると、僕の考えなどはすべて請け売りだと言わざるを得ない。請け売りで考えるにしても、僕の為だけになるようには考えたくない。普通思われているような個人主義には陥りたくない。
 思うに、個人主義は、自分の利益だけを排他的に考える立場ではない。そうではなくて、自分の意思を尊重するのであれば、他者の意思も尊重しなければならず、他者の意思を尊重するという枠の内で、自分の意思の実現に向けて考える事が、個人主義という立場なのだ。
 このような立場に果たして僕は常に居るだろうか。請け売りで考えているのであれ、他者の意思を尊重するという枠内で考えたいものだ。それがなかなかに難しい事なんだけれど。
 様々な分野に排他的な個人主義が居座っているように思われる。

串柿作り日本一

2013年11月06日 | Weblog


(画像はネット友達から戴いたもの)
 昨日の朝刊に写真とともに「和歌山県(北部の)かつらぎ町四郷地区では正月の鏡餅に飾る串柿作りが最盛期」と。
 標高300m の山あいの町は串柿生産量日本一だそうだ。
 竹串に10個の柿を刺したものが主流だが、最近では鏡餅の小型化で柿5個のものも人気。「ひとりひとり(1個1個)がみな(3個)幸せに」と家庭円満の願いが込められて。

木枯らし1号

2013年11月05日 | Weblog

 近畿では昨日、木枯らし1号が吹いたとのこと。
 童謡「たきび」で、たきびをしている場所はどこだったかというと、山茶花が咲き、木枯らしが吹く寒い道だ。山茶花が咲き始める季節と木枯らしが吹き始める季節とはだいたい同じ頃なのだ。今年はまだ山茶花は咲いていない。
 冬の初めの、北または西寄りの強い風を木枯らしという。その年の最初の木枯らしを「木枯らし一号」と呼ぶ。
 ものの本に依ると、東京に木枯らし一号が吹いた日の平均日は十一月八日。この日は偶然にも立冬(毎年十一月七日か八日)と一致する。平均日というからには、早い年には十月下旬に、遅い年には十二月初旬に木枯らし一号が吹くということだ。
 ある風を木枯らしと言うには、幾つかの条件がある。風が吹いた時の気圧配置が西高東低であること、風向きが北から西北西の間で、最大風速がおよそ八メートル以上あること、日中の気温が前日より二、三度低いこと。このような条件を充たし、冬に最初に吹く風が木枯らし一号なのだ。
 木枯らしが吹く仕組みはどうかと言うと、だいたい次のようであるらしい。太平洋側で木枯らしが吹く頃、日本海側では時雨が多くなる。上空の気圧配置が西高東低になると、北極から水分を含んだ寒気が押し寄せる。この寒気は、日本海側の山地で雨や雪を降らせ、水分を落とす。こうして、山地を越えて、太平洋側に吹く乾燥した寒気が木枯らしとなる。
 今年の木枯らし1号は立冬以前に吹いた。天に坐します神様、お願いだから秋の風情を楽しませてよ。
 東日本大震災の被災地は、もうだいぶん寒くなっているだろう。仮設住宅などでは冬になれば雪下ろしも大変!!!

蓑虫

2013年11月04日 | Weblog

  蓑虫の音を聞きに来よ草の庵(いほ)   芭蕉
 
 樹木の枝、または葉から細い糸をたらしたその先に蓑虫が下がっているのを見かける。蓑は三、四センチ、細枝や葉を噛み切って、口から吐いた糸で巻いてこしらえるものだが、よく見るとうまくできている。
 清少納言は、これを鬼の捨て子だといい、「風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、父よ母よとはかなげに鳴く、いみじうあはれなり」と書いた。あの姿から異形の鬼を連想したのであろうが、民俗学によるとミノは来臨する神人が身に着ける約束になっていたもので、秋田の「なまはげ」がその代表的な例だというから、鬼との連想が現代よりずっと容易であったのだろう。
 蓑虫はミノガの幼虫で、もちろん鳴くものではない。しかし、清少納言といい芭蕉といい、文学では秋風の中に侘しく儚げに鳴く虫ととらえたのは、あの姿にふさわしいのかもしれない。
 ただ、侘しく儚げにというだけではなく、あの蓑や糸には強風にも雨にも雪にも負けず冬を越す強靭さがある。自然の造物主の工夫がすぐ近くで見られるのが嬉しい。

落ち葉

2013年11月03日 | Weblog

 夏の間、太陽の光を吸い、活発に働き続けてきた落葉樹の葉は、秋風に散って土を覆う。
 土を覆う落ち葉は、土壌内の生物との合作で肥料になり、その肥料はまた根から吸収される。自然界の循環作用である。
 一説に、原生林の林床を踏む場合、両足の靴底の面積を約400平方センチだとすると、両足で8万匹もの生きものを踏みつけていることになるそうだ。森の土には、土壌ダニなどの小さな生物がそれだけ沢山いるということだ。それらの生物が木の葉を食べ、肥料を生産する有り様はまさに精密工場なみだと言わなければならない。
 都市部ではアスファルトやなけなしの土の上に散った落ち葉もすぐに掻き集められ、捨てられる。木の葉という栄養分の補給がないから土壌内の微生物も死に絶える。都市部の土は死んだ土になりつつある。
 命のこもっている木の葉の恵が忘れられつつある。忘れずに、木の葉と微生物の合作活動に思いをいたすことがあっても良いのではないだろうか。秋の夜長に。

 (どうしても気になるのが放射線汚染された葉っぱや落ち葉。山や森や林の除染はどうなるのか。)

旅愁

2013年11月02日 | Weblog

   楓橋夜泊(ふうきょうやはく)  張継(中唐)

  月落鳥啼霜満天   月落ち烏啼いて 霜天に満つ
  江楓漁火対愁眠   江楓(こうふう)漁火 愁眠に対す
  姑蘇城外寒山寺   姑蘇(こそ)城外の寒山寺
  夜半鐘声到客船   夜半の鐘声(しょうせい)客船に到る

(月が沈み、鳥が啼いて、霜の気が天に満ちわたる。
 岸の楓と漁火が、うつらうつらとする旅愁の目に映る。
 そこへ、蘇州郊外の寒山寺から、
 夜半を告げる鐘の音が、わが乗る小舟に聞こえてきた。)

 高校の頃、漢文の時間に杜甫や白楽天の漢詩を学んだが、単に景色を写しただけ(と思った)文が、なぜ詩なんだろう、と疑問に思ったことがある。詩というものは内面からの声を絞り出すものではないかと思っていた。大学で吉川幸次郎や高橋和己の授業に遊び半分に出て、高校の頃の考えが変わった。詩というものは、内面の声を外界に託して、外界を内面に取り込む営為だと思うようになった。
 上の詩は、秋の夜半、しっとりとした旅愁を詠った優作である。

障子

2013年11月01日 | Weblog

 11月、障子越しのやわらかな光が恋しい季節。風に揺れる木の影が映る様を見ていると冬を待つ気持ちになる。
 紙を材料とした日本人の製作品での傑作は障子と襖ではないだろうか。
 たった一枚の紙で内と外をへだてる明かり障子は、外国では見られないのではないか。
 障子は光をやわらげる。部屋の隅々まで明かりを行き渡らせる。新しく張った障子は光に清々しさを与える。保温効果もある。空気を入れ替える作用もある。
 かつての日本家屋の多くは、ぬれ縁、雨戸、ガラス戸、縁側があって、障子があった。縁側や障子には、映ろう季節や世間と程よく付き合おうとする先達の知恵があった。
 洋風化の波にのって縁側や障子が追放されていったのは、いつ頃からだろう。
 戦後の住宅事情によって、縁側のような一見むだに見える空間は切り捨てられ、障子も減った。しかし、一見むだに見えるかもしれない縁側のような空間こそ、生活にゆとりを与える。障子や縁側を生んだ先達の知恵を切り捨てるわけにはいかない。
 こういう思いは、現代では贅沢というものだろうか。