心の優しさは、
正義がもっている領土よりも
もっとずっと広い領土をもっている。
(ゲーテ『箴言と省察』より)
我こそは正義なり、と声高に演説するのは、その人を支持する側から見れば、すこぶる格好のいいものだと思う。しかし、その人に反対する側から見れば、とんでもないことで、時としては許し難い行為である。それ故、「正義がもっている領土」なるものは、極めて限定されたものだと言わざるを得ない。
これに反して、「心の優しさの領土」は、年齢、性別、国籍、民族、宗教、政治的立場などの相違を越えて、広大無辺だと言えよう。
ゲーテの言う通りだと思う。しかし、現実には、「正義」はもとより「心の優しさ」も現実離れしているようにも思われる。僕はかつて、「正義」について机上で熟慮したつもりであったが、それはやはり空論であった。僕は大抵の時、「心の優しさ」を持とうと思っているが、この思いと反対の行為に出る場合がある。それは、相手が権力もどきを隠れ蓑に僕に対して来る場合である。
思うに、「正義」も「心の優しさ」も、もうひとつ奥深い所で、自然の摂理と合体した人間としての「優しさ」に支えられていることに気がつかねばならないのだ。一月後に出番を待っているトナカイの「優しさ」のような。