「このたび、ぼくにもおおきみ(大君)よりのおおみこえ(大御声)がかかり、ぼくはいら(答)えたてまつろうと、十月一日に久居聯隊に入営することになりました。
このときにあたりまして、べつにこれという決心はありません。
うまれ変わったつもりにもなりたくありません。
いままでしてきたような調子で・・・
むすめごをうたい
むすめごをえがき
うやい えがきて
はつるわがみは
うたいえがくを
なりわいとして
ひたぶるにただ
生くるわがみは」
1942年(昭和17年)9月頃の竹内浩三、二十一歳の本心であろう。
「昭和二十年四月九日時刻不明、陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」と公報。
何をかいわんや。
(三重県宇治山田市出身の竹内浩三が全国的に知られるようになったのは、2003年に岩波現代文庫の一冊として『戦死やあわれ』(小林察編)が出て以来のことである。それまでは小さな出版社が取り上げていた。遺品は松阪市・本居宣長記念館にある。)