谷沢健一のニューアマチュアリズム

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旭市飯岡合宿(その2)

2006-08-29 | YBC始動
 8月25日13時、海上(うなかみ)野球場で合宿練習は開始された。薄曇りの天空の下、ウォーミングアップも20~30分にして、ハードなメニューから始まった。ベースランニングでは一人がリタイアした。7月の練習では、ベースランニングで5、6人の離脱があったが、それ以降は徐々に体力がついてきたなと思っていたが、まだまだである。
 クローズドテストには、茨城ゴールデンゴールズから外野手、男子ソフトボール出身でその世界では全国一と言える投手で飛びぬけて運動能力の高い高校生、100メートルの外野フェンスに打球を叩きつけた某大学硬式野球部のキャプテン、野球部で男子に伍して1桁の背番号を背負っている女子中学生など、ユニークな存在も集まってくれた。紅白試合で実戦能力を発揮してもらったところ、すぐにでも一員になってほしいと思うほどだった。「有敗」多きチームであるにもかかわらず、YBCに好感を抱いてくれるとは、うれしい限りである。
 合宿特有の全員ノック(内野2ヶ所)で、日が落ちてもユニフォームが土と汗で汚れきるまで球を追う姿を終始見ていた球場管理人の川名さんは、グランド使用時間は疾(と)うに過ぎているのに、「野球はいいですね。皆さんのお顔を見ていると私も生き生きしてきますよ。どうぞ、遠慮なく使ってください」と言ってくれた。それをいいことに、図に乗って、さらに30分もポール間のダッシュを課して、球場を去るときには夜の帳(とばり)が下りていた。
 迂闊(うかつ)にも、そのとき気づいたのだが、飯岡荘の送迎バスを長く待たせてしまっていた。だが、嫌な顔一つせずに運転をしてくれるのだから、本当に旭市の人たちは親切で、心の寛い方々が多い。(それに甘えてしまうのは私の悪いところであるが)
 国民宿舎「飯岡荘」に帰ると真っ先に向かうのが温泉の大浴場だ。道路を隔てて九十九里海岸に面しているだけに、大海原を見ながらの入浴は疲れも癒される。有馬温泉の赤湯に対抗できるような黒湯で、実に効き目がありそうな気もするのは私だけだろうか。夕食も明日の試合を考えてくださり、「豚勝」と銚子港で水揚げされた刺身だった。
 ミーティングが終わると、玄関前の駐車場広場に選手たちが集まってきた。シャドーピッチングや素振りをする習慣も身につきかけているのかもしれない。私もこの機会にと思い、つい時間の経つのも忘れて夢中になってしまった。実は「旭市の町おこしを考える勉強会」の若い市職員の方たちの真摯な取材を受けていたのだが、川島理事の遠慮がちな「選手たちがあつまっているんだけど」という促しにあって、慌てて飛びだした。
 夜間自主練習は長引いて、午後10時が門限の国民宿舎だったことも忘れ、11時過ぎまで行った。翌朝、加藤副部長がフロントで平身低頭していた、と久保田コーチから報告があった。叱られ役の名人はYBCのような「非常識」な集団には必要である。

旭市飯岡合宿(その1)

2006-08-29 | YBC始動
 YBCを創設してまだ間もない2月、旭市飯岡で実施した合宿は地元の方々のご厚意によって予期以上の成果を収めた。「良いことは何度行ってもいいのだから、再び合宿を」という声が一部(私も含まれている)に強くあり、行うことになった。
 6月も終わり頃、副部長といつものように雑談をしているうちに、つい「よし、やるぞ!」と言ってしまい、実施する運びとなった(几帳面な人たちからは計画性がないと怒られるだろう)。
 千葉県の都市対抗予選に大敗を喫し、主力選手の中には、目標を失ったのか、「チームの方針に合わない」とか、「年齢的に後がない」とか、「レベルの違う選手たちと野球なんかできない」とか、それぞれの理由でYBCを去っていった者もいた。私は、大敗によって、チームの歪みが表面化することは覚悟していた。
 なにしろ、トライアウト方式でチーム編成したのだから、様々な技量と志向と経歴の選手たちがあちこちからバラバラに集まってくる寄せ集め集団にすぎない。そういう集団を統率するにはカリスマ性を強力に備えているリーダーがうってつけかもしれない。だが、私はカリスマよりも自由を、排除よりも許容を、鉄の規律よりも自発の秩序を好むタチだから、それを不満に思う選手やスタッフが離脱することは予測していた。もっとも、それは予想よりも早く生じたが。
 日本野球連盟の長だった故山本英一郎氏に挨拶に伺った際、「社会人野球も企業チームが少なくなっているが、君たちが野球界の底辺を考えてくれることは有り難いことだ。ただしクラブチームを引き受ける際に注意することがある」「谷沢君、水は高きから低きへ流れるように、水は低いところで淀みがちになるものだ。クラブチームは特に様々な境遇の者たちが集まってくる。チームの骨格となる人材を造ることが重要だよ」とアドバイスをいただいた。
 チームを運営するからには、戦力を整えて勝てるチームをつくりたいと考えるのは当然だ。そのためだけだったら、技量の高い選手を集めればいい。例えば、YBCを立ち上げた時、西多摩倶楽部のレギュラーたちの多くが、YBCへの移籍を強く希望してきた。私が簡単にOKすると思った者も多かったようだ。しかし、彼らはYBCの理念(ホームページ参照)を一瞥すらしていなかった。彼らの意図は別だったのである、約1名を除いて。
 今、YBCで活動しているスタッフ・選手たちはYBCの理念のすべてを理解していないまでも、ある程度以上に体得しているようだ。ボロボロになるほどミスを繰り返しながら(19、20日の練習試合もそうだった)、終盤に得点をとったし、最後まで全力プレーをしていたし、終始声が出ていたし。今は力が伴わなくとも野球に対する純粋な気持ちと情熱は素晴らしいものであると思った。これはチーム最年長の松村選手が、あるスタッフによせたメールにも記されていたことである。
 3日間の合宿は32名の参加者だった。まずは合宿の骨格を作り支えてくれたスタッフ---加藤副部長、久保田コーチ、川島理事、上村コーチ、杉村主務、長屋・伊東(今回のクローズドテストで選手としても合格)、山下トレーナーの皆さんには感謝したい。

ブラウン爆弾発言と古田監督の感想

2006-08-17 | プロ野球への独白
 8月13日の巨人戦に敗戦した後、広島のブラウン監督は「記者の囲み」(マスメディアの取材の一形態)で、ある発言をした。それは「問題発言」だったが、スポーツ紙はもちろん「爆弾発言」という派手な呼び名にした。
 「明日から対戦するチームと、あと2チームほどが、スパイ行為をしている。巨人とヤクルトだけはフェアなチームだ」この発言に落合監督は激怒した。それはスポーツ紙に詳細に報道された。
 私は、ブラウン発言の一部の真偽を確めようと、16日の巨人対ヤクルト戦の試合前、打撃の順番を待つ古田監督に聞いてみた。「ブラウン監督は巨人とヤクルトがフェアなチームだと言っているよね」
 「うちは何もありません。ブラウンはうちの外国人選手と共に食事をして色々と聞くのでしょうね」
 「セリーグには、パのように内規がないのですよ。パリーグは90年代にダイエーがアンフェアなことをしたとして、観客席からのスパイ行為やネット裏スコアラーからベンチへの伝達禁止。走者から打者への球種・コースの伝達禁止。コーチャーから打者への球種伝達禁止など明文化されているんですよ」
 「ブラウンが言うようなことはあったかも知れませんが、セリーグも明文化すべきでしょうね」
 古田監督の言葉は、これまでも何人もの人々が言っている正論である。ともあれ、広島球団がただちに謝罪したことで事は治まったが、この発言だけでなく、ブラウン監督の波紋は続きそうだ。

ブラウン監督(広島)の思考(その2)

2006-08-17 | プロ野球への独白
 じつは、この試合前にブラウン監督からじっくり話を聞いていた。沖縄キャンプ以来2度目である。彼は広島の選手として92年から3年間プレーし、その後はマイナーリーグのコーチや監督を勤めた。
 マイナーの監督時代から、コーチたちとディスカッションをし統計をとって大いに活用している。投手陣には投げ込みをさせず、球数制限が持論である。「投げたければシート打撃や紅白戦で投げろ。投げ込みは肩を消耗するだけで無用である」という信念は堅い。
 「球数制限は、いい方向に行ってますか?」と尋ねると、「投手陣には故障者もででないし浸透していますよ」と明快に答えてくれた。
 「私は勝敗にはこだわりません。しかし、試合の翌日には選手を監督室に呼んで、一球一打の意味を聞きます。なぜ、あの場面で初球を見逃したのかなど、選手たちには考えてプレーすることを徹底させています」
 「アメリカにはウッズのような選手は沢山います。日本のプレイヤーの良いところはファンダメンタルズ(基礎的指標)がしっかりしています。東出も梵も栗原も日々成長を遂げています」
 この日の放送は達川氏とのダブル解説だった。達川氏がブラウン監督のことを、放送では言えないことを含めていろいろ語ってくれた。
 達川氏が言った「選手時代のブラウンは中日には相性が良かったはずですよ」と。すぐに、隣で弁当を食べていたアナウンサーが本社に電話してデータを調べたところ、一年目は2割台であったが二年目以降は3割を優に超えていた。
 今、好調・中日に勝ち越しているのは広島だけである。優位に戦えているのは、達川氏の指摘するデータが基にあったのかと、変に納得してしまった。
 達川氏曰く「選手の起用は、ブラウンの個性がでています。内に秘めた闘志など通用しません。倉捕手が頻繁に起用されるのは、前面にやる気が発散されているからですよ」
 「しかし、勝敗にこだわらないと言っても、大事な場面では、ベンチから捕手に配球のサインを自ら送っていますからね。すべてにおいて、合理的ですよ」

ブラウン監督(広島)の思考(その1)

2006-08-17 | プロ野球への独白
 8月9日、豊橋で中日対広島戦が行われた。このゲームである事件が起きた。それはお粗末なミスによる試合中断だったが、ただの中断にとどまらず、数日後のブラウン監督の「問題発言」の伏線になった、と私には思われた。
 試合の終盤、広島の攻撃で、9番(打者は投手)に代打で松本内野手が起用された。そして、2番の梵(そよぎ)選手が自打球を足に当てベンチに下がった。攻撃が終わって、広島は交代する投手をストッパーの永川とし、清川投手コーチが主審に「永川で行くよ」と告げた。
 広島は外国人監督だから、コーチが選手交代を審判に告げることがこれまでも何度かあった。主審は清川コーチから告げられた通り、「9番、代打松本に代わり永川」と場内アナウンス係に伝え、すぐにそうアナウンスされた。
 ところが、9番に投手を入れ、松本内野手が退くとショートを守れる選手がいなくなる。松本選手を遊撃に入れて永川投手を2番(ベンチに下がった梵選手)の所に入れるべきだったのだ。慌ててベンチをとびだしたブラウン監督が訂正を求めた。
 ブラウン監督の訂正を承諾して、主審は中日ベンチに行き事情を説明した。だが、落合監督は「交代を発表したのだから訂正など了承できない」と主張する。この時点から約30分間の中断が始まった。
 広島側の大きなミスとはいえ、守備につく選手がいなければ、たとえ中日の主張が正しくとも、試合は再開できない。結局、審判団が中日球団に謝罪することで、広島の訂正を受け入れて試合が続行することになった。中日球団代表が落合監督を強く促して再開されたという。
 確かに、落合監督の主張は正しい。野球ファンならご承知のように、ベンチ内のボードには両軍の登録選手名が列記されている。選手交代があれば、その選手の名前は消されて行く。ベンチにどの選手が残っているかは一目瞭然なのだ。
 主審も胸ポケットに両軍のメンバー表を入れている。しかし、選手起用は監督が決めることであり、投手がショートを守ろうがどうしようが、審判は関与しないし、遊撃手がいなくなるかどうかの確認をする義務はない。
 しかし、そもそもコーチには選手交代を主審に告げる権利などない。その権利のない者の申告を受容したことは審判のミスである。つまり、広島の首脳陣と主審とがダブルミスを犯したのだ。
 落合監督が両者のミスを受け入れなかったことは、ルール上は当然である。だが、それがブラウン監督の反感を買うことになったのだろう。

岡田監督(阪神)の思考

2006-08-14 | プロ野球への独白
 セリーグ首位決戦6連戦は、何と阪神が6連敗を喫したため、中日の優勝はほとんど確実のものになってしまった。私はこの6試合のうち3試合、ナゴヤドームに足を運んだ。当然、岡田監督とも雑談を交えてよく話をした。
 オールスターゲームを終えた後半戦の初っ端が「竜虎の戦い」だったが、その初戦の練習中、打撃ゲージの後ろで話を聞いた。その場所には偶々他の解説者はいなかったので、大学の先輩後輩という間柄もあってか、くつろいだ話しぶりになった。
 「久し振りにオールスターを堪能したよ。藤川とクルーンは見ごたえあったね」と言うと、岡田監督は満足そうな表情を浮かべながら「谷沢さん聞いてくださいよ」とにこやかに話し出した。
 「僕は神宮の第一戦をホームグランドだから石川(ヤクルト)で、第二戦を川上で考えていたんですよ。そしたら、落合さんから電話が掛かってきましてね。『川上を第一戦の先発にして欲しい』とね。かりに第二戦の宮崎で投げても中4日だから、うち(中日)とのゲームの3戦目に登板できる筈ですよ。落合さんにしてみれば、エースを休養十分で投げさせるという安全策をとっておきたいのでしょう。そう言われると、変えざるを得ないですよ。宮崎のゲームが雨で一日延びた時は、落合さんはしめしめと思ったでしょうね。」
 これが某氏のような「ファン?選手? そんなもん、どうでもいい。勝つことしか考えん。勝てば、ファンも選手も喜ぶんや」というような人物であれば、落合監督からの電話なんぞは無視するだろう。しかし、岡田監督の性格では、そこまでの「政治屋」にはなれない。語りながら、岡田監督の表情は微妙に変わっていった。藤川、クルーン両投手に固執して、首位を走る中日のストッパー岩瀬君を華やかな舞台から遠ざけたのもわからないでもない。
 4連敗後の12日も、矢野捕手の(横浜戦)退場による一日出場停止、藤川の離脱(首筋を痛める)など強烈な逆風のなか、「矢野は罰金無しで出場停止ですよ。審判もおかしいですね。三塁の審判が一番見えるんですから、『4人の審判で協議してくれ』と言ったら、三塁の審判だけが協議の輪にいないんですから。『バットに当たったか誰も判定できなかったので、最初の主審のジャッジを採用します』と、これですからね。審判によってはミスすると翌日はグランドに居ませんよ。外されているんですね。あの時の横浜戦の審判はナゴヤには誰一人きてません」審判への不満は山ほどあっても、今の審判はこんなもんだと、もう諦めてしまっているような感じがしないでもない話し方だった。
 話が藤川君に及ぶと、「彼は10日位で戻ってくると思います。久保田もほぼ全力で投げられるとの報告もきてますので、ファームで何試合か登板して、藤川といっしょに上に挙げますよ」。
 「藤川と二人で戻ってくればいい」などと目前の大事には達観の態(てい)で腰を据えているようで、落合監督の「計算」とは次元の相違を感じてしまったほどだ。私も岡田監督に「どうやっても成るようにしかならない面もあるし、ま、力を抜いて頑張ってくれ」としか言いようがなかったが、別れ際にちょっと笑みを浮かべてくれたのが印象的であった。
 オールスター戦の監督でも、あれこれ神経を使わなければならない(岡田監督の人柄を見抜いて仕掛けた落合監督の術策だったのか?)。ましてや、WBCの監督なら、どれほど太い神経が必要だったろうか。王監督の退院前日の表情を思い出した。

第1回柏YBC野球教室

2006-08-07 | YBC始動
 真夏の太陽が照りつける8月5日、私の母校・柏中学で小学生を対象とした野球教室を開催した。柏中は柏駅西口から歩いても10分足らずであるが、9時前にYBCの山崎、木藤両君がスタッフ一同(加藤副部長、久保田コーチ、ウエ村コーチ、杉村広報、川島理事)を車で迎えに来てくれた。野球教室には、杉野、大野両君も手伝ってくれるはずである。
 初めてYBCと共催する野球教室&指導者セミナーとあって、柏市野球連盟の中田理事長、山村財政部長は、柏で初打合せをし、それ以降、2度、3度と東京事務局へ足を運んでくださり、進行の打ち合わせを重ねてきた。
 それは前日まで続き、東京事務局と中田氏は電話を何回もかけあって、「ティー用ネットは? 軟式ボールの準備は? ノックバットは?」などと細かく準備状況を確認した。(軟式ボールはダイワマルエス社が10ダースも寄付してくださり、参加各チームへ渡された。)
 野球教室に参加する子供たちは11チーム約170名にもなるというので、しっかり準備をして、凡そのメニューや動きをスタッフに把握させねばならない。この日を一番楽しみにしているのは子供たちだろうから、少なくとも夏休みの楽しい思い出の一つをYBCフェニーズがつくってやりたかった。
 会場の柏中学の正面玄関に入った瞬間に驚いた。鴨居の所に私のサインが大きく横断幕のように掲げられている。案内してくださった校長先生が、にこにこして「いただいたサインを勝手に拡大して掲示させていただいてます」とおっしゃる。こんなことは初めてで、サイン一つでもこれまで以上に心を込めて書かなくてはと思った。
 中学時代の記憶の詰まったグランドに降りて行くと、野球連盟の山澤会長をはじめとして役員の方々がテントの中で待っておられた。顔なじみの方とも挨拶を交わしながら(今後、開催回数が増えれば、選手やスタッフとも互いに打ち解けてもらえるだろう)、整然と並ぶ子供たちの背後の木陰には、父母の方々が大勢、こちらを注目している。野球少年たちの保護者はじつに熱心な人が多い。
 まず「受講する心構え」を挨拶代わりに話した。それを皮切りに今日のラインナップを説明した後、ウエ村コーチの指導の下ウォ-ミングアップからスタート。ラインナップは、キャッチボールの基本、ゴロ捕球と送球、打撃の基礎とティー打撃を組んだ。スタッフたちもそれぞれの個性を発揮して指導してくれた。さすがに手慣れている久保田コーチ、優しく低学年を相手にする川島理事、こわもて風だが笑顔の杉野君、一人一人フォームを矯正する大野君、声の掛け方のうまい木藤君、子供たちの扱いは得意の杉村君などなど。
 強烈な暑さの中、頻繁に水分を摂取する時間をとりながら進行して午前の部を終えた。(飲料と冷たいおしぼりがふんだんに用意されていたのは、大いにありがたかった!)
 約1時間の昼食時間もムダにはしたくなかったので、摂食を兼ねながら、少年野球チームの指導者の皆さんと日頃の指導について質疑応答する時間を設けた。今回の開催場所は学校だったから、教場も活用できたし、ありがたかった。(敢えて言えば、手近に屋外水道が無かったので、グランドの砂埃を抑えられず、すこしだけ閉口した。)
 午後からは、「走塁の基本」を子供たちの中から10名ほど選んで、走塁に必要なポイントを説明し、最後のメニューとして、実戦練習を試みた。YBCから木藤、大野両投手が登板し、各チームから2名づつの打者と対戦したが、浅く守っていた外野手の間を抜いて、ランニングホーマーとなった打球もあり、子供たちの歓声が挙がった。
 続いて、各チームから一人ずつ投手が登板して、YBCの打者(山崎、谷沢)に挑戦した。幼いピッチャーたちは午前中とはまた違う緊張感を全身に漂わせていたし、保護者の方も次々とビデオカメラを構えて、盛んに声をかけている。この日、いちばんの盛り上がりだった。とくに山崎君が、右翼の奥の校舎の3階に特大の打球をぶつけた時には、大歓声がグランドを包んだ。私は道化役に回って、空振りをしたり、ファウルを打ったり、童心にかえって楽しんだ。
 閉会式では、活躍した野球少年少女(女の子も3名ほど参加)をYBCスタッフたちが選び、私のサインボール(チームの数だけ11個、用意しておいた)をプレゼントした。終了後も、YBCの選手たちが子供たちからサインをせがまれて取り囲まれ、なかなか涼しい控室へ戻れない。その光景を、名古屋からトラックを駆ってかけつけてくれたカミ村選手らと見ながら、つくづく柏市にYBCを創設して良かったと実感した。
 (仕事で徹夜したのに参加してくれたのは、カミ村君と加藤副部長である。あ、そうそう、カミ村君、差し入れありがとう! そして、子供たちを懇切にコーチしてくれたYBCの選手・スタッフたちよ、ほんとうにご苦労様!)

退院前日の王監督をお見舞した

2006-08-02 | プロ野球への独白
 8月1日、王監督が入院している病院へお見舞いに行ってきた。多くの方々がお見舞いに来ているのではないか、ご迷惑になるのではないか、と考えつつ、「手術後の経過も順調で退院も近い」という報道を聞いて、ひょっとしたら面会も可能かもしれないと思いたって出かけた。新宿のデパートで存問品を整えて昼下がりに伺った。
 病院の1階フロア-は混雑していた。看護師さんから「守衛さんのいる受付」を聞き、面会手続をすると、守衛さんがすぐに病室へ連絡してくれた。「病室の階のフロア-にソファーがありますので、そこでお待ちください。」守衛さんの親切な応対に心の温まる思いで、突然の(私はスケジュールに余裕がないせいか、この「アポなし」というのが多くて、人にご迷惑をおかけしている……)お見舞いがスムーズに行くといいがと祈りながら、エレベーターに乗った。
 エレベーターの扉が開くと、目の前にぴしっとスーツを着用した方が待っていた。「ソフトバンクの中山です」と、名刺を差し出された。名刺には監督付・管理部課長・中山公宏とあった。「どうぞ、こちらです。明日が退院なんですよ」「えー、それは良かった、朗報ですね!」王監督のお嬢さんたちの喜びの顔が一瞬、目に浮かび、選りに選って退院の前日に来るとは、何かの導きかなとも思った。
 ナース詰所の前を通り、長い廊下を進んで、病室に入ると、そこはまったく病室らしくない部屋だった。最初にお嬢さんが迎えてくれた。そのとき、私の眼に入ったのは、綺麗な花束の横に掛けてあったバレンタイン監督のユニフォーム(背番号2)で、「我が良きライバルよ、グランド復帰を待ってるぜ」という無言のメッセージがそれに託されているように思えた。
 王監督の顔は明るかった。「谷沢君、ありがとう。5kgほど痩せてしまったよ。御蔭様で、明日退院でね。病室内を歩くのも限度があるよ。家に戻れば自由に散歩もできるしね」。
 「いくらか食べられるんですか」と私が聞くと、「流動食と豆腐とはんぺん。それをよく噛んで食べろと言うんだ、こんなにまずい食べ方はないね」。
 「王さんは、常に検診しているといっていたけれど、胃に徴候があったんですか。」「交流戦が済んでから、胸やけがするんで調べてみたんだ。胃の中に5cmほどの塊があってね。胃癌の進行で言うと、第二ステージに差し掛かろうという状態だったそうだ。いつもの検診では異常がなかったし、安心していたのかな。オレは大食漢だからな」
 立ち上がってベルトを緩め、シャツを挙げて、お腹をさすりながら傷口を見せてくれた。お臍の上部、左右に6ヶ所ほどの手術の跡が茶褐色になっていた。「胃を全部とってしまったからな。まず、日常生活ができるように……今すぐに現場に戻ることは考えてないよ」。
 これ以上の長居は遠慮しなければと思い、「これから千葉マリーンの西武戦の仕事に行くので、お暇(おいとま)いたします。くれぐれもゆっくりと静養して、お大事になさってください」。退室しようとすると、「ありがとう!」とやや大きく太い声とともに、私の手を強く握り締めてくれた。
 中山氏とエレベーターの方に向かうと、病室から顔をだした王さんが私を呼び止めた。「バレンタインによろしくと伝えといてくださいよ」「はい、わかりました」。大手術の後にもかかわらず、最後まで細やかな配慮を忘れない王監督の心豊かさに触れ、病院をあとにした。
 その夜、ボビー・バレンタインの千葉ロッテは西武に敗れ、王ソフトバンクとのゲーム差はさらに0.5広がった。ボビーの贈る退院祝いだったのだろうか。