谷沢健一のニューアマチュアリズム

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祝・柏市体協50周年!

2006-02-28 | YBC始動
 25日の練習後、急いで柏市に駆けつけた。柏市体育協会50周年の祝賀式典で、記念講演をするよう依頼を受けていたからだ。午後3時半からの講演の後は、8時の羽田発那覇行の最終フライトに搭乗しなければならない。翌日、沖縄で中日vs横浜のオープン戦TV中継の解説の仕事のためだ。
 私は柏市体協に感謝している。習志野高2年の時に、東京オリンピックが開催された。その時の聖火リレーの代表走者として、体協が私を選んでくれたのだ。津田沼ー谷津遊園をトーチを掲げて走ったことが忘れられない記憶として残っている。
 聴衆の体協関係者の中には顔見知りの方々も多く、私も気安い心持ちで、YBCの構想趣旨と活動を理解していただくよう話すことができた。講演会場のその後の懇親会場も雰囲気は暖かく、「YBCに協力してやろうじゃないか」とおっしゃってくださる方々もいて、大いに安心した。
 祝賀会を途中退席せざるをえない私に代わって、加藤副理事長が最後まで参席してくれたが、その報告によると、教育長の矢上先生と話がはずんだという。話題はゆとり教育についてだったそうで、やはり教育者は酒席でも教育者である。また、石切山スポーツ課長がYBCについて心配してくださっていたという。
 ともあれ、柏市体育協会のますますの発展を深く祈念したい。

初試合に向けて(その6)

2006-02-28 | YBC始動
 初試合前の練習としては25日が最後であり(26日は場所を見つけられず休み)、実戦のシート打撃を行った。室内だけに天井からつるされたネットが打球の行方を阻害したが、あえて実戦的練習を試みた。内容は逐一(ちくいち)触れるわけにはいかないが、投手5人が登板してそれぞれ40球以内とした(WBCは65球、YBCは40球なんちゃって)。いずれも内容が良かったので、誰を先発にして、どう継投させるか、悩みがまた一つ増えた。打者もケース打撃を念頭に「生きた球」に立ち向かっていた。それを見ていると自ずとオーダーが頭の中に浮かんできた。
 筆の勢いで書いてしまうと、遠征のために各自、少額でもいいから資金の積立を行うように選手に話したが、つい口が滑って中国・上海への遠征計画までしゃべってしまった。これはまだプランを煮詰めていない段階なので(正直に言うと、数日前、事務局で雑談していたら浮かんだアイディアでーー旧準備本部の古びたソファでの雑談はこれまでもアイディアの宝庫だった)、当然、スタッフも選手も一様に驚いていたが、同時に「展望のある目標」に笑顔で応えてくれた。いちばん喜んで活躍してくれそうなのは、中国経験の豊富な川島理事と藏重参与のはずだ。ね、お二方、そうだろう?

初試合に向けて(その5)

2006-02-28 | YBC始動
 25日の練習時の最初に短い講話を行った。ホームページに東大戦の出場メンバーを発表し、その中にサードチームの選手を一人だけ入れておいたが、その理由を説明した。当該の選手・海老原君は千葉県の強豪高校出身だが、硬式野球部には所属しなかった。彼の風貌はロン毛など、生真面目(きまじめ)な人たちからは顰蹙(ひんしゅく)をかいそうなのだが、練習を休むこともない。内野の守備練習で、ポロポロ、エラーをするたびに、大声で叱咤(しった)されていたが、ボールに敢然と向かい、いつも「野球が楽しいよ」という笑顔を浮かべていた。
 また、前西多摩倶楽部の笠原選手のクローズテストを行った。これまで、YBCの練習に参加しようと熱心に訴えていたが、ようやく前所属チームから退部の了解をえて(きちんと抹消届を得て)合宿の参加に間に合った。
 そのように、いったんJABA傘下のクラブチームに入部したら、おいそれと他チームに移ることは許されていないことを知ってほしいと思う。もちろんYBCの選手は、いつでも自由に退部し、他チームに移ってよい。私は選手の退部を拒否することはけっしてしない。少しでも自分にとって練習環境が良いチーム、少しでも自分の願いに近いチームに行くことを阻みたくはない。ドラフト制が施行されて4年目の年にプロ球界に入り、その束縛を理不尽だと感じた私の経験を、YBCの誰にも味わわせたくはない。そういう個人的な体験以上に、可能な限り人を拘束しないというのがYBCの理念だからである。
 彼のクローズドテストの結果(合格)を発表し、皆の前で挨拶をさせたところ、自然と全員から拍手が起こった。めでたくトップチーム入りである。また、松村選手もセカンドチームからトップチームへ移動した。選手たちには、東大戦後に各チームメンバーの入れ替えを行うと告知した。

初試合に向けて(その4)

2006-02-28 | YBC始動
 東大戦が迫ってきた。YBCにとって初めての試合だけに、それなりの準備はしておきたい。だが、何度も書いたことだが、練習場所が無い、無い、無い・・・根本マネ、藏重参与はそれこそ血相を変えて(ご両人とも白面の貴公子である)奔走しているが、無い、無い、無い・・・というわけで、けっきょくシツナイ、ナイ、ナイで、(週末の天気予報も考慮に入れ)再び神宮室内球技場を借用することにした。いささか誇大に言うと、断腸の思いならぬ断紐の思い(紐=財布の紐)である。
 東大側とも最終の打合せを行った。あれこれ配慮していただいたが、その一つが試合開始前の練習である。しばらく実際の球場での練習から遠ざかっているので、打撃の球感を五感で確かめられるし、内外野の守備も空間の間隙(かんげき)を実感できるだろう。
 審判はYBCの小松マネ(これまた白面の貴公子)が顔色も変えずに速やかに依頼してくれ、主審として埼玉県社会人野球連盟所属の方にお願いすることになった。線審は東大の選手3名が当たってくれる。
 ここで一言強調しておきたい、持つべきものは良き教え子であるということを!
 この試合を実現できた陰には、東大硬式野球部主務は、かつて私の体育実技を1年間「飛び入り履修」をしていた。その経緯は省略するが、毎週、真っ白なユニフォーム姿で白球(というより灰球)を追っていた。
 みごとに難関を突破した彼から、「野球部のマネージャーになりました」という連絡があった。「教員になって高校野球の指導にあたりたいんです」と予(かね)てから語っていたことを思い出した。昨年、食事を共にした時に、「谷沢先生の教えを守ったお蔭です」とお世辞を言ってくれたが、たいしたこともしなかったのに、早くも「恩」返しをしてくれたのである。
 

初試合に向けて(その3)

2006-02-19 | YBC始動
 反省すべき点も少なくない。その一つは、初試合を控えて実戦力を上げる練習に終始したために、サードチームの諸君を置き忘れがちだったことである。1月の練習では張り切って参加していた16歳、17歳の選手の何人かに覇気が欠けているのだ。合宿のミーティングでは、YBCフェニーズ秘策の「バントシフト」や「挟殺プレー」に時間をかけて説明したために、理解の度合いに凹凸が生まれてしまったようだ。
 18日の朝、神宮室内に着くと、選手の一人の父親が話しかけてきた。「息子が練習についていけないと、少し沈んでいるんですよ。」私は選手に話してやった、「そんな急には上手くならないから、少しずつやればいいんだよ。」
 そういえば、彼は合宿にも参加していなかった。1月の練習で音(ね)をあげてしまったのかもしれない。今日も打撃練習の第四組に入って、ホソバヤル投手が投げるボールに相対していたが、腰を引きすぎるスイングが目立った。彼だけでなく、自信を失いかねない選手のいるのが心配である。
 初試合のための実戦練習が優先順位の1番目だが、乗り遅れがちな選手の様々な疑問を解いてやることも後回しにできない。幸い、サードチーム担当の蔵重チーフコーチが、ノックやキャッチボールなどの合間々々に、選手たちに「無言の熱き激励」をしている。得がたい心配りで、選手も感謝すべきだが、私もまた感謝したい。
 「無敗而有敗」の意味をもう一度噛みしめてみたい気がすると同時に、「監督として優しすぎるか」と自問している。ともあれ、トップ・セカンドチームの諸君には、更に厳しさを加えなければならない。

初試合に向けて(その2)

2006-02-19 | YBC始動
 神宮室内練習場は使用料が高いので有名である。そのために、1年に何度も借りられる場所ではない。しかし、幹部スタッフの総意でもあるし、何と言っても経験の浅い選手たちには、第1回トライアウトのジャイアンツ室内練習場での喜び(プロの選手が使う場所で練習できる!)を感じさせることもできるだろう。というわけで、2日間の借用が決まった。
 18日は11時から3時間の練習。時間を有効に活用したいので10時に集合させた。阿部、勝原両トレーニングコーチの指導のもと、周辺コース(かつてマラソンの瀬古選手が練習していた所)を2周し、室内のウォーミングアップにダッシュ系を増やすことで、アップの時間を短縮した。
 約30名の選手たちは、きびきびと動き出した。携帯サイトの連絡網も開設したので、これからは東京事務局の手間も少しは省けるだろう。練習メニューは反復・継続が重要なので、合宿で行ったメニューを繰返し、とにかく実戦的なプレーを加味しながら行った。
 野手で目立った選手は、伊藤康太君である。彼の動きは合宿でもひときわ光っていたが、MVPを取り逃がした(その理由はグラウンドに何点か「忘れ物」をして私の手を煩(わずら)わせたからである。しかし、「康太、ナイスバッティング!」と私がいくどか声をかけたほど、左打者としての能力は高いし、外野の守備も軽快だ。東都大学リーグで活躍しながら、4年の途中で退部してしまった球歴の持ち主ではあるが、今は生き生きとして自分をアピールしている。
 投手では、茨城ゴールデンゴールズから移籍予定の木藤健一君である。現在の投手陣に加われば、彼がリーダー役になり、随所に手本を示してくれるだろう。球のキレも増しているし、初試合の先発候補にしたいくらいだ。
 いずれにしても東大戦が待ち遠しいのは、選手と手弁当で来てくれる優秀なスタッフたちであろう。私もそろそろ初戦のオーダーを決めなければならない。

初試合に向けて(その1)

2006-02-19 | YBC始動
 初合宿はいくつもの成果を生んだ。川島理事の合宿参加もその一つだ。合宿を終えた翌日(13日)、彼から連絡が入った。「谷沢ぁ、体の節々が痛いよぉ。でも、心地よい痛みだよ。野球はいいねぇ」(私を呼び捨てにするのはYBCでは彼だけである。大学野球部で私と同期だからだ。)かつて、日本IBM野球部の監督として東京都の社会人野球で戦っていた経歴の持ち主だが、長年、白球を握っていなかったという。その彼が「来週の練習はどこでやるか決まったか?」と気負い込んで言う。私は切ない気持ちで答えた、「いや、まだ決まらんよ・・・」
 実は、私は当日の早朝、自宅を出て、9時に柏市の練習候補地の検分を終え、加藤副部長に連絡した。「副部長っ! 3月から使用許可が下りているグラウンドは現状では使える状態ではないですねっ」私は怒りを副部長にぶつけ、「今から、柏市のスポーツ課に電話を入れますから」と言い切った。「理事長、怒るのは分かるけど待ってほしい、私がすぐに電話をしますから」
 この地は、11月末に柏市の関係の方が、私と副部長を案内した場所である。私は3度目の視察であり、よく理解しているグラウンドだけに(理解しているとはグラウンドの善し悪しだけでない)、「柏市の施設が全く使えなければ、我がチームは神出鬼没球団のままになってしまう。YBC柏どころか、YBC南関東と改名せざるをえないのか」という心境なのである。
 まもなく、副部長から事情説明と宥和(ゆうわ)の連絡が入ったものの、私は怒りを抱えたまま待たせていたタクシーに乗り、ついでにもう1ヶ所のグラウンドを見てから、都内に戻った。
 このニュースが、幹部スタッフの耳に入った。「監督ばかりに負担を懸けさせ続けられない」という優しいメンバーたちが、グラウンド探しに奔走してくれた。(この悩みはYBCだけでない。首都圏のチームは随分と遠くまで練習場所を求める。)
 その結果、川島理事曰く、「合宿でみんなのモチベーションが上がっている。それをここで低下させたくない。蔵重から連絡入ってなぁ、神宮の室内球場を2日間抑えようよ」と、わずかに静岡訛りの優しい口調で、川島が言う。体にかなりの痛みを感じながら指導者としての味を想い出したのか、私にとっては思わぬ所からの嬉しい反応であった。
 後で聞けば、すでに6日に根本マネージャーが副部長に「最悪の場合は、神宮室内の使用しかない」と打ち合わせており、それを藏重コーチに提案し、さらに川島理事に伝達され・・という流れだったという。この敏速なスタッフの意志の疎通は、まさに合宿で「同じ釜の飯を食った」せいだろう。

2月合宿アラカルト(その4)

2006-02-13 | YBC始動
 今回の合宿は側面から見ると、解説者用キャップの争奪戦でもあった。獲得者は、松村、松本、三輪、中村、小田、鈴木(隆弥)、長屋、根本の8人だった。(9つ目はお世話になった旭市の関係者にさしあげた。)
 なぜ、自分が獲得できたかをじっくり考えてほしい。自分が思っている自分自身だけでなく、他の人から見た自分の像というものがある。自分自身では「カッコイイ」と思っていても、他の人には全く別に、時には裏腹にさえ見えるものである。自己アピールとは、普通ではなかなか見せられないところを、自分の努力によって人に見えるようにすることである。簡単に見せられるところなら、もう何度も人に見せているから、アピールにならない。派手なプレーばかりしている者が、実は堅実なプレーをきちんとできることを見せる、それこそがアピールなのである。
 (なお、上記の7番目の人物は、監督らの衣類の洗濯を進んでしたためだという風評?も流れたようだが、けっしてそんなことはない。自分でやれる限りのことを必死でやろうとしている姿があったからである。)

2月合宿アラカルト(その3)

2006-02-13 | YBC始動
 選手諸君には貪欲になってほしい、というのが合宿の意図の一つだった。第一に自分の能力と技術を鍛えて高めること、第二にチームの戦力の向上に寄与すること、この二つは単純に結びついているようにみえる。著名な監督でも、「技術の優れた選手になることによってチームの勝利に貢献できる」とおっしゃる方が少なくない。そうだろうか? 確かに私も少年のある時期までそれに近い考え方をしていた。しかし、そうではなかった。野球は(あるいはチーム競技は)そんな単純なものではない。
 例えば、キャッチボールでも、なぜ相手の胸をめがけて投げ返すのか、もちろん、相手が捕りやすいからである。では、なぜ捕りやすい所へ投げるのか? 捕球しにくい所へ投げる方が相手の捕球技術が高まるではないか。
 さあ、(とくにサードチームの)選手諸君、この疑問に答えられるだろうか? 今回の合宿では、そういう課題の解答もひそかに与えたつもりである。(もし、わからなければ、トップチームの選手に聞いてみたら。)

2月合宿アラカルト(その2)

2006-02-13 | YBC始動
 なにしろ、土の上で練習するのは12月の初合同練習以来だから、選手の動きもぎこちなかったが、熱意はひしひしと伝わってきた。同時に、「YBCはこういう練習をするのだ」ということをある程度は選手たちに伝えられたと思う。「こういう練習」とは理に叶(かな)った練習である。例えば、走塁でもベースの踏み方、スライディングの足の形、すべって回り込んだ時のベースタッチのし方等々、まさに間一髪でアウトにもなり、セーフにもなる、そういう基本技術には理屈の裏付けがあるということだ。
 また、時期尚早にも思われるかもしれないが、守備のシフトの練習にも手を付けられた。もちろん、まったくの初歩の段階だが、そこから少しずつレベルを引き上げていく予定である。その最終段階はまだまだ先のことだ。もちろん、1年間では到達できるはずがない。目前の試合に勝つことも大切である。モチベーションが大いに高まるからだ。しかし、それは小事である。目前の試合の勝敗を越えること、それが「無敗而有敗」の含意の一部である。含意のすべてがわかった時、「無敗而有敗」の読み方がおのずとわかるだろう。


2月合宿アラカルト(その1)

2006-02-13 | YBC始動
 いったい何年ぶりだろうか。プロ時代は「合宿」というよりも「キャンプ」だった。大学時代は合宿は合宿でも、やはり恵まれたものだった。しかし、YBCの合宿は清貧である。ユニフォームこそ土と砂で汚れたが、心は清潔だ。甲子園大会の宿舎の食事の何分の一かの料金で、しかし、ご飯と味噌汁はお代わり自由だから腹一杯食べられたし、宿舎(「飯岡荘」支配人とスタッフの方々、お世話になりました)と海上野球場と銚子西高(部長先生はじめ、柴田監督と部員の皆さん、ありがとう)との3カ所をバスで悠々と移動できた(これはプロ球団並みですぞ)し、温泉にも朝晩入られたし、十分に心暖かく待遇していただいた。とにかく、お名前は一々挙げないが、関係者各位にお世話になりました。
 とにかく、旭市はキャンプ地としてはなかなかのものだ。あまり宣伝しないで、YBCでこっそり独占したいところだが、それほど恵まれない環境でがんばっているクラブチームには、大いに推薦できる土地である。

2月合宿初日

2006-02-11 | YBC始動
 今日は金曜日、学校も会社も役所も平常どおりの活動をしている。私は、本業のプロ野球解説者としての仕事を1日早く終えて、合宿地、飯岡駅に降り立った。
 宿舎に着いたのは午後1時半、ロビーに入って驚いた。スタッフ・選手たちがもう準備万端整えて、今や遅しと私の到着を待っていた。球場の方でも10人以上が待機しているという。
 中でも嬉しかったのは、尾上氏がすでに来てくれていたことである。先日の電話では、「仕事があるので、挨拶に伺えません。どうもすみません」と言っていたのに、である。
 それどころか、練習の途中からは自ら臨時コーチをかってでてくれて、守備の指導もしてくれた。選手たちに紹介すると、「選手諸君、谷沢監督を男にしてください」などと古めかしいけれど心のこもった言葉を言ってくれる。まさに持つべきものは同郷・同チームの心温かい後輩である。
 練習の細かいことはいちいち書かない。次の一言だけで十分だろう。内野ノックのとき、難しい当りの打球を処理しかねて、高木健太選手がグランドに倒れこんだ。近づいていって「きつすぎるか?」と問うたところ、カレは顔を上げてにっこりし、「いえ、楽しいです!」これぞYBCの練習である。

キャンプ地紀行(その11)

2006-02-09 | プロ野球への独白
 7日から東京中日スポーツ整理部の加藤秀次郎、塚田陽一郎の両記者が合流したので、できるだけ多くの球団キャンプを見せるべく、早めに北谷を後にして北海道日本ハムの名護まで足を伸ばした。(道中は小原記者の運転で、車中はドライブ気分。)
 球場に着いたのは午後3時頃になってしまったので、中へ入るのは気が引けたが、打撃練習がまだ行われていた。新任の平野コーチが駆け寄ってきて、「今からバッティングピッチャーですよ」と明るい笑顔で答えてくれた。同じく新任の淡口コーチも私との雑談を終えると、ヒルマン監督といっしょにマウンドへ向かった。
 白井ヘッドに話を聞くと、「若手もベテランも、暗くなるまでこうして打ち込んでいるんですよ。『1時間、ティーバッティングをやれ』と言うと、嫌々練習をするんですが、『好きなだけ自由にやれ』と言ったところ、こんな状態が続いています。我々にとっては嬉しい悲鳴ですよ。」
 中日は1日中やらされている練習、日本ハムは自らやる練習、さて、選手はどちらの方法が伸びるか。ある場合(ある人)は前者、ある場合(ある人)は後者だろうが、その時の「場合判断(人判断)」はなかなか難しい。
 前半のキャンプ紀行は、9日の広島をもって一時休止。いよいよ10日からYBC初合宿が始まる。
(トリノならぬ沖縄で、『イタリア紀行』ならぬ『キャンプ地紀行』でもってゲーテを自称している私です。)
 

キャンプ地紀行(その10)

2006-02-09 | プロ野球への独白
 「そっちは気温13度? 暖かくていいねぇ」と電話先の知人が言う。このブログをお読みの皆さんもそう思うだろうか。沖縄とはいえ、風が強くてどんより曇っていると、体感温度はかなり低いのである。古巣、中日ドラゴンズのキャンプ地・北谷(ちゃたん)は、特に海沿いということもあって、肌寒かった。
 そんな中、若手選手たちが二軍の読谷(よみたん)球場から北谷に呼ばれて、「実戦守備&走塁」のメニューに取り組んでいた。これはたびたび高校野球の練習などで目にする方法で、走者の様々なケース(どの塁上に走者がいるか)をノッカーが想定して、それを大声で野手に告げながらノックするという、ゲーム形式の実戦的な練習である。
 このような練習で、二軍選手の中から突然一軍に抜擢されることは稀だが、鵜の目鷹の目で注視している首脳陣が「魚」だ「小鳥」だと思えば、今度は名指しで北谷に招かれるだろう。(YBCのセカンド及びサードチームの諸君、合宿では大いに自己アピールを期待するぞ。まだ未発表だが、3月4日に発足記念試合の開催が決まったしね。)
 ブルペンは10人並んで投球できることが売りである。私と一緒に見ていた杉下茂臨時コーチは、「今年は各自に調整を任せているのか、三々五々の登板となって(10人揃わないので)、壮観さは薄れたね。しかし、岩瀬の投球はものが違うね。彼が入団したときに、下手投げに変えようとしていたコーチを僕は一喝したんだ。あの時、私が言わなかったら、今の岩瀬はないね」と、話題が尽きない。ついには杉下流フォークボールの投球法まで私に伝授してくれた。

キャンプ地紀行(その9)

2006-02-08 | プロ野球への独白
 高速道路で本島を北へ約40分行くと、宜野座村のタイガースタウンに着く。目の前に銀色の光彩を放つ大きな卵形のドームが現れ、初めての訪問者はみな驚かされる。
 ドーム内に足を踏み入れると、すでにアップが行われており、毛並みの長い人工芝でストレッチングをしている選手たちの顔には、高い天井から洩れてくる陽光があたり、前年ペナントを制した逞(たくま)しさがその表情に感じられる。
 この施設に地元が力を入れていることが、あちこちにかいま見られるが、その熱意の強さからいえば、40年も使い慣れた高知・安芸キャンプも短期間にならざるをえないだろう。
 第2クール1日目の練習がスケジュール表に沿って時を刻むように進行する。シートノック、投内連係、ランダウンプレー。野手たちの間では次のプレーへの指示の声が響き渡る。肩の故障も癒えた浜中選手も元気になった。呼応するように若い投手陣にも活気がある。
 チームプレーが終わると、ブルペンに足を運ぶのが解説者の常だ。「何と言っても阪神の投手陣は若くて球にも勢いがある」と感心しているのは元日本ハム監督の上田氏だった。鹿取・川口両氏とも隣り合わせだった。ご両人とはクラブチームの話に花が咲いた(鹿取氏は茨城ゴールデンゴールズ、川口氏は鳥取県ベースボールクラブ)。
 私は一通り投手陣を見終えて、本球場のグランドへ降りた。岡田監督と挨拶を交わし、雑談をまじえながら、今年の投手起用、新外国人選手と新戦力、(2軍監督時代に育てた)浜中選手への期待などを聞いた。
 選手との間では、桧山選手と打撃論について話が弾んだ。話題は、「同じ左打者でも、右投げ左打ちの打者と左投げ左打ちの打者との違い」、とくに「内角打ち」の相違点である。
 前者は、右手が器用に使えるので、フェアグランドに入れようとしてしまい、右翼ファールゾーンには大きなファールを打てない傾向がある。後者は、右手と左手が一体となり、身体の回転で内角に捌(さば)ける利点がある。これらは以前、週刊ベースボールマガジン連載の「打撃分析」でも書いたこともあり、桧山選手の賛意を受けた。
 キャンプ地で、研究熱心な選手と接して実戦的な技術論などを語り合うと、改めて野球のプレーの「深さ」を思い知らされる。